第3話

 1992年3月の下旬、京都での生活を片付けて、私は久しぶりに実家に戻ってきた。結局私は、浪人時代も京都で過ごしていたため、それも合わせると丸5年もの間、実家という場所に自分の荷物を落ち着かせることがなかった。しかもその間に家族は、確か私が京都で浪人生活を始めた頃だったと思うのだが、私が幼稚園の頃から住み始めた前の家から車ですぐの場所に移り住んでいた。そんなこともあって自然に、移り住んだ家には私の部屋というものはなくなっていた。しかし私が戻ってくるということで、2階に上がってすぐの右手の四畳半の板間、その部屋は私が戻ってくるまでは倉庫として使われていたのだが急遽荷物がどこかに片付けられて、そこが私の部屋として充てがわれた。そこに京都で使っていたパイプベッド、座卓、ステレオ、本棚、ギター、そして衣服、その他諸々の私物を入れ込むと、それだけでもう身動きもできないほどの狭さになった。

 以前よりももっと裏山に近づいて、駅からも遠くなって、そのために何かと不便な場所だったのだが、前の家よりも庭が広くなって、そのことを母が一番喜んでいたそうだ。母はその庭を自分で耕して、家庭菜園をしていたそうだ。確かに庭に出ると、季節柄作物はなかったが、庭の一画だけ土が掘り返された形跡があった。家族の者がもう当たり前のように馴染んで生活をしていたそんな実家は、それまでの私にとっては年に数回、たまに立ち寄るくらいの場所だったので、そこに遅れを取って初めて自分の荷物を入れ込むということは、家族のいる実家ではあるのに、どこか少し妙な緊張を伴うことだった。

 しかし、一人暮らしを終えてやっと実家に戻ってきたとはいえ、腰を全く落ち着かせる間もなく、私はその2日後にはもう群馬のナットメーカーの工場にいた。そしてその工場に併設されている寮で、私は約3週間お世話になった。そこで私は、ナットを加工する機械のオペレーション研修、そしてそれによって加工される製品の検品作業研修を受けた。というのもその機械は、4月末からお世話になる予定だった父の得意先の中村さんのアメリカ倉庫で3台稼動していて、その3台の機械のオペレーションが私に与えられた社会人としての最初の仕事だったからだ。

 研修を終えた私は、4月半ばに群馬から実家に戻った。しかしゆっくりとしている暇など全くなかった。というのも、アメリカに向け出発するのは4月27日に決まっていて、それまでの僅か2週間弱の間に、私は渡米するに当たってのいくつかの手続きを済ませなければならなかったからだ。

 その頃の長女、美佐は、結婚して10ヶ月。月に最低一度は泊りがけで実家に帰ってきていたようだった。次女、由美子は、母に代わって家事をするようにとの父からの要請で、何の仕事だったかは忘れたが数年お世話になっていた職場を辞していつも実家にいた。母はと言えば、その足の症状は、目には映らないほどの静かな速さで進行していたようだが、その普段の姿からして、それがとても難病に起因するものだったなんてことは想像もできないほどのものだった。相変わらず母は、手の届くところに触れながら転ばないように気をつけて生活をしていた。その姿は数ヶ月前の正月の頃と比べても何ら変わりはなかった。家族の誰もがその頃はまだ、母の足の症状は必ずよくなっていくんだと、確固たる根拠もなくまだ信じていられたし、そうなることを願ってもいられた。しかしその頃に由美子から耳にした話によると、父は、美佐の婚礼以降続けてきた母を連れての病院巡りを、その頃も引き続き行っていたらしい。それを聞いて、そうしながらも一向に母の症状が快方に向かわないことを、私はほんの少し、何か奇妙に思い始めた。

 わずか2週間弱の間に済ませなければならない渡米準備に奔走する私を気にかける母の様子は、その10ヵ月前の美佐の婚礼の頃を思い起こさせるほどに熱を帯びていた。母の体は、やはりあの頃のようにはもう自由が利かなくなくなっていたものの、母の気配、言葉など、とにかくそのすべてが母の出来得る範囲で熱かった。

「幸治、結局人と人とは心のつながりやからな。心込めて仕事頑張って向こうの人に信用してもらえたら可愛がってもらえるんよ。何も心配はいらへんよ、幸治は・・・」

 と言ったかと思うと、もう次の瞬間には、

「アメリカ人はな、私たちとはものの考え方も見方も価値観も、もう何もかもが違うんやからな。気易く信用して近づき過ぎたらあかんよ。お母さんはアメリカ人、かなり図太いと思ってるねん。そうじゃなかったらあんなに大きな体にならへんわ。とにかく向こうの人には気をつけなあかんよ」

 と全く正反対のことを口にする。しかし母の言うところの、一聴矛盾しているこの2つのどちらもがやはり本当で、母の口からこんな話を聞くと、素直に聞き入れることができるのだった。

「幸治、アメリカに行く前にしっかり食べて栄養つけてから向こうに乗り込むんよ」

 まるでスポーツ選手にかけるような言葉である。

「幸治、餃子好きやろ。今日はホットプレートいっぱいに餃子を焼こうか。そのくらい全部、一人で幸治やったら食べれるわな。由美子、今からお母さんと一緒に餃子の種、作ろ」

 まるで牛扱いである。

「幸治はキムチ好きやけど、飛行機に積んで持っていったら向こうさんに臭いって言われるやろか」

 そんなのは絶対いやだ。

 母の気持ちは、私を置いてきぼりにするくらいの勢いで走っていた。

「幸治、何か向こうに持っていくもので、欲しいものあるか」

「幸治、お母さんも幸治と一緒にアメリカに行って、あっちで足を治そうかな。そうしたら、幸治のご飯の用意もしてあげれるしな」

 そんなふうにとにかく母は、何か一つ、あともう一つ、さらにあともう一つと、離れ離れになるまでの短期間の中で、自分の愛情を何らかの言葉と形にしては私の中に必死に注ぎ込もうとしていた。

 忙しく奔走する私には、渡米前の時間もない中で、どうしても会っておきたい女性がいた。日本を離れる日が迫るにつれて、彼女に会いたいと願う思いは、もう抑えられないほどに膨れ上がっていた。大学の4年間、何人かの女性とお付き合いすることはあったのだが、彼女に関してはなぜか特別すぎて、とても勇気がなくて、一度も想いを伝えることができずのままだった。そしてそのままに、卒業の日を迎えた。彼女は、私の実家の最寄り駅、近鉄関屋駅から電車で東に7つ目ぐらいの駅の高田駅から徒歩圏内に住んでいた。会おうとすればすぐに会いに行ける距離だった。渡米の3日前の夜、会いたい気持ちがもう抑えられなくて、勇気を振り絞って私は彼女に電話した。その日は金曜日だった。

「もしもし、柄本やけど・・・」

「あぁ、柄本くん。どうしたん?久しぶり」

「あぁ、・・・。・・・。」

「どうしたんよ、元気ないの?」

「いや、・・・。あのな、27日に飛行機に乗るねん。ふと上島、お前のこと、思い出してな」

「そうなんや。もうすぐやね」

「そうなんや。もうすぐやねん。・・・」

 しばらく何も話せなくなった。彼女も黙っていた。それでも彼女とつながっているだけで嬉しかった。すると彼女が不意に、

「しばらく帰ってけえへんねやろ。もう向こうに行く前からホームシックになってるんと違う?」

 と笑いながら話しかけてくれた。

「うん、そうかも知れんな。ずっとあんな楽しい学生時代やったからな。今の気持ち、ホームシックやって言われたらそうかも知れんわ」

「やっぱり、そうなんや」

 彼女は、電話の向こうで静かに笑ってみせた。少し解けた私は、

「上島、明日か明後日、会えへんか」

 と思い切ってデートを申し込んだ。少し間があった。何かに戸惑っているようだった。そして彼女は、それを振り切ったかのように明るく答えた。

「うん、ええよ。明日も明後日も休みやから、どっちの日でも柄本くんの都合に合わせるよ。どうする?」

 私たちはその次の日、土曜日の昼過ぎに高田で会う約束をして電話を置いた。

 次の日、空は鈍い灰色の雲に覆われていた。待ち合わせの高田駅の改札口に彼女が少し遅れてやってきた。急いでやってきたのか、少し息が上がり、頬を紅くした彼女はそばに走り来るなり、

「ごめん、ごめん、遅なって・・・。どうする?もうしばらくは日本からいなくなるんやから、柄本君の好きなところ行ったらええよ。もうホームシックにかかってるんやから、今日は柄本くんの好きなとこに行こ。どこでも付き合うよ」

 と一息に話しかけてきた。

 大学の4年間、彼女のことをいつも、不思議な魅力のある女性だと思っていた。

 学生時代、試験の答案用紙の彼女の文字を何度も見かけることがあったが、定規を当てて書いたような角々した同じ大きさの文字が隙間なく、そして乱れることなく整然と並んでいた。そこのところがどこか、とても彼女という女性の内面の深い場所にある強い芯を表しているように思っていた。奈良から京都まで電車通学をしていた彼女は、大学の4年間、一度も休むことがなかった。彼女に以前、通学に要する時間を尋ねたことがあった。片道2時間半から3時間近くかかるのだという。その後に彼女が笑いながら言ったことを覚えている。

「柄本くんも、実家から通ったほうが寝坊せずに済んで、休まずに授業受けれるかもね」

 また、彼女は大学時代の4年間、彼女の最寄り駅の高田駅構内の小さな書店でほぼ毎日、夜はレジ打ちのアルバイトをしていた。平日は毎日約5時間も電車に揺られ、授業には必ず出席し、それだけでも大変なことなのに、私が帰省した折にたまに彼女のアルバイト先を覗いてみると、ほとんどの場合、彼女がレジの向こうに座っていた。

 しかし人前での彼女は、そんな強い芯のあるところを決して見せることはなかった。キャンパスで仲間たちが集まって冗談を言い合ってふざけ合っている時など、ただ、そうなんや、そうなんやと嬉しそうに相槌を打ってその集団の一番端で微笑んでいるだけで、決して自分からは何も話さない。たまにみんなでカラオケに行っても、人の歌を聴き入って微笑んでいるだけで自分は一切歌わない。しかしそんな彼女にだけは、なぜか誰も彼女が歌うことを強要しない。どこか、それでいいと周りに納得させるようなものを持っていた。そんな彼女だが、卒業後の飲み会の後にみんなでカラオケに行くと、クラスの女性の誰かが歌った今井美樹の”piece of my wish "を聴いてひとり泣いていた。そんな姿を初めて見せた彼女を目にした私は、どうしようもなく気になってその訳を何度か問うてみたのだが、「ええ歌やね」と言ったきりニコリと微笑むばかりだった。

 その年の春は季節がなかなか前に進まず、4月も下旬だというのに、あちらこちらでまだ桜が咲いていた。例年では考えられないことだった。私は、

「どこか人の少ないところで、桜を見上げながらゆっくり歩きたいな」

 と彼女に言った。

 不思議なもので、あの日の記憶のうちで私の中に残っているのはほんの僅かである。彼女が上気した顔で少し遅れてきた時に交わした会話。私が桜を見たいと言ったこと。その後にどこをどう歩いてそこにたどり着いたのかもわからないが、住宅地の中を流れる高田川沿いに伸びる桜並木の遊歩道を一緒に歩いたこと。そして見上げた灰色の空を背にして、一層鮮明に色を浮かび上がらせた桜の薄桃色。その程度である。あの日は確か、私たちは昼過ぎから会って夜まで一緒に過ごした。どこかでお茶をしたし、どこかへ食事にも行った。そしてその間中、二人で楽しくいろんな話をした。確かにそうだったはずなのだ。それなのに、私は気味の悪いほどにほとんど何も覚えていない。

 その日の朝のことだった。出かける直前の私は、母のいるリビングで由美子にきつく詰られた。

「あんた、明後日には向こうへ行くっていうのに、友達と遊びに行くって、・・・。一体あんたは何を考えてるんや。お母さん、ずっとあんたのことばっかり考えて、あんたの心配ばっかりしてるっていうのに・・・。あんたは少しでもお母さんのそばにいてあげようっていう気はないんか」 

 ぐさりと胸に突き刺さった。出かける前に、大切な女性に会うことがどこか後ろめたいことのように感じた。それをそばで聞いていた母が、

「何を由美子はそんなカリカリしてるの。幸治かて、頑張ってここまで来て、幸治なりの大切なお付き合いがあるんやから、そない言わんでもええやんか。幸治、ゆっくり楽しんできたらええで」

 由美子に詰られたことより、母の優しい言葉のほうがもっとぐさりと胸に突き刺さった。ふたりが口を開けば開くほど、後ろめたさがさらに膨れそうな気がして、

「できるだけ早うに帰ってくるから・・・」

 とだけ言い残して、私はそそくさと家を後にした。

 そんなどこか後ろめたい心のままに彼女に会いに行ったものだから、彼女との時間を表面的には楽しんではいいたものの、どっぷりと首まで浸かって楽しめてはいなかったのかもしれない。そのせいで僅かな想い出の欠片しか、私の記憶の中に残らなかったのかもしれない。

 その夜、そんなに遅くなることもなく家に帰ってきてテレビの前に座ると、ちょうどニュースが始まった。そのニュースの中で、歌手、尾崎豊の死を知った。びっくりした。そして、ポッカリと胸に大きな穴が開いたような気持ちになった。しばらく呆けていると、もう学生の頃のような自由に浮かれ過ごした時代は終わった、もう子供のままではいられないという思いが、ぐるぐる、ぐるぐると頭の中を駆け巡り始めた。なぜかその日の朝の由美子の言葉、そして母の言葉が思い出された。そして不自由という言葉が頭に浮かんだ。

 その次の日は4月26日、もう渡米の前日のはずだった。私は朝から大阪、難波の旅行会社に飛行機のチケットを取りに行った。近鉄電車に揺られて難波に向かっている頃、実家のほうに旅行会社から、手違いで27日のチケットが用意できなかったから28日に渡米日の変更をお願いしたいという連絡が入っていたそうだ。そうとも知らず、私は午前中に旅行会社に到着した。そこでその話を聞かされて驚いたものの、ないものは仕方ないんだからとすぐに諦めた。そして、せっかく難波に出てきたんだからということで、私は心斎橋商店街を少し歩き回ってから家に帰ることにした。

 その日は日曜日で、アーケード通りは買い物をする人でごった返していた。人混みを縫って、私はあちらこちらに目をやりながらブラブラと歩いていた。少し遠くに、通り面が全面ガラス張りの楽器店が見えてきた。大学時代にギターを覚えた私は、少し覗いてみようかという気になった。近づいていくと、そのガラスの前に一人の背の低い女の子が微動だにせず立っていた。ガラスの向こうの商品ディスプレーのスペースの床に、大型のブラウン管テレビが置かれていた。彼女はじっとそのテレビを観ていた。その画面には、前日に亡くなった尾崎のライブ映像が流れていた。そして店内からは、尾崎の歌声が外にまでこぼれ出ていた。映像の中の尾崎は、汗だくになりながら声を枯らして、「自由」を叫び歌っていた。ちらっと隣にいた女の子を見た。高校生くらいに見えた。彼女は泣いていた。私も卒業してから得体の知れない不自由を感じるようになって、それに怯え、それでもそれを避けて通ることなど許される訳もなく、理由もなく未来に対する不安を感じ始めていた頃で、「不安なんて突き破れるんだぜ、突き破ってしまいなよ」と訴えかけてくるような尾崎のパフォーマンスを見つめているうちに、気づけば私も涙していた。私も一瞬、そばにあるすべての不安を突き破りたいと願った。しかし私は、しばらくしてそんな思いを全部かき消した。というのも、不安なんて突き破るべきものなんかじゃないんじゃないかという気がしてきたからだった。

 果たしたいと願うものが増えれば、自分の内に様々な葛藤が生まれる。誰かとの意見の対立も避けられなくなってくる。そんなふうにいつも、内からも外からも何らかの重圧が降りかかるんだから、未来に対しての何らかのおぼつかなさ、不安がそこにあるのはもうそれは仕方のないことなんだ。不安なんて、当たり前にいつもそばにいるものなんだ。不安がないとすれば、それはもう願うものひとつも持たないということを意味するんじゃないか。その時の私が果たしたいと願っていたこと。母に寂しい思いをさせないこと、彼女との未来が形になること、未知のアメリカに早く馴染むこと、責任持って社会人として任された機械3台をオペレートすることなど・・・。その他にももっと言葉にならないこともたくさんあっただろうが、そのすべてが、すぐには満足いくところまで果たされることなど決してない。それでも向き合い続けるんだ。大人になっていくということは、果たしたいと願うもののうちからその時々にふと大切に思う一つを摘み出して、いつも不安がそばにあったとしても、きっといつか果たされることだけを信じて、そして願って、愚直にそれと向き合い続ける、そういうことを言うんじゃないだろうか。

 映像の中の尾崎の姿を前に、いつの間にか私はそんなことを考えて始めていた。長年、学生時代、尾崎を聴き続け、彼の熱量に感化され、漠然とした夢のようなものや自由っぽいものを彼とともに探し求めていた気でいた。そしてそんなふうに彼の影響を受け彼を支持する中で、私はいつも命を燃やし生きているリアリティを熱く感じていた。しかし、不安に苛まれながらも果たしたいと真摯に願うものがリアルに目の前に迫って来ていることに意識を向け始めた私は、まだ片足が残ったままの、どこか甘酸っぱいそのような日々から完全に卒業しなければならないんだと思った。私は楽器店の店内には立ち寄ることはせず、その場を離れて、もうどこにも寄り道をせずに母のいる実家へと家路を急いだ。

 4月27日、渡米の前日、その日はなぜか由美子は朝から出かけていた。家の中には母と私の二人きりだった。例年よりも遅れていた春の日差しは、その日になってようやく少し春らしいものになった。その日差しがリビングの南の腰窓から注ぎ込んできて、部屋の中は丁度いいくらいの暖かさだった。身も心も解けるような心地よさだった。

 そんな心地いいリビング奥の食卓で、母と二人で昼食を食べた。酢の物が好きな私のために、蛸ときゅうりの酢の物もテーブルに並べられた。そのほかにも、餃子、白菜キムチ、キャベツの千切りとトマトのサラダ、その横にポテトサラダ、納豆、味噌汁など、そんな私の鉄板の好物メニューばかりが並べられていた。その他にもいろんなものを並べてくれたと思うが、もう忘れてしまった。足を引きずりながら昼食の準備をする母を手伝おうとすると、昔から母に言われ続けた言葉がやはりその時も飛んできた。

「幸治、男は台所に入ったらあかんの。昔から言うてるやろ。テーブルの前に座ってじっとしとき・・・」

 仕方なく私は椅子に腰掛けて、母が忙しく台所で動くさまをずっと眺めていた。すると、私が5歳まで過ごした東大阪の長屋での日々の光景が目の前に広がり始めた。

 長屋の玄関先に立って見上げると、その軒は波打っていた。足元には錆びた三輪車、スコップ、泥遊び用の古い手鍋、拾い集めたきれいな小石、干された運動靴、欠けた発泡スチロールのプランター。玄関の手垢の染みた木枠の引き戸を開けると、すぐ左には狭い台所があった。その奥が両親の部屋だった。リビングなんてものはなく、1階はその二部屋だけだった。両親の部屋を突っ切ったところの吐き出し窓を開けると、奥行きの狭い縁側があった。その向こうはすぐに、今にも崩れそうな背高いブロック塀が迫っていた。外に出てすぐ右手に扉があって、そこは汲み取り式のぼっとんトイレだった。その狭いトイレの壁、床、天井にはモルタルが薄く塗られていた。そこにいろんな汚れが染み付いていて、薄暗い裸電球のもとに何とも恐ろしく気味の悪い空間だった。玄関の正面右側には、2階へ上がる急な階段が一直線に伸びていた。それを上がってすぐ、両親の部屋の真上にあたる部屋は姉たちの勉強部屋だった。その隣の続きで台所の真上にあたる部屋には2段ベッドとタンスが置かれていた。美佐が2段デッドの上の段を使っていた。由美子は下の段、そしてまだ幼かった私は由美子の足元で十分ことが足りていた。1階も2階も家中いたるところ、荷物でぎゅうぎゅう詰めの状態だった。

 物心付き始めた頃の私の記憶では、いつもその長屋の家の中には母と私しかいなかった。父はまだお商売を始めるずっと前で、お勤めに出かけていた。長女はバスに乗って小学校へ、そして次女は幼稚園へ通っていた。そして幼すぎた私はいつもよく眠っていたからなのだろうか、母以外の家族と家の中で顔を合わせることが少なかったんだろうと思う。そのせいでどこかあの長屋は、母と私だけのものだったという感じで記憶に刷り込まれている。あの頃、寝ている私を覗き込む父に気づいて目を覚まし、目の前の父が誰だか分からずに泣き叫んだことが何度かあったことを微かに覚えている。そのすぐ後に下の階から走ってきた母の腕で抱き上げられて、ホッとひと安心したことも・・・。私は、幼な心に覗き込む父を見知らぬ人と認識しては、よくも命の危険を感じていたのだった。

 家にいる時は、いつも両親の部屋でミニカーを走らせながら、ブーン、ブーンと口で車のエンジン音を真似て遊んでいた。そんなことをしながら私は、一日のほとんどを台所に立ち続ける母の背中を頻繁に眺めていた。母がいないんじゃないかとかの何らか不安を覚えてそうしていたんじゃなかった。そうすることがなぜかもう癖になっていて、気が付けばいつもそうしていた。そんなふうに過ごしながら、母が振る包丁がまな板を叩く単調な音を聞いているのが好きだった。

 渡米準備もすべて片付いて、穏やかな春の午後の日差しに身も心も解けて母と二人きりでいると、家の中の空気はその時の私にとって、あの長屋の日々の空気そのものに限りなく近いものに感じられた。

 母と二人食卓を挟んで箸を握った頃には、もう心地よさと懐かしさにとろけそうになっていた私は思い切って、昔を懐かしんでうっとりしていたことを母に打ち明けてみた。

「お母さん、なんか近大の裏の長屋の頃みたいやな。ずっと僕も忙しかったし、こうしてゆっくりと二人でお昼を家で食べることなんか、ずっとなかったな。もう何年ぶりやろうか?こんなにゆっくりお昼を一緒に食べるのん、ひょっとしたらあの長屋の頃以来なかったちゃうかな?なんか今、ずっと長屋にいた頃のこと思い出してな、ええ心地やってん・・・」

 母が嬉しそうな顔をして微笑んだ。そしてうっすらと涙を浮かべた。

「お母さん、覚えてるかな。冬の寒い日に熱々のホットカルピス、お母さんが作ってくれて・・・。それ、口も付けんうちにテーブルの上においてくれたの、僕がひっくり返して・・・。えらい火傷したな」

「うん、・・・、覚えてるよ」

「あの後、お母さんに着てるもん、一気に全部脱がされて、濡れタオルを左の腰に当てられて、バスタオルに包まれて、そのままお母さん、片手で僕を担ぎ上げて玄関から飛び出して、バス通りには出んと空き地やら、どっかの駐車場やらを突っ切って、あっという間に森下さんとこに駆け込んで、玄関先で、先生、子供が火傷したから早う診てやってくれって叫んで・・・。僕な、泣きかけとったのに、お母さんがものすごい勢い過ぎてな、びっくりしすぎて泣くのも忘れてしもてたわ」

 母は、どこか遠くを見ているような瞳をしていた。母の心の中には、その他にも、いろんな想い出が浮かび上がっては渦巻いているようだった。楽しかったことも、嬉しかったことも、悔しかったことも、悲しかったことも、苦しかったことも、何もかもが混ざり合いながら母の心の中で轟音とともに渦巻いているようだった。そして、そんな雑多な出来事をくぐり抜けてきた末に、遂に息子も大人の仲間入りをしようとしているということに、深い感慨に浸っているようだった。少し間があって、母はようやく静かに口を開いた。

「そうやな、そんなこともあったなぁ。お母さんも覚えてるよ。お母さんはあったことは全部、覚えてるよ・・・」

「あの病院、あの日は風邪ひいた患者さんで混んでたな。それやのに急に駆け込んできたお母さんにびっくりした患者さんがお母さんの勢いに押されてか、そのうちの誰かが看護婦さんに、火傷の子なんやから早く先に先生ところに通してあげてって言ってくれはったな。なんか、あの頃はみんな優しかったな。がさつで怖い近所のおっちゃんとか、いつもおまけしてくれる駄菓子屋のおばちゃんとか、いつも友達みたいに一緒に遊んでくれた牛乳屋のおっちゃんとか、派出所のおまわりさんとか、それに僕が食べてるお菓子を欲しがる汚い野良犬とか、・・・、みんな家族みたいやったな。銭湯の煙突も、近所のドブ川も、排気ガスで煤けたバス通りも、どこもかしこも全部自分の家みたいやったな。僕、あの何か、あの元気な町、大好きやったわ」

「みんなな、ほんまに誰もが貧乏してたんやで。そんな時代やったんやよ。せやけどな、人はな、苦しい時のほうが優しいねん。ちゃんとご飯を三食べれるようにとか、少しだけしたいことできるようにとか、そんなことを願っている時はな、人の苦しみや痛み、自分のことのように感じるもんなんや。そう感じてるからな、みんなでもう少しだけでもよくなろうって願い合ってな、たまたま隣りに居合わせた人にでも普通に優しくおれるんや。毎日お母さんもお金のやりくりで大変やったけど、それでもやっぱり優しいてええ町やったし、ええ時代やったな。今ももちろんしあわせや。せやけどあの頃もな、苦しいなりにやっぱりしあわせやったな・・・」

 そう話した母は、うっとりと遠くを眺めるような瞳のまま遠い昔のあの頃を心から懐かしんでいたようで、しばらく何も話さなくなった。私も黙った。その後、不意に思い出したように微笑んで、私に問いかけてきた。

「幸治、覚えてるか。幸治はほんまに三輪車が好きでな。いっつも三輪車に乗ってたんやで」

「うん、何となくは覚えてるわ。そんなはっきりとは覚えてへんけど」

「何言うてるの。ほんまに幸治は三輪車好きやってんから・・・。お母さん、出かけるわって言って寒くっても外に出ようとするからな、お母さん、風邪でもひいたらあかん思て慌てて幸治にジャンバー着せてな、手袋はめさせて、マフラー巻いて、毛糸の帽子かぶして・・・。それで玄関先から見送るんよ。幸治、大声で、いってきまーすって叫んでな、三輪車でゆっくりと向こうに走って行くねん。そしたら幸治、路地の一番向こうの角の電信柱にタッチしてな、くるっとこっちに向き直ってニコニコして手を振りながら片手運転で帰ってくるねん。玄関先まで帰ってきたらな、また大声で、ただいまって叫んで、やり切ったって顔で家に上がってな、ああ寒かった、寒かったって繰り返すんよ。それから5分もせんうちにな、また、お母さん、出かけてくるわって言って玄関に向かうから、またお母さん、幸治を追いかけて服着せて・・・。幸治、覚えてるか。一日にそれを幸治はな、何遍も何遍もしつこうに繰り返すんよ。それも毎日毎日・・・。お母さん、ほんまに大変やったんよ。台所仕事も全然進まへんからえらい苦労したわ」

 母は可笑しそうに笑っていた。

「そうなんや。全然覚えてへんわ。あの頃は、僕の中では三輪車ブームやったんやろかな。いや、違うわ。今かすかに思い出してきたわ。たぶんな、行ってきますとただいまって言いたかっただけやと思うわ。それを元気よう言うんがたぶん、あの頃の僕のブームやったんやわ」

 その後もお昼を摂りながら、母と、他にも様々な昔話に花を咲かせた。野良猫が家に住みついたこと、数件の家を一手に覆う長屋の屋根裏でネズミが大運動会をしていたこと、泥遊びするために私が掘り返した家の前の土の路地が雨上がりにはいつも泥濘んでいたこと、・・・。

 そんな昔に比べれば何もかもが満たされた生活をしているのに、昔話を繰り返すうちに私は、なぜかどんどん寂しくなっていった。私は、あまりにも何もかもが望みもしなかった遠くのところまで来てしまったような気がしていた。本当のところはわからないが、母も同じように感じていたのかもしれない。いつの間にか、どこか寂しい雰囲気になっていた。そんな中で、母とふたりきりの昼食は終わった。

 やはり母は、一切の昼食の片付けを私にはさせなかった。私は昼食前と同じように、椅子に腰掛けて洗い物をする母をじっと眺めていた。すると母が不意に明るい声で、

「幸治、どうなん?ギターはまだ好きか?」

 と訊いてきた。母はどうやら、つい先ほどまでの昔話の後のもの寂しさに終止符を打ちにかかっているようだった。私も努めて明るい声で、

「うん、全然上手くはならへんけど、思ってるように弾けた時はほんまに気持ちええねん。社会人にまでなってギターなんてっていう人もおるけど、多分ずっと続けるんやと思うわ」

 と答えた。すると母がこう言った。

「幸治はな、昔は勉強も全くでけへんかったのに、中学からひたすら勉強に打ち込んで、何かして遊ぶとか、趣味に打ち込むやとかなかったやろ。お母さんな、幸治が大学入って少し時間にもゆとりができてな、アルバイトをしてはバイクで日本中走り回ったりとか、ギターに夢中になったりしたんがほんまに嬉しかったんよ。バイクは危ないからほんまはいつも心配ばかりしてたけどな、それでも、幸治が自分からやりたいものを見つけて、それに打ち込んでくれたんは、ほんまに嬉しかったんよ。ギターな、これからもずっと続けるんよ」

 そう言って母は嬉しそうに微笑んだ。私は母の言葉に素直に頷いた。

 私は大学を卒業してジリジリと不自由さを感じ始めてから、あの長屋での日々を、詩とは呼べるほどのものでもなかったが、思いつくままに手帳に書き留めていた。私はふと、ギターを弾きながらそれを歌にして母に聴かせたいと思った。しかし、元来意気地なしで恥ずかしがりの私は、やはりそんな恥ずかしいことはできないと思い直し、すぐにその思いをかき消そうとした。しかし、昔と変わらない母の後片付けの姿を眺めていると、やはり恥ずかしくても歌うべきだ、そうしなければ後々後悔する、そんな気持ちが強くなってきて、もうこれは歌うしかないと再度思い直した。私は、どうせ母と二人きりだし、母以外には誰もいないしと腹をくくって、

「デタラメにギター弾いて歌ってみよか」

 と勇気を出して母に話しかけた。母は嬉しそうに、その瞳を一瞬のうちに輝かせた。

 私は2階にギターを取りに上がって、ギターを左手に下りてきた。椅子に腰掛け、ギターを胸に抱え、母を前にして、私は震えるくらい緊張した。詩も、そしてメロディも、出来上がったものは何ひとつなかった。しかし、もうこうなったら後には引けない、思いっきりやろうと思った。そして歌う中で、「あの頃のお母さんの息子は今も何も変わってないし、これからも変わらへんよ。あの頃のまま、今も、そしてこれからも永遠にお母さんの息子のままやで。どこでどうなろうとずっとそうやで」という思いだけは込めれるだけ込めて歌おうと思った。

 

 後に私は、その時母に歌ったデタラメな歌を「長屋の空」という詩にまとめあげて、たぶん、アメリカから母に送ったように思う。そこのところははっきりと覚えていないのだが、確かに送ったように思うのだ。



  長屋の空


日傘まねて雨傘 手に歩いた夏の日

西の空と東の山を何度も確かめてた 振り返って


夕暮れ時には 父ちゃんの帰りただ待ち遠しくて

何度も母ちゃんのエプロンにまとわりついていた僕だよ


いつも笑ってた 母ちゃんの手の温もり 感じて

川は流れてた 町の煙も流れていった 遠くへ ただ遠くへ


もう家に帰って 家族みんな テレビの前 足を伸ばして

いつまでもニコニコ笑って笑っていたよね



 私は、下手なギターを指で爪弾いて必死に歌った。恥ずかしさと必死に戦いながら、あの頃の景色、あの頃の空気、あの頃の匂い、あの頃の温もり、あの頃の優しさ、あの頃の夢、・・・、たくさんのあの頃に全身を浸しながら、母に伝えたいたくさんの思いを込めて母に向けて必死に歌った。

 歌い終えると、母がテーブルの淵に両手をかけて、俯いて泣いていた。そして、ゆっくりと顔を上げて、

「幸治、ほんまにありがとう。ほんまに・・・、ほんまに、・・・、ありがとうな」

 と口にした。母の目は真っ赤になっていた。そんな真っ赤な両目を大きく開いて、私をじっと見つめて、しばらくしてやっと少し微笑んだ。

 私は、母に喜んでもらうことができて、果たしたい願いのうちの小さな一つを果たし得た気がした。そして一歩、大また人になれた気がした。

 歌い終えて、母が入れてくれたお茶を飲んで、私はようやく一息ついた。そうしているうちに、私はようやく現実に戻ってきたような気がした。昔話に花を咲かせていた時から歌い終えるまでの間、私の身の回りの現実味あるすべてはどこかに隠れていたような気がした。いや違う。というか、母の魂も私の魂もどこか違う場所、それはどこかはわからない、わからないがひょっとしたらあの時代のあの町とか、あるいはひょっとしたらいずれは帰っていくであろう魂の故郷の池の畔とか、あるいは夢の世界、本当のところはわからない、でも、今でも幻の龍が元気に飛び回っているようなそんな異次元時空間、そんなところに体から抜け出して踏み込んでいたのかもしれない。その場所で、母と私、私たちは思いだけを響かせ合っていた、今となって振り返えればそんな気がする。現実に戻ってきた時、私の感覚は驚くほどクリアになっていた。目もよく見えたし、耳もよく聞こえた。鼻もよく利いた。周りの気配にも敏感だった。昼食の残り香、陽に蒸された土の匂い、木の葉のかすかに擦れる音、鶯の鳴き声、遠くを走る車の音、窓の外の桜、太陽の光線の様々な色、母に届けた歌の余韻、言葉なくてもじんじんと響いてくる母の願い、・・・。そんな何もかもを、私の感覚は鮮明に捉えていた。そんな感覚の冴える中、私は、これこそが生きていることのリアリティだと思っていた。

 母は、そんなことを思い、そして一人納得している私に、

「ギターは向こうに持っていくの?」

 と訊いてきた。

「うん、そうするつもりでいてるねん」

 と答えると、母は、

「必ず持って行きや」

 と言ってくれた。

 母も私も、すっかり現実の中に戻ってきた。二人でソファの前に座った。私は何気なくテレビをつけた。そこではワイドショー番組が流れていて、尾崎の死因について、そして彼の死後の若者の後追い自殺について、物知り顔のコメンテーターが熱く語っていた。そのコメンテーターの驕り高ぶった口調に、私は虫唾が走った。「もっと刺激的な話題が欲しいだろう、俺がもっと日本中に刺激をばら撒いてやるぜ」という気配がその声から、その立ち姿から放たれているように映った。尾崎や後追い自殺した者、みんな母の子だ。それを、何の事情も知らない蚊帳の外の人間にあんなにまでベラベラと喋り倒されて、来る日も来る日も何度も同じような番組で取り上げられれば、遺された親はたまらないだろうな。その番組からは、遺された者に対する気遣いの欠片も伝わって来なかった。そんな愛のない情報の洪水の中で話題を貪ることを覚えて、それが当たり前の日常になってしまって、感覚は麻痺してしまって、次第に人は遠い日の優しかった頃の記憶をなくしていくんだろうなと思った。なぜ、起こってしまった事実をさらっと伝え、静かにご冥福を祈ることができないのだろう、そして、なぜその後に、「色んな苦しみはあるけど同じ時代、隣り合わせた者同士で生き抜いていきましょう」と、語る側の立場の人間として語れないのだろう。胸が苦しくなって、私はすぐにテレビを切った。

 母のそばで、特に何か話すでもなく、私はそんな物思いに耽っていた。もっと尾崎には同じ時代を生きて欲しかった。声を枯らして「自由」を叫び抜いたその先に、いずれは私も30歳、40歳と歳を重ねた頃に、一緒に歳を重ねた尾崎はどんなメッセージを放ってくれただろう。でも、もう彼は亡くなった。もう彼はいない。辛いから、私は思いっきり考えをひっくり返した。違う。尾崎はきっと、「自由」を追い求め、叫び続けることだけを使命として生まれてきたんだ。彼の死は己の使命を果たした者の寿命だ。きっとそうだ。彼のおかげで自由について考えるようになった。私はまだ生きている。私はこれからも生きていく。私自身のまだ知らない使命を果たすため、そして果たすまで生きていく。手探りでまだ知らない己の使命を探し、それに出会い、そしてそれが果たされるまで・・・。道半ばなんてない。命途切れた時、その時にはもう、使命はいろんな意味で果たされているはずなんだ。命は悲惨な悲劇なんかじゃない、どのように幕を下ろそうと元気に駆け抜けた命は、誰がどう言おうと目出度い喜劇のようなものなんだ。・・・。

「お母さんはな、幸治が元気にやってくれてるだけで十分や。それが何よりもしあわせなことや・・・」

 不意に母が口を開いた。そこで、私の頭の中で忙しく回転していた思考が途切れた。続けて母が、

「とにかくな、向こう行っても危ないところには近づかんと、精一杯やれること、元気よくやって、そしてまた帰ってくるんやで。帰ってくるために向こうへ行くんやからな・・・」

 と言った。私は母のそんなささやかな願いに触れて、つい先ほどまでの思考を全部外に放り投げた。

「うん、僕は臆病やからな、変なところにはよう近づかへんわ。だから安心しててや。大丈夫やで」

 と、身軽なままに明るく母に答えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る