第11話
父が長崎に行った日のお昼すぎ、父から実家に電話がかかってきた。由美子が電話を受けた。そしてすぐに母に代わった。
「お父さん、お疲れさん。もう着いたの?」
しばらく父と話して電話を切った母は、気を引き締めた顔をしていた。私はそんな母に、
「お父さん、何て言うてた?」
と訊くと、母は引き締めた顔に微かな微笑みを浮かべながら、
「お父さんな、もう浄霊儀式の会場に今から入るところやて。代表の隈本先生のお話が今から始まるらしいわ。そのお話だけでな、もう十分に浄霊の効果があるらしいんやけどな、お父さん、その後の夕方からの特別面談も申し込んだらしいわ。先生に直接お母さんの写真を見てもろて、先生に個別に浄霊してもらうんやって・・・。せやからな、お母さんも会場にはいてなくても、いてる気持ちで先生の浄霊を心から信じてなあかんでってお父さん、言うてたわ」
と私に話してくれた。
車椅子に座っていた母はそう話したあとすぐに、そっと軽く瞳を閉じたままに静かな呼吸を繰り返し始めた。それはゆったりと力みのない、それでいて深く長い呼吸だった。そうしながら、母は気持ちをまっすぐ長崎に向けているようだった。関屋の山間の静かな実家のリブビングには、母の規則正しい呼吸の音だけが広がっていた。そんな母の姿を、私は邪魔にならないように気づかいながら、そばでそっと見守っていた。姉たちも、食卓の前に腰掛けてそうしていた。しばらくして私はふと、母の胸板が少し前よりもかなり薄くなっていることに気づいた。鼻の奥が痛くなって、涙が滲んできた。私は俯いて必死にそれを堪えた。しばらくして少し心落ち着いてきて顔を上げると、滲む私の瞳には、まるで母が別次元に吸い込まれていったかのように映った。そしてその場所で浮き上がって光に包まれているかのように映った。その光は、何ものかが人の正道をひたすら歩み生きてきた母を祝福するために、そして包み込むために用意されたもののような気がした。私は鳥肌が立った。
かなりの長時間、母はただひたすら呼吸を繰り返した。すると、まるで母の呼吸につられるかのように次第にリビング全体が光の海となって、そしてそこで私たち姉弟も母と一緒になって浮き上がっているような気がしてきた。長崎での浄霊の効果が実際に現れていたのか、本当に我が家に降りかかっていたすべての霊障がたった今、浄化されているんだと心から信じていいような気がしてきた。私の心の中で、お会いしたことのない「神霊会」の隈本代表、隈本代表の向こうにいらっしゃる何ものか、見知らぬ土地で代表の儀式に参加して恭しく頭を下げる父、そこから奈良の実家に時空を一跨ぎで飛び越えて届けられる光、すべてを信じてすべてを受け取ろうと呼吸を繰り返す母、それらすべてが一枚の神々しい絵となって広がり始めた。その絵の景色こそが生きているうちに出会ってそして知っていかなければならないもので、日々の、例えば永谷が何を言ってきたとか、専務がどうだったとか、そんな出来事はもうどうでもいい、ほんの些細な些事のように思えてきた。
ようやく母は閉ざしていた瞳をそっと開いた。すうっと、非現実的な夢のような時間が現実にすり替わった。母は嬉しそうな顔をして泣いていた。大きく見開いて私の顔を見つめる母の瞳は真っ赤になっていた。現実に戻ってきたばかりの母にすぐに話しかけることは、なぜか躊躇われた。それまでのリビングの空気を揺らしてしまいそうな気がしたからだった。母の瞳を見つめ返したままにしばらくいると、母が、
「嬉しいな。・・・。お母さん、本当に嬉しいな」
と呟いた。そしてまた泣いた。しかし、母は本当にいい顔をしていた。
その後しばらくして、母は気を引き締め直したように、
「お父さんが長崎で頑張ってくれてるから・・・、お母さんもまだもう少しな、頑張るわ」
と言って、また瞳をそっと閉じて呼吸を繰り返し始めた。美佐も由美子もそんな母に、
「お母さん、あんまり一遍にやったら疲れるんと違う?もう少しゆっくり休んでからにしたら・・・」
と心配そうに話しかけたのだが、母は全く聞く耳も持たなかった。母の心にも恐らく、私が見た一枚の神々しい絵が広がっていたのではないだろうか。そしてその景色に身を浸すことでしか、生に対する一縷の望みをつなぐことはできないと感じていたのではないだろうか。なぜか私はそう確信していた。姉たちがいくらそう言っても、私は、母には好きなだけその絵の景色に溶け込んで心自由に過ごしていてほしいと願っていた。
納得のいくまでその景色の中で過ごすことができたのだろうか、そんな母をそっとただ見守り続けていると、気が付けばあたりは薄暗くなり始めていた。母は閉ざしていた瞳をそっと開いた。どこかやりきった満足気な顔をしていた。心持ち上気してか、顔がほんのりと赤かった。そして本当に嬉しそうな顔をしていた。いくら治療法のない病いに冒されているとはわかっていても、そんな母の顔を見つめていると、その日を境に母が回復していくと信じてもいいような気さえしてきた。そんなことを思っていると、ふと母が子供のような無邪気な顔をして、
「幸治、あのな、お母さんな、首を普通に動かせそうな気がするんや。ちょっとやってみよか」
と口にした。私は慌てて、
「お母さん、無理はしたらあかん。ちょっと待ってや。僕、お母さんの後ろに回って、お母さんの頭、いつでも支えれるようにするから・・・」
と言って、母の背後に立って母の頭に両手を軽く添えた。そして、
「お母さん、ゆっくりと動かすんやで。絶対に無理はしたらあかんのやで」
と言いながら母の頭をいつでも支えられる心の準備をした。母は、先ず前後にゆっくりと首を振った。そして次第に振り幅を大きくしていった。思いのほか大きく振るものだから、私は思わず母に声をかけた。
「お母さん、大丈夫か。無理はしたらあかんのやで」
「長いこと、ちゃんと動かしたことないし突っ張った感じはするんやけど、・・・、せやけど、なっ、ほら、見て、自分で頭、ちゃんと支えてられるで。なっ、ほら、幸治・・・」
その後、次に母は首を左右に傾けてみた。そして先ほどと同様、次第に振り幅を大きくしていった。美佐と由美子は最初、心配そうに母を見つめていたのだが、途中から安心したのか、
「お母さん、長崎の先生の力、すごいな」
などと言いながら笑顔になっていった。私も母の背後で久しぶりに心から笑えた。
夕方の6時頃、また父から電話がかかってきた。また由美子が電話を取った。電話が父からだとわかるなり、
「お父さん、ついさっきな、お母さん、自分で首、動かすことできてんで。ちょっと待ってな、お母さんに代わるな」
母が由美子から受話器を受け取ると、母はそのままポロポロと泣き出した。父に話したいことがいっぱいあったのだろうと思うのだが、胸が昂ぶってもう言葉にならないようで、ただ、
「お父さん、ありがとうな。ほんまに、・・・、お父さん、ありがとうな」
と繰り返すばかりだった。
次の日の夕方、父は長崎から帰ってきた。その日も朝から浄霊儀式に参加してきたそうだ。リビングに入ってくるなり父は、大きな微笑みを浮かべて母に話しかけた。
「お母さん、ただいま。ほぅ、すっきりした顔してるがな。目にもしっかりした力があるわ。なんや、昨日由美子からお母さん、首動かせたって聞いたけど・・・、できたんか?」
「せやねん、お父さん。お父さんがな、浄霊受けてる時、お母さんもずっとお父さんに言われた通り、会場にいてる気持ちでおったらな、不思議やで、びっくりするくらい体が温もってきてな、どんどん楽になってくるねん。お父さんからの電話あった少し前からかな、その頃からはもう体中がな、ジンジンと痺れるような感じになってきてな、そしたらすごい力が沸いてきて・・・」
「お母さんな、今、お父さんが家に電話した少し前って言うたら、ちょうどその頃って言うたら隈本先生に個別面談してもろてた頃やな。それだけよう効いたんやな」
「そうなんや。ちょうど面談してた頃か・・・。お父さん、また長崎に行ってきてくれるか?」
「うん、わかった。また近いうちに予定入れよか・・・」
しかし、父が長崎に行ったのはその時が最後となった。浄霊の効果があったのは、父が長崎に行っていたその2日間だけだった。
8月に入り、母の衰弱は一気に進んだ。胸板がさらに薄くなり、呼吸が苦しそうになっていった。首は急激に痩せ細り、車椅子に座っていることさえも辛そうになっていった。そのせいで、一日のうちの半分以上は介護ベッドで過ごすようになった。そして、介護ベッドの背の部分を起こしてまでテレビを観るのも億劫になってしまったようで、枕元に小さなラジカセを置いてAMラジオをよく聴くようになった。手の指が思うように動かすことができなくなって、お箸を使えなくなってしまった。母はその代わりにスプーンを握り締めて食卓に着くようになった。そして隣りに腰掛ける父が、母のスプーンの上にお箸で細かく解した料理をのせては母にそれを食べさせるようになった。由美子は由美子でそんな母のために、母が食べやすそうな柔らかいものを中心に食事の用意をするようになった。
7月の末に父が長崎に行って、一時は母の回復を信じていいように思ったのだが、病魔はやはりそれほど生易しいものではなかった。家族の落胆も激しかったが、それよりも母の落胆が痛々しいほどに激しかった。あれだけ浄霊に一縷の望みを託していたんだから、その反動はやはり大きすぎたようで、もうそうなるのも無理もなかった。母はすっかり気弱になってしまった。次第に母は、
「由美子、幸治、お母さんが死んでおらんようになったらな、・・・」
なんてことを口にすることが増えていった。そしてそう口にしては、母はシクシクか細く涙を零すのだった。
そんな話が母の口から溢れ出すと、すぐさま父は、
「お母さん、なんでそんなことを言うんや。ようなるって希望を持たんとどないするんや?たまたま今、ちょっと調子悪いだけや。ほんま、たまたまなんや。少ししたらまたお父さんも長崎に行ってくる。なっ、お母さん、・・・。お父さんがな、お母さんのこと、絶対にどないかしてあげるから、お母さんはそんな弱気になったらあかんねん。お父さんに全部任せて安心しといたらええねん」
と強く言い聞かせるのだった。母がそこまで衰弱して、そして気弱になって、もう父はほとんど会社に顔を出さなくなった。
そんなふうに繰り返される母の言葉、父の言葉を毎日耳にして、私には母の気持ちも父の気持ちも、その両方ともが理解できた。しかし私には、一度一縷の望みを絶たれた母に対して、とても父のように、「絶対」だとか、「希望を持て」だとか、「安心していろ」だとか、そんな約束もない明るい未来を話して聞かせることはとてもできなかった。そんな勇気もなければ、そんな度量もなかったし、そしてそんな気にもなれなかった。私ができることといえば、母の前ではどうにか涙を必死に堪えて、無理をしてでも日々の苦しみばかりの会社での出来事をひっくり返して、どうにか面白可笑しく母に話して聞かせることくらい、そして「お母さん、今日は大丈夫やった?」と柔らかく声をかけることくらいだった。実際に、私がそう振舞っている時の母は、気が少しでも紛れていたのだろうか、そして「大丈夫だ」と私に言って聞かせたいと思っていたのだろうか、力みのない気軽そうないい表情をしていた。そして実際に、父から「絶対」、「希望」、「安心」などと強く言い聞かされている時の母は、怯え苦しんでいたのだろうか、力んで辛そうな表情をしていた。しかしそうは言っても、私が正しいわけでも、父が正しいわけでもなかったのだ。父も私も、ただ必死だっただけなのだ。そして由美子は日々家事に忙しかったのだが、あまり母に多くを話しかけない由美子も由美子で、母の食事のことに気を回すことに必死だっただけなのだ。そして誰よりも母が、綱渡りのような日々、回復の保証などどこにもない日々を渡っていくことに、弱音を吐き出しながらも必死だったのだ。みんな、ただただ、必死だっただけなのだ。
そんな張り詰めた日々の中、8月の中旬に広島のデサから手紙が届いた。思えば、帰国してしばらくした頃に私はデサに「風の鳴く草原」という詩を送ったのだが、その返事をまだデサからもらっていなかった。仕事から家に帰ると、食卓の上に、汚い字で私の宛名が書かれた封筒が目に入った。そのミミズが這ったような文字を見て、差出人を確認しなくても私はすぐにそれがデサからの手紙だとわかった。その文字を目にしただけで、学生時代の懐かしさがこみ上げてきた。それを手に取って持ち上げると、父が母のそばで、
「なんや、お前の友達、・・・。もうちょっとまともな文字、書かれへんのかいな。ポストでその手紙、取り出した時、なんかいなって思うたで」
と可笑しそうに話した。そばで母も、笑っては私の友人に対して失礼だと思っていたのだろうが、堪えきれずに顔を真っ赤にして笑っていた。私はそんな母に、
「こいつの字が汚いのはな、こいつの個性なんや。個性は尊重してあげんと・・・」
などと訳のわからないことを言い残して、自分の部屋に上がっていってその封を切った。
柄本、ご無沙汰しとる。わしもな、介護の仕事をこの4月から始めての、忙しいて・・・、柄本に返事書かないかんって思っててもの、なかなかゆっくりと書く暇がのうて、悪かったの。今日まで延びてもたんじゃ。
「風の鳴く草原」、素敵な詩が書けたね。わし、何度も読み返したよ。学生生活も終わって、すっかり今は俗世の塵芥に首まで浸かってしまって、不自由で、怖くって、悲しくって、寂しくって、・・・。そんな時に柄本のこの詩が届いたから、わし、ほんま嬉しかったよ。今もこうして手紙を書きよるわしの手元に柄本の詩、おいてあるんよ。もうあの頃の仲間はそばにおらんくなって、なかなか話すことも会うこともできんけど、みんなつながってって、一緒に歩いてるんじゃって思えてね、嬉しいて読むたび、涙が出てくるんよ。そしたらまた頑張ろうって思えるんじゃ。柄本、ほんとにありがとね。ほんと、柄本の詩に毎日救われとるんよ。
柄本、お母さんの具合はどないね?わしも高3の時、おやじを癌で亡くしとるからの、弱ってくお母さんのそばでずっといる柄本の辛さ、わかるよ。ほんとうに辛いよな。わしには何もできんのじゃけど、じゃけどわしが遠くで柄本の辛さわかっていて、わしが柄本のことを応援してるってこと、忘れんとっけくれよな。柄本は今、耐える時期なんよ。へこたれんと柄本が頑張っていられること、わしは遠く広島の呉から祈っとるけん。
柄本、「風の鳴く草原」、あれは曲も付いとるの?もし付いとるんなら、適当な録音でいいけん、カセットを送ってくれんかの?そしてギターコードも一緒に・・・。じゃけど柄本もいま大変な時期じゃけん、もし時間があったらでええんよ。わしが送って欲しいって言ってたっていうのだけは覚えといてな。ほんま、いつでもええんじゃけん。わし、もしこの詩に曲がついているんなら、自分でギター弾いて歌ってみたいんよ。そのくらい、この詩、わしは好きなんじゃ。
最後に、柄本、わしはいつも応援しとるからね。じゃあね。またね。
私は、懐かしいデサの汚い文字を目で追いながら、遠い日のようにそばで語りかけてくれるようなデサの文面に笑って、そして泣いた。実に私の知るデサらしい文面だと思った。すぐ私の後ろにデサがいて、デサが私に「柄本、大丈夫じゃけん」と声をかけながら背中を摩ってくれているような気分だった。緊張が解れ、心が温かくなった。私は、いつかまたデサと一緒に酒を交わしながらギターを一晩中弾きたいと思った。そう思うことは、その先どうなっていくのかさえ一切見えない日々の中での私のささやかな夢となった。とにかく日々を粛々と乗り越え、いずれのその夢が叶う日を目指そうと思った。しかし私には、その夢を何が何でも叶えるという意欲、そして熱意はなかった。アメリカで挫折し、そのまま帰国してからはデサの言う、「俗世の塵芥」に首まで浸かって、日々命の儚さという現実に向き合って暮らしているうちに、かつて確実に私の胸で熱く燃えていたはずの熱意はすでに影を潜めてしまっていたようだった。そしてそれに代わって私の胸には、夢にそれほど期待を寄せようともしない冷めた諦念がいつしか広がってしまっていたようだった。そのことに気づいて、少し寂しい気がした。
その後リビングに降りて、いつものように家族で食卓を囲んで、母のそばでいつものように夜を過ごした。デサの手紙を読んだ後の心地いい余韻がずっと胸に残ったままだった。そして夜も更けて、私は2階に寝に上がった。自分の部屋の扉を開けた時、胸の余韻のせいか、部屋の右奥、ベッドの足元あたりの壁に凭せ掛けてあるギターがすぐに目に飛び込んできた。ほとんど触れることもなく埃をかぶったギターを前に、私は扉のところでしばらく立ち尽くした。そしてそのまましばらくは、ぼんやりとギターを眺めていた。すると、デサはやはり、私からカセットが早く届くのを本当に楽しみにしてくれているんだろうなという気がしてきた。ならば適当でもいいじゃないか、すぐに録音して送ってあげよう、という気持ちがグツグツと胸に湧き上がってきた。すぐに私はラジカセにカセットを入れて、ろくにギターのチューニングもせずに弾き語りの録音を始めた。ギターコードを押さえきれずに音が鳴らなくても、気にせずラジカセの小さなマイクに向かってギターを弾き、そして歌った。夜も遅かったから、本当に小さな音でギターを弾き、小さな声で歌った。母の病状が悪化してからは父がいつも母のそばにいるものだから、私は帰国してからは一度も母のそばでギターを弾くことができないでいた。というのも、一度、まだ母が元気だった頃、リビングでギターを指で軽く弾いただけで父から「うるさい」と言われたことがあったからだ。夜更けに自分の部屋でギターを指で弾いて小声で歌っているのが、ほんの微かでも母の耳にだけ届けばいいのになと思いながら、静かに弾き語りを続けた。ものの5分ほどで録音を終え、私は歌詞を書きなぐって、そこにコードを書き記していった。コードネームもない変わったコードを使うことの多い私は、コードネームのない箇所は弦を押さえる箇所の絵を描いて記した。手紙も添えずに封筒にカセットと歌詞を入れて、封をした。次の日、封筒の背中にマジックで、「練習してくれよ」とだけ書き足した。そしてそれをポストに入れた。
8月の末、母は救急車でとなり町、国分のZ病院に運ばれた。私は仕事に出ていた。お昼すぎだった。病院からの由美子の会社への電話で、私は仕事を切り上げて車を飛ばしZ病院に急いだ。Z病院は大阪から奈良に抜ける狭い国道沿いにある、個人経営の本当に小さな名ばかり総合病院だった。しかしそこには、思い出がいっぱい詰まっていた。腹を壊しただとか、熱が出ただとか、風邪をひいただとか、まだ小学生だった私が体調を崩すと、母は必ずZ病院に私を連れていったものだった。駐車場に車を入れて、久しぶりにZ病院の玄関先のガラスの自動扉の前に立った時、あれだけ広いと思っていたその病院のロビーがものすごく狭く見えた。少し心が怯んだ。そして思い出の詰まったその病院にこれから入っていって担がれた母に会うんだを思うと、何とも複雑な気分になった。私は、気合を入れ直して自動扉の向こうに進んだ。そして受付カウンターに向かおうとした。すると奥の方から、車椅子に座った母と車椅子を押す父、そしてそのすぐ脇に並んだ由美子が私のほうへゆっくりと歩いてきた。母と目が合った。そして母は照れくさそうに、そして申し訳なさそうに微笑んだ。
「大丈夫?」
「うん、もう大丈夫や」
私の問い掛けに答えた母はひどくやつれて見えた。私は、母が相当苦しんだ末に担がれたんだということが見て取れた気がして、恐ろしくなった。私は父に向き直って、何があったのかと尋ねてみた。するとその問いには、父よりも先に母が答えた。
「なにぃ、ちょっと痰がのどに詰まってな、慌てただけや。今日はなんでか、痰がうまいこと切れへんかってな。大げさにお父さんも由美子も救急車まで呼んでもて・・・。今、奥の処置室でな、喉の奥の痰を全部、きれいに吸引してもろてすっきりしたわ。ごめんやで、心配かけてもて・・・」
母の背後で母の話を聞きながら、父が顔をしかめていた。そんな父が、
「もう今から仕事に戻ってもすぐに仕事あがる時間になるんやから、幸治、もう今日はこのまま家に帰れ。そうや、由美子は由美子の車でここまで来たんやな。由美子の車、狭いから、幸治、お母さんの車でお父さんとお母さん、家まで乗せていってくれ」
と言った。私は父と母を乗せて、関屋に車を走らせた。
病院に担がれたその日以降、母はほぼ泣き言を口にしないようになった。泣き言も口にしなければ、希望一つも口にしなくなった。ただ黙って、そしてかすかな微笑みを浮かべて毎日を過ごすようになった。そして父は父でそんな母に、「絶対」、「希望」、「安心」など、糠喜びになりかねない言葉を力強く説くことを全くしないようになった。母と父のどちらが先にそう意識したのか、二人とも無駄に言い合った末に苦しみを重ねることをピタリと止めにした。そんなふうにしてその後9月に入ってからしばらくは、何もかもがすっかり一旦停止状態となった。病院に担がれた日からまたさらに痩せ細っておとなしくなった母を家に残してまで、そしてあるいはまたそんな母を車に乗せて連れ出してまで、父は新たに縋ることのできる何かを探す行動に出る気にもなれないでいたようだった。母も母で、もうどう足掻いてもどうしようもないと半ば諦めた心で、淡々とただ当てもなく流されていくことを覚悟していたようだった。そして二人は、そんな日々をそれで良しと見なしているようだった。父は、母が病院に担がれたあの日以降、一歩も家から出なくなった。家に留まるばかりの父は、「神霊会」の本を何度も何度も読み返しては、自ら母に浄霊をひたすら行うようになっていった。そして母は黙って父の浄霊を受けながら、心の中で密やかに、遠くの何ものかに静かに、そして強く祈っているようだった。そんな静かに過ぎていく日々の中の母は、やはりいつも苦しみを堪えるような顔をしていたのだが、どこかなぜか心は穏やかそうだった。私にはそんなふうに映っていた。その心穏やかさの現れかどうかはわからないが、その頃の母の衰弱も一旦は小休止状態のような感じだった。
10月に入ってしばらくして、私が仕事で家を空けている時に、父のゴルフ仲間で在日韓国人の木本さんから実家に連絡があったそうだ。木本さんのお話は、どうやら韓国でもかなり有名な拝み屋さんが木本さんのお知り合いだそうで、もし母の病状が思わしくなくてもうなす術もなく困っているなら、そしてもし父がそう希望するなら、その拝み屋さんを日本に呼ぶことも可能だが一度考えてみてはどうか、というものだった。その前月の9月からは、前にも進めず後ろにも引けず、押せばいいのか引けばいいのかも分からず、完全に留まったまま、表面上は穏やかだったもののいつ誰が気落ちしてもおかしくないような張り詰めた緊張感が家中に蔓延するようになっていた。そんな日々をずっとやり過ごすことに対しては常に危機感を抱いていたのであろう父は、木本さんの提案を願ってもない朗報だと言って、すぐに木本さんにその件の段取りをすべてお願いした。
その日の夜、夕飯時、食卓でその話が挙がった。
「その拝み屋さんはな、すごい有名な先生らしいで。人を前にしはったらな、もうその人の何もかもが見えるそうやねん。性格から、考えてることから、その人の得意なこと、不得意なこと、好きなこと、嫌いなこと、それにどんなふうにそれまで生きてきたかとか、その先の将来のことも、・・・、もう何もかもや。そしてな、将来の道筋もな、必ずええふうに指導もしてくれるそうやねん」
父は非常に興奮していた。私は、父の隣りでスプーンを握る母の様子をそっと窺った。一気に動き出した父のそばで母の気が後れを取っていないか、そして怯んでいないか、そのことが私は不安だったのだ。しかし母はどうやらそこに、新たな希望を素直に見つめているようだった。父の話を聞きながら、それに合わせて母も嬉しそうに微笑んでいた。私はほっと胸をなで下ろした。どうやら、9月一杯何事もなくやり過ごしたその時間は、母にとって、父からずっと「絶対」、「希望」、「安心」と言い聞かせられ続けた末に力み強ばってしまっていた心をじっくりと解すのに、絶対必要な時間だったようだった。その夜の食卓についた母は、久しぶりに、ゆとりある柔らかな表情を取り戻していた。
10月の中頃、木本さんの車で拝み屋さんが我が家にやってきた。拝み屋さんの他に、助手の者が二人、そして通訳の者が一人が帯同されてやってきた。助手の者が家の中で行う神事の準備をする間、拝み屋さんは母のそばに歩み寄って話しかけた。それを通訳の人が訳してくれた。
「こちらに来るのに、柏原インターで降りなければならないのに、私がここに近づくのをこの土地の霊が嫌がって、木本さんの車のハンドルを切れなくさせた。そのせいで私たちは、次の香芝インターまで走らなければならなかった」
父が木本さんに、
「そうやったんか?」
と訊くと、
「せやねん、柏原で降りよかって思てな、ハンドル切ろうとしてるのに、全然切れへんねん。そんなん初めてやわ。しゃあなしに香芝まで行ってもて・・・。そこからがまた大変やったんや。思うとおりにな、えもっちゃんの家のほうに向かってこれへんかったんや。曲がらなあかんところ、まっすぐ行ってしもたり、まっすぐ行かなあかんところ、曲がってしもたり・・・。せやから、約束の時間よりだいぶと遅うなったやろ」
と、木本さんは不思議そうに話した。
「私がここに来たからにはもう大丈夫。今から神事を行い、全ての霊を成仏させてあげます。そしてこの土地の地下に水脈の滞り、澱みがある。その全て、神様のお力を借りて取り払ってもらいます。この土地の地下の水脈の澱みが、成仏できなかった霊たちの住処になっている。そしてその上に住む家族の人の中で、一番心優しい奥様にイタズラをしてる。その霊たちをすべて成仏させてあげたらもう大丈夫。安心して・・・」
そう言って、自信あり気に拝み屋さんは大きく微笑んだ。母はそれを聞いて嬉しそうに涙を浮かべた。父は目が点になっていた。
拝み屋さんが私のほうに微笑みながら顔を向けた。そして、
「英語が得意なんですね。言葉、豊かな人です。たくさん苦労を重ねますが、この子はずっと護られています。大丈夫です。何の心配もいりません」
と、何の脈略もなくそんなことを話しだした。拝み屋さんは母のために父が招いたのに、それなのに私のことについて不意に話をしだしたのだった。それを聞いて、私は照れくさくて、微かに微笑みを浮かべて母に目をやった。すると、拝み屋さんの言葉で息子の未来を心底安心したのだろうか、母は急に激しく泣き出した。真っ赤な目をして私を見つめて、嬉しそうに笑いながらボロボロと激しく涙を流し続けた。父が、
「おい、由美子、タオル持って来い」
と言った。そのタオルを手に母は、その後もしばらく泣き続けた。
準備が整い、神事が始まった。リビングに担ぎ込まれた見たこともない韓国の鳴り物を助手の者たちが激しく打ち叩くリズムに合わせて、拝み屋さんはよく通る大きな声で、汗だくになりながら、延々と歌うように拝み続けた。その音は、隣り近所数十軒にまで優に聞こえるほど、そして地面も空もグラグラと揺れているんじゃないかと怖くなるほどに激しいものだった。ドン、ドン、ドン、・・・、カン、カン、カン、・・・、チン、チン、チン、・・・、そんな騒々しさが恐らく1時間以上にも及んだと思う。その間に私は、時空間のあらゆるものの歪み、そして人の心の奥底の歪みまでもが正に整っていくような気がしていた。そしてそれと同時に、あらゆる澱みがきれいにどこかへ流れて浄化されているような気がしていた。母はただ神妙に目を閉じて、車椅子の手すりを掴んでいた。一通りの神事を終えて少しゆったりと間を置いてから、
「どうですか?」
と、拝み屋さんはつい先ほどまでの激しさが何もなかったように微笑んで、母にそっと小声で話しかけた。目を開いた母の瞳は真っ赤だった。しかしキラキラと輝いていた。母はゆっくりと首を動かし、周りを見渡して微笑んだ。そして恐る恐る首を回し、掴んでいた手すりから手を離して、手を結んだり開いたりした。そうしながら、自分の神事直後の状態を確かめているようだった。それを繰り返しながら、嬉しそうに顔を父に向けて母が、
「お父さん、見て・・・。首が自由に動くわ。ほら、手も・・・。ほら、見て、見て・・・」
と言って、心震えるままにまた涙を流した。父も、心震えるままに自然に母の背中に手を当てて、そして摩りながら、
「お母さん、よかったな。ほんま、よかったな。これからゆっくりと治していこな」
と嬉しそうに母に話しかけた。
由美子が拝み屋さんと、その助手の者、通訳の者、そして木本さんにお茶の用意を始めた。その頃になって、拝み屋さんが不意に父に向かって、
「まだ回復するまでは、一度体を悪くした奥様がここに住み続けるのは好ましくない」
と口にした。そしてそのまま黙って俯いてしまった。私たちには決して聞こえない声を心で聞いていたのだろうか、しばらくして顔を上げて不意にまた話しを続けた。
「ここから西南西に一時移り住むほうがいい。その土地がきっと、奥様の体を癒すでしょう。そしてその間に、ここの土地があるべき姿にすっかり落ち着いていくことでしょう」
父はすぐに、
「わかりました。すぐにそう段取りします」
と力強く答えた。
その日の夕食時、母は、
「お父さん、お母さんのためにそんなどんどんお金を使ってしもて・・・」
と申し訳なさそうに口にした。思えば確かにそうだった。その1年前は関西で評判の病院を駆け回り、その4月には車を買い、それに鍼治療、神霊会、長崎訪問、韓国の拝み屋さん、その上今度は引越しである。父にしてもらえばしてもらうほどに、母は申し訳なさを募らせていたのかもしれなかった。その上、母の病状が確実な回復方向に向かっていればまだしも、状況は益々悪化するばかりで、そのことも合わさってか、母は身が縮まってしまうほどの申し訳なさを募らせ、そしてそれに押しやられそうな気持ちでいたのだろう。そんな母に、父はきっぱりと言い放った。
「お金がなんや?なんも気にせんでええ。お母さんな、お父さんがどれだけ貧乏してきたか、お母さんは知ってるやろ。お父さんにとってはな、貧乏なんか何一つ怖いもんと違うんや。金なんかなくなってもな、お父さん、まったく平気やで。金なんかなくなってしもても、家を失うことがあったとしても、そんなもんお父さんはな、怖くも何ともないんや。何も気にもせんでええ、お母さんは・・・。金がほんまに底を突いたら突いたでな、その時にまた考えたらええだけの話やないか。みんな一緒に生きてられるんやったら、金なんかは別にどうでもええんや」
「そんなん、お父さん・・・、頑張って、必死で頑張って、せっかくここまでお父さんが築き上げてくれたのに・・・。お母さんのことばっかりに、・・・」
「お母さん、もうそれ以上は言うな。ええ加減にせんと、・・・、お父さん、ほんまに怒るぞ。今はな、今日もこうして拝み屋さんのお陰で少し元気になれたんやからな、・・・、その先のええことだけ、お母さんは考えてたらええんや。わかったな」
夢や希望なんて、叶えることよりも、向こうの先のほうに見えていることのほうが重要なのかもしれない。見えていれば、人はそこに歩いていこうとする。その道のりこそが人の人生と呼ぶにふさわしいことなのかもしれない。絶望の淵に立たされても、その向こうに針の穴よりも小さな光さえ見えていれば、人はどうにか歩いて行ける。しかしそれを見つけられないでいると、絶望の淵で人は歩みを止めてしまい、そのまま動けなくなってしまう。世の中には、運の強い人と弱い人がいるように思う。その両者の違いは、光を探す心の瞳が曇っているかどうか、そしてたとえ曇っていたとしても見えるところまで光を運んできてくれる良縁に恵まれているかどうか、そんなところにあるんじゃないかと思う。父と母は、人生という道のりを歩んでいく上で運の強い人だったように思う。良縁からの光に恵まれ、そしてまた、お互いに道の上で光を探し合い、見せ合いながら、それまでの人生を共に生きてきたんだと思う。母の病いを思えば、運が弱かったと人は言うかも知れない。しかしそれは母の人生においてその中の一つの出来事であって、そのことと母の周りの様々な良縁とを並べて較べてみれば、母はやはり運の強い人だったと私は思うのである。
その次の日、私が仕事に出ている間に、父は、実家を購入する際にお世話になった不動産屋の盛田さんに電話を入れたそうだ。とにかく実家から西南西の方角に位置する賃貸の物件で、家族4人が暮らせるところをすぐに見つけて欲しいと伝えると、盛田さんはすぐに調べて折り返し電話を寄越してくれたらしい。父は盛田さんからの折り返しの電話を受けて由美子に、「すぐに戻るからお母さんことを頼むぞ」とだけ言い残して慌てて家を飛び出し、そして1時間ほどして帰ってきて、住むところを決めてきたと言ったそうだ。私は仕事から帰ってきてそのことを知った。そしてその父の行動のあまりの速さに驚いた。
「お父さん、1時間ほど出かけて帰ってきたと思たら、住むとこ決まったって言うんやもん。お母さん、びっくりしたわ、ほんまにもう・・・」
母は、その前日に見せた父に対する申し訳なさという苦しみからすっかり解き放たれたのか、柔らかな微笑みを終始浮かべていた。それに続いて、父が笑いながら話した。
「そんなもんな、やるって決めたら迷ってる暇なんかあらへん。やる時は何でも一気にやらんとあかんのや。迷てるうちにな、大体のことがでけへんようになってしまうんや。あんまりものを考えて慎重になりすぎるんはあかんねん。動いて、動いて、それで壁にぶちあたって、その時に初めてものを考えたらええんや。幸治もしっかり覚えとけよ」
不意に父は、最後は私に振ってきた。私は元来臆病で考えては立ち止まる質だったから、急に父から私に向けられた矛先に戸惑った。それに気づいてか、母は微笑みながら、
「そんなん、・・・。お父さんはお父さん、幸治は幸治や。人それぞれやんか。なぁ、幸治・・・」
と助け舟を渡してくれた。私はそれに掴まって助かったと思いながら、
「引越しはいつするん?」
と話を変えた。
結局は仮の住処ということで、母の介護ベッド以外の、挙げれば例えば食器や台所家電、着替えなど、そしてその他の小物など、それらを由美子がほぼ一人でコツコツと少しずつマンションに運び入れ、10月の末に引越し業者にお願いして食器棚一本と冷蔵庫、洗濯機、そして介護ベッドを運んでもらった。
引越しの日、車椅子に腰掛けて、運び出される荷物や業者の方の作業に勤しむ姿、そしてその当日の慌ただしさに目を走らせる母は、期待よりも不安の優った顔をしていた。そんな表情ながら母は、それまでの家族の歴史を一つ一つ懐かしく思い出しては深い感慨に耽っているようだった。そしてその歴史の延長線上を見つめ、心の中で、必ず回復してこの家に帰ってくるんだと、ひとり静かに誓いをコツコツと立てているようだった。
必要最低限の荷物は運び出され、ようやく母は父におぶられて、次の生活の拠点となるマンションに向かうべく、父の車の助手席まで運ばれた。玄関先に付けられた車の助手席から、母は寂しそうに家を眺めていた。母を助手席に残したまま、父と私は戸締りや忘れ物はないかの確認を急いで済ませた。すべてを済ませて車に乗り込むと、母は不安そうに父に、
「お母さん、この家に越してきた時、ほんま嬉しかったんや。庭も広いし、お野菜も自分で育てたりして・・・。またお母さん、この家に帰って来れるんやろか?」
と口にして泣き出した。私はずっとその数ヶ月前までは外で暮らす人間だったから、元気だった頃の母が嬉しさのままにどんなふうに楽しく暮らしていたか、それについては何も知らず、私がその家で知っている母といえばそのほぼ全部の記憶は闘病する母のことばかりで、母の言葉に私は、余りにも何も知らなさ過ぎることに悔しさがこみ上げてきた。そして、だからこそと私は、母とともにまたこの家に戻ってくる日のことを心から願った。私も、母に釣られて涙が溢れてきた。そんなことを口にした母に父は、
「どうなるかなんかわからんことばっかりや。せやけどな、お母さん、・・・、実際に拝み屋さんの効果はあったわけや。それをお母さんも感じたんやろ。そしたらな、今はもう余計なこと考えんと、黙って拝み屋さんのこと信じてやっていくしかないやろ。前を向いてな、家族一緒に進んで行こな。わかったか?」
と優しく静かに話しかけた。母は納得したようだった。そして一言、
「そうやな、お父さん」
と呟いた。父は車をゆっくりと次の場所へと走らせた。
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