第7話

 ロサンゼルスに向けて飛行中の機内で目が覚めた。目が覚めた時、しばらくは自分がどこにいるかわからないほど熟睡していた。時計を見ると、どうやら2時間以上も深々と眠っていたようだった。通路を通ったスチュワーデスの方にロスまでの残り所要時間を尋ねると、6時間以上かかると聞かされてうんざりした。

 考えなければならないことが一杯あった。機内に乗り込んだ時、それらを整理せねばと思い頭を働かせようとはしたのだが、眠気が激しくなるばかりで一向に進まなかった。だから離陸前にはもう考えることを一切放棄して、しっかりと寝る体制に入ったのであった。しかしそのお陰で驚くほど熟睡ができて、目覚めた時には頭の芯まで緩んでいた。そしてスッキリと楽な気分になっていた。日本を離れる前までは頭の中で様々な気がかりが渦巻いていて苦しんでいたんだから、それはそれで本当にありがたいことだった。

 日本から遠く離れた空の上で頭の中がスッキリすると、気がかりなんていくら気を揉んだところで、もうそれはそれでどうしようもないもののように思えた。機内でひとりの時間はいくらでもあるのだから、それならばと、私は再度考えねばならないことを整理しようと思った。私はウェストポーチから、手のひらサイズのメモ帳とボールペンを取り出した。そしてそこに、伊丹空港に向かう道中で父が口にしたことを書き出していこうと思った。そうすることで目標を定め、明確にし、そこに向かって着実に歩を進め、私もいずれは独り立ちする本当の「立派な男」になってやるんだと思った。しかしそう思ってペンを握り締めたのだが、ペンが走り出す前に頭の中に次々と浮かんでくるのは、父の言葉よりも、父の苛立った顔や苛立った声ばかりだった。嫌になった。またしてもまったく気が進まなくなってしまい、私は立ち止まった。そしてすぐに全部投げ出した。到底私には、父の願うところの「立派な男」にはなれないような気がした。私は窓の外を見た。機体のすぐ下には一面に分厚い雲が広がっていた。留まっているように見えて、実はものすごい速さで流れてるんだろうなと思った。その後しばらくはぼんやりとそんな雲にばかり目を当てていたのだが、気がつけば自然の流れに運ばれていったかのように、そのまま私の思考はつい数時間前まで過ごした日本での出来事のほうへと傾いていき、そしてそこに流れ着こうとしていた。どうせ持て余すほどの時間があるんだからと、私は、思いがそのまま自由気ままに巡り回るのを許した。そしてそれは次第に深い場所へと潜り込んでいった。

 短い日本での滞在を終えた私は、家族の中でどう振る舞うべきかもわからないまま、彼女の寂しさのそのごく一部をも拭うこともできないまま、そして仲間とはたった一度だけしか会えないまま、そのような様々なやり残しが気がかりのまま日本を後にした。しかしそんな気がかりなんて実は、目に見えるごくわずかな表面的なことに過ぎなかったんじゃないだろうか。日本から離れるにつれ、そんな思いが益々強まっていく。もちろん、そのすべては私にとっては何よりも大切なことばかりだ。しかし、それらはやはりごくわずか、海面に頭だけを突き出した氷山の一角のようなものに過ぎなかったんじゃないだろうか。じゃぁ、海面の下には何が隠されているんだ?それはまだよくはわからない。わからないが、たぶんそれらのことを人は、自らの顕在意識では決して捉えることができないから、見えない世界、無の意識、心の領域などと、何らかの畏怖の念を持ってそんなふうに呼ぶんじゃないだろうか?頭の中は山のような気がかりが蠢いているというのに、そしてホームシックの国、アメリカにひとりこれから戻るというのに、心身ともに何だか妙に力が漲っている。機内で誰とも話すこともなく静かに過ごしていると、そのことがはっきりと感じられる。あれほどの緊張の中で初めて渡米した時のことを思い返せば、あの時と較べれば今の自分が全くの別人に思えてくる。どうやら私というものは海面の下の無の意識あたりで、自分でも見知れない心の奥深くの領域あたりで、ひどいホームシックの末に日本に一度下り立ったというその事実だけで、かなり今、満たされているのかもしれない。

 私は、そのまま眼下の雲に目を当てたまま、しかし特にそれを意識して眺めるでもないまま、巡る思いを今度は自分からさらに深めていった。

 一度でも海外で暮らして帰国すれば、やはり人は、この日本で生まれ、この日本の風土、社会的心状や思想、その他様々なこの国の事象の影響を無意識のうちに受けて育ち、この日本という国が自身の故郷であるという当たり前の事実を痛感するものなのかもしれない。たとえそこには目を覆いたくなるような罵倒、裏切り、偽善、怒り、恨み、悲しみ、苦しみ、諦め、失意、惰性、嫉妬、欲望、絶望などなど、そんなものがそこら中に散らばっていようとも、そしてそんなものに振り回され、浮かれ、舞い上がり、苛立ち、跪き、心失くし、項垂れるようなことがあろうとも、それでもやはり故郷は故郷で、その地に立ってその懐に包まれているだけで、人の心の奥深くあたりは安心で満たされるんじゃないだろうか。安心で満ち満ちた心身は緊張が解けているんだから、そこに幼き日から慣れ親しんだ刺激や栄養が入り込めば、それらが生きる活力にならないわけがない。アメリカで新たな刺激と栄養を自身に取り入れることを両親に期待され、そして私もそれを願い渡米するに至ったのだが、その目的は達成されるどころか、それどころか心身をすり減らすままに期待、願いも失われ、そのままに私は生きる活力さえもなくしていった。安心が何一つそばになかったのだから、そして慣れ親しみのない刺激と栄養ばかりなのだから、そうなっていったことは当然のことと言ってしまえばそうなのかもしれない。そしてわずか1週間にも満たない帰国滞在期間の中で、安心に包まれて緊張の解けた心身にしっかりと刺激と栄養を満たすことができ、そして生きる活力が漲りだしたのだから、全く皮肉な話である。

 やはり人は、幼き日の記憶の色濃く残る安心できる場所でしか、その身に絶対必要な刺激と栄養を吸収できないのかもしれない。異国に長く移り住めば、いずれはその土地にしっかりと根を伸ばし始めて、その異国の土壌からの刺激と栄養を吸い取り、当座の生きる活力を獲得することはできるだろう。しかしそうはできても、異国というところはやはり異国で、そんな場所で心深くまで全緊張が解けることはないんだから、決して絶対必要なまでの生きる活力を獲得するには至らない。機内に搭乗する前、そして搭乗後によく食べよく眠れたというのは、短い帰国中に無意識のうちに深くまで安心し、緩んだ心身は馴染みの刺激、栄養を故郷から吸収し、そのお陰で私の中の生きる活力が漲っていたからのように思う。活力の足りない心身のままでは人は食べれないし、そして眠れない。事実、アメリカから日本に帰省する時、乗り継ぎが悪くて24時間以上の時間を要したのだが、その時は一睡もできなかった。

 機内でのひとりの時間は、再度アメリカに乗り込む私にとって有意義で貴重な時間だった。様々な気がかりも、しなければならない事柄の整理も何一つ片付かなかったのだが、活力の源を少しばかり知り得たということで、少しは心にゆとりができたような気がした。何事も、頭で理解した上で進めようとしても、心にゆとりがなければ前には進まない。父の言う通り、考え、目標を定め、計画を立て、淡々とそこに向けて進んでいくのも大切に思う。しかし心に何のゆとりもなく、萎縮し、震えてるような状態であるのなら、どれだけ立てた目標、計画が立派なものだとしても、進みそうなものも何一つ満足のいくほど前へは進まない。アメリカに乗り込む直前に日本で満たされた活力に気づき、そして心にいくらかのゆとりができたことで、私は、何も考えずに、何の目標も計画も立てずに、緩く感じるままにアメリカでの日々を再始動させようと思った。


 再度アメリカに乗り込んだ。最初の渡米時に較べれば、それほどの緊張も気負いもなく乗り込めたということを私は嬉しく思った。つまりは、アメリカに渡る機内で、日本生まれの日本育ちの日本人だという自身のアイデンティティが確立され、そしてそれを強く意識したまま乗り込むことができたからのように思う。それはやはり、帰国して日本の地に足をつけたという事実がもたらしてくれたもので、シカゴのオヘア空港に下り立ってからは駐車場への足取りもそこそこ軽く、前を向いてしっかりと歩けたということがそのことを証明していた。

 1月の間は実に順調に日々が流れ去っていった。私の場合のその「順調」というのは、特別意志的、そして意欲的に何かを獲得するために活動し、その結果にそれを達成したということではなく、その前年までのホームシックの苦しさを考えると、それに較べればそれほど苦しまずにサラッと通過することができたというだけの話である。決してホームシックの苦しみがなくなったわけではない。上手く、そして巧みに、それを避けながら日々を通過することができたというだけである。アメリカに戻った私には、アメリカに馴染んでいこうという気負いもなく、アメリカでの自分に何か期待し願うでもなく、父の言うところの「根性を叩き直す」という意志を持つこともなく、つまりは恐らく無意識のうちに自身に負荷を掛けないように、いい意味で何もかもに対して適当に過ごすように努めていたんだと思う。そんなふうに過ごせばまた罪悪感、孤独感に苛まれそうなのだが、そうなる前に別のことで気を紛らわせる術なら、その前年までの経験から十分に手中にあった。

 負荷をかけないということで言えば、例えばホームシックに苦しんでいたその前年のことを言うと、とにかくひとりの時間を確保したくて、就業時間以外はできるだけ職場に留まらないようにしていた。なので仕事のある日は、ぎりぎりの時刻に朝食を一人暮らすマンションで済ませ、始業直前に出社し慌ただしく着替えて仕事に入る、昼食時はそそくさと職場から車で10分もかからない場所に位置する自分のマンションであり合わせの食事を済ます、そして就業後はすぐに職場を後にする、というふうな暮らしをしていたのだった。しかし日本から戻ってきてからは、以前のそんな生活スタイルが実に気ぜわしく、そして負荷になっていると思い始め、そのあたりを自然に緩めていった。毎朝就業時刻の30分前に、会社の倉庫の10t車でも優に背後から入車することのできる商品荷受け渡し場所の外に、朝食移動販売車がやって来る。私はそれを毎朝利用するようになり始めた。確か、同じ倉庫で働くジャックもジムもその移動販売車のことを”ラウチコーチ”と呼んでいたのだが、そしてその後一度だけその言葉を辞書で調べてはみたのだが、そんな言葉はどこにも見当たらなかった。しかしその後になって、”ラウチコーチ”の意味を調べようとも別に思わなかった。辞書にも載っていないスラングか何かだったんだろうと思う。元来、気になることがあればすぐに調べる私だったはずなのだが、そうはしなかった。そのあたりもいい意味で適当にやり過ごしていた。まぁこのことはどうでもいいのだが、・・・。そんなふうに朝食の時刻に合わせて始業よりも早く倉庫に顔を出す私のことを嬉しく思ったのか、ジャックが、

「コウジが段々アメリカンになっていくぞ。コウジがアメリカンになっていくぞ。・・・」

 と、アメリカサイズの巨大なホットドックを朝からコーラで流し込む私を眺めながら、倉庫の中で大声で適当な歌を陽気に歌ったりしていたのだが、私はただ微笑んでいるだけでしかなかった。特にそれに合わせて一緒になってはしゃいだりすることもなかった。ジャックはその後私に、”Eric"というアメリカンネームをつけ、私をそう呼ぶようになった。ジャックは、私が職場に馴染んでいこうとしているんだと信じ、それで私に嬉しさのままにアメリカンネームを与えようとでも思い至ったのだろう。

 その前年までは、私の周りは急に日本人の仲間が増え、それが四方八方に増殖するように増え続け、しまいには方々のパーティーから週末ごとに声がかかるようになり、そこに集う誰からも「パーティーアニマル」と呼ばれ、それを否定することもなく酒を浴びるように飲んではいつもだらしなく半笑いで過ごしていたのだが、年が明けてからはなぜか、あの頃の律儀にどのお誘いにも応じていた変な生真面目さや、激しく陽気に騒いだ後の空虚しさが疎ましく感じ始めて、以前のようにその仲間たちからパーティーのお誘いの連絡は度々入ったのだが、何らかの適当な理由を並べてはそのすべてを遠ざけていった。少し寂しい気がする時もあったのだが、忙しい煩わしさの疲れや疎ましい空虚しさを後に引きずるよりはそのほうがずっとマシだった。そのお陰もあってかその頃は、酒に手を伸ばそうという気持ちは驚くほどに静まっていった。

 美術館には、週に1、2回は必ず一人で通った。海のように広大な真冬のミシガン湖の表面が全面分厚い氷で覆われているその上を歩きにも行った。どこまでも広がる雪景色を探して当てもなくドライブにも出かけた。週末はよく巨大ショッピングモールにも行った。仕事の外では、そんなふうにいつも一人で気ままに過ごすようになっていた。そんなふうに過ごすことが、私がすでに手にしていた気を紛らわせる術だった。

 そんなふうにとにかく1月は、自身に負荷をかけず、気を紛らわせる術を駆使して気ままに動き回ることで、罪悪感、孤独感にひどく苛まれることもなく「順調」に過ごすことができた。母のこと、彼女のことはいつだって頭の中に大きく転がっていた。しかしそればかりに目を向けると、遠く離れた場所では何も行動を起こせないということに苦しくなるものだから、とにかく何かがふと閃けばすぐにそのまま動き回った。そんな中、恐らく1月中は、彼女から2回ほどエアメールを受け取ったと思う。その文面には、特に年末年始の思い出についても、また私たち二人のその先の将来についても触れられておらず、ほぼ彼女の日々の暮らしの出来事だけが主に綴られていた。そこに彼女の、寂しさにできるだけ触れたくはない、だけど大切な人とはやっぱりつながっていたいという、悲しいほどの切ない思いが見て取れたような気がした。だからそんな彼女を刺激しないようにと、私も彼女と同じような温度を送り返すだけの手紙を書いた。それに、もしそうしないで二人の思い出、将来のことなどについて多くを書き綴ったりでもすれば、どうにかアメリカでの日々の均衡を保っている私の足元が揺らぎそうにも思っていたからだった。母とは2度ほど電話で話したように思う。やはり、杖をつき始めてからその後もジリジリと症状が悪化し、そのことを悔しがりながらも私のことばかり気にする母には、意志も意欲も何もない適当な生活をしている本当の私の姿を話し聞かせるわけにはいかなかった。私は母には嘘をつき通した。

 日本への帰国を望もうにも父がそれを許す訳もなく、結局のところアメリカで過ごす以外には道のなかった私には、そんなふうに気ままに過ごすことでなるだけ我が身に負荷をかけないように日々をだらしなく食いつぶしていくしかなかったのだった。それでいいとは思ってはいなかった。しかしそうする以外にはなかったのだった。1月の間は、父と話すことがあっても、父には特に「寂しい」とも「帰りたい」とも口にしなかった。そんなことを口にすれば、父なりの精神論を語られて追いやられるのが行き着くところで、そのせいでせっかく「順調」に進む毎日を掻き回されたくはなかったからだった。その頃の父との電話で、

「幸治、スコットの会社は忙しいのか?」

 と訊かれたことがある。ひっきりなしに方々から商品を仕入れては小分けして、小分けしたものを抱き合わせては得意先毎にひとまとめにして、夕方には何台もの大型トラックに積み込んでは商品を送り出すような毎日だったから、

「かなり忙しいで」

 と答えたことがある。すると、

「日本はもうバブル弾けてもて暇や。仕事あって働かせてもらえること、ありがたいと思えよ。どんだけしんどうても、ありがたさを噛み締めながら仕事に当たれよ。・・・」

 と、父はギリギリの均衡を保つ私に喝を入れようとかかってくるのだった。父と電話で話せば、結局最後はいつも嫌な気分になるばかりだった。

 そんなふうに気ままにいつも一人で過ごす私は、とにかく音楽をよく聴くようになっていった。意識的に日本の音楽よりも、ラジオから流れるアメリカの音楽をよく聴くようになっていった。私は、大学時代の頃からアコースティックギターに触れ始めてからは生音が好きになったせいで、エレキギターの歪んだ音やエフェクターで加工され不快なまでに残響音が後を引くドラムの音など、そんな電気的な音が好きでなくなっていった。音は加工され、派手に化粧を施され、一定の音量で、それをクールといえばクールなのかもしれないが、その向こうにいる演奏者の息遣い、熱量、演奏者同士のアイコンタクト、心の揺らぎ、一音を奏でるタッチの緊張感、そして喜びなど、そういったものを感じることのできない音楽は、いつの間にかかなり苦手になっていた。ちょうどその頃はグラミー賞のノミネート作品が発表された直後で、”MTV Unplugged”で収録されたエリック・クラプトンの”tears in heaven"や”layla"が頻繁にラジオから流れていた。生楽器メインの私好みの音楽が持て囃される時代が巡ってきたように思った。私はそのことを本当に嬉しく思った。一人身を守るように暮らす私はクラプトンの音楽を聴きながら、そこに集う奏者の息遣い、熱量などに触れれば、まるで最愛の人々に囲まれて温かな時間を過ごしているような気持ちでいた。しばらくして私はクラプトンのCDを買った。そして家にいる時は、ほとんどいつもそのCDを聴きながら過ごすようになった。そして夜になるとそれを聴きながら、ショットグラスのウイスキーを舐めるように飲みながら時間を食いつぶすのだった。

 2月に入り、あまりにもそれまで周りを遠ざけて孤独を良しとし過ぎたせいか、急激に寂しさが私を圧迫し始めた。そんなことになるとは思ってもいなかった。そのせいか、不満、苛立ち、疎外感、猜疑心が強くなり、そんな自分が嫌で、そしてそんな醜い自分を人前に晒したくなくて、寂しいくせにもっとひとりで過ごすことを求めるようになっていった。恐らく、日本で取り戻した活力がすっかり枯渇してしまったんだと思う。仕事以外の時間は、とにかく一人マンションにこもるようになっていった。音楽を聴くのも億劫になっていった。また以前のように次第に酒の量が増えていった。酒を飲みながら音のない部屋で、「どうにかしなければ・・・」とばかり考えていた。しかしいい考えなど浮かぶことはなかった。父に私のその時の状態を打ち明ければどうなるかくらいはわかっていたし、とても母には聞かせるわけにはいかなかった。そんな訳で、母には2月の中頃に一度くらいしか電話しなかったように思う。その時も、私はどうにか母には嘘をつき通した。父には電話する気にさえもならず、一度も電話しなかった。完全に孤立した状況に陥ってしまった。ただ惨めだった。そしてついに私は、甘えかかるように、尊敬する彼女に救いを求める行動に出てしまった。その頃の私はもう、尊敬する彼女に救いを求めることだけは絶対にしないという自分への誓いをも、すっかり忘れていた。

 酔いの廻った頭で、時間があればせっせとせっせと彼女に手紙を書き綴っては投函した。恐らく、週に最低でも1、2度は投函していたように思う。今思い返せば完全に狂っていた。全く何を書いたかは覚えていないが、恐らくその内容はといえば、「苦しい」、「寂しい」、「日本に帰りたい」、「お前に会いたい」の連発であったのだろうと思う。そんな手紙、私なら受けとりたくない。やはりそんな手紙を受け取っては、おそらく彼女も相当苦しかったのだろう。彼女からの返事は、バレンタインのチョコを贈ってくれた時の短いメッセージカードと、その月末の一度の手紙だけだった。その月末の彼女からの手紙も実に短いもので、彼女の近況報告がほんの少しと、その最後にこのような文章が綴られていた。

「柄本くんの苦しい気持ち、わかって欲しいのはよくわかる。でも苦しいのはみんな一緒よ。とにかくしっかり踏ん張ってください。私にはどうすることもできないし、そうとしか言えない・・・」

 その手紙を読んで、あっけないほどのその短い文面と、突き放されたように感じさせるその最後の言葉に、自分の取り続けた行動をいとも簡単に棚に上げて、私は彼女に対して不満を覚えた。もう少し俺のことを受け止めようとしてくれよ、俺が苦しんでいてもそれほど痛くも痒くもないのか。そんな不満が爆発しそうになって、しかしそれをどうにか押さえ込みながら、私は3月に入ってすぐの頃、彼女に電話をした。

「上島・・・」

「柄本くん・・・」

「久しぶり・・・」

「うん、久しぶり・・・」

 全く会話が弾む気配もなかった。そのまま二人とも固まった。もうその2か月前の二人ではなかった。

「大変みたいやね・・・」

 不意に彼女がそう口にした。きっと彼女のことだから、彼女は彼女なりの精一杯の労わりの気持ちでそう口にしたんだと思う。しかしその声は、腫れ物に触れるように震えていた。自分でも自分のことを正常と思ってはいなかったが、彼女の震える声を聞いて、私は彼女が私のことを正常じゃないと見なしているような気がして悔しくなった。

「大変なんや・・・」

 私はそう返事するだけで精一杯だった。また会話が途切れた。何か彼女の身の周りのたわいない話なんかが、彼女の口からどんどんと滑り出てくれればいいのにと思った。そうしてもらえることが一番気が紛れることなのに・・・。電話の向こう同士で、一緒に苦しい場所だけをただ見つめ続け、鈍く重い時が泥のようにドロリと流れていくのが苦しかった。私はついに、

「なぁ、最近、手紙も少ないし、近況もあまり書いてくれへんし、どうしてるんや?」

 と、まるで彼女を責め立てるようなことを訊いてしまった。それに対して、彼女は少し間を空けてから苦しそうに話しだした。

「柄本くん、私、今の柄本くんの手紙に何て返事書いたらええのか、もうほんまわからへんねん。私かっていろんなこと、聞いて欲しいこともあるし、仕事も外回りから事務所での管理のほうに移動になって覚えなあかんこといっぱいやし、・・・。私かってほんま今、大変やねん。もう寂しいて、そして苦しいて、・・・、どうしようもないねん・・・」

「そしたらその全部、俺に聞かせてくれよ」

 そこでまた会話が途切れた。いくら冷静を装おうとしていてもすでにもう狂っていた私の中で、不意に彼女に対する猜疑心が頭をもたげてきた。彼女からの手紙が短くなったことや届く頻度が減ったこと、そして近況をほとんど知らせてくれないことから判断して、彼女の気持ちはもう私から遠く離れてしまったんじゃないか、別の男が彼女の中に入り込んでいるんじゃないか。そんな勝手な疑いは、お互いに口を噤んでいる内に次第に疑いの余地もなくなって私の中で確信となり、私はそのままを彼女にぶちまけてしまった。

「柄本くん、ひどい・・・」

 彼女はしくしく泣き出した。私はそのまま、

「だってそうやろ。離れ離れでお互いに寂しいて苦しいて・・・。もう少しお互いに毎日のことなり、思ってることなり、・・・、何なりと伝え合わんと・・・。俺がそう思うのがおかしいんか?」

 とさらにぶちまけて、まるで彼女を悪者のように責め立ててしまった。彼女は黙りこくった。何も話さなくなってしまった。そうなってしまってようやく、私は我に返って自分が口にしたことの穢さを思い知ったのだが、もうすでに遅かった。

「ごめんな。言いすぎた。俺、今、余裕がなさ過ぎやわ。・・・。こんなはずじゃなかったのにな。・・・。なぁ、上島、・・・、少しの間、お互い、ちょっと距離を空けようか・・・」

 彼女は泣き続けていた。私は彼女が話し出すのを待った。そしてしばらくして、彼女は静かに話しだした。

「柄本くん、仕方ないよ。私らふたりとも、今、余裕なんてないよね。また手紙書くね。今日はもう電話、切ろ。このままやと、もっとふたりとも苦しくなってしまうよ」

 彼女はどうやら、どうしても早く電話を切りたがっているようだった。私はそう言われても、もっと彼女とつながっていたかった。しかし少し冷静になってみると、あんなふうに責め立てた上にさらに彼女を苦しめることだけはやはり気が引けた。電話は切るべきのようだった。

「うん、わかった。今日はもう切ろうか。ごめんな・・・」

「うん、いいの。私もごめんね。・・・。シカゴは寒いんやから風邪、ひかんように気をつけてね」

 私たちは受話器をそっと下ろした。

 その後のことはぼんやりとしか覚えていない。何となく彼女との関係が終わりに近づいているような予感がして、そんなことばかりが頭を占拠して、すっかり私は腑抜けたような状態になっていたんだと思う。ただ一つ、はっきりと覚えてることがある。それは、こんな時は母のそばでゆっくりと時を過ごして、母の手料理を食べて、母との言葉少なめの真綿のような時間を楽しみさえすれば、きっと緩やかな速さで心は着実に回復することができるんだろうな、というようなことを考えていた。それはというのも、中学から勉強に忙しくなって、年に何度か完全に磨り減らしてしまった私は言葉を発する気力さえもなくすことがあったのだが、その時は1日か2日実家に帰省して、何もしないでゴロゴロしながら母との二人きりの柔らかな時間を過ごすだけですっかりと元気を取り戻し、学業に集中するためにまた寮に舞い戻っていくことができるまでに回復することができたのを、その時、ふと懐かしく思い出したからであった。

 その数日後、彼女からの手紙が届いた。3月に入って、少しばかり雪景色を照らす太陽が陽気になり始めた頃だった。


 (前略)

 2月になってから、柄本くんから急に苦しそうな手紙が頻繁に届くようになって、私、忙しくて時間の余裕がないっていうのもあるけど、何をどう書いて返事を出せばいいのかも、もう分からなくなって、次第にそれがプレッシャーになって、考え込むばかりで全く以前のように楽しく手紙を書けなくなってしまったというのが正直なところなの。柄本くんがこの前、電話で言ってたように、私もしばらくはお互い連絡を取り合わないで距離を空けたほうがいいように思う。手紙でも、こないだの電話でも、私、考え込むばっかり・・・。そんな私のせいで柄本くんに不安な思いをさせたり、苦しい思いをさせたりしてる。今のままでは、私、これ以上柄本くんの気持ちに応える自信がないの。

 柄本くん、こないだの電話で、「今、俺のほかに頭の中で思い始めてる男、いてるんか?」って私に訊いてきたでしょ。あの言葉、私、すごくショックやった。結局、離れていて私のこと、信じてくれてへんねんやって思ったら本当に寂しかった。このままズルズルと連絡を取り続けていつの間にかお互いの心が遠のいて自然に離れ離れになってしまうよりか、今は寂しく思ってもお互いに連絡するのやめて、それでいつかまた会える日のことを時々思い描いて、その時は「早く会いたいな」って思えるほうが、今の私たちにとっていいように思う。

 柄本くんの私を思う気持ち、私なりによくわかってるよ。私の柄本くんを大切に思う気持ち、柄本くんもわかってるよね。私は柄本くんに前に言ったことあるけど、普通の女の子よ。柄本くんの思っているほど強い女の子じゃないよ。それでも毎日、必死で闘ってるの。頑張ってるの。私の今の気持ち、柄本くんも一人海外で生活してて苦しいと思うけど、私のこと思ってくれるなら私の今の気持ち、そのまま受け止めて欲しい。・・・。

 (後略)

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