第五章

闇の祝福

 目覚めたとき、ナディアは真っ暗な馬車の中にいた。跳ね起きようとすると、鈍い筋肉痛にも似た痛みが四肢を走った。顔をしかめながらも、いつもの毛布の感触に安堵のため息を漏らした。

 薄暗い幌の中で、彼女はゆっくりと体を起こした。

 ふと、馬車の縁で白い鳥が頭を羽に埋めているのに気づく。


「おかえり、セシリア」


 そう囁き、外を覗こうと這い出した。

 パーシヴァルの姿がないが、たき火のはぜる音と、どこかで梟が鳴く声がする。リンの町を出て、野宿にしたようだ。

 最後に見たリンの空っぽの表情を思い出し、ナディアの胸が押しつぶされそうになった。すがるような泣き声が耳に残る。膝を濡らした涙の温さが、まざまざと甦るようだった。

 体を動かそうとし、彼女はまた顔をしかめる。それでも動けないことはなかった。リンに嗅がされたあの煙の作用はあらかた消えている。彼女はよろよろと立ち上がり、馬車を降りた。


 夕陽に似た色のたき火が、パーシヴァルの長い影を作っていた。彼は背中を向け、たき火に向かって座っていた。

 かける言葉が頭に浮かんでは、口を通り越して胸で消えていく。なんと言っていいかわからないまま、そっと歩み寄る。地を踏みしめる自分の足音が、やたら大きく聞こえた。

 彼の背中は丸められ、じっとたき火を見つめているようだった。その姿が怒っているようにも見えるし、痛々しくも見える。


「起きたか」


 パーシヴァルが振り向かずに呟いた。声がいつもより低い。

 ナディアの胸が重くなった。怒っているような響きに、怖くなった。

 何故か、パーシヴァルの態度を見ているだけで、世界中の人々から拒絶された気分だった。人との繋がりにしがみつくことはなかったはずなのに、彼の声色一つでこうも脆く心が揺れる。ナディアはおずおずとパーシヴァルの隣に座るが、その顔を見ることは出来なかった。


「ごめん」


「何故、謝る?」


 ナディアは返事ができなかった。いつものパーシヴァルの声に戻って欲しくて、咄嗟に口をついて出たのだから。


「怒ってる?」


 たき火の揺らめきがナディアを照らしている。パーシヴァルは鼻をすすり、口を開いた。


「怒ってない」


 その声が心もとないほど揺れていた。おそるおそる隣の顔を見上げると、パーシヴァルの頬が濡れていた。


「泣いているの?」


 呆気にとられた声に、彼が手のひらで手荒く頬を拭う。


「誰のせいだ」


「私?」


「他に誰がいる。お前の加護が解ける日を、俺がどれだけ待っていたか知らないだろう? やっと、この日が来たんだ」


 消え入るような呟きに、ナディアは眉尻を下げた。闇が見せてくれた、あどけない姿のパーシヴァルが思い出されたのだ。怯えながらも自分に焦がれていてくれた彼が、どれだけ健気だったかも。

 ナディアが呟くように自分の手のひらを見つめた。


「パーシヴァル、教えて。私はリンと明星の精に何をしたの?」


 自分でもわからないのだ。あのあと、彼らはどうなったのか。そして、自分に何故こんなことができるのか。

 本当に人間ではないかもしれない。そう考えるだけで心が真冬の夜のように冷えきっていた。だが、パーシヴァルはますます憮然とする。


「パーシー、だろ」


「え?」


 彼は黙ったまま、ナディアのほうを見た。子どものような顔つきに、ナディアの頬が思わず緩んだ。


「パーシー、教えてくれる?」


 彼の眉がちょっと上がり、少し機嫌がよくなった。だが、返事はつれないものだった。


「俺が言えるのは、加護を授けたのは俺のお袋ってこと。それから、お前の力は時の女帝にのみ許されるものってことだけだ」


「どうして加護が解けたの?」


「そういう天命だからさ。それに、その答えは俺がお前から聞きたいことだ」


 彼の真摯な目が、ナディアを射抜いていた。


「お前の口から直接、聞きたいんだ。今でも信じられないから」


 闇の瞳に気圧される。パーシヴァルが何を望んでいるのかわからないまま、彼女は俯いた。


「じゃあ、私は誰に訊けばいいの?」


 しばらくの間、たき火の音だけが響いていた。二人の間にある沈黙を破ったのは、パーシヴァルだった。


「ナディア、冥界に行ってみる気はあるか?」


「冥界へ?」


 思ってもいない提案だった。目を丸くしていると、彼が苦い顔をしている。


「多分、お袋から話を聞くのが一番いいと思うんだ。なんといっても、天命を授けたのはあの人だから。ただ、ちょっと気をつけなきゃならないことがある」


「何?」


 思わず生唾を呑み込む。あの風の精に頼み事をしたときのように、何か代償でもいるのだろうか?


「冥界や精霊界は、こことは老いる時間が少しばかり違うことだ」


 そう言うと、彼は落ちていた木の枝を取り、地面に図を描き出した。彼はまず地平線のような横線を引き、その線の上下、更にその上に横長の円を描いた。


「この地上にある人間界と同じ空間に違う次元の世界がある。それが精霊の住むところだ。精霊の王は地上に留まる精霊よりも力が強い。影響力もある。あの明星の精がリンの心を惑わせたように」


 ナディアが黙って頷いた。


「あいつは精霊にしては力が強いほうだが、どんな精霊でも、少なからず人間と反応しあって生きている。だが、王となるとその影響力が人間の生活を乱してしまうんだ。姿も見えてしまうからね。だから、俺たちは精霊界と冥界に隠れ住む」


 彼は地上を表す横線の上にある円を指し示した。


「この地上に漂う異次元の世界が精霊界。ほとんどの王とそれを束ねる四人の帝王がいる」


 次いで、線の下にある円を示す。


「俺たちが住んでいる冥界は地下を漂っている。全ての魂を管理する場所だ」


 ナディアがふと、火山の精霊が「地に住まう隣人」と冥界の精霊を言い表したことを思い出した。


「この一番上の円は?」


 ナディアが指差すと、彼は肩をすくめて見せた。


「神の住む神界だ。だが、神に会えるのは六人の帝王だけ。俺は顔も知らない」


「神様なんていないと思っていた」


 ナディアが唇を噛む。人間たちが信じるのは、自然に宿る数多の神々だ。だが、どんなに彼らに祈っても自分は救われなかった。


「神なんて単なる象徴だと思っていた。人の祈りとか願いとか、そういう形を持たないものをわかりやすく具体的に表現しただけのね」


「だが、実際にはいる。人間たちは多分、大昔に見た精霊の力を神と崇めているのかもしれないけど」


 パーシヴァルはそう言うと、手にしていた木の枝をたき火にくべた。


「精霊の世界は、すべての生命の営みが遅いんだよ。結果的に、精霊は人間より長生きってことになる。だからもし冥界に行くと、こっちに戻って来たときに不在だった分の老化が一気に押し寄せる」


 ナディアがパーシヴァルを横目で見た。

 時の流れは同じでも、成長や老化の早さが違うとは、どのような気分になるものなのだろう。そう思うと、実感がないながらも怖くもあった。


「自分の力を知るには、冥界に行くべきだ。でも、人間界での時間をより失うことになる覚悟はあるか?」


 ナディアはその一言に戸惑った。自分の体が一気に老いるということは、その失われた年月にできることを棒に振るということだ。

 黙っていると、パーシヴァルが目を伏せて、呟いた。


「お前、リンのことが好きだったんだろう? それでも彼を置いて行くのか?」


「うん。彼の傍にいるのは私ではなさそうだから」


 ナディアが苦笑した。


「もし、リンと一緒に過ごす定めなら、私はあの屋敷から動かなかったと思うよ」


 パーシヴァルがじっと見つめる中、彼女はたき火を強く見据えた。戸惑いを殺し、彼女は唇を噛んだ。


「私は知るべきなのよ。自分が何者なのか」


 そう言って、新しい薪をくべ直す。火の粉が彼女を鼓舞するように、高く沸き起こった。


「私は人間じゃないのかもしれない。ずっと、どこかでそう思ってた。自分が好きになれなかったのはそのせいかもしれない」


 切なく笑うナディアを、パーシヴァルが見守っている。


「だけど、このままでいたくないから。知りたいから。だから、私は行くよ」


 パーシヴァルがにじり寄って、そっとナディアを抱きしめた。


「ナディア。一つだけ言いたいんだ」


「何?」


 彼の体温を感じながら、ナディアは胸に安らぎが広がるのを感じていた。頭の芯がぼうっとする。


「お前の加護が解けて、本当に嬉しいんだ。信じられないくらいに。だから、ありがとう」


 ナディアの唇からため息が漏れた。だが、それは温かい気持ちから出たものだった。


 馬車で毛布を敷きながら、ナディアが「あっ」と、短い声を上げる。


「セシリアはどうしよう。私が戻って来るまで待っていられるかな?」


 パーシヴァルはじっとしたままの白い鳥を見て、眉を下げた。


「こいつも連れて行くから、問題ないよ」


「よかった」


 ほっと胸を撫で下ろすと、彼が目を細めている。


「本当にこの鳥が大事なんだな」


「うん。私の大事な人の名前をあげた鳥だから」


 そう口にした途端、あの小川のほとりの墓を思い出す。


「ねぇ、冥界に行く前に墓参りしてきていい?」


「育ての親の?」


「うん。もう随分行ってない。きっと、寂しがってる」


 セシリアが風の前の塵のように消えてしまった日から、彼女は一度も墓前へ出向いていなかった。


「いいよ。明日、出発しよう」


「ありがとう」


 二人は微笑み合い、おやすみと言い交わす。

 ナディアは頬が緩んでいた。誰かと一緒にまたあの場所へ戻るとは、思いもしていなかったのだから。

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