第10話

 確かに、母のそばにいて、日々の母の衰弱は、気をつけなければほとんど気づけないほどのものだったのだが、帰国して久々に再会したひと月前の母のことを思い返すと、やはりひっそりとしたその進行ははっきりと目で見て取れるほどに明らかなものだった。僅かそのひと月の間に、母の両足の筋肉はだいぶと落ちてしまっていた。そのせいで足をほとんど動かせないものだから、足の甲と足首あたりがパンパンに浮腫みだした。運動神経は冒されるのだが、脳、自律神経、そして知覚神経は衰えないというのがALSという難病の特徴で、母は、動かない足が浮腫んで重たくなっていることをはっきりと自覚し、そしてそれを嫌がった。その浮腫みを強く揉みほぐして母を楽にしてあげるのが、父と私の役目になった。毎日ほんの1,2時間会社に顔を出す父は、それ以外の時間を全部、母のそばで過ごすことに当てていた。由美子の話によると、私が仕事で家にいない間は、父はずっと母の体を摩ったり浮腫みをほぐしたりしながら、ずっと母のそばを離れなかったそうだ。私が帰ってくると、みんなで夕食を済ませ、今度は私が母の足を揉みほぐすのだった。人の体が浮腫むなんて、それまで一度も見ることも知ることもなく生きてきた私は、最初は怖々と母の足首あたりを軽く摩るくらいしかできなかった。すると母が笑いながら、

「幸治、遠慮せんと思いっきり揉んでくれたほうがええんよ。そのほうがお母さん、気持ちええんよ」

 と教えてくれるのだった。しかしそうは言われても、私には力加減がどうもわからなくて、

「幸治、まだ遠慮してるんか。目一杯力入れてやってみぃ」

 と、母は可笑しそうに口にするのだった。そして、私が思い切って力一杯やってみると、

「そうそう、その調子、その調子・・・」

 と母は言って、すると私もその言葉に乗せられるように心の中で、「浮腫みが全部なくなれ、浮腫みが全部なくなれ」と呟きながら、ひたすら母の足を強く揉みほぐすのであった。そんな私に、母はしばらくすると、

「幸治も慣れへん仕事で毎日疲れてるやろうに、・・・。もうお母さん、十分楽になったで。ありがとうな、幸治・・・」

 と口にするのであった。その言葉に私は手を止めて、私が揉みほぐした母の両足を見つめるのだが、揉み始める前と何も変わっていないのがいつものことだった。母のそんな言葉は、私が幼かった頃、母の家事を手伝って、母の満足のいくほどの結果を何も出せないでいるのに、そんな結果なんてものは母にとってはどうでもよくて、一緒に家事をやってくれたということだけに対して私に優しく話しかけてくれた、そんな遠い日の母のねぎらいの言葉のようだった。それは懐かしい響きだった。いつもそんなふうに夜が更け、母のそばにずっといる父が母のその言葉を合図に、

「幸治、もう明日も仕事やから、2階にいって寝え」

 と口にするのであった。なぜか、そしていつからか私は無意識のうちに、母にお休みを言う時、「また明日な」という言葉を添えて言うようになった。

「お母さん、おやすみ、また明日な」

「うん、おやすみ、また明日な」

 そんなふうに母も私と同じように、「また明日な」を添えて返してくれるようになった。

 母の足の具合がそのように悪化していたとの並行して、その首周り、そして肩周りあたりもはっきりと見て取れるほど痩せ細っていった。車椅子に腰掛け、前を向いてじっとテレビを眺めている分には特に何の問題もなさそうだったのだが、車椅子を移動させる時のかすかな揺れでさえ、母はいくら踏ん張っていても首から上の頭を支えているのが困難になり始めたようだった。家族で夕飯時に食卓を囲む時、テレビの前から父が車椅子をそっと押しながら母を食卓の前まで移動させるのだが、その時の母は、衰弱が進む全身の筋肉にありったけの力を込めて踏ん張っているのが、奥歯を噛み締めるその表情に現れていた。

 ちょうどそんな頃に、母の新車が実家に納車された。食卓の奥の北面の腰窓を開けると、少し高台になったところに駐車場が見える。そして夕飯時、母の食卓を前にする位置から右手上に、駐車場の入れられた母の新車が一番よく見えるのだった。山間の我が家でも、夕飯時に窓を開け放っていても寒くもなくちょうど心地いい季節となって、母はいつも網戸越しに自分の新車を嬉しそうに眺めながら食事をしていた。そして、

「幸治、毎日お母さんに1,000円、車のレンタル代、わかってるな?」

 と口にして、私をからかって遊ぶのだった。納車されたその車を、結局は私が主に利用することとなったのだが、そのことがずっと私は母に対して何か申し訳ない気持ちでいた。

 その頃も途切れることなく、週に1,2度の大阪・松原への鍼治療通いは続いていた。そしてその頃は、あれだけ頻繁に繰り返された病院通いはすでに止めになっていた。もう鍼治療だけが頼みの綱だった。母の首の安定がすっかり悪くなって、5月の下旬頃から私も鍼治療通いに同行するようになった。そしてその時の父は、母に買い与えた母の新車をいつも使った。父は母のその新車を運転し、母がその助手席に座る。そして母の後ろの座席で、母の安定の悪い頭を両手でしっかり支えるのが私の役目だった。しかし後部座席で母の頭を支えながら、ほんの1ヶ月ほど前までは何の根拠もなく単純に母の回復を信じていたことをふと思い出すと、もうたまらない気持ちになって、両手の力がふっと抜けることがたまにあった。すると母が申し訳なさそうに私に、

「幸治、もうちょっとしっかりとお母さんの頭、支えててな」

 と口にするのだった。それを聞いて父が、

「幸治、何やってるんや。ちゃんと支えてなあかんやろ」

 と私を怒鳴りつけるのだが、母はそれに対して、

「何、大丈夫や。ちょっと幸治の手が滑っただけやろ」

 と口にして、笑いながら私を庇うのだった。その母の変わらぬ優しさに、また私は力が抜けそうになるのだった。

 父に母の病名を聞かされてから約1ヶ月の間に、父のあの時の話の通り、母の症状は確実に進行していた。そうなっていくことはわかってはいても、目の前で起こっていることに、そしてその速さに、私の頭は全く追いついていけないでいた。日々、何かしら新たに目にしてしまう母の衰弱に、私は戸惑ってしまうばかりだった。しかし母はどうだったのだろう。急速に体中が衰える日々の中で、それでも母は回復できることをまだ信じていられたのだろうか。そして、病魔に打ち勝つ意欲をまだ失っていなかったのだろうか。それとも、すでにもう回復は望めないものとして覚悟していたのだろうか。そして支えてくれる家族に少しでもいい想い出を遺そうという思いで、自分に厳しく、そして周りに明るく振舞っていたのだろうか。いつもそんなことばかり、私は後部座席で考えていた。

 西名阪松原インターで高速を降りて中央環状線に入ると、通り沿いには様々な店が並んでいる。それらに目をやりながら、母はいつも楽しそうに話し続けるのだった。

「こないだはまだ工事中やって何の店かわからへんかったけど、中華料理のお店やったんか。もうオープンしたんやな。何や小ぎれいな店やな。・・・。お父さん、お母さんの調子ようなったらこの店、一度連れてきてや」

「ここのパチンコ屋さん、いつ見ても駐車場、車でいっぱいやな。ようこれだけ人が集まるもんやな。ほとんどの人がお金、すってしまうっていうのに・・・。もったいない。幸治、パチンコなんかしたらあかんで」

「昔は、回り寿司って言うたら布施の元禄さんしかなかったのに、・・・、最近はどこにでもあるな。それも布施の元禄さんみたいに小さな店じゃなくって、どの店もえらい大きいな」

「お母さんも早うようなって、ゴルフの練習に行きたいわ。幸治もな、その時は一緒にゴルフ始めよな。お母さんがゴルフ、みっちりと教えたるわな」

 このようなたわいない話を、母は車窓の景色に目を当てながら嬉しそうにひとり話し続けるのだった。そして父と私は微笑みながら、ひたすらそれに相槌を打つのだった。

 6月に入った頃から鍼治療に向かう時の母は、それまでのように車窓の景色を楽しみながら陽気に話すことが少なくなった。そしてその代わりに、大人の仲間入りをした私に、どうしても伝え遺しておきたいと思ったのであろう言葉を、一つ一つ丁寧に、ゆっくり、ポツリポツリと話すようになった。

「幸治、自分のできること、それだけ一生懸命にやってたら人さんはわかってくれるんやから・・・」

「幸治、人さんにかわいがってもらえるようにな、先ずは自分から人さんに優しくしてあげるんよ」

「幸治、人さんにようしてもろたらな、その人に感謝の気持ちでお返ししたいのは当たり前やけどな、それよりはしてもろて嬉しかったことをな、普段周りにいてくれる人さんにもお返しの気持ちで何かして差し上げるんよ。そしたらな、もっと一杯幸せが巡ってくるんやで」

「幸治、前も言うたけどな、賭け事は絶対にしたらあかんよ」

「幸治、お金はな、必要な時は一気に出て行くもんやで。せやから言うてな、お金を必死に稼げって言うてるんやないねん。お金はな、稼ぎ方やないんや。使い方なんや。大切に使ってたらな、少しずつ自然に貯まっていくもんなんや。それが大きな財産になってな、いざっていう時に助けてくれるんやで」

 そんな、母がそれまで生きてきていつしか手にした母なりの処世術というか、人生訓というか、そういった話をポツリポツリと話すことが次第に増えていった。それを耳にして、母の病いが不治の病いであるとすでに知っていた私は、それを知る前ならきっと、「そんなことはわかってる」と生意気な口答えをしていたであろうと思うのだが、とてもそんな気にはなれなくて、ただ素直に、「うん、うん」と相槌を打ち続けるのであった。そしてそんな話が延々と長引けば、父が笑いながら口を挟んで、

「お母さん、何をそんな重たい話ばかりしてるんや。幸治かってな、仕事精一杯やってみんなに可愛がってもろてるんや。安心してたらええ。幸治にそんな話ばっかりしてんと、・・・、足が治ったらどこに行って何したいとか、何を食べたいとか、・・・、必ず治るんやから、・・・、お母さんはな、いま、楽しいことを嬉しそうに考えてたらええんや。神様がそうしろってくれたそういう時期なんや」

 と、やんわりと母をたしなめるのであった。やはり母は、もうすっかり回復は望めないものと覚悟しだしていて、父の言う「重たい話」、つまりどうしても伝え遺しておきたい思い、そんなものを私に遺そうとして必死だったのかもしれない。その真相はわからない。しかし父にたしなめられた後の母は口を閉ざし、何だか、「今のうちにもっと幸治に伝えたいだけを自由に伝えさせてくれ」という気配を発しながら悔しがっているように感じられた。母の頭を支える私の掌にピリピリと、母の悔しさがかすかな電流になって染み入ってきているように感じることがたまにあった。

 そんなふうにたまに気落ちしそうな母の気配を察知してからの父の行動は、実に速かった。父は一体どこでそんな情報を仕入れてきたのかはわからないのだが、「神霊会」という宗教団体が九州の長崎にあって、その団体にお世話になった多くの方々が難病を克服したのだという。その団体が言うには、すべての病い、苦しみは救いを求める先祖の霊、その他諸霊の取り付きによるもので、神のお力でそれらの霊を浄霊すれば即座に霊障であるあらゆる病い、苦しみは解消されるとのことだった。ある日、父はその団体に関する書籍を10冊ほどまとめ買いしてきて、母のそばでそれを読み耽り始めた。そして1冊読み終わるとそれを私に手渡して、「お前も読め」と勧めるのだった。毎日毎日、母は父から、その本の内容について聞かされるようになった。

 元来母は信心深い人だった。特に神様について、あるいは仏様について語ったりすることは一切しない人だったが、家の中での祭り事、法事などは粛々と大切に実行する人だった。心底神様、仏様に対しては畏怖の念を常に持っていたようで、その心のままに日々家事に当たるような人だった。特に台所仕事では、食材の切れ端一つでさえ無駄にすることを畏れ、冷蔵庫の中でものを腐らせたりすることを畏れ、炊飯器の最後のご飯一粒さえも食されることなく捨てられてしまうことをいつも畏れていた。そんな母は、「大切に頂かへんかったらバチが当たる」と、口癖のようにいつも笑いながら話す人だった。「感謝」なんて言葉を気易く口にする人なんかより、ずっと母のほうが深い「感謝」の心で生きていたように思う。

 そしてそんな母は、直感的にいいと思ったものは何でもすぐに取り入れる、そんな柔軟性に富んだ人でもあった。誰かから、「龍は風水的に運気を左右する力を持っていて、良き縁を呼び込み邪気を強力に払ってくれる幸運の象徴だ」と耳にすれば、龍の彫り細工の指輪なんかを身につけるようになったり、小指の先よりもまだ小さなカエルの小物を財布に入れて、「これを入れとったらな、お金と幸運が還ってくるそうやで」と言ってみたりと、そのようなことを嬉しそうにすぐに取り入れる人だった。

 私が高校2年の秋に、由美子が体調を崩し入院したことがあった。方々の病院で検査した結果、右臀部の奥のあたりに腫瘍が見つかった。私は岡山で寮生活をしていたためどういう経緯でそうなったのかはわからないのだが、実家から車で1時間以上もかかってしまう大阪、堺の病院に由美子は入院して、そしてそこで即手術を受けることとなった。腫瘍を摘出して、それが良性のものか悪性のものかの検査結果が出るまで、1週間以上の時間を要した。父から後に聞いた話だが、その間の母は、朝の3時には起き出して自分の軽自動車に乗り込んで、そのまま由美子が入院する病院とは全く別方向にある、人々からできものの神様が祀られていると言われる石切神社まで車を走らせて、日が昇る前から誰もいない境内でお百度参りを済ませて、朝の8時前にはもう由美子のそばに付いていたそうだ。そのままずっと夜の9時まで由美子を励ましながら無理に明るく過ごし、帰りは仕事帰りに病院を訪れた美佐を助手席に乗せて、泣きながら実家へと車を走らせていたそうだ。家事は自分の絶対の仕事として守り通す意志の強かった母は、10時過ぎに帰ってきてから食事の用意、衣類の洗濯などに取り掛かったそうだ。「そんなことはもういいからゆっくりと休め」と父が何度言っても、母は泣きながら返事もせず家事を黙々と行うものだから、もう父は母の好きなようにさせておこうと思い諦めたそうだ。ようやく由美子の検査結果が良性だとわかって、母はもうお百度参りも止めにしてもいいようなものを、神様に感謝の気持ちをもうしばらくは伝えに行こうとでも思ったのか、母の早朝のお百度参りはもうしばらく続いたそうだ。そのくらい、母は信心深い人だった。

 そんな母はやはり、父の話を毎日耳にするうちに、すぐにその団体に興味を示し始めた。鍼治療以外にはもう縋るところもなく、おぼつかない日々を渡る母にとって、それは望んでもなかった希望の光だったのだろう。そしてそれは、家族全員にとっても希望の光だった。母がその団体に惹かれて瞳を輝かせているのを目にして、父はその浄霊を母が受けることのできる方法はないかと調べだした。すると、その団体の指導を受けた方が、大阪・平野の自宅で浄霊活動を細々と続けておられるというのがわかった。それを父から聞かされた母は、

「お父さん、お母さん、一度、その方のところに連れてってほしいわ」

 とお願いした。由美子も私も、その日がすぐに来るのを願った。

 すぐに父は、どうにかその方との約束を取り付けた。その数日後の平日の夜、母の新車に乗り込んで、父と母、そして私の3人でその方のお宅に向かった。その夜は、ひんやりと冷たい微粒子のような霧雨の夜だった。雨粒が落ちるのが見えもしなければ聞こえもしないのに、車のフロントガラスはベッタリと濡れ、時々ワイパーでそれを拭わなければならない、そんな不思議な雨の降り方の夜だった。初めて浄霊を受けに行くその道中の車内は、母の胸に常にあった何ものかに対する畏怖の念が車内の空気に濃密に溶け出して、そして溢れ返っているようだった。それはどこか、外の空気に溶け込む濃密な微粒子の霧雨に似ていた。車内の気配を父と私は無意識で感じていたのか、無口なままにじっと宙を見据えるような母のそばでは、とてももう一言も言葉を発することなど許されないような雰囲気だった。ただ静かに、滑るように、そんな不思議な霧雨の夜を潜って、私たちを乗せた車は平野を目指した。華やかな中央環状線から左に逸れて、車は昭和の面影を色濃く残した古い住宅地を縫っていった。しばらく車をゆっくりと走らせていた父は車を止めて、自動販売機の灯りに照らされた薄暗い袋小路の入口を指さして、おそらくこのあたりだろうと言って、車から飛び出して確認しに走っていった。その方のお宅は、奥の方までずっと伸びる車幅一杯ほどのその細長い袋小路の途中にあった。父は車をバックで進入し、その方の玄関先で助手席の母をおぶった。玄関先で出迎えてくれたその方のお話では、その通りに帰宅する車の進入が多い時間帯だということだったので、私は車に留まることとなった。

「幸治、車が入ってきたら一度表の通りに出て、またこちらのお宅の前で待っとってくれよ」

 とだけ言い残し、父と母はその方と一緒にお宅へ入っていった。一人になった私は車の外でタバコを吸った。吐き出すタバコの煙、家々から微かに漏れる灯りに照らされる霧雨の微粒子の舞い、その袋小路の奥の濡れた深い闇などにゆっくりと目を運びながら、私は道中の車内での濃密な空気を思い出していた。全身に微粒子と闇を纏いながらじっとそこで佇んでいると、ふと私はなぜか安寧な気持ちになってきて、何ものかに畏怖の念を常に抱きながら、何ものかに感謝しながら、そして何ものかに願い祈りながら、その心の姿勢を崩すことなくそれまで生きてきた母は、きっとその何ものかに護られているような気がしてきた。そして、お伺いしたその方の浄霊が必ず母を救う、何の根拠もなかったのだが、ひとり静かに佇んでいるとそう信じていいような気がしてきた。私の中に、その何ものかに対する感謝の気持ちが自然に湧き上がってきた。そしてふと、その何ものかがその袋小路の闇の中で息を殺しながら母を見守っているような気がしてきた。私は袋小路の奥の闇に向かって、心の中で「ありがとうございます。よろしくお願いします」と呟いた。私の声は届いたような気がした。

 何度か車の進入があって、その袋小路から外に出て道を譲ることを数回繰り返した頃、父が母をおぶって車のほうにやってきた。父は母を助手席にそっと下ろして、お見送りに出て下さったその方のほうに振り返った。そして、しばらく父は話し込んでいた。

「今日は無理を言うて、突然お願いいたしまして・・・。どうぞこれからもよろしくお願いします。ほんと、ありがとうございます」

「またいつでも、言うてきてください。遠慮なしに・・・」

 私はもうその時は後部座席に座っていて、父がその方と話し込んでる間に母に話しかけた。

「お母さん、どうやった?」

 ゆっくりと振り向いた母は、何か重たいものをどこかに下ろしてきたような、そんなすっきりした顔をしていた。

「幸治、不思議やで。ありがたいな。何やようわからへんのやけど・・・、お母さん、椅子に座ってな、その後ろからご主人が息を吐きながらな、ずっと何かしてはるねん。お母さんには見えへんのやけどな。それでな、しばらくしたらお母さん、体がふうっと気持ちようなってきて、・・・。いや、っていうかな、全身にな、力がすうっと入ってきてるのがわかったって言うんか・・・、ホカホカ温もってきてな、今もな、何やホカホカしてるし、体中に力がいっぱい入ってるのがわかるんや。・・・」

「へぇ、すごいな。お母さん、よかったな。・・・」

「なんやほんまにようわからんけど、・・・。見えんでも、証明できんでも、そういうもんがやっぱりあるんやろうな。誰も、見えへん、説明でけへんものは信じられへんって言うけど、・・・。これはな、体験した人にしかわからへんわ」

「お母さん、僕はな、お母さんがそう言うんやったら、そうなんやって信じれるわ。お母さん、いまええ顔してるで・・・」

「そうか。・・・。みんなようしてくれるから・・・、お母さんは幸せもんやわ。幸治も疲れてるやろうに・・・。いつもありがとうな」

「そんなん・・・」

 帰りの車内での母は、初めて神仏の領域を体感してか、そして不思議なほど全身に力がみなぎっていたせいか、行きの道中の無口でいたのが嘘に思えるほどに陽気だった。

「幸治、もうお母さんの頭、支えてんでもええんと違う?お母さん、車が揺れてても自分で大丈夫そうやで」

 などと母は楽しそうに口にした。

 それを耳にしても、父も私も、やはりそれを許すことはできないでいた。母が不治の病い、ALSだという意識、どうしても二人はその意識を拭うことができないでいたのだった。いくら神仏の力を信じようとしてはいても、そしてその日の浄霊のお陰で母が瞳を輝かせてその先の希望に心を走らせ始めていたとしても、その方のお宅を離れれば、二人は、病院が下した診断にはやはりひれ伏したままだった。父は母の喜びようを壊さないような、それでいて母を納得させるような口調で、

「お母さん、ええ加減にしときや。今日初めて浄霊受けただけやろ。もう少しじっくりと浄霊を受けに通ってな、ようなってからできそうなことを少しずつ挑戦していったらええんや。そんな、・・・、いきなりそんな大丈夫や言うて、無茶なことしようなんて考えるのはまだまだ早いんやで」 

 とやんわりと笑いながら、可笑しそうに母をたしなめた。

 使えば使うほど使った筋肉がやせ細ってしまうことを父が恐れているのが、無理に明るく話す父の口ぶりで私には明らかだった。だから私も、

「お母さんの言うままにお母さんの頭を支える手を離して、それでお母さんが首を痛めてもて、それを僕のせいなんかにされたら、そんなん僕もたまらんわ。しっかり通ってお母さんの調子がようなるまで、僕はお母さんの頭、離さへんで」

 などと口にした。

 しかし、あの夜を今も時々思い出すのだが、本当に不思議な夜だった。

 その後その方のお宅には、6月の初めにお伺いしてから7月の中旬頃まで、週1回ほどのペースで通わせていただいた。そのひと月と少しの間の母は、浄霊を受けた直後だけは実際に顔の色艶も良くて調子も良さそうだったのだが、病状はやはり進行していたようだった。声を発しにくいのか、気づけば母の話し声がくぐもって聞こえるようになっていた。そして夕飯時、母は次第に硬いものが食べれなくなり始めた。父は6月の中頃、その方のお宅でいただいた「神霊会」のポスターを額に入れ、リビングの母の車椅子の定位置の真後ろの壁にそれをぶら下げた。そして父は、お伺いする毎にその方から浄霊の指導を受けていたようで、家の中で懸命に自ら母に浄霊を行うようになった。恐らく父なりに、母が気弱になって悪いことを考えないようにと、思いつくあらゆる手段を駆使して母の気を逸らそうと踏ん張っていたのだろうと思う。

「お母さん、お父さんが浄霊して効き目はどうや?お父さんはな、自分で言うのも何やけど、自信持って結構ようできてるって思てるんやけどな・・・」

 一日に何度も母の浄霊をして、そんなことを口にしては母の気を紛らわせながら、父は明るい雰囲気を家の中に演出するのに必死だった。そのそばで由美子と私は、時々、

「お父さんの浄霊もえらい様になってきたな。お母さん、最近はお父さんにやってもろたら、ええ顔してるで」

 などと口にして、全員で明るく母を包み込むのだった。それぞれがそれぞれの焦り、苛立ちをひっそりと抱えていた。そして先の見えないところへ向かって進む日々に怯え、それぞれの焦り、苛立ちは膨らむばかりだった。また、それぞれはそれぞれに対して何らかの別の苛立ちも抱えていた。それでも母の前では誰もがそれらをひた隠し、父が演出する雰囲気を守ろうと必死だった。時々苛立ちを爆発させた由美子の私に向ける攻撃も、母のそばにいる時だけは休戦状態だった。そしてそれは次第に減っていった。由美子の心も、どうやらそれどころではなかったのかもしれない。


 そんな中でもごくたまに、母の調子が本当にいい日があった。そんな日は、普段では考えられないほど首がしっかりとしていて、表情にもそのみなぎる力が現われていた。そんな日の母は、自分のことなんかは脇に置いて、すぐに私の心配をし始めるのであった。母の目を騙すことなんて、子供にはできるはずのないことのようだ。

「幸治、日本に帰ってきて2ヶ月になるなぁ。どうや、ずっと長いこと、家におれへんかったからな、幸治は・・・。少しは家に慣れてきたんか?」

「なにぃ、急に・・・、お母さん・・・」

「いや、大丈夫なんかなって、ほんまはいっつも心配してるんや」

「大丈夫もなんも、・・・、そんなん、大丈夫に決まってるやん」

「そうか、・・・」

 母は悲しそうに、そして申し訳なさそうに、返事をする私を見つめていた。そしてそのまま続けた。

「幸治、仕事は・・・?」

「仕事か?得意先いっても可愛がってもらってるしな、現場の人らも優しいしてくれるし、・・・。まぁ、まだまだわからへんことばかりやけどな、どうにかこうにか適当にやってるで」

「大丈夫なんか?」

「もうまた・・・。全然大丈夫やで。そんな僕のことなんか心配せんでも・・・」

 私は必死で微笑みながら、どうにか嘘を重ね続けた。とても母に、本当のことなど言えるわけがなかった。

 母は、私が気が弱くて、臆病で、泣き虫で、不器用で、言いたいことの半分も言えず、姉たちの攻撃を受けるままにいたことを全部わかっていたようだった。そして、それに怯えながらビクビク暮らす私の力になれないことを悔み嘆き、そして申し訳なく思っているようだった。また母は、父の会社の現場の職人の気性の粗さをよく知っていて、そんな環境に弱虫な私が上手く適応できているのかと、いつも心配していたようだった。しかし実際のところは、父の会社の誰とも上手くはいっていなかったのだった。

 4月の中旬に入社した私は、早くも6月頃から社内でかなり孤立していた。会社の工場の現場の職人は全員が50歳前後で、職人は頑固とはよく言うが、父の会社の職人も全くその通りだった。そこに「自由」の気風が行き渡っていたものだから、実により気難しく気まぐれな頑固者ばかりだった。父に言われるままに配達や出荷の手配以外には現場に入ることはなく、主に事務所にいることの多かった私には、商品や機械に関する何の技術も知識もなかった。そのことについて、第2工程のねじ切り加工の職人で第2工場の責任者でもある永谷が、6月に入った頃から私をいびり始めるようになった。

「おい幸治、現場の仕事のこともネジのことも何も知らんで、そんなお前が事務所にずっとおって何の仕事があるんや。現場の仕事、ネジのこと、お前には覚える気はないんか。事務所で楽して過ごして、それで給料、持って帰るつもりなんか。ええ身分なもんやの」

 何をそんなふうにひとり永谷は勝手に苛立っているのかさっぱりわからなかったのだが、最初はそんな些細な小言から始まった。それをどう切り抜けていいのか、4月から環境がガラリと変わって戸惑うことばかりだった私にはわからなくて、そして永谷のその口調に、もう少しまともに口を利けないのかと腹が立って、ついに私は、恐らくそれ以外のあらゆるタイミングや状況も悪かったのだろうと思うのだが、

「事務所におれっておやじに言われてるねん。現場で商品のことや機械のこと、覚えたいけど、おやじがそう言うんやからしょうがないねん」

 とだけ言い残して、永谷のそばにいるのも嫌になって、すぐにその場を離れた。どうやらその私のとった態度が気に入らなかったようだった。その日からの永谷は、更衣室や食堂などいたるところで私のことをこき下ろすようになっていった。そして仕事上の急ぎの指示でさえも、「そんなものは現場の都合上出来ない」と平気な顔をして拒むようになった。そうなればもう醜い泥のかけ合いで、私も、

「ならばいいです」

 とだけバッサリと言い残し、どうせまたこのことで私をこき下ろして遊び耽るのだろうと思いながら、その場を後にするのだった。そんな永谷の被害に遭っていたのは私だけではなかった。梱包作業のパートの三島さんも、出荷の尾塩さんも、永谷のそばで作業していた三好さんも、永谷の標的となってしまっていて、いつも辛そうな顔をして困り果てていた。

 それだけではなかった。専務もまた、一風変わった人だった。初出社の日、あれだけ話をしたのが嘘のようだった。その後日々事務所で顔を突き合わせているうちに、幼かった頃からのお付き合いの中で一度も見ることのなかった専務の素顔を、私は何度も目の当たりにするようになっていった。とにかくそんなことなど全く想像をしたこともなかったのだが、専務は典型的なお天気屋だということがわかってきた。昨日よく喋ったと思ったら、その後数日は全く挨拶しても返事すらも返ってこない。仕事のことを丁寧に教えてくれたと思ったら、次の日からは何かを尋ねても私の方に顔さえ向けようともしない。そして責付くと、「適当にやっとけ」と、面倒くさそうに言葉を投げてくる。なぜそんな振る舞いしかできないのだろうと、私は専務のことを不思議に思うばかりだった。次第に、重要な報告事項以外は、私は専務に話しかけることをしなくなっていった。

 入社して2ヶ月ほど経過した頃、6月のある日、会社に顔を出した父に、永谷のこと、そして専務のことを相談に乗ってもらったことが一度だけあった。その頃の父は週に1,2度だけ、1、2時間ほど出社するようになっていた。本当は母のことで手一杯の父には余計な心配をかけたくはなかったのだが、もうそうせずにはいられなかった。すると父が、

「永谷はな、あんな奴なんや。いっつもぎゃあぎゃあ文句たれながらしか仕事でけへんのや。それでもな、ねじ切り加工させたらええ仕事しよる。幸治な、それでも気に食わんのやったらな、相手に対して自分の立場を明確にせえよ。お前は経営者になるんやからな。仕事に支障が出そうで、こらもうあかんわって思うんやったらな、年上であろうが、辞めてまえって怒鳴りつけたらええんやからな。そんなこと、気にする必要もないんや」

 私には、目上の人に対してそんなことを口にする勇気などなかった。父はそのまま続けた。

「それと専務はな、お母さんことがあってからな、お父さんの仕事を全部一人で文句ひとつも言わんと背負ってくれるようになったんや。専務のことはそっとしておいてあげてくれ。そして出来ることだけでええから、専務が楽になるように手伝ってあげてくれ。幸治な、会社がこんな時代でも仕事をしっかりさせてもらえてて、会社の中のお金がちゃんと回ってて、そのお陰でお母さんのそばにお父さん、ずっといてあげることができてるんやからな。そこのところはよう考えろよ」

 父の最後の言葉、「そこのところはよう考えろよ」という言葉がぐさりと胸に刺さった。母のことを思うと、永谷のことや専務のことなどで余計な波風を立ててはいけない、納得していなくても納得したフリをしているしかない、そんな気がした。悔しかった。しかし本当に、そのままでいいのか。そんなことをその後、私は来る日も来る日も考え続けた。するとある日、私はふと、たったひとりの自分の力で、自分の出来る仕事の精度を徹底的に高め、目に見える結果を出し続けることで自分の居場所が確立されていくんじゃないか、そしてそうすることで何かが変わっていくんじゃないか、という気がしてきた。私はそこに将来に対する淡い期待を抱き始めた。そして次第に私は、商品のことや技術的なことなどはわからなくても、確実にすべての得意先の納期を守りながら、社内に抱える在庫を最小限に保ちつつ、そして機械の稼働を最大限に生かす、そんな徹底的に効率的な生産ラインコントロールに特化した役割を果たす人材になろうと思い始めた。

 アメリカにいた頃、様々な職種に就職した学生時代の友人から届く手紙には、入社してから知り合った同僚との苦しくとも楽しく、日々上司のもとで安心して仕事に没頭する日々のことが綴られていた。父の会社に入社した私には、同期の同僚と呼べる者など一人もいなかった。上司である専務もお天気屋だったから、そうと知ってからはもう専務を上司と思うこともなく、当てにするすることもなく、また社長である父もほとんど会社に顔を出すことがなかったものだから、私には心から上司と呼べる者もいなかった。同世代同士が同期入社して、同じ部署で切磋琢磨できる間柄の同僚のいるかつての仲間たちのことをふと思い出して、私はしばしば彼らのことを羨んだ。しかし、羨んだところで現実は現実のままだった。本当に孤独だった。しかし私は、現実に居場所を構えるしかなかったのだった。

 母には、そんな私のことが全部お見通しのようだった。


 7月の中頃だったと思う。母の手にも病状が現れだした。ALSは確実に進行していた。夕食時、母はお箸をうまく使えなくなり始めた。うまくお箸の先で料理を摘まめなかったり、そしてどうにか摘んでも口に運ぶまでにそれを落としたりするようになった。そんな訳で、父も由美子も私も、母の食事を摂るペースに合わせてゆっくりと食事をするようになった。食事という、生きていく上で一番の基盤になるところが不自由になったことは、母にとって本当はどうしようもなく悔しいことだったのだろうと思う。それでも母は、それまで通り微笑みを絶やさず、食卓についていた。それは恐らく、母は母なりに家族の者に気を使っていたんだと思う。病状が進行しても、それに対して泣き言を言わず常に微笑んでいることで、母は感謝の気持ちを家族の者に伝えようとしていたのだろう。

 7月の下旬、夕食後に父が母に話しかけた。

「お母さん、あのな、『神霊会』の浄霊の儀式っていうのがあってな、それに参加申込みしようと思ってるんや。お母さんはな、ちょっと今の状態では長崎まで行くのは無理やけど、せやけどな、お父さんがお母さんの写真をその儀式に持っていったらな、その儀式で代表の隈本さんって方がお母さんの写真を見ながら遠隔浄霊ってのをやってくれるらしいねん。そらお母さん、代表の方に浄霊やってもろたら効き目もすごいんちゃうかな。お父さんな、絶対それがええように思うんやけど・・・。お母さん、どうや?お父さん、お母さんの代わりに行ってみよか?」

 父はとにかく心負けそうな母に、ほんの微かな希望の光だけでも与え続けようとして必死だった。

「お父さん、お父さんおらんかったらお母さん、どうしたらええの?」

 急なことに、母は不安そうだった。

「お母さん、申し込んで浄霊の日取りが決まったら、尼崎から美佐に帰ってきてもろたらええ。美佐と由美子と幸治がおったら一泊で行って帰ってくるだけやし、どうにかなるやろ。お母さん、お父さんおらんかったら不安か?」

 母は少し考えて、不安げな表情を浮かべたまま、

「お父さん、お願い、行ってきて・・・。お願いします」

 と言った。

 その次の日、父は会社にやってきた。私は配達の伝票の整理をしていた。父は自分の机の前に座るなり、すぐに長崎の神霊会に電話を入れた。

「もしもし、浄霊儀式、申込みたいんですけど・・・」

「・・・・・・」

「ええ、そんなに予約が詰まってるんですか?」

「・・・・・・」

「とにかく、時間がないんです。もう今すぐにでもお願いしたいんです」

「・・・・・・」

「それはわかってます。そこを何とか・・・。お願いですからどないかしてください」

「・・・・・・」

「ほんまですか。ありがたい。ほんま、ありがとうございます。そしたら今週末にお伺いします」

 父は電話を切った。私は父に尋ねた。

「予約、混んでたん?」

 疲れた顔にほっとした表情を浮かべ父は、

「そうなんや。混んでるって言われてもな、お母さんにはそんなん、無理やったなんか絶対に言えるわけないやろ。お母さん、すがるような思いでいてるのに・・・。ほんま、よう無理を聞いてもろて、どうにか入れ込んでくれはって・・・。助かったわ。幸治、お父さん、今週末に長崎行くからな。お姉ちゃんらと3人でお母さんのこと頼むで」

 とだけ言い残して、何かを思い出したかのように急に立ち上がってそのまま事務所を出ていった。

 7月の最後の週末、父は長崎に向かった。その前の日から、美佐は実家に帰ってきた。家族全員が実家に揃った。家を出る前に、

「幸治、家のこと、頼んだぞ」

 と父が言った。母のそばで私が、

「うん、わかった。気をつけてな」

 と言うと、母は、もうほとんど前に傾けることもできなくなった首を少しだけ前に傾けて、父に向かって小さなお辞儀をした。そして父に向かってか細い声で、

「お父さん、お願いします」 

 と祈るように言った。

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