第17話

 母の葬儀を終えてから1週間が経った。その間に3月に入り、まだ寒さは残っていたが、日差しはすっかりと春めいたものになっていた。その日は朝から良く晴れていて、その1週間前にあれだけの雪を降らせた曇天の空が嘘のようだった。

 その1週間の間、私は母のことばかり思っていたのだが、私の心の中にはいつも、母の姿や母との思い出、そして母の思いなどと共に、様々な雪景色が映し出されていた。夜空に降り下りる雪、窓の外に降り積もる雪、朝日に照らされて銀白に輝く雪など、母の葬儀の日の夜に実際に目にした雪以外にも、大雪原一面の雪、結晶の姿のままのサラサラの雪、太陽をレースのように覆い隠す雪などの勝手な私の妄想の雪も広く映し出されていた。次第に私の中で、母は雪になっていった。降り下りる雪は空からの母の思いのようだった。降り積もる雪は母の心の色のようだった。銀白に輝く雪は母の微笑みのようだった。私の妄想の大雪原の雪は母の心の大らかさのようだった。太陽をレースのように隠す雪は母の生き抜こうとしていた命の足掻きのようだった。季節は一気に春に移ろっていたが、私は「もう少し雪の中で過ごしていたい」とばかり思っていた。つまりは、「母のそばにできるならいたい」と、無理なことばかりを願っていたという訳である。そんな私を尻目に季節が確実に春に移ろっていくのを、私は恨めしく思っていた。私はただ、まだもう少し冬に留まっていたいと願っていた。

 父はと言うと、その1週間は会社に出ることもなく、ほとんどの時間を和室の仏壇の前で過ごしていたようだった。そこで父は、お仏壇の母の骨壷を眺めていたり、母の遺影に見入っていたり、お線香の煙りを絶やさないように気を配り続けたりしていた。葬儀の翌日の朝から、

「早う仕事覚えて、周りから認められるくらいになるんやぞ」

 という、いかにも仕事人間の父らしい厳しい言葉を父は私に投げかけてきたのだが、その後の父にはそのような覇気は全くなかった。そんな父を目にするのは初めてだった。そんな父は私には、家で静かに過ごしながら心の傷が癒えるのをじっと待っているように映った。とてもそんな父に声を掛けようなんて気は起こらなかった。私はそんな父の姿から、どれだけ父が母のことを、どんな姿でもいいからただ生きていて欲しいと願っていたかということを覗き見ることができた気がしていた。父にとっての母は、共に貧乏を乗り越え、共に人並みの生活を手にし、そして共にそこそこの願う生活を勝ち取るに至るそれまでの人生の同士だったのだと、私はひとり深々と納得していた。

 仕事から戻ってきて毎日そんな父を目にすると、私は、母の葬儀後の初出社の時もそうだったのだが、「私には親と呼べる人はもうこの父しかいない」という思いがいつも胸に湧いてきた。そして実際に母がいなくなったという事実もその思いに重なって、私は、「この目の前の気弱な父には早く元の元気な姿に戻って欲しい。多少人に凄んでみせたり、そばにいるだけで息苦しさを感じたりと何かと煩わしいところがあっても、それでもやはり普段通りの元気な姿に戻って欲しい」と心の中で願った。そしてさらに、「父が母と共に過ごした日々の中で培ってきた父独自の精神論や処世術を受け継ぎたい」とも願った。私がアメリカから帰ってきた頃から、父はこれでもかというほど、家に馴染むことも未だおぼつかなかった私には痛すぎるほどの現実ばかりをぶつけてきた。そのせいで、深い傷が私の心に刻まれ続けたのだった。それなのにそれでも私は、父には早く元気になってほしいと願った。そんな気弱な父を毎日目にしていると、父に対してのどこか憎しみに似た気持ちとは別のところで、私は自分のことを父の子だと深々と思い知った。そして私は、父のことを私はやはり尊敬しているんだと、素直に認めるしかなかった。

 その日の朝、目覚めると、それまでじっと静かに過ごしていた父が家の外と内を慌ただしく行ったり来たりしていた。その気配で私は目が覚めたのだった。冬に留まっていたいと願う私には嫌になるほど、ベッド脇の窓の外の春の日差しが眩しかった。起き出して階段を下りていくと、ちょうど父が玄関から外に出ていくところだった。バタバタと動き回る父を目にして私は、少しは父も回復に向かい出したのかもしれないと思い、そして安心した。私も父の後を追って外に出てみた。すると、庭で真っ黒な煙が空に向かって立ち昇っていた。そしてそのすぐそばに、父が立っていた。

「お父さん、おはよう。早うから何を燃やしてるん?空が真っ黒やんか」

 その私の問いには答えず、父は、

「おぉ、幸治。ちょっと見ててくれよ」

 とだけ言って、また家の中に舞い戻っていった。私は、動き回る父を安心して嬉しく思った反面、また以前のように日々が煩わしいものになるんじゃないかと考えて、少し厄介になりそうだとも思った。しかし、やはり嬉しい気持ちのほうが優っていた。どこかそんな父に、微笑ましいものを感じないでもなかった。そんなことを考えていると、父がすぐに戻ってきた。父の手には母の枕とパジャマが抱えられていた。私はもう一度、

「何を燃やしてたん?」

 と問いかけてみた。すると父はようやく答えてくれた。

「お母さんがな、向こうに行って布団がなかったら困るやろ。いま敷布団と掛け布団に灯油を垂らしてな、燃やし終えたところや。それで今から枕とパジャマや」

「何や、せやけど、えらい真っ黒やん、・・・。近所から文句言われるんとちゃうか?」

「お父さんもな、びっくりしてるねん。昔の布団やったらな、綿やからこんなことにはならへんかったやろうに、・・・。今の布団はみんな、石油でできてるんやな。その上にお父さん、石油をかけてしもたから、こんなことになってしもたんや」

 と言って笑いながら、父は火の中に枕とパジャマを投げ込んだ。枕の中のプラスチックが燃えて、黒い煙は一瞬にして太くなった。それを見つめながら父は、

「うちの家は山奥やからな、別に誰も文句なんか言うてこうへんわ」

 と言って、笑いながら煙の先のほうの空を見上げた。

 私は、ずっと仏壇の前で静かに苦しみをこらえて座り続けていた父が、何かをしていないとさらに苦しくなりそうだと不安を覚えて、急に動き出したような気がした。母の使っていたものを燃やすという行為も、ただ父が動き出すためだけの口実のような気がした。他に何か気が紛れることが父のそばにあったなら、父は恐らく母のものを燃やすなんて行動には出なかったことだろうという気がした。私は、泣かないことを心に強く決めている父という人の悲しみに触れている気がしていた。すると、

「ここにおれよ」

 とだけ言って、父はまた家の中に消えていった。私は、今度は何を燃やすのだろうと思った。すると父は、今度は母が大切にしていたミンクのコートを運んできた。そんないかにも高価そうなものを、父は燃やそうとしていたのだった。私は驚いて、

「それ、ほんまに燃やすん?」

 と訊いてみた。すると父は、少し気が触れたかのように可笑しそうに笑いながら、

「そうや、これも燃やすんや。まだ夜は寒いやろ。これ来てな、お母さん、三途の川を渡ってあっちの世界に行ったら、ちょっとええ格好ができるやろ。お母さんはおしゃまさんやったからな。こんなコート着てあっちに行く人なんか、うちのお母さんくらいやろ」

 と言いながら父は、そのコートを、何の躊躇いもなく火の中に投げ込んだ。その後の父は、その場で口にしていることもやっていることも、そして更にはそれまでの人生、もっと幸せを、と叫んでは仕事ばかりにひたすら打ち込んできたことさえも、もう何もかもが虚しく思えてきたのか、急に黙ってしまった。そしてじっと炎を眺めながら、奥歯を噛み締めていた。本来「おしゃまさん」なんて言葉は少女に向けて使う言葉なのに、父は無理にそんな言葉を使ってみたのだろう。その無理がやはり呼び水となったのか、どうやらそのせいで父の虚しさは余計に煽られてしまったような気がした。私は、父の庭での燃やす作業に付き合うべきじゃなかったような気がした。そっと一人にしておいてあげたほうが、父は余計な虚しさを膨らまさないで済んだような気がした。

 心に傷を抱えた人というのは、そんな父のように何でもいいから一人動き出して、満ち足りた気持ちと虚しい気持ちの間を何度も激しく行き来しながら、そうする中で気持ちの振り幅が次第に小さくなっていくことを願っているうちに、自然に回復していくのを待つしかないのかもしれない。私は、黙り込んだ父のそばで黙り込んだまま、動き出した父の心は驚くほどの速さで回復していくだろうと思った。私はその後、一人父を庭に残して家の中に入っていった。父を一人にさせてあげるほうがいいと思ったからだった。

 その1週間、父と二人だけの生活が始まったばかりの私はと言うと、自分でも不思議なほどにいつも冷静でいた。心の中にはいつも母の思いと雪景色が広がっていて、何となく全身が冷たくて、そして細胞のひとつひとつまでが悲しんでいるのがわかるほどに哀しいのに、それなのに冷静でいた。どうやら私は、気弱な父の姿を毎日目にして、相当に気が張っていたのかもしれない。そしてどうやらそのせいで、私は、母を亡くした後の自分の悲しみが癒えるのを後回しにしてしまったのかもしれない。


 遠い昔、こんなことがあった。確か私が小学生の3,4年の頃だった。母が私に、今思えばどうしてそんな気の早いことを母は口にしたのだろうと思うのだが、

「幸治はな、将来、お父さんと一緒に働くけどな、そんな日が来るの、お母さん、ほんまに楽しみやわ」

 と嬉しそうに話したことがあった。恐らく父の会社経営が軌道に乗り始めたことが嬉しくて、母はそんなことを口にしたのかもしれない。まだ子供だった私は、喜びをかみしめるようなそんな母の言葉に触れて、

「僕はお父さんと毎日仕事に出て、お父さんから仕事のことをいっぱい教わりながら立派な大人になっていくんや」

 と、「立派な大人」というものの意味も知らず、漠然とそんな日が来ることを無邪気に思い描いたのであった。

 そんな思いが土台となって、

「父が母と共に過ごした日々の中で培ってきた父独自の精神論や処世術を受け継ぎたい」

 と、母がいなくなってからの私は願うようになったんだと思う。


 四十九日の法要も滞りなく済ませて、その頃から父の活動は、ようやくいかにも父らしいものになっていった。しかしそれは、私が思い描いたものとは全く違う方向へ激しく傾いていった。

 父は、会社に顔を出す前に、地下鉄の八尾南駅前のスポーツジムに通うようになった。そこで午前中汗を流して過ごした後、一度は会社に顔を出すのだが、いつもすぐにどこかへ行ってしまった。夜、家に帰ると、父はすぐにウォーキングに1時間以上も出かけた。それが父の毎日のリズムになった。父が以前の活発な父に戻ってくれることは私がそれまで強く望んでいたことなのだが、そして実際にそうなったのだが、共に過ごしていても一切私を顧みることのない父を私は不足に思い、そして訝しくも思った。

 こんなことがあった。ある日のこと、その日も会社に顔を出して、腰を落ち着かせることもなくすぐに出かけようとする父に、

「今日は戻ってくるの?」

 と訊いてみたことがあった。すると父は、不思議そうな顔をして、

「なんか今日は、お父さんがおらんなあかん用事でもあるんか?」

 と逆に訊いていた。私はただ、その日の父の動きを少しばかり知りたかっただけだった。

「いや、どこに行くんかなって思ってな・・・」

 と口にすると、父は不思議そうな顔をして、

「なんで幸治にいちいち、お父さんが何をしてるんかを報告しなあかんのや」

 と言いながら、そのまま事務所を後にした。

 私は悲しかった。しかし、それまでの何年もの間、ただひたすら母のためだけに生きてきた父のことを思うと、父のその自由気ままな毎日を尊重してあげたいという気もした。私はすぐに、もうそうすることに決めた。そうと決めてしまえば、父が気ままにしたいことと言えばどうせゴルフをまた始めることくらいだろうという思いが頭に浮かんできた。「好きに遊びたいだけ遊べ」と胸の中で呟きながら、私はすべての不足感にも訝しさにも見切りをつけた。それでいいという気がした。私はひとりでその後、ただ自分のしなければならないことを真剣に考えだした。すると、もう仕事しかないと思った。そこに打ち込むしか、将来の自分の姿はないように思った。そしてまた、そうするしか「立派な大人」としてたった一人の親である父に認められないようにも思った。子供というものは、いくつになっても親が生きているうちは子供のままなのかもしれない。そして子供なままに親に認められたいものなのかも知れない。本当を言えば、父が活発に動くようになった頃から、癒えることを後回しにしてきた悲しみが心の奥底から顔を出し始めていた。そして、それが少しずつ私を苦しませているのに気づいていた。しかしそれでも、私は悲しみを押し退けて、自分に「ただ今は仕事に向き合うんだ」と無理に言い聞かせた。そのせいでまた私は、母を亡くした後の悲しみが癒えるのを無意識のうちに後回しにしてしまった。しかしその時の私は、悲しみの癒えるのを後回しにしていることになど、全く気づいてもいなかった。

 何から始めようかと、また私は真剣に考えた。父と一緒に仕事をすることは望めそうにない。専務ともやはり何も話をしない。現場の従業員、特に永谷との関係はさらに悪くなっている。そんなことを思っていると、ふと、アメリカから帰ってきてしばらくした頃のことを思い出した。あの頃の私はたったの数ヶ月勤めただけで、父の会社の「自由」という思いのほか曲者の社風に幻滅していた。それでもそこで生きていくしかないという運命のようなものを背負っているんだと意識しての私は、確かにあの頃、割り切ったのだ。たとえ機械の知識や商品の知識がなくてもそれでいいじゃないかと、そしてそんなことは気にもせずに、商品在庫の最小限管理と現場の機械の最大限稼働管理に特化した、そんな徹底的に効率的な生産ラインコントロールの役割を担う人材になるんだと・・・。母が最後の1年を家で過ごしている間、そんなふうに掲げた仕事上の目標に目を向ける余裕など、とてもじゃないが私にはなかった。その置いてきぼりの目標を思い出して、「今こそその目標に打ち込む時だ」と思った。私はそこに向かって進んでいく過程を描き始めた。次第にやるべき景色が次々と頭の中に広がり始めた。しかしそうなっていくに連れて、私の日々24時間を取り囲む境遇を、私はなんて孤独なんだろうと思い始めた。上司もいなければ、同僚もいない。誰よりも私のことを思ってくれた母ももういなければ、父は気ままに過ごすことにしか興味を示さない。学生時代の仲間はみんな遠くで暮らしていてそう易易と会うこともできなければ、また地元には気易く飲みに行く幼馴染もいない。しかしそんな境遇なんてものは、どう足掻いたところでひっくり返すことのできないのは明らかで、私はないものを求めようとする気持ちを無理に遠くへ押しやった。私は全身に力を入れて、自分にもう一度、「ただ今は仕事に向き合うんだ」と無理に言い聞かせた。

 日々の得意先巡りの合間の時間を利用して、私は先ずは、父の会社のそれまでの商品の流れ先、そしてその数量を分析し始めた。来る日も来る日も過去の売上帳を洗い直して、私は40点以上ある商品の年単位の、そして月単位のそれぞれの出荷数量を集計していった。そうすることによって、決算期とそうでない時期それぞれの必要最低在庫数量が見えてきた。それと並行して、私は繁く現場に顔を出すようになっていった。決して従業員の仕事を手伝うことはしなかった。すべては、自身の孤独な役割というものを形作るため、そしてそれを確実にゆとりを持って遂行することができるようになるためだった。

 先ずは梱包、在庫、出荷工程あたりの作業効率の見直しに取り掛かり始めた。同じ商品でも得意先によっては梱包の仕様が異なるため、得意先毎の適正な在庫を積み上げておく必要があった。私は調べ上げた商品の流れの集計をもとに、1週間単位で得意先別の梱包指示を出すことに決めた。そうすることで、出荷直前に慌てて一度梱包したものをまた別の得意先仕様に梱包し直すという、それまで当たり前に行われていた余計な作業はほぼなくすことができた。そしてそれと合わせて、私は、できるだけ手間をかけずに商品をピッキングすることができるよう、重量ラック上の商品の配置を動かしていった。そうすることでも、よく流れる商品をストレスなく流すことができるようになった。そのあたりまでの見直しについては、やはりそれまで得意先回りをする上で一番私に馴染みの現場だったということで、比較的速やかに思い描く形に近づけることができた。後は残すは、それまで全く手をつけることのなかった梱包ラインの隣り、第二工場の永谷のいるネジ切り工程と、そして本社工場の高速圧造機の工程の稼働管理だった。この2つに関しては、やはり全く馴染みのない現場だったということで、その後々までかなりの時間を要した。

 ほぼ梱包、在庫、出荷あたりの作業効率の見直しが思う形に仕上がって、そろそろ残り2つの工程の稼働管理の下調べに取り掛かろうかと思ったのは、恐らく季節が春から夏に向かおうとしていた頃だったと思う。その頃のことを思うと、配達でよくトラックを走らせた大和川沿いの道の眼下に広い川原が一面、菜の花の黄色で敷き詰められていたのを思い出す。孤独な境遇を甘んじて受け入れるままに、がむしゃらに仕事に打ち込んでいた私は、その景色を前にして、母はもう三途の川を渡り終えてこのような景色の中で過ごしているのだろうか、というようなことをいつも考えていた。その通りを通過する時はその景色を横目に意識がかなり弛緩してか、外は陽気な黄色の菜の花の景色なのに、私の中は静かな白い雪景色だった。そのことを、なぜか私は今もよく覚えている。

 そんな頃だった。ある日、珍しく出かけもせず事務机の前に腰掛けてずっと経済新聞に目を当てていた父が、配達から帰ってきた私を一度じっと見つめて、

「幸治、お前はこれからな、取締役に就くことになったからな」

 と急に話しかけてきた。私の体には、まだ微かにトラックの揺れが残っていた。そんな状態で思いもしなかったことを聞かされて、会社組織というものの仕組みが今ひとつわかっていなかった私は、少しぼんやりしながら、

「取締役って、・・・。僕が?・・・。なんか役目が増えるん?」

 と父に訊いてみた。すると父は、

「いや、別になんも変わらへん。お母さんが書類上、会社の役員やったんや。お母さんがな、おらへんようになったから、そこに幸治の名前、入れなあかんようになっただけのことや」

 と無表情に答えた。そんな何でもないふうに話を聞かされても私は、その「取締役」という言葉の響きからとんでもない責任が肩にのしかかったような気がして、仕事にもっと打ち込まなければならないと思い、その後はあらゆる業務に対して気ばかりが急くようになっていった。

 それとほぼ同じ頃、やり残しの2工程の稼働管理の下調べをどう始めさせればいいかと、頭の中で考えていた時のことだった。事務机の前でゴルフのドライバーのグリップを握り締めたままの父から、

「あのな、幸治の車、もう売ってしまうからな」

 と急に聞かされた。私は、母が運転することは叶わなかったが、それでも私にとっては母の最後の車だという思いで乗り続けようと考えていた車を、父は売ってしまうと言うのであった。さすがにそのことについては、私のそばからまたひとつ、母との思い出が消えていってしまうという気がして、そしてそのことを私はひどく悲しく思って、

「お母さんの車、僕はずっと乗り続けようって思ってるねん」

 と言い返して父にすかさず反発した。すると父は、またいつもの人を怯ませるような表情を浮かべて、

「何を車一つでゴタゴタ言うてるんや。もうそう決まったんや。会社の方針なんや」

 と言った。私はもう一度、

「別にお母さんお車、乗り続けてもええんやろ。車を売ってしもて、僕はどないするんや?」

 と訊いてみた。すると、ゴタゴタと騒ぐ私を面倒くさそうに、そしてこの件に関してはもう終止符を打とうとしているかのように父は、

「あのな、専務が車を乗り換えるんや。それで幸治の車をな、下取りに出すことにもう決まってるんや」

 と言い放った。父のその言葉、そしてその声の響きには、「もうこれ以上、余計なことを口にするなよ」という凄みがこもっていた。専務も父も、いくら話すことがほとんどない二人だとは言っても毎日事務所で顔を合わせていたというのに、それに私の身内だというのに、私の知らないところでそこまで話が進んでいたということに私は呆気にとられた。全く除け者にされている気分だった。お腹あたりが急に冷え冷えとしてきたような気がした。そして全身から力が抜けていった。

 しばらくして父は、面白くなさ気な私に少しは気を回したつもりだったのか、

「あのな幸治、専務の今乗ってる車、あれはちょっとええ車なんやぞ。もう古いけどな・・・。お前の歳で専務のあの車なんか、なかなか乗れるもんとちゃうんやからな。ラッキーやと思わなあかんぞ」

 と父が話しかけてきた。しかしそんな甘い言葉をかけられても、すべてはそういう問題ではなかった。どこかピントがずれている気がした。そんなことを言われても、話が知らないところで進んでいたという悔しさが消える訳でもなかった。私は気分が悪くなってきた。そして、「もうどうにでもなれ」という投げやりな気持ちになっていった。私は立ち上がって、そのまま事務所を後にして、八尾空港沿いのフェンス脇の道路を一人トボトボと歩いた。

 その後、すべては父の思うままに動いた。

 父には、事が運ぶ上で、事の話の触りだけでも前もって聞かせたり、事について誰かと協議して決めていくという道のりがなかった。父が口を開いた時というのは、ほとんどの場合はもうそんな道のりの一切はすでに飛び越えられていて、事はすでに父の思い描く着地点に置かれてあるのだった。そして周りの人間は、急に提示された着地点に向かって、慌てて駆け出すしかないのだった。事はもう着地点に置かれてある訳だから、周りの人間はもう、悔しいとか、悲しいとか、そんなのは無理だとか、そんな弱音を吐くことを一切許されないのだった。案外そんな父については、父の兄弟も、姉たちも、ずっと父のそばで過ごしてきた者たちも、それが昔からの普段通りの父だということをよく理解していて、何の理解もなかったのはこの私だけだったのかもしれない。私は、母がいなくなって初めて、そんな父に触れ始めたような気がしていた。

 しばらくして、専務の車は私が乗ることになった。そしてその月末、専務から手渡された給与袋の厚みに驚いた。帰りの車の中でその封を開け中身を検めると、それまでの給与のほぼ倍額近くが入っていた。嬉しいというより、何がなんだかわからなかった。家に帰ってからすぐ、私はリビングにいる父のもとへ飛んでいった。

「なんでこんなにお給料が急に増えたん?」

 すると父はテレビに目を当てたままに、別に気にも止めていないような様子で、

「専務がな、幸治の仕事、評価したんや。梱包あたりの仕事がかなりスムーズになってるそうやな。お給料が増えたからっていうてな、金は使うんやないぞ。増えた分は全部貯金に回して貯めていくんやぞ」

 と言った。納得が行かなかった。またしても私が知らないところで、私の仕事に対する上司という者の労いの言葉一つも聞かせてもらえないうちに、事が動いていたからだった。将来のことを考えると、お金は貯めなければならないとは思っていた。それなのに昇給がそんな形でなされたことには、心がひんやりする思いだった。そんな心になってしまった私は、ふと父と専務を疑った。ひょっとしたら二人は、私が父の会社勤めを面白くないと思っているのを勘づいていて、一人材としてそこそこ踏ん張ってくれそうな私を会社に留めておくためだけに、普通ではありえないほどの昇給を餌としたんじゃないか。私はすぐ、そんなことを考えている自分に驚いた。そしてすぐにその考えを、慌てて私は向こうに押しやった。納得が行く行かないに拘ることはもう止めにしようと思った。ひんやりと冷たい心のままでも、自分にまたもう一度、「ただ今は仕事に向き合うんだ」と無理に言い聞かせた。そして、「仕事に打ち込んでいく日々の先にきっと何かが変わるんだ」と信じ込もうとした。母亡き後から癒える間も与えられない悲しみが、日々の新たに襲い掛かってくる悲しみでぼやけていくような、そんな毎日の繰り返しだった。それに堪えるため、一日のうちのほとんどを私は、全身を力ませたまま過ごすのが当たり前になっていた。


 父との二人だけの生活が始まって以来、実家の家事全般はほぼ毎日、由美子が昼間のうちに済ませてくれていた。由美子が作り置きしておいてくれる料理は、どれも母のものと味がよく似ていた。ほとんど毎日、私が仕事から帰ってくるのは夜8時すぎだった。テーブルの上に並べられたおかずを電子レンジで温めて、一人食卓で食べた。その食卓は、母が車椅子で生活していた頃はまだ、父、母、由美子、私の4人でいつも囲んでいたものだった。一人でその食卓の前で食事をすることは、一人暮らしが長くてそうすることは平気なはずの私でも、やはり寂しいものだった。母と共に囲んだ食卓で、母とよく似た味付けのおかずを、仕事であったことの愚痴を誰に聞いてもらうでもなく一人で、誰かのその日の話を聞くでもなく一人で、黙々と食べ続けることに苦しみを感じる私は、味わって食べるということを次第に忘れた。ただ腹を満たすためだけに、私は一気に口に押し込むような食べ方をするようになった。

 食事が終わると一人分の片付けものをして、その後私はお米を研いだ。そして翌朝炊きたての白米ができるように、炊飯ジャーのタイマーをセットした。それは、毎朝一番に父がお仏壇に炊きたての白米をお供えするためだった。仕事でも孤独で、家に帰ってきても孤独で、毎日ビクビク怯えて過ごす私は、やらなければならない台所仕事をすべて済ますと、すぐに自分の部屋にこもるようになった。すると毎日、すべてが片付いて自分の部屋でようやく少し気を緩めてだした頃に、必ず由美子から電話が入るのだった。ほとんどの場合は父がそれを受けた。そして由美子は必ず、私に電話を代わるようにと父に言うのだった。電話の向こうで由美子が口にすることは、毎日同じことばかりだった。

「あんた、また自分の部屋にいてるんか。なんでお父さんのそばにいててあげへんの?お父さん、一人やと淋しいやろ。そんなお父さんの気持ち、わかってあげようって気はないんか?」

 由美子の言っていることは外部の人間の想像でしかなかった。そのすべては、由美子の頭の中で勝手に作り上げた「淋しそうな父」の姿と、「自分勝手な弟」の姿でしかなかった。決して父が由美子に「淋しい」と口にしたからではなかった。思うままに突き進むように生きる父が、淋しいなんて間違っても口にすることなんて考えられるはずもなかった。私は、毎日夜の9時半から10時に必ずかかってくるそんな由美子の電話を怯えるようになった。毎日必ず由美子の電話を受けて、その向こうで一頻り由美子が話したいだけを話し終えると、私は、

「わかってるわ。今からリビングに行くとこやったんや」

 などと適当なことを口にして電話を切った。その後はいつも、「お前は薄情者や、お前は薄情者や」と由美子から詰られた末に、罪悪感を植えつけらたような気分になってばかりいた。


 そんな毎日を過ごす私にとって束の間の息抜きとなるのは、帰りの車の中、そして由美子との電話を切った後の寝るまでのわずかな時間だけだった。

 専務から乗り継いだ車にはCDプレーヤーがついていた。音楽好きな私は、その車の中に、それまで学生の頃から買い漁ってきたCDディスクを全部積み込んでいた。仕事を上がるとすぐに車に乗り込み、私は「今日はどのCDを聴こうか」と思いながら、その日の気分にぴったりのCDを選ぶのだった。しかしその頃の私は、アッパー系の元気なロックを聴くなんてことはほぼなかった。それよりかは私は、私の孤独な日々と重なるような曲を選ぶことが多かった。ひんやりと冷たくて、静かな、そんな音楽を選ぶほうが私の孤独で凍えそうな心のそばに寄り添ってくれる気がして、また不思議と温かく感じた。そして実際にも慰めになった。そしてその頃に特に好んで聴いたのが、玉置浩二さんの、”sacred love"(神聖な愛)という曲だった。ちょうどその頃と言うと、1980年代という、あの何とも浮かれた時代を席巻した安全地帯が活動をどういう理由か休止し、玉置浩二さんがソロ活動を静かに始めた頃だった。そんな玉置浩二さんの曲には、孤独に喘ぐ私と通ずるところのある深い哀愁が漂っていた。私はほぼ毎日、帰りの車の中で、まるでお互いの傷を舐め合っているような気持ちでその曲にいつも溺れていた。


 "sacred love"


今 自然に 心で感じる

そばにいてほしい人は 

今 どうしているのですか?


いつも会えるの?ときどき会えるの?

離れてて会えないの?

もう一度会いたいの?


暗い夜明けでも

凍えそうな真夏も

心にあるのは・・・


いつも幸せを歌った君と

愛の日の永遠を誓った

あの時の僕だよ


 私はこの曲を聴きながら、もう姿、形のない母のそばにいるような気持ちでいつもいた。そしてそのことが、私にとって何よりもの生きていることを感じていられる、そんな微かな喜びだった。

 寝るまでのわずかな時間は、由美子との煩わしい電話の時間を振り切るように、私はひたすらギターに打ち込むようになった。そして実際に母のギターを抱えて爪弾いていると、その他の様々な煩わしさも振り切ることができた。そんな日々の中で、誰かのプロのミュージシャンの曲ばかりを練習していた私は、いつしか、それまで適当に作ってきたいくつかのデタラメな曲と真剣に向き合うようになっていった。そうする中に、私はいつも、本当の自分というものを感じていた。本当の自分、それは幼き頃の記憶とつながっていた。


 東大阪での長屋の暮らしの頃だった。その頃の私には、恐らく父や母が心配するんじゃないだろうかというほど、普通の子供たちが将来の漠然とした夢を語る時のような、例えば「パイロットになりたい」だとか、「コックさんになりたい」だとか、「お巡りさんになりたい」だとか、「正義のヒーローになりたい」だとかを口にすることはなかった。そんなことよりも私は、母が喜んでくれるなら、父が喜んでくれるなら、姉たちが笑ってくれるなら、バス通りの牛乳屋のおっちゃんや裏通りの駄菓子屋のおばちゃんが笑ってくれるならなどといつも考え、そして思い描いて、ただそのことだけを楽しみに、テレビで流れていたCMの曲をデタラメに歌うことに夢中になっていた。誰かが少しでも喜んで笑ってくれれば、まぁほとんどの場合がそうなるのだが、もうそれは幼き日の私の生きている喜びというものだった。そんな私は、周りの子供たちなんかが口にするそんな将来の夢なんて、どこか覚めた気持ちでいつも聞き流していた。それ以上にそんなことを口にする子供たちのことを私は、大人の懐にうちにうまく取り入ろうとして無理をしているように思っていた。そして馬鹿馬鹿しく思っていた。

「ハウスバーモンドカレーだよ りんごとはちみつ、トロ~り溶けてる・・・」

 と歌っておどけるだけで、明るい雰囲気がそこら中に広がるんだから、それはもう私自身、嬉しくて仕方がなかった。そこについでに、テレビ画面の中の西城秀樹さんを真似てポーズを決めながら、

「秀樹、感激」

 なんてことを口にすれば、もう周りが手を叩いて囃しながら喜んでくれるものだから、私まで笑い転げたものだった。


 どうやら、産まれてから初めて自意識というものが芽生えた頃に夢中になっていたことというのが、その人の素の部分から自然に湧き出たもので、そのことだけを大事に育てながらやり続けるだけで、人は案外周りとの摺り合わせに悩むこともなく、そして命の本来の役割というものを確実に果たしながら、世界を動かすなんて大それたことなどできなくても極少数の人からは当てにされながら、食うに困ることもなく飄々と生き抜いていくことができるのかもしれない。その道のりの中で、体を壊すこともあるだろう。心を壊すこともあるだろう。困難にぶつかることもあるだろう。それでも大切に育てながらやり通してきたものは、局面に晒された時に必ず人を助け、その先へと導いてくれるんじゃないだろうか。

 先人が通った道をそのまま進むことはとりあえず安全だからという手っ取り早い理由で、いつの時代も大人たちは子供たちにその安全な道に馴染んでいくことができるよう願って、教育という枠の中で進むべき道を提示し、ひどくは押し付けようとすることもある。そんな日々の中で子供は、知識を増やし、計算が得意となり、うまく世を渡っていく知恵を働かせることを覚えていく。それと並行して、幼き頃、自意識が芽生え出した頃に夢中に、心弾むままに取り組んでいたことを忘れていく。終いには忘れついでに、「大人になってみると、あんなガキの頃のことなんて、世の中のことを何も知らない本当のガキだったもんだな」と大人ぶって、すっかり切り捨てていく。

 人はなぜ悲しむのだろう。歴史はなぜ同じ誤ちばかり繰り返すのだろう。この世界にはなぜ陰と陽が存在するのだろう。それは、願われるままに導かれ、そしてそのままに歩き出した道の上で、周りから与えられる役割ばかりをこなし歩き続けるうちに、どう足掻いても遠く昔の無垢なままだった自分に返っていくなんてことはもうできそうになく、それならばと、行き先も帰る場所もわからないまま、周りをなぎ倒しながら自分までも傷つき、苦し紛れに歩を前に踏み出し続けるからではないだろうか。

 本当は心は、心のままに命を燃やそうとしていたのだった。それなのに人は、その心を無視してまでも安全だけに手を伸ばし続けようとする。教育という枠組みの中、そしてそこから飛び出し歩き出した道の上で、人は素の自分というものを切り捨て続ければ、何のために生きているのかと悩み、悲しくならない訳がない。無垢だった頃の人のそばには、決して悲しみの影は存在していなかったはずのように思う。悲しみを避けようとし過ぎたあまり、そして安全に生きていこうとし過ぎたあまり、悲しみが雪だるま式に膨らんでしまって皮肉にも人のそばにあるというのが、繰り返される歴史、そして今のこの世の現状によく現れているように思う。

 陰も陽もない、誤ちの繰り返される歴史もない、ただの素の自分に返っていくための方法はひとつだけである。抱えてしまったすべてを投げ捨てることである。それがすぐにできなければ、ひとつずつでもそうしていくことである。そうすれば、そしてそうする人がひとりでも増えれば、いずれは人それぞれの命の役割というものが確実に果たされる生き生きとした時代、そして世の中が巡ってくるように思う。

 そうは思ってはいてもやはり、人は先人の思い、願いを断ち切ってまで心のままに生きていけないというのを私なりによくわかっていて、そのことが私は悲しいのだ。

 私は数年前、私が産まれる時の景色を突如思い出した。陰と陽が何に違和感もなく自然に入り乱れている、そして溶け合っている、そんなトンネルの中、ものすごい速さで私は産まれ落ちてきた。陰と陽がバラバラになって存在する、繰り返される悲しみの雰囲気が漂う、そんな初めて目にする世界に戸惑って、私は大声で泣いた。そんな私をただ愛おしそうに見つめる母の瞳に気づいて、私はほっとして泣き止んだ。

 私が産まれた日のことを思い出して、その日から私は、黙ったままに陰と陽に自然に混ざり合う景色に返っていくことを目標と見据えるようになった。そこで私は、必ず一番会いたい人に会えると、今、信じている。


 話がだいぶと逸れてしまった。

 ふと手を休めた時には、いつも雪景色が私の中に広がっていた。それは、仕事に出ている時も、家に帰ってからも、手を休めた時はいつもそうだった。次第にその頻度が強まっていった。手を休める、すなわち雪、というふうになっていった。あるいは、孤独に喘ぐことを無意識に嫌ううちに、雪を思い出すという癖を私は、知らず知らずのうちに身につけてしまったのかもしれない。いつしか私は、その景色に飛び込んでいくことを覚えた。そうすることで、現実はきれいに身の回りから消えた。そこで私は、母の思いにもたれ込み、そして包まれて、束の間の温かな休息を簡単に手にするようになった。

 母が買ってくれたギターを手にしている時もやはりそうだった。すべての煩わしさから解放されていくそんな時の中で、いつしか私は見たこともないような大雪原の中を歩くようになり始めた。そこでは、どこを見渡しても空と大地の境目もなくなるほどの大粒の雪が深々と降っていた。私はいつもそこを、嬉しそうに歩いていた。この世に母の思いと私の意識しかいないような気持ちで、うっとりとしながら歩いていた。

 確か7月に入った頃だったと思う。その日の夜もギターを弾いていた。そして梅雨時期の蒸し暑い部屋の中で、いつものように雪景色の中を歩いていると、母の葬儀の日の雪が目の前に現れた。それと一緒になって、ひらひらと降り下りる雪のようなメロディーが頭の中に浮かんできた。そのメロディーを口に含むようなままに呟くように口ずさんでいると、それもまた降り下りる雪のように、言葉がひらひらとゆっくりと浮かんできた。そのまま私は、手元のノートにそれを、ゆっくりと時間をかけて書き写していった。


”銀の想い”


雪は静か 夜を越えて

ひとりぼっちの窓辺


夢は遥か遠き日に

夜空の涙となって零れ落ちた

長い時間を重ねて・・・


振り返れど戻れない

ただ 銀の想いはつづく


雪は いつか出会う日を

祈りつづける心


行くはどこか?

幼な日の母の優しさ胸に 歩き出した

足もと 真っ白に飾られて・・・


戻れぬならそれもいい

ただ 銀の想いと進む


ただ 銀の想いはつづく


 書き終えて読み返してみると、母が私に、

「幸治、お母さんと約束やで。もうな、今は会われへんけどな、幸治、どうにか今、幸治は歩き出してるねん。苦しいてもな、ちゃんと歩き出してるねん。そのまま歩き続けるんやで。それでいいって信じて歩き続けるんやで。この言葉の通り、幸治とお母さんはな、真っ白な世界でな、いつかまた会えるんやから・・・。お母さんにはな、必ずその日が来ること、わかってるねん。幸治からはな、もうお母さんのこと、見えへんやろうけどな、幸治がお母さんの思いを感じながら歩いてるの、お母さんはいっつも見てるんやで。お母さんの思いと一緒に歩き続けるんやで。・・・」

 と話しかけてくれているような気がして、私は久しぶりに激しく泣いた。

 母のお骨がお墓に埋められたのは桜の頃だった。大阪・柏原と奈良・王寺の県境にそびえる信貴山を王寺のほうから登り切ったあたりに、我が家の先祖のお墓はあった。そこに母のお墓も新たに建立された。実家からは車で40分くらいの距離だった。その場所は奈良盆地を一望することのできる東南向きで、遮るものも一切なく、空の広い清々しい場所だった。母のお骨が埋められた後のその週末から、私は毎週末、ひとりで母のお墓に通うようになった。

 この「銀の想い」という詩が、どこか言葉を与えられるままにというような感じで出来上がってから、私はお墓に向かう時は母が買ってくれたギターを車に積んで行くようになった。人目のほとんどないその墓地で、私は一通り我が家の墓地の敷地内、そしてそのぐるり周辺をきれいにし終えると、私はギターケースを開けるのだった。そしてギターを抱えたまま母に、

「お母さん、今週もどうにか乗り切ったで。毎日、正直しんどいわ。毎日、負けそうやわ。せやけどどうにか乗り切ることができたで。お母さんが見ててくれてるおかげやな。ありがとうな」

 などと、母が寝たきりとなった姿で家にいた頃には決して口にすることのできなかった、嘘のない、本当のところの気持ちを口にするのだった。得体の知れない、気味の悪い、見えないものに怯え過ごす孤独な私には、母にだけは子供のままに甘えかかっていいような気がしていたのだった。そして話し終えると、

「お母さん、今日も、銀の想い、歌うわな。銀の想いって言葉、きれいな響きやな。お母さんのな、静かな優しい微笑みみたいや。雪がな、朝日に照らされて、白く、青く、瑞々しいに光るやろ。それが銀やな。その想いっていうことで、銀の想いなんやな。ええ言葉や。ほんま、お母さんの微笑みみたいや。・・・」

 などと、目の前に実際に母がいるかのように話しかけて、私は歌うのだった。

 歌いだすと途中で、いつも涙が溢れてきた。それは決して悲しみの涙ではなく、母が私の歌に真剣に耳を傾けてくれているのを感じての嬉し涙であった。泣きながら歌い終えると、いつも嬉しさで心が満たされていた。そして胸元に左手を上げて、小さく手を振って、母に向かって、多少の照れくささに微笑みながら、

「また来週来るわな」

 と、まるで遠くで暮らしていた頃に実家に帰省して、その後また日々の生活に舞い戻っていく時のように話しかけて、霊園を後にするのだった。そんな日々が1年近く続いた。

 私は夏本番となる頃に、長らく連絡をしていなかったデサに「銀の想い」を送ることにした。


 デサヘ


 元気にしてる?お母さんがいなくなって毎日、苦しんでる。延命治療なんてもん、俺はあんなもん、旅立つ時期の来た人間を苦しませるだけのもんやって思ってた。機械につながれたお母さんのそばにいてて、医療なんてくそくらえって思ってた。せやけどな、お母さんが旅立ってな、お母さんの体温がなくなっていく時、どうでもええから生きていてくれって本気で思った。その時にな、延命治療も誰かの願いなんやって思ったらな、医療ってものが逆にありがたいもんに思えた。それが正しいかどうかはわからへん。せやけどな、間違ってるんやとしても、命は生きてたいって願ってるみたいやし、周りの命も生きてて欲しいって願ってるみたいに思えてな、互いに願い合ってるのだけはどうやら確かみたいやなって気がした。

 お母さんの葬儀の後にな、びっくりするくらいの大雪が降った。ずっと雪見てたらな、お母さんの思いに包まれてるみたいやった。今もずっと雪が俺の中に降り続いてるんや。そしたらこないだ、ギターを弾いてる時、雪が降ってくるみたいにメロディーと詩ができあがった。デサに読んで欲しくなったから同封するな。デサは俺の詩、わかってくれる気がしてな、デサには絶対読んで欲しくなったんや。

 しばらくはまだ苦しみそうやと思う。でもがんばるわ。またな。


 その後すぐに、デサからの返事が届いた。


 柄本へ


 柄本、わし、今回の柄本の詩、泣いたよ。それでわしのな、かみさんにも読ませたんよ。そしたらかみさんもな、読んですぐに大泣きしよったよ。それ見てわしもな、また涙が止まらんようになってしもてな、二人で大泣きして、いま、泣きながら柄本に返事を書いとるんよ。

 柄本、見えんでも触れられんでもな、柄本が感じとるんなら、お母さんはきっとそばにいてるんよ。わしはそう思うよ。わしはな、柄本がお母さんとともに歩き続けていくことができるよう、広島から祈っとるけんね。いずれ時間ができたら、そして心に余裕ができたら、広島に遊びにきんしゃいよ。その日が来るの、わしは楽しみにしよるよ。

 今はとにかく、悲しみが落ち着くまではな、ゆっくりとやっていくんよ。

 話は変わって、・・・。以前に柄本が「風の鳴く草原」のコード表とテープを送ってくれたじゃろ。わしはな、もう歌詞も、コードも、メロディーも全部覚えてしもたよ。相当練習したからな、なんも見んでも普通にギター弾いて歌えるようになったよ。この曲、この日本の中に柄本以外にもうひとり歌える奴がいると思うと、柄本、嬉しいない?いつか必ず広島に来てね。わしが柄本に「風の鳴く草原」、弾き語りで歌ってあげるけん。ほんまにその日が来るのをわし、楽しみにしとるけんね。

 ほんま柄本、今はな、ゆっくりやるんよ。元気になったら先ずは電話で声、聞かせてちょうだいね。

 またね。

 

 私は、デサの手紙を読んで、こんな私をそのままに受け止めてくれる素敵な友に恵まれていることに、嬉しくて泣いた。悪いことばかりじゃないように思った。必ず落ち着いたら、広島のデサを訪ねようと思った。そのことが当座の夢となった。

 しかしその後、私を取り巻く境遇、状況は厳しさを増すばかりだった。そして私の心の状態も、母が呼吸器をつけて実家に戻ってきた頃のように、不安定さを増すばかりだった。まるで何ものかが私を、家族や仕事から引き剥がそうとしているんじゃないかと感じるほど、何もかもがさらに悪いほうへと転がっていった。後回しにされた悲しみに日々の新たな悲しみがゴテゴテに溶け合いながら更に膨れ上がって、私を本格的に苦しめ始めた。

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