第9話

 どこを見渡しても希望も夢も見当たらない真っ暗闇、足元には平坦な一本道、それでも時は流れるし、命の残された時間は短くなっていく。命はただ生きたがるものだ。だから、手探りでも、どうにかその道を生き進むしかない。そんな時、幻想でもいい、手を目一杯伸ばしても届かなくてもいい、遠く夜空の雲の切れ間の見えるか見えないかほどの小さな星のようなものだっていい、希望や夢が放つ1mmにも満たないほんの微かな光さえあれば、それだけでもう人は足を引きずりながらでも、そこを目指して嬉々として歩いていける。そのたった1mmの光でさえ太陽の光のように感じ、鼓動が高まるままに歩いていける。

 しかし、時として人生の中では、その1mmにも満たない光さえ見つけ出すことのできない時期というものがある。上を見上げても、足元を見渡しても、前後左右を振り返っては何度確かめてみても、黒く塗りつぶされた真っ暗闇しか見つけられない時期。そんな時期は、もうそういう時期だと割り切って、そこに溶け込んで闇と同化して、いずれは光に出会えることをそれほど期待もせず期待して、3度の食事と睡眠以外のところに一切気を注ぐことなく、時が過ぎ去るのを静かにじっと待つ以外にはない。

 そのような時期に慌てると、それこそが悲劇の始まりである。巷に溢れかえる情報の洪水の中から、闇から光へと抜け出す最短の近道を探そうとすればするほど、人は自分というものを巷に明け渡してしまうこととなる。そんなことをすれば、ただでさえ弱っているのにさらに活力を消耗し、ほんの一瞬擬似光に浮かれた末に幻滅し、その後は被害者意識だけが心を占領し、命あることも周りの巷の存在も、何もかもが絶望にしか映らなくなってしまう。そして項垂れ、動けなくなる。

 だからと言って、光を求めないことを、そしてだらりと虚無的に生きることを良しと言っているのではない。何よりも大切なのは、先ず、今自分が立っている場所の周囲に1mmほどの光でも見いだせるか、それとも何一つ見いだせないか、そこを見極める冷静な心の瞳を持つということである。見いだせるなら、その時はあらゆる手段を駆使してそこへ近づいて行けばいい。しかし見いだせないのなら、下手に動き回らずにじっと時が過ぎ去るのを待つほうがいい。そして特に、光を見いだせない時の振る舞いこそ気をつけるべきことのようである。真っ暗闇に迷い込んだ時の振る舞いこそが、その先の未来がどう転んでいくかを厳格に決定づけるもののようである。

 そんなふうに見極めることのできる冷静な瞳は、どうすれば手にすることができるのか?結局は、月並みなのだが、年齢を重ね、経験値を積み、地頭と地心を鍛え上げるしかない。しかし、人は誰もが道の途中で不完全、結局は日々に追われるうちにそのまま枯れていくもので、この世から旅立ちの日が来るまでにそんな瞳を手にすることができたなら、それはもう幸運と呼んでもいいようなものなのかもしれない。

 何かで読んだことがある。このようなことが書かれていた。「いくら人間が偉くなっても、天井の高さなんて知れたものだ。しかし人間の愚かさは底なしである」 最近の私は、その愚かさこそが滑稽で、可愛らしく、愛されるべき人間の資質のように思ったりするのだ。冷静な瞳を未だ手にすることもできず、闇での振る舞いを誤って転げ落ち、傷口が癒えないうちに立ち上がり駆けずり回ろうとしてはまたひっくり返る、そんな人間こそが周りを朗らかな気持ちにさせ、勇気を与え続けるんじゃないだろうか。偉ぶって高みから見下ろすことにいい気になっている人間からは、命に対する慈しみ、愛しみなどは実に感じにくい。私は、愚かさこそが本当の人間らしさだと思っている。

 1993年4月にアメリカでの生活を清算して帰国してから、もうすでに23年の歳月が流れた。あの頃のことは何もかもがもう遠い昔のことで、今となってはすべて他人事のような気さえしている。あの頃を振り返ると、家族の誰もが決して冷静ではなかったし、そして光の有無を見極める余裕すらもなかった。帰国後の私を待っていたのは、たった1mmの光さえ見いだせないまま闇の奥のもっと深い闇へと突き進んでいく、そのような日々の始まりだった。実に苦しい時代だった。それでも今となっては、家族の誰もがまっすぐに愚かで、臭いと熱を放ち、実に人間らしかったと、私は懐かしく思い出したりするのだ。悲劇も、裏を返せば、人間味溢れる完全な喜劇であると思ったりもするのだ。


 伊丹空港には夕方前に到着した。予定よりも1時間以上遅れての到着だった。到着口を抜けると、その大きな自動扉のすぐ前に父が立っていた。

「えらい遅かったな。急がなあかん、行くぞ」

 と言って、そのまま父は背を向けて早足で歩き出した。父に話しかける暇も与えられなかった。父のたったそれだけの一言だけで、深く呼吸する余裕さえなく日々走りまわっている姿が見て取れたような気がした。

 車に乗り込むと、父の運転は、その前年の年末に帰省した時よりもさらに荒いものになっていた。阪神高速の池田線に乗り込む時のカーブを時速100kmで進入していくものだから、その時はさすがに私も、

「そんな飛ばしたら危ないやろ」

 と言ってはみたものの、父は、

「おぉ、・・・」

 と言ったきり、そのままの速度で池田線に合流した。池田線から環状線に入って直線道が続きだして、少しは私も父の暴走に慣れてきた頃、父はようやく話しだした。おそらく父は、みっともない姿でアメリカでの生活を切り上げた私に対しての苛立ちは拭い切れてはいなかったのだろうが、もうそのことは努めて忘れようとしているようだった。父は、

「幸治、お母さんがな、今日は幸治が帰ってくるからって言うて、すきやさんのとこのお寿司、配達してもらうって言うてたで」

 と、普段よりも明るめの声で話しかけてきた。「すきやさん」とは、大阪の柏原にある小さなお寿司屋さんで、実家で何かおめでたいことがある時にだけ、電話注文してお寿司を届けてもらうのだった。

 アメリカでの日々では、父の口から飛び出してくる言葉と言えば、「ええ加減にせえ」、「頭冷やせ」、「根性を叩き直せ」、「恥ずかしいと思わんのか」などといった耳に痛い怒鳴り口調ばかりだったので、そんなふうに普通に父から話しかけてもらえたことで、それだけでもう私は嬉しかった。空港で父と会ってからそんなふうに父が話し出すまで、それまでに何度も耳にした父の怒声を思い出しては、いつ父の口からそれが飛び出してくるのかという思いで気持ちが怯み、母のことが気がかりなのにそれさえも口にできないでいたのだった。父がそう話しかけてくれたおかげで、ようやく私は口を開くことができた。

「お母さん、調子はどないや?」

「うん、あまりな、ようないんや」

「病院は?・・・」

「うん、・・・。お父さんの友達もみんな心配してくれてな、みんなが方々の病院を紹介してくれるからあっちこっち行ってるんやけどな、どこいっても一緒なんや。もう病院も行き尽くしたんちゃうかな・・・。松原にな、ええ鍼治療の先生がいててな、そこで鍼を打ってもろたら、それはどうもお母さんの体に合うてるみたいや。お母さんがな、そこの鍼はよう効いてる気がするって言うてるわ」

「そうなんや。・・・」

「お母さんも絶対に治すんや言うて必死に頑張ってるんやからな、幸治もお母さんのそばにいてる時は、お母さんに明るうに接しなあかんぞ」

「うん、わかった」

 優しく話す父は、やはり呼吸が浅かった。そのことがその時は、母のことよりも気がかりだった。母に関しては、まだその時はなぜか、53歳の年齢の母がその若さにして、足の症状は進行していても、それでもいずれは必ずきっと回復するんだと、私は信じていた。

 西名阪に入ってしばらくして、父の暴走させる車がようやく実家の最寄りの柏原インターに近づいてきた頃に、父がまた話しかけてきた。

「幸治、明日からお父さんの仕事、手伝ってくれよ。とりあえずはな、得意先への納品を中心にやってくれ。専務の言うことをよう聞いて、そのままやったらええ。お父さんはな、もう明日からは会社にはほとんど顔を出さんからな。お母さんのそばにできるだけおることにするわ。わかったな」

 とりあえず私はわかったと返事をしたのだが、なぜか変に胸がざわついた。専務とは、父の兄弟の三男、将一叔父さんのことである。その年の正月にちらっと会ったのだが、特に話もしなかった。しかし子供の頃からの将一叔父さんと私との関係を思い返せば、そこには何一つギスギスした感もなく良好なものだったので、専務の指示通りに動くことに関しては全く異論はなかった。そんなことよりも、父が意を決したようにもう会社にはほとんど顔を出さないと宣言したことが、どうも奇妙で、変に胸がざわついたのであった。

 高速を降りて5分もしないうちに、父の車は関屋駅に通じる近鉄大阪線の線路脇の道を走っていた。そして、最後に彼女と会った関屋駅の横を通り過ぎて左に折れて、駅前から長く伸びる坂を登り始めた。その時だけ、私は彼女のことを激しく思い出した。会いたい気持ちがグツグツと湧き上がってきた。しかしもう終わったのだ。私は最後の手紙を投函した時のことを思った。あの時、彼女とのお付き合いの中で一番彼女のことを愛していた。だから私も彼女に習って、彼女の幸せを願ってけじめをつけたのだ。もう忘れよう。彼女も私も、もう次の願う場所を目指して歩きだしたのだ。私はそんなふうに、ひとり心の中で自身に話しかけ続けた。家に近づくにつれて、車の窓からは、通りの家々の庭の桜が散り始めているのが所々に目についた。道路脇の吹き溜まりは、春の彩りの役目を終えた花びらで汚れていた。それを目にして、私はやっと、「あぁ日本に帰ってきた」と心から思えた。坂を登りきったところで慌てて振り返ると、一瞬だけ二上山が見えた。相変わらずそこに姿あることを、当たり前のことなのに嬉しく思った。そしてすぐに実家に到着した。

 玄関先に荷物を降ろし終えて、家に上がってリビングの扉の取っ手に手をかけようとした時、扉にはめ込まれたガラス越しに中の様子が窺えて、その時私は、頭を後ろから叩かれたような衝撃を受けた。リビングの南面の腰窓の下には、以前はソファが置かれていた。東面と南面に同じソファが「く」の字に配されていたのだった。その南面のソファが取り払われていた。そしてそこに、病院の入院病棟で見かけるような電動式の介護ベッドが据えられていた。そのベッドのそばに、正月に帰省した時と同じように母が車椅子に座っていて、扉の向こうに立つ私を見つめて嬉しそうに微笑んでいた。目の前の光景に頭の整理がつかなかったのだが、取っ手に手をかけ、扉を開け、そしてリビングに入るという一連の動作を不自然に止めてしまうと、それは母に嫌な思いをさせてしまうような気がして、どうにか必死に体裁を取り繕って私はリビングに入っていった。母の微笑みは、花が開くように大きくなっていった。私も動揺をひた隠したまま、母と同じ速度で笑みを多少ぎこちなく大きくしていった。そして、

「お母さん、久しぶり。ただいま」

 と言いながら母のそばに歩み寄り、車椅子の左タイヤ脇にあぐらをかいだ。

「おかえり、よう帰ってきたね」 

 と言いながら母は私の顔を覗き込み、

「なにぃ、幸治、えらい痩せてからに・・・。まぁ、やっと帰ってきたんやから、2,3日ゆっくりして、しっかり食べて、それからぼちぼちとお父さんの会社に勤め出したらええわ」 

 と口にした。それを聞いて、私は母に微笑みかけた。すると、それをそばで聞いていた父が声を抑えながら、

「そんなんはあかん。男は仕事や。元気でおるうちはな、男はとにかく仕事せなあかんのや。幸治、明日から仕事出ろよ」

 と口にした。母は、父に何か言い返したそうな不満げな表情を一瞬見せはしたのだが、ぐっとそれを飲み込んで、

「・・・やって・・・。残念やな」

 と言って首をすぼめて笑った。どうやら母は、すり減らして帰ってきた私に少しは休ませてあげたいという気持ちと、体の自由が利かなくて私の世話を焼くことはもうできなくても、せめて数日ぐらいはベッタリと私のそばで過ごしたかったという気持ちとの、その両方の気持ちでいたんだと思う。父があんなことを口にして、それを素直に聞き入れて、母は、私に対して、疲れていても早く社会に羽ばたけと考え直したのだろう。父の言うことをほぼ何でも聞き入れる母だったが、こと私のことに関しては時として、違うと思えば父に食ってかかり、そして自分の意見を押し通すのがいつもの母だった。その時首をすぼめて笑ったのは、自分の甘い考えを父に見透かされたことに対する母の照れ隠しだったのだろう。

 由美子はその日も台所にいた。両親と帰ってきた私のやり取りを聞きながら、特にそこに口を挟むでもなく微笑んでいた。そんな由美子をちらちらと時々私は目で追っていたのだが、正月に帰省した時よりもさらに母の台所姿に益々似ていっているように感じた。リビングに入ってからまだまともに口を利いていなかったので、私は母のそばを離れて由美子のそばに行った。

「久しぶり、お姉ちゃん」

「幸治、えらい痩せて・・・。飛行機、どうやった?揺れた?長時間、疲れたやろ?」

「じっと動けへんのが、もう耐えられへんわ。飛行機、嫌いやわ」

「せやけど、乗らへんかったらよその国には行かれへんからな」

 と言って、由美子は可笑しそうに笑った。

 このように、そばに美佐がいなければ、由美子とは比較的普通に話ができるのであった。私は由美子に、正月以降その日までのことをそっと尋ねてみた。

「2月くらいかな、私もはっきりとは覚えてないけど・・・。トイレでお母さん、座ったはいいけど立ち上がられへんでな、その時は私が手伝って、・・・、そう、お母さんもまだその頃は少しは踏ん張ることもできたし・・・、どうにか車椅子に乗り移ることができたんよ。せやけどその話をお父さんにしたらな、次の日からお父さん、毎日、得意先回りの途中にそのまま家に帰ってくるわ、お昼にまた帰ってくるわ、また出かけたと思ったらすぐ帰ってくるわでな。お父さん、一日中車走らせてて・・・。それにな、相変わらずお父さん、お父さんの友達からええ病院を紹介してもらったら、お母さん連れて出かけ回って・・・。お母さんのこと、そら当然心配やけど・・・、せやけど私、いまお父さんのほうが、ほんま大丈夫やろかってもっと心配になってきてな・・・」

「あのベッド、いつから・・・?」

「3月入ってからやな、たぶん・・・。うちの階段、急で一直線やろ。お父さんが支えてお母さんとふたり、登り降りが大変やから言うて、あそこにベッド、置くことになったんよ。お父さんも今、ベッドの横に布団敷いて1階で寝てるんねん」

「そうなんや。・・・。美佐姉ちゃんは帰ってきてるんか?」

「そらな、お姉ちゃんが家のこと手伝いに来てくれたらな、お父さんも色々と助かるんやろうけど・・・。一回だけ、私な、お父さんにそう言うてみたんよ。そしたらお父さん、美佐はもう家から嫁ぎ先に出した娘や、家の娘と違うんや、手伝ってくれなんか言うて、嫁ぎ先の吉田の家には迷惑はかけられへんのや、って言うねん」

「お父さんらしいな。僕らにしたら、何もそこまで無理せんでもええんちゃうかって思うんやけどな」

「せやねん。せやけどお父さん、言いだしたら曲げへんからな・・・。心配事がいっぱいやわ。幸治、とにかくあんたは精一杯、お父さんの仕事を手伝わなあかんで」

「うん、できることだけはやってみるわ」

 台所から母のそばに戻る時、テレビを見ながら微笑んでいる母の様子をしっかりと窺ってみた。正月の頃に比べるとほんの少し首筋、そして足が痩せたような気がしないでもなかったが、その姿からは、全く立ち上がることもできないでいるなんて、とても私には信じられなかった。

 その日の夜は、父と母、由美子、そして私ですきやさんのお寿司を囲んだ。終始母はご機嫌だった。

「幸治、マグロ好きやろ。マグロ、多めに入れてもろてるからな。しっかり食べ」

「うんわかった」

「昔、布施の回り寿司行った時のこと、覚えてるか。あそこで幸治、初めてお寿司食べたんやで」

「そうやったんかな?」

「うん、そうやで。幸治は生のもの食べるの怖い言うて、お母さんが大丈夫や、美味しいから食べてみって言うたら、ほんまかって言いながら目つむって口に放りこんで・・・。そしたら目キラキラさせて、お母さん、これ美味しいわ言うて、その後、マグロばっかり10皿も食べたんよ」

「うん、言われたら思い出してきたわ」

「それでな、お母さん、幸治に、なんで他のお寿司食べへんのやって聞いたんよ。そしたら幸治な、マグロは大丈夫でも他のはまだ怖いって言うて、・・・。お母さんそれ聞いて、もう腹抱えて笑ろた、笑ろた」

「そんなん、僕、言うたか?」

「言うた、言うた。その後もお父さんによう回り寿司に連れてってもろたけど、初めて行った時から1,2年の間はな、幸治はマグロしか食べへんかったんよ。横で見てたら、マグロが流れてきたら嬉しそうな顔して・・・。ほんまおかしかったわ」

 やはり家の中の雰囲気というものは、なぜだかはわからないが、母がどれだけ無邪気に上機嫌でいるかに左右されるもののようである。その日の夜は本当に、懐かしくこそばいほどに賑やかな夜だった。そんなふうにして、中学の頃からほとんど家の外で暮らしていた私も、ついに実家に腰を据えることとなった。

 

 その翌日から父の会社に出社した。車は母の車を使わせてもらった。西名阪を柏原インターで乗り込み、藤井寺で降りる。藤井寺の料金所の先の通称外環状線、国道171号北行きは通勤渋滞のため、通常ならば数十秒で通過することのできる料金所のところまで、高速道路の降り口から10分以上もかかる。料金所を通過しても、その先は全く動かない。料金所から外環状線に出るのに10秒の距離を5分、外環状線に出て北上し大和川に橋を越えるのに2分の距離を15分と、とにかく時間だけが過ぎ去っていく。橋を越えたところから左に折れて裏道に入り、一直線に細い道を八尾空港に向けて北上するのだが、裏通りもすでに国道を避けた車でごった返し、その上どの車も始業時刻に間に合わせようと苛立っていて、我先に道を行こうとする心ないその状況に精神的に止めを刺される。初出社の日、会社にたどり着いた時には、私はもうフラフラになっていた。

 父の会社は、おそらく私が小学生の高学年の頃からだったと思うのだが、4本の足のついたウェルドナットという特殊ネジを製造していた。主に自動車に使われることが多く、ボンネットを開けて鉄板にボルトの頭が見えている箇所があれば殆どの場合、その裏の目の届かない所にはウェルドナットが隠れている。4本の足は電気溶接で溶かされて、鉄板の穴の裏側でくっついている。自動車製造ラインとは、外注先で組み上げ勝手のいいように加工された部品を仕入れて、それをはめ込み、つなぎ合わせ、色を塗って完成した車を製造する所である。鉄板にナットが溶接され、それが塗装され、そして自動車製造ラインに持ち込まれれば、それは実に組み上げ勝手がいいという仕組みである。つまりは父の会社の仕事というのは、品質、納期にシビアな自動車部品の裏方的商品を、鉄線から加工して梱包し、そして第3次、第4次下請けの小さな町工場にネジ問屋を通じて安定供給するということであった。メーカーは通常在庫を持たず、問屋がそれを抱えて安定供給を保持するのであったのが、私が入社した頃にはバブル経済は崩れ、その通例も崩れ、問屋は在庫を持つことを嫌い、父の会社のような一番末端の下請けメーカーがいつでも商品を積み上げて在庫管理していなければならなくなっていた。そして問屋からの納期は1日、2日と極端に短く、出荷数量は問屋の受注数量のままの超小口注文ばかりとなっていた。

 時代が変わり、末端のメーカーが安定供給にまで心血を注がねばならず、何かと父の会社もシビアな状況になっていたのだが、それでも父の会社の気風、「自由」はそのままに守られていた。後に、いつのことだったか忘れたが、父から次のような話を聞かされたことがある。

「お父さんの会社はな、人から甘いって言われる。せやけどな、息の詰まった中でずっと仕事なんかできるわけがない。品質と納期、それさえ守ってくれるんやったら、あとは現場の連中は好きにやってたらええんや。機械が正常に動いて、ええ商品が上がってきて、納期通りに出荷できてるんやったら、現場の連中が寝てようが、雑誌読んでようが、遊んでようが、別にどうでもええんや。その代わり、そのうちの1つでもポカしよったら、お父さんはそいつのことは許さん」

 父の言う通り、実際に就業中に寝ている者を何度も目にしたことがある。そのような会社だった。徹底してその気風は貫かれていて、そのことが従業員の者にとって居心地が良かったのか、他所の会社のように頻繁に人が入れ替わることはなかった。十数名いた社員のうちで、その頃でもう15年ほど父の会社に勤め続けていた者も4,5名ほどいて、学生時代にごくたまに何かの用事で父の会社に顔を出すことのあった私は、顔なじみの従業員がいたことで、少しは楽な気持ちで初出社することができた。

 2階の事務所に上がると、専務が、経済新聞を事務机の上に広げて紙面に見入っていた。私が、久しぶり、と声をかけると、ゆっくりと脇に置いてあったメガネを耳にかけて、時間をかけて私のほうに顔を向けた。

「おぉ、ついに帰ってきたか」

 と言って専務は微笑んだ。専務は、自分の事務机の右隣りの事務机の椅子を引いて、何も言わずに手を動かす動作だけでそこに座るようにと私に勧めた。もう始業時刻が迫っていた。私は隣りの休憩室で始業を控える従業員に挨拶に行くつもりでいたのだが、そう勧められては挨拶に行くこともできなくなってしまった。そして8時を過ぎ、下の現場からは機械の高速圧造機のけたたましい音が鳴り響きだした。私はそのまま専務から、アメリカでの日々のことを次々に質問され、それにひたすら答え続けた。そうして1時間ほどが過ぎて、そろそろ仕事のことを専務に尋ねようかと思った頃、父が事務所に上がってきた。無言で事務所に入り、そのまま一番奥の事務机の前に腰を下ろした。目を開けているのも億劫そうで、家の中で見る父とは全くの別人に見えた。そのままひとつため息をついて立ち上がり、父は、事務所の入口から見て右奥の扉の向こう、応接室に姿を消した。

 私はそんな父の姿を見て、もう仕事にかからなければと、少しばかり気が急いた。そして専務に、

「今日から僕、何をしたらええの?」

 と訊いてみた。すると、

「そうやな、・・・。注文書見て、伝票を起こして、配達に行ってもらうんやけどな。ぼちぼち覚えていけ。そうやな、・・・。今日は特に急ぎの納品もないみたいやねんけどな。・・・。布施の高井田のお客さんがな、F商事って言うてな、ニッサン関係の1次下請けや。そしてな、久宝寺の手前に藤美ってとこに農機具関係のネジ問屋があってな、Yって言うんやけどな。FとYに配達に行くことが一番多いんや。まずそこから覚えて言ったらええ」

 と専務は言った。

「大阪の道なんか走ったことないし、今朝もあんな渋滞、びっくりしたけど、・・・。無事に行って帰って来れるのか、ちょっと不安やな」

「迷ううちに覚えていくわ。ぼちぼちやったらええ。急ぎやないけど、今日はF商事に行ってくるか」 

 そんな会話を専務と交わしてると、奥から父が顔を出して私に手招きをした。応接室に入っていくと、父は先ほどよりももっとだるそうな顔をしていた。私は思わず、

「大丈夫なん?」

 と口にした。ソファにどっぷりと身を凭せ掛けた父がゆっくりと話しだした。

「・・・。お母さんの調子が日に日に悪うなっていってな、・・・、それでもお母さん、絶対にようなるんやって気張ってるんやけどな、・・・。そんなお母さんの横で、お父さん、疲れた顔なんかでけへん。こうやって会社に出てきてな、一人になった時だけ、お父さん、少しは気を休められるんや。・・・」

「うん。・・・」

 父は、気力を振り絞って仕切り直すように、

「専務、なんて言うてる?今日は急ぎの配達はあるんか?」

 と、しっかりとした瞳で私を見つめながら訊いてきた。私は、

「特にないみたいやけど・・・」

 と答えると、

「お父さんもあまり時間ないけど、今日はちょっと一緒に出かけよか」

 と言って、そのまま立ち上がって応接室を出て行った。私も急いで父の後を追った。そしてその朝は、渡米にあたって何かとお世話になった中村さんのところと、そこから歩いて1分ほどの距離のF商事、の山田社長にご挨拶に行った。

 帰りの車の中での父は、訪問先で見せたキリッと引き締まった社長の姿ではなく、無防備なまでにその鎧を脱ぎ去っていた。そんなことを考えてると、不意に父が、

「ほんまはな、男として許されへんねんけど・・・、毎日5時前にはもう仕事終えて帰ってこい。色々お母さんのことで手伝って欲しいこともあるし、それにたぶんな、お母さんは幸治にそばにおって欲しいって思ってるやろうし・・・」

 と口にした。何とも弱々しい声だった。それでも私には、父がどことなく、運命なんかに先のわからない未来を翻弄されて堪るものかと闘っているようにも感じられた。私は、闘う父の瞳には、父の描く私の将来のビジョン、母がそんな状況の中でも気易く過ごせるための青写真、穏やかにすべてが次の場所に着地できる術などがしっかりと見えているような気がした。そして、ここはもうそれ以降父が何を言い出しても、それに対して余計なことを問いかけたりして父に見えているものを邪魔して遮ることもなく、黙って素直に従うことにしようと思った。私は父の話にただ、わかった、とだけ返事をした。

 慌ただしく二人で出かけて、父の会社の近くまで戻ってくると、父がまた不意に話しだした。

「あのな、幸治はあまり事務所から出るなよ。現場の連中と一緒になって仕事したらあかんぞ」

 それに対しては、いくら父の言う通りに従おうと思ったとは言え、その意図はさすがに図りかねて、それを父に問うてみた。すると父はこう答えてくれた。

「あのな、幸治はな、将来お父さんの会社を継ぐんや。経営するっていうのはな、人とのつながりや。いつ何時、お客さんを迎えなあかんかもわからへんし、いつ何時、用事ができて急に出かけなあかんのかもわからんのや。現場の連中と一緒に働いて、お前の手を当てにされたらな、お前がおらん時に現場の連中から、忙しいのに手伝いに来よらへんって文句が出てしまうやろ。そうなったらな、現場もギスギスして生産工程がな、あっちこっちでスムーズに流れへんようになってしまうんや。終いにはお客さんに迷惑が掛かることになってしまうからな」

 私は父の会社に入るに当たって、ひとつだけ思っていたことがあった。それは、製造業に就くわけだから、先ずは父の会社の機械、つまりは第1工程の圧造機、第2工程の自動ネジ山加工機、第3工程のローラー選別機の操作方法、それに機械に取り付ける工具の加工方法などの、とにかく隅から隅まで勉強したいと思っていたのだった。そのことを口にすると、父は、

「そんなことはせんでええ。現場の連中が商品は作りよる。それがあいつらの仕事や。機械もあいつらが回しよる。幸治の仕事はな、管理と営業や。立場をわきまえなあかんのや。現場に入って、あいつらの仕事を奪うようなことはしたらあかんのや。わかったか」

 と言われたのだが、今ひとつ納得できなかった。しかし出社初日で、何も知らない私が父の真意を理解できるはずもなく、それにその頃の父は常に母のことが気がかりで、落ち着いて事細かく私に説明できる状況ではなかったのだろうと思い、私は素直に頷いた。


 帰国してからの2週間、仕事はどうにかこなすことができた。慣れない通勤渋滞、慣れない得意先回り、慣れないトラックの運転、何もかもすべてが初めてのこと、慣れないことづくしで、緊張が緩まずに相当に疲れたことは疲れたのだが、どうにか乗り切ることができた。そのことを私は嬉しく思っていた。日々奮闘する私の仕事での出来事の話を母に話して聞かせると、母もいつも嬉しそうにしていた。

 しかしそれよりも、実家に馴染むことのほうが精神的にもっと大変なことだった。中学の頃から帰国するまでのほとんどを外で暮らし実家に根を下ろすことのなかった私は、外から戻ればひとり気ままに振舞うということが当たり前の習慣になっていたということに気づいた。実家は実家で私のいないうちに実家としての年月を重ねていた訳で、私を除いた家族全員での暗黙の生活のスタイル、リズム、ムード、ルール、それぞれの絶妙の距離感など、もう何もかもがすっかり確立されていて、そんな私がそこにすんなりと馴染んでいけるはずもなかったのだった。表面的には飄々と振舞っていても、なかなか確立されたその中に馴染めそうもなく、そして母のそば以外に居場所を確保できそうもなく思い、内心はいつもかなり焦っていた。お風呂に入る順番、洗濯物を出すタイミング、自分の部屋の片付け、新聞は父以外の者が一番には開いてはいけないということ、リビングでのいろんなものの置き場所など、そんな些細なことの一つ一つを、家事全般を切り盛りする由美子から帰宅後の私は頻繁に短い言葉で、ぐさりと注意され続けたのであった。そんな様子をそばで見ていた母はたまに、微笑みを浮かべながらも困った顔で由美子を注意するのだった。

「由美子、幸治もずっと家におらへんかったんやから、そんな簡単に家のことに慣れれる訳がないやろ。ちょっとは慣れるまでは待ってあげんと・・・」

 しかしそんなことが何度か続くと、それが由美子の癇に触ったのか、次第に母のいないところで、例えば自分の部屋で寝る準備をしている時に、いきなり大きな音を立てながら扉を開けられて、苛立った表情のままに小言を一方的に捲し立てられるという、そのような陰湿なことが由美子から私に繰り返し行われるようになっていった。それに対して私は、どうせまだ馴染めない私が悪いんだと思い、家の中の状況を考えるとそのことを誰かに打ち明けて聞いてもらう気にもなれず、鬱屈した苛立ちを胸の中に抱えては積もらせ、未解決のままにそれらを腐らせ続けていった。

 そんな職場と実家を往復するだけの、少しずつ胸に苛立ちを腐らせる毎日の中、それと並行して関屋という近鉄沿線の住宅地にさえも馴染めないもの、違和感を感じ始めていた。出勤時はそうでもなかったのだが、仕事から帰ってきて関屋駅から実家までの長い一直線の坂道を登っている時、いつも胸が寒々しくなって、お腹辺りにすっぽりと穴が空いたような気持ちになるのだった。その得体の知れない空虚しさは、初出社の日から数日後にはもう感じるようになっていた。関屋駅から登り坂に差し掛かる時は、いつもその心持ちを不気味に感じながら、私はその理由を考えていた。そしてその答えは、ポンと閃くようにすぐに見つかった。見つかって私は、それは当然のことだと思った。それはというと、この関屋という町で思春期という一番多感な時期に学校の仲間とも一緒に過ごすこともなく、そして仲間との想い出を刻むこともなかったからであった。そして長く外で暮らした末に戻ってくると、この町には友達と呼べる仲間が一人もいなかったからであった。私はこの関屋という町に、思い入れも、愛着も刻むことがそれまでに一度もなかったのだ。この関屋という町は形式上は実家があって、家族が生活していて、私が帰ることを許してくれる場所ではあったのだが、心は正直で、この町のことを、ただの迷い込んだ、馴染みのない、見知らぬ他所の町と見なしていたのだった。そして、そこを通り過ぎた先に家族が住んでいるだけと見なしていたのであった。そんなことに気づいて、日々駅前から坂道を登る時はいつも、どうやっても埋めることもできない過ぎ去った膨大な日々を悔しく思い、悲しくなるばかりだった。しかしもう、やはりそれはいくら悔やんでも、どうしようもないことなのであった。

 その頃の母はと言えば、父が初出社の日に心配していたように、確かに症状は日に日にほんの少しずつ進行しているように感じられた。首周りが細くなったような気がしないでもなかった。そして頭を支えるのが辛いのか、険しい顔をしていることが少し増えた気がしないでもなかった。そんなふうに、うっかりしていれば気づかないような、そんな実に微かな足取りで、母の症状は進行していたのだった。そんな母を、父は週に1,2度は鍼治療に連れて行っていた。鍼治療がどれだけ母の体に効いていたのかはわからないが、たまの外出の嬉しさも加えられてか、大阪の松原までその治療を受けに行った日の夜だけは、母はいつも満足しきった晴れやかな顔をしていた。

 その頃の週末の午後、美佐が尼崎から帰ってきた。

「お母さん、久しぶり。変わりない?大丈夫?」

 耳障りの悪い金切りのようなキンキンと響く声を発しながら、玄関に上がるなり美佐は母のもとへ走り寄った。異様に感じた。不自然に思った。一体美佐は何を感じているのだろう。家に上がれば、家の中の、静かに家族全員で母を支えながら、家族全員で母の回復を願い、家族全員で母とともに辛い日々を乗り越えようとしている、そんな空気、気配の微塵も感じないのだろうか?美佐が家に上がるなり、家の中が引っ掻き回されて、そして乱れた気がした。まっすぐに母を見つめる美佐に、母が微笑みながら、

「幸治が帰ってきてるよ」

 と言った。私は食卓で、他の者に遅れて一人でお昼を食べていた。美佐が私のほうを向いた。そして、先ほどのけたたましい金切り声とは打って変わって、面倒くさそうな瞳を私に当てたまま、面倒くさそうな低い声で、

「あぁ、おかえり」

 とだけ言った。面倒なら口を開くなと思った。そのまますぐに美佐は母の方に向き直り、尼崎での贅沢な生活ぶりを次から次へと母に話して聞かせ始めた。そうすることが、母を喜ばせることと信じているようだった。狂ってると思った。私は食事を終えて、そのまま食卓の前に座ってテレビを眺めていた。すると、美佐が私の方に急に振り向いて、

「あんた、何を疲れた顔してるん?」

 と振ってきた。一体何事かと思った。仕方なしに私は、

「仕事もまだ慣れへんしな、そら少しは疲れてるわな」

 と言い返した。すると美佐は、馬鹿にしたような笑いを浮かべて、

「あんたなんか、ただボーっとトラック運転して、大阪の中、走り回ってるだけやろ。何か疲れることあるんか?」

 と言ってきた。また始まったと思った。しかも母の前でである。美佐は私のことを、「幸治」と名前で呼ぶことがほとんどない。ほとんどの場合、「あんた」と呼ぶ。私はいつも美佐と言葉を交わすたびに、それを憎々しく思っていた。私は何も言い返さないことに決めた。すると車椅子に座った母がいきなり、

「美佐、ええ加減にしいや。美佐は幸治にだけは、何でそんな口の利き方しかでけへんねや。幸治かって帰ってきて、休む間もなくお父さんの仕事に通い始めて、慣れへんことばっかりの中でどうにか頑張って食らいついていこうと思って必死なんやで。美佐が尼崎にいて、あの忙しい大阪で働く幸治のこと、何を知ってるんや。ちゃんと幸治に謝り」

 と、声を荒らげて厳しく美佐を叱りつけた。

 美佐は私の一体何が気に入らないのだろう。会う度にいつも何かが起きる。そして今回は、よりによって一向に回復の兆しさえ見えてこない、それよりは症状が日々微かに進行している母の前で起きてしまった。考えてみても、何も原因となるものは浮かんではこなかった。母が可哀想で仕方なかった。

 その週末、美佐は実家で1泊したのだが、さすがの美佐も、もうそれ以上普段のように私を攻撃してこなかった。ただ、やはり美佐はいつものように台所にいる由美子のそばに行って、そこで二人でヒソヒソと険しい顔をして話し込んでいた。本当に嫌な気分だった。 

 その週明けの月曜日、出社してから出荷伝票の整理をしていると、9時過ぎに父がやってきた。その頃の父は毎日、9時頃に出社し、2時間ほど誰とも交わることもなく応接室で静かに過ごし、バタバタと事務所を飛び出し母のもとへ帰っていくのだった。いつものように父は、もう疲れを隠すこともなく黙って事務机の前に座ると、メガネを外し、そのまま背もたれに全身をもたせかけて目を閉じた。そしてしばらくそのままでいた。それを横目で窺いながら、そして伝票を整理しながら私は、父も苦しいのだろうなと思って自分まで苦しくなってきた。しかし自分に出来ることはと言えば、その時は、父の仕事を手伝うことと母のそばにいることぐらいだった。そんなことを考えていると、父が、

「幸治、ちょっと話ある。時間は大丈夫か?」

 と訊いてきた。私はまだ大丈夫だと言うと、父は応接室に入っていった。私も続いた。私たちは向き合って、ソファに腰掛けた。しばらく父は何も話せないでいた。悲しそうな顔をして、目を細めて窓の外を眺めたり、俯いたり、宙に目を走らせたりと、とにかく父は心が乱れているようだった。私は黙ったまま、できるだけ父と視線が合わないようにしていた。父が口を開くまで、相当の時間を要した。心が決まったのか、余所見をしながらようやく父が静かに話しだした。

「幸治、お母さん、また少し、首が痩せたやろ」

「うん、・・・」

「あのな、お母さんな、もう治れへんねん・・・」

「えっ、何でや。・・・」

「・・・・・・。2月頃に行った病院でな、実はお母さんの足の治らへん原因がわかってたんや。この話はな、まだ誰にも話してないんや・・・」

「・・・・・・」

「ALSって言うてな、筋萎縮性側索硬化症ていうのが日本名らしいけどな・・・。なんや難しい名前やけどな、それがお母さんの病名なんや。・・・。10万人に一人くらいしか発症せえへん神経の病気やそうや。それでな、・・・、治療法はな、ないんや。・・・・・・。なんでよりによってな、子供の頃から貧乏して、貧乏して、苦労して、ずっと苦労して、ようやくほんの少しの贅沢、歳も50になって楽しめるようになったとこやのに・・・。そんな矢先に、よりによって必死に頑張って生きてきたお母さんがな、こんなわけのわからん病気にかからなあかんねん・・・」

「・・・・・・。お父さん、治療法はないって・・・。そんなん、お母さん、どないなるんや?・・・」

「・・・・・・。どうしようもないんや。・・・・・・」

「・・・・・・。どうしようもないって、そんなん、・・・・・・」

「とんでもない病気なんや。・・・。筋肉がな、使こうたら使こうただけ衰えていくんや。そして最後はな、やせ細って固まってしまうんや。ほんまはな、せやからお母さん、・・・、一切動いたらあかんのや。せやけどそんなん、動いたらあかんなんか、言えるわけないやろ。・・・」

「どないもならへんのか・・・」

「どないもならへん。・・・・・・。その日が迫ってくるだけや。・・・・・・。ALSのこと、病院でも色々話を聞いたし、お父さんなりにも調べた。どうにもならへん。この病気の一番酷いとこはな、全身の筋肉なくなって動けんようになってしもてもな、頭だけは最期までしっかりしてるということらしいんや。せめてな、そんなふうに弱っていくんやったら、先に頭、ボケてくれたほうがな、・・・、絶対そのほうがお母さん、楽やろにな。・・・」

 その時、父は天井を見上げて泣きだした。私が父の泣き姿を見たのは、その時一度きり、それが最初で最後である。私も、父につられるように泣いた。頭の中が真っ白になっていった。その後もしばらくは父と話していたんだと思うが、そこからの記憶は、白の宙空に浮かぶソファに二人向き合って腰掛けているだけの情景がなぜか頭に刷り込まれていて、何を話したのかはさっぱり覚えていない。

 最後に父が言ったことだけはなぜか覚えている。

「まだお母さんも、由美子も、美佐にも言うてないんや。時期が来たらお父さんから言うからな、幸治は黙っとけよ。女の人はな、できるだけ悲しませたらあかんのや・・・」

 そして父は泣き止まない私に、

「幸治、もう配達に行け。お父さんはもう少ししたら家に帰るわ」 

 と言った。私は泣きながら倉庫に行った。そして、2トントラックの荷台に商品を積み込んで出かけた。ひどくぼやけた心では、トラックで少しは走り慣れた大阪の町が見知らぬ町に見えた。町中の誰もがその時の父の、そして私の悲しみを当然知るはずもないのに、それなのにあたりを走る車を運転する人も、すれ違う歩行者も、誰もかもが冷たい人に見えた。笑いながら歩いている人がいれば、何がそんなに楽しいのかと変に苛立ったりもした。夜になれば、思い入れも愛着もない関屋の町に帰っていくことを思うと、帰る家がそこにあるのに、そこで一晩過ごしたところで悲しみも苛立ちも癒されることもないような気がして、自分の心孤独な境遇を悔み、悲しく思った。そして母のそばで、果たして上手く振る舞えるのだろうかと思うと、とてもそんな気もしなければ、そんな自信もなかった。

 そんなことをぼんやりと思いながらトラックを走らせていると、どういう思考回路でその言葉が浮かんだのかはわからないが、なぜか「風の鳴く草原」という言葉が頭の中に突如浮かんできた。しばらくその言葉を心の中で呟いていると、その続きが浮かんできた。「想い出は駆け巡る 懐かしいあの人 元気でいますか?」 私はどうやら、心満たされ自由だった頃の学生時代に心を凭せかけたいと願っていたようだった。私の学生時代のギターの相棒、デサ(出崎)との思い出が、私の心いっぱいに広がってきた。その頃のデサは、卒業後1年だけ勤めた大阪、梅田の会社を辞めて、彼の実家のある広島の呉に戻っていた。デサのように、大切な仲間の誰もが学生時代を過ごした京都を離れ、日本中にバラバラに散らばってしまっていた。宮城の遠藤、茨木のヒミちゃん、東京の崇や阿部くん、新潟のペッキー、名古屋の英明、加古川の富田、岡山の有吉、沖縄のサワ、・・・。昔の仲間の笑顔を思い浮かべていると、ほんの少しだが、かすかな勇気が湧いてきた。その先何が待ち受けているのかはわからないが、じっと堪えながら進んでいこうと思った。

 その日家に帰ると、母が上機嫌だった。話を聞くと、どうやら父が、母の足がすっかり治ってゴルフをまた始める時のために新しい車を買ってくれる、と言ってくれたそうだ。

「幸治、その車が家に来たらな。しばらくはお母さんのその車、貸してあげてもええで。その代わりな、毎日幸治はな、お母さんに1,000円払うんやで。車のレンタル代や。わかったか?」

 夕食を食べながらそんなことを楽しそうに話す母を見ていると、心が潰れそうだった。それでも必死の思いで、私もそれに応じ返した。

「お母さん、500円にまけといてや。いま僕な、お給料もまだもろてないし、お金が全然ないんや・・・」

「あかん、新車やで。まけるわけにはいかへん。1,000円でも安いやろ?何やったらツケにしとったってもええで。それが嫌なんやったら、大阪まで自転車で通勤しいや」

 そんなことを嬉しそうに話す母が、ただ悲しかった。

 食後、私は自分の部屋へ行って泣いた。ひたすら泣いた。するとまた、「風の鳴く草原」という言葉が浮かんできた。そばに仲間たちがいればいいのにと思った。私は久しぶりにギターを抱えて、でたらめに小声で口ずさみながら、仲間たちに手紙を書くような気持ちで、その続きの言葉をつなげでいった。そしてひとつの詩がまとまった。読み返すと、仲間に向けて書いたつもりでいたのに、仲間からかけて欲しいと私が願う言葉を私は書いていたことに気づいた。私はそれを清書して、封筒に入れて、次の日、デサに送った。



風の鳴く草原


風の鳴く草原 

想い出は駆け巡る

懐かしいあの人 元気でいますか?

負けてはいけないと

支えあったあの日々

今でもこころに浮かんできます


優しさと強さは

どこか似ているねと

最後の最後で人は気づくけれど

遅くはないよ

離れ離れの暮らしでも

誰かがしあわせ 祈っているから


きっとあなたは

遠くどこかの街のなかでもひとりじゃない

信じていい

見上げる空にはあの日のエールあふれてる

だから

息を整え 前を向いて

さぁ 歩き出そう


風の鳴く草原

僕たちの行く道は

いつでもひとりでは辛いものだけど

こころのなかで強くつながれてる

手と手を揺らして歩こうよ

どこまでも・・・

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る