第18話
数ヶ月間、季節感のほとんどない毎日だった。いつも心は俯いたままだった。気が付けば肌寒くなっていた。父の会社でも家でも孤立し、ほとんど誰とも話さないのが普通になっていた。仕事では結果を出しているのに、誰からも評価の声も、感謝の声もかからない。家に帰っても、父との二人暮らしでは話し声が聞こえるはずもない。母を亡くした悲しみが癒えぬうちに日々の悲しみがそこに紛れ込んで、悲しみが癒えることなんてないんだと、私はすっかり諦めていた。そして、悲しみはその先も膨らんでいくばかりなんだと、私はすっかり悟っていた。
それでも私は、私には居場所というものが父の会社と実家しかないんだとまだ考えていた。悲しみが膨らむばかりでも、それでも私は、父のことを尊敬し、そして父から父独自の精神論や処世術を受け継ぐんだと願っていた。そしてそれでも私は、私の居場所というものにまだ必死にしがみつこうとしていた。その先を、悲しみを突き抜けた先の未来を、それでも私はまだ信じようとしていた。
押さえつけていた悲しみ、それ以外にも自分でも気づいていない様々な感情のせいか、心が激しく暴れたり沈んだりするようになったのはその頃だった。それは、母と過ごした最後の半年の頃のような精神状態だった。由美子の毎晩の電話に私はろくに、返事もせず電話を切るようになった。そして由美子は毎晩父に電話をしてきても、もう私に代わることはいつの間にかなくなっていた。そんなことも、いいとも悪いとも、特に何も感じなくなっていた。どうでもいい問題だった。
増えた給与は、父に言われるままに貯金に回していた。まるで、ドン、ドン、ドン、と音が聞こえるように、通帳の残高は実感もないままに毎月ブクブクと膨らんでいった。月末に給与を支給されて、その月明けに定期預金して、きれいに印字された通帳の数字を眺めても、何の感情も沸き起こらなかった。決まった通りに印字の数字が規則正しく増えていくのを毎月眺めるだけ、という感じだった。
胸のポケットにはいつも、胃薬と風邪薬、そしてサロンパスが入っていた。心俯き、そして緊張で全身力んでばかりいては、私の体はもう悲鳴を上げ始めていたのであった。胃が痛くなるのは、だいたい朝の9時頃から10時と、夕方の4時前後だった。いつからか、毎日必ずその時刻頃に、私は胃薬を服用するようになっていた。サロンパスは、毎朝出社前に股関節まわりと腰、そして肩まわりに貼り付けるのだが、汗かきの私はお昼過ぎにそれを剥がすのであった。その後、必ずあちこちが痛くなるから、手元に置いておかない訳にはいかなかったのであった。風邪薬は、夏風邪をひいた時のことであった。父から、「仕事する男が風邪なんかひいてどうするんや」ときつく詰られ、その後そうなることを恐れて、いざという時のために、やはり手元に常備しておかない訳にはいかないのであった。
夏が過ぎた頃だったと思う。寝る前の僅かな時間にいつものようにギターを弾いていると、私はとんでもなく重たく暗いコードを編み出した。そのコードは、ちょうど、沈んでいる私の心の中の音に似ているような気がした。しばらくそのコードと戯れていい気になっていると、ポロポロと言葉が浮かんできた。「月明かりの森」、「まどろみ」、「深い霧」、「連続の一瞬」、「露草」、「漂うメロディー」、・・・。すると今度は、そのコードに引き出されるようにして、メロディーが私の周りを取り囲み始めた。気味の悪いほどどんよりと沈んだメロディーだった。しかしそれは、心沈む私とうまい具合に溶け合うものだから、私はこの上ない心地よさにニヤついた。今あの時のことを思い返せば、狂気だったような気がする。しかしあの時は、私はそれを至って普通と感じていた。その夜のうちに、私は嬉々としてその曲を仕上げた。
”lasting moment"
moonlight
青白くあふれてる
森のなか 霧が立つ
迷い込む記憶
届きそうな夢も
つま先の今さえ
まどろむ
moonlight
静けさに零れてる
露草が揺れている
遠くから聞こえる
やわらかな調べ
風に運ばれて
消えてく
見えないもの 見つめて 歩いてきた
少しずつ 何かが 変わり始めた
たどり着ける場所は まだ遠いですか?
夜を越えて・・・
夜を越えて・・・
moon
私はこの詩が出来上がった時、なんて美しい詩が出来上がったんだろうと思い、清書して封筒に入れた。そして、
「きれいな詩ができたよ。読んでね」
とだけの、短いメモ書きのような手紙も封筒に入れて、その翌日、私はデサに送った。
すると、1週間も経たないうちにデサからの返事が届いた。
柄本へ
元気?あまり元気じゃない?どうしたの、こんな詩、書いて・・・?柄本から手紙が届くと、わしはもう条件反射的に、「新しい詩が届いたんじゃ」って思ってな、慌てて封を切って楽しみに読み出したのに、・・・。読み進めるうちに、すぐに悲しい気分になったよ。
なんて言うたらええんかな?学生の頃の柄本をわしはよう知っとるけど、みんなと楽しいなることばかり考えていた柄本はな、わしから見たら全身からいろんな色が滲んどったんよ。その色がな、すっかり消えてしまって、柄本本人までが薄まっているようにわしは感じたんじゃ。柄本らしくないよ、こんな詩を書いて、きれいな詩が出来たって言うてるのって・・・。
いろいろ大変じゃと思うけど、お母さんを亡くした悲しみもそう簡単には癒えんじゃろうけど、元気になるよう、そして元気に暮らしていられるよう、わしは広島でいつでも祈っとるけん。また元気になった時、ギターを弾いてカセットに吹き込んだのをわしに送ってくれるの、わしは楽しみに待っとるけんね。
柄本、今はぼちぼち行くんよ。柄本なら、また昔のようにいろんな色を全身から滲ませるくらい、すぐにでも元気になれるよ。
私は、なぜデサはこの詩の美しさがわからないのだろうと不思議な気持ちになった。そのくらい、私は狂気だった。
その頃から肌寒くなる頃まで、私は、季節感のない毎日を心俯いたままに過ごしたのであった。
11月20日は美佐の誕生日だった。美佐は母が亡くなってから、相変わらず月に一度くらいの頻度で必ず実家に帰ってきた。その約9ヶ月間の間の美佐と私の記憶というものは、何もない。ということは恐らく、美佐が実家に帰ってきていても、美佐も私もお互いに全く干渉し合わなかったということだろうと思う。たまたまその誕生日の前日から、美佐は実家に帰ってきていた。どうにか実家という居場所にしがみつこうとしていた私は、まったく気の進まないままバースデイケーキと、そして何かプレゼントを買って家に帰った。もう何を買ったかなんてことは忘れてしまった。帰宅してすぐ、できるなら口も利きたくない美佐に、
「これ、・・・、誕生日やから・・・」
と言いながら私は包みを差し出した。すると美佐は不思議そうな顔をして、
「何、これ・・・?」
と訊いてきた。私は、ニコリともしない美佐に苛立ちながら、
「誕生日やんか・・・」
とだけ口にした。すると美佐が、
「・・・。あんたにこんなんしてもろたら、来月のあんたの誕生日に気つかってお返ししなあかんようになるやんか。余計なお金が掛かるようなこと、せんでええねん」
と、ごく当たり前のこと、そして正当なことを口にしているんだというような表情で話してきた。
すぐそばで父は、美佐と私のやり取りを聞いていたはずだった。聞こえない訳がなかった。それなのに父は、じっとテレビに目を向けたまま、一言も発しなかった。頭に血が上っていたが、それ以上に悲しくて、もう声を荒げる気にもなれず、
「せっかく買ってきたんやし、・・・、お返しなんか考えんでもええし、・・・、受け取るだけ受け取りや」
と言って、無理やり私は美佐にそれを押し付けた。
「そしたら、・・・、しゃあないし、・・・、もろとくわ。・・・。ありがとう、・・・」
と言い残して美佐は、台所に入っていって、そして私の夕飯の温めものに取り掛かった。
余計なことをするんじゃなかったと悔みながら、私は自分の部屋に上がって着替えを済ませて、またリビングに戻ってきた。そして食卓の前に座った。すると美佐が、
「あんた、このくらい食べれるやろ。もうご飯のジャー、洗うてしまうから・・・」
と言いながら、私の手元にご飯茶碗を運んできた。それを見て、私は驚いた。押さえつけて山のように高くご飯が盛られていて、そしてご飯茶碗の淵も見えないほどに、しゃもじにへばりついていたご飯が塗りつけられてへしゃげていたからだった。私は怒りをもう抑えられなくなって、
「お前はお母さんからこんなご飯のよそい方、教えてもろたんか?俺のお母さんはこんな恥ずかしいよそい方、する人やなかったけどな。それでお前はお父さんにもこんなご飯のよそい方、平気でするんか?」
と怒鳴りつけた。怒鳴っているうちにさらに頭に血が上って、視界がぼやけだした。すると美佐が、気にも止めていないふうに、そして人を馬鹿にしたように微かに笑みを浮かべたまま、
「何をこのくらいのことで怒ってるの?アホちゃうか。そんなん、お父さんにするわけないやろ。こんなんするんは、あんたにだけや」
と平気そうに言ってきた。その時だった。
「幸治、お前はええ加減にしとけよ。美佐がわざわざ尼崎から帰ってきてくれてな、飯の用意、してくれてるねんど。それを何や、お前は・・・。美佐に悪かったって謝れ」
と父に怒鳴りつけられた。馬鹿らしくなった。居場所にしがみついていることも、金を貯めていることも、詩を書いていることも、薬をポケットにいつも入れて持ち歩いていることも、孤独にただ仕事に打ち込んでいることも、・・・、日々24時間の何もかもがもう馬鹿らしくなった。冷蔵庫からビールを取り出して、夕飯には一切箸も付けず、私は自分の部屋に上がっていった。
部屋に入ってから、私はやたらにタバコをふかし、そしてビールを飲んだ。ビールがなくなれば、無言でリビングを横切って、冷蔵庫からビールを取り出して、父や美佐には見向きもせず、そのまますぐに自分の部屋に戻った。そうして悶々と過ごすうちに、母が救急で奈良・橿原のK病院に担ぎ込まれた時のことを思い出した。あの時、私は父に殴られた後、母がそばにいなくなれば父も、姉たちも、近すぎてもっとも危険な存在だという気がしたのであった。やはり、あの時感じて、そして考えていたことは、どうやら間違いではなかったのだ。いつまでもそんな家族に、無理をしてまでしがみついていてはいけない。あるいは、必要以上に近づいてもいけない。このまま行けば、もう体も心も悲鳴を上げているというのに、どうなるものかわかったものじゃない。
そんなふうな苛立ちにまかせた考えがぐるりと一巡すると、今度は、全く正反対の考えが浮かんできた。そんなことをすれば、空でお母さんが悲しむんじゃないか。そんなことをすれば、いずれは取り返しのつかないことになるんじゃないか。俺一人我慢すれば、すべてが丸く収まるんじゃないか。お父さんがお母さんと共に生きてきた中で培ってきた精神論や処世術を受け継げなくなったとしてもいいのか。
頭が休まらなかった。少しずつ心は落ち着きつつあったが、両極端の考えが忙しく私の中で、まるで終わりのない陣取り合戦かのように何度も何度もすり替わった。そしてそんなことが繰り返えされているうちに、最終的に私の中で、正解かどうかは別にして、私自身がこれ以上傷つくことのないようにという、ギリギリでとりあえずの妥協案が浮かび上がってきた。
もう美佐は外の人間だ。由美子もそうだ。俺はもう、この二人に話しかけられても返事もしない。お父さんは、どんな悔しい目に合わされても、それでもお父さんだ。それにどう考えても、やはり俺はお父さんを尊敬している。会社は、そこで過ごす時間がどれほど孤独な時間でも、尊敬するお父さんの会社だ。どんなに苦しくても、家でも、会社でも、お父さんを悲しませないということだけは肝に銘じていよう。そしてお父さんが言うように、男は仕事なんだ。目指す仕事の目標がいずれ形になった時、すべてはいい方向へ進み始めるはずだ。
腹が減ってきた。考え抜いた末の苦肉の妥協案に、私は納得した。というか、その時の私を取り囲む状況に対して、それ以上も以下もないように思った。もう父も美佐も休んでいた。台所に行って、私は冷蔵庫のおかず温めもせずに、冷蔵庫で冷えたご飯の上に乗せた。冷たかった。母が元気な頃なら考えられないことだった。悔しくて涙が滲んできた。それを振り切るように、冷たいものを口にかき込んでいった。その時だった。
「あんた、今頃になって何をゴソゴソ・・・」
と言って美佐がリビングの扉を開けた。私は無視をした。全く聞こえないふりをした。美佐は何かまだ言おうとしているようだった。しかし無視する私を不気味にでも思ったのか、すぐに背を向けて2階へと上がっていった。
恐らく父は、夏から冬にかけてすっかりと覇気をなくして話さなくなってしまった私を、じっと黙ったまま、決して余計なことを私に話しかけることもなく、ただ心配していたのだろう。そして恐らく父は、そんな私の様子は母を亡くした後の悲しみにのみ起因するものなんだと信じていたのだろう。そんなふうに私を見る父にできること、またそして、子供時代からの貧乏の壁をぶち破り、そこそこ願う生活を手に入れるまでの道のりの上で何よりも金だけを信じるようになった父にできること、それはやはり金を使うことだった。恐らく父は、金さえ目出度いほどに使えば、必ず私を悲しみから一気に救い出せると考えたのだろう。その一方で私は、そんなことよりも、ただ温かな家庭の温もりさえあれば十分なのに、といつも思っていた。そして願っていた。父はそんな私を一切知らなかった。そんな父は、いつもの行動力のままに、私のことを置き去りにするような勢いで動き始めた。
それは12月に入ってのことだった。
「幸治、喪が明けたら引っ越すぞ」
それまでの数カ月間、一度も見せたことのない嬉しそうな笑顔で、父は私に話しかけてきた。私が一人夕飯を済まし、台所の片付けなどを全部済ませ、自分の部屋へ上がろうとしていた時のことだった。
私は11月頃から、仕事を終えて帰宅した時に、父がいつも鉛筆と定規、そして方眼用紙を座卓の上に並べていたのを、そしてひたすらその用紙の上に線を引いてはじっと眺めていたのを横目に、いつも奇妙に感じていた。それはそうである。普段の父は、いつも自分のそばにゴルフクラブをおいていて、ふと何かを思いついたように、そしてグリップの握り具合を確かめるように、クラブを手にテレビを眺めているような人だったからだ。しかし私は、いつもと違うそんな父の様子に関しては、一切問いかけることはしなかった。というのも、悲しみに溺れていくばかりの私は、もうそれ以上余計な荷物を背負うことなどまっぴら御免だったからだ。ただ、父の普段とは違う様子を横目にやり過ごしながらも、また何か私にとっては良からぬことが始まりそうな、そんな嫌な予感は少しばかりしていた。
恐らく父の中では、11月中にはもう、ほぼ引越し後の青写真が出来上がっていたのだろう。いつものようにまた急にそんな話を聞かされて私は、
「なんでまた・・・」
と言うのが精一杯だった。私は、とりあえず父のそばのソファに腰掛けた。すると、父は私のほうに向き直って、
「大きい家に住みたいってずっと思ってたんや。お父さんと一緒に引っ越そ」
と嬉しそうに言ってきた。そう聞かされても私は、父が本当にそんなふうに思っているとは思えなかった。というのも、時々父は、心にもないことを嬉しそうに話すことがあったからだ。金を使って動くことで、何かがいい方向に動き出す可能性があるならそれでいいじゃないか、私は父がそんなふうに考えているような気がした。いくら嬉しそうに話して聞かされても、父の真意がどの辺にあるのかも掴めず、そしてまた、いつものように置いてきぼりにされている気もして、私は嫌だった。それに加えて、母との思い出がまた一つ、いやごっそり消えるような気がして、そのことも本当に嫌だった。そんな私の気配を察知してか、父は努めて明るく振舞うように、
「幸治、お父さんがおらんようになったら、その家は幸治のもんや。一生幸治はもう住むにも、食うにも、そして仕事するにも困らへんぞ」
と言って笑いかけてきた。そんなふうに父が話したことさえ、その真意を私は疑っていた。しかし、無理に明るく振舞うそんな父を、とても私が悲しませる訳にもいかず、そしてその理由なんてものもなく、私は無理に笑みを浮かべながら、
「お母さんおらんようになったばっかりやのに、そんなん、お父さんまで、俺がおらんようになったら、なんてこと、言わんとってや。それに引越しやなんて・・・」
とどうにか口にした。父はテレビのほうに顔を戻した。それはいつもの父の動きだった。そんな父のそばでしばらく腰掛けていると、久しぶりにそんなふうに笑みを絶やさず接してくれた父のことが、私は少しずつ嫌じゃなくなってきた。普段なら、父がそばにいるだけで私は警戒して用心するはずなのに、私はすっかり心を許し始めた。そしてそれ以上に私は、次第に、そんな父のそばにいることを素直に嬉しく感じ始めた。その久しぶりに感じる嬉しさを、私は途切れさせてはならないように思った。その嬉しさは私にとって、蜘蛛の糸ほどの細さながら、その先につながる希望の命綱のような気がしてきた。そして私は思い切って、嬉しそうに笑いながら、
「どこに引っ越すん?」
と訊いてみた。父は、その蜘蛛の糸に私が手を掛けようとしているというのがわかったのか、その後、父にしては珍しくよく喋った。
「盛田さんにな、先月、この辺にええ土地ないかって相談してな、最近まで探してもろてたんや。盛田さんにも、お父さんが描いた家の見取り図、渡してあってな、その見取り図にちょうどええ土地をずっと探してもろてたんや。せやけどな、どうもええ土地が見つからんでな。まぁ、土地に出会うんも縁のもんやって言うしな、・・・。そしたら盛田さん、つい最近、中古のええ物件の家が売りに出されたって言うてきたんや。あんまり期待もせんと、見るだけ見てみようって思って見に行ってきたんや。そしたらお父さん、その物件、気に入ってもてな。そこに決めようって今、思ってるねん。場所はな、お母さんと移り住んだマンションからまだ東のほうや。一回、幸治も一緒に見に行かへんか?」
話はもう、そのまま進んでいくというのがほぼ決まっているようだった。それでも父から、たとえ話はほぼ決まっていたとは言え、一緒にその物件を見に行こうと誘われるのは、温もりに飢えていた私には嬉しいものだった。
「うん、見に行きたいな」
と、私は父の誘いに素直に乗っかってみた。すると父は、心動き出した私を逃すまいとでも思ったのか、
「明日は残業がない日やな。明日は幸治、急いで帰ってこいよ。盛田さんには連絡しとくから、明日、お父さんと一緒にその家、見に行こう」
と、満足気に話した。
その翌日、私は夕方の6時前に帰宅した。帰宅する私を待っていた父が、私が家に上がってくるなり、
「幸治、急げ。すぐに出かけるぞ」
と言いながら、先に駐車場に向かった。私もすぐに着替えを済ませ、鍵をかけて、父の車に乗り込んだ。
久しぶりに国道168号線に出てきた。母と過ごした仮の住処のマンションの赤いレンガが、踏切を渡る前から見えてきて少しドキドキした。その辺りは私にとって、どこか忌まわしいものを感じさせる場所だという思いがした。父は普段と変わらない何でもないような様子で、軽々とその場所を通過した。私には出来ない芸当のように思った。その物件を見に行くことにまだ迷いのあった私は、私の心の内で感じていることをそのまま父に口にする勇気などなかった。
その場所を通過して、しばらく村の中を縫う旧道をくねくねと進むと、三叉路の交差点に出た。そこの信号に引っかかった。その交差点から東に向かって、片側2車線のきれいな道路が伸びていた。目を向けるとその道路は、どうやら一気に丘を登り切るためのものだった。その辺りに来るのは、ずっと地元に馴染みのなかった私にとって初めてのことだった。坂を見上げながら、私はふと、
「何や、急に新しなったな、左側の景色が・・・」
と呟いた。すると父は嬉しそうに話しだした。
「ここから向こうがな、真美ケ丘って言うて、ものすごいでかい住宅地や。関屋みたいなな、あんな狭いとことは違うぞ。食べもん屋も、本屋も、喫茶店も、そんないろんな小さい店から、スーパー、ホームセンター、病院も・・・、この真美ケ丘におったらな、大概のことは車でちょっと走らせるだけでそろうぞ。なかなかのええ街なんや」
父が購入しようと考えていたその物件は、その広い通りを東に10分ほど走らせて、その通りに交差する片側2車線の南北の通りを北上してすぐ、そこから東に入った辺りのきれいに区画整理された中の一件だった。その辺りに進入してから、
「ええっと、確かこの辺・・・」
と言いながら、父はゆっくりと車を走らせた。そして、
「ここや」
と言って車をその物件の前に停めた。車を下りて辺りを見渡したが、まだそこには盛田さんと思しき方の姿はなかった。嬉しそうに父は、
「どうや、なかなか格好ええ建物やろ」
と言いながら、通りに迫るほどの大きな建物を見上げた。正面に向いて右側には大きな門扉があった。そして左側は地下に向かって下っていて、そこを大きなシャッターが閉ざしていた。地下駐車場のように思われた。父と同じように、私もその物件を見上げてみた。街灯に照らされて浮かび上がった薄い青の混じったようなグレーの建物の塗装が、クールすぎて、そしておしゃれすぎて、私はそれを少し嫌味に感じた。どうも気取りすぎている気がした。心元気なら、私もそれを嫌味と取らず、そして気取りすぎているとも取らず、ただ素直に、父の言う「格好ええ建物」という感想を口にしたことだろう。しかし私には、そうはできなかった。私には、ようやく少しは住み慣れてきた関屋の実家のほうがずっといい、というのが正直な感想だった。しかし、とてもそんなことを言える状況ではなかった。父が垂らしてくれた蜘蛛の糸に私は手を伸ばし、そしてもう掴んでいたのだった。ドキドキしながら、
「ほんまやな・・・」
と口にした。嘘だった。それで精一杯だった。父に合わせて、少し喜んでみせただけだった。
そこへちょうどその頃、通りの角から盛田さんが現れた。名前は以前から何度も耳にしていたが、お会いするのは初めてだった。背が低く、どっしりとした体型で、一見厳つそうに見えるのだが、近づいて来るとその眼鏡の奥の瞳はかなり細いのだが、その輪郭が柔らかな三日月型のせいか、どこか人の心をほっこりと和ませるような感じの人だった。年齢は、恐らく父と同じくらいだろうか。
「どうもはじめまして。盛田と申します。お父様にはずっとこれまで、いつもお世話になっておりまして、・・・」
盛田さんは私より先に挨拶をされた。そして私に名刺を手渡した。私も慌てて、
「いえいえ、こちらこそ、父がいつもお世話になっております。そしてこの度もありがとうございます。よろしくお願いします」
と挨拶をした。
「この不況やって騒がれているご時世に、お父様の会社も益々繁盛されているようで、・・・、私みたいな一匹狼面して細々と不動産業に携わっている人間にとっては、こうしてご活躍されてるお父様のお世話させていただくことができるのは本当にありがたいことです。息子さんとご一緒に住まわれる家をご検討中ということで、なかなかいい土地が見つかりませんで、それで、どうかなと思いながらこちらの物件をお父様にご紹介いたしましたら、えらく気に入って下さって・・・」
すると父は、笑いながらそこに割り込んだ。
「そんなおべっかはええんや。盛田さん、それより、手数料、しっかり勉強してくれへんかったら、俺は買わへんぞ」
と、まるで盛田さんをからかうように話しかけた。すると盛田さんは、
「この盛田にどうぞ任せておいてください」
と、どこまで本当なのかわからないほど自信たっぷりの様子で胸を張った。そして、
「まぁ、ここで話してるのもなんですから、そして話してても息子さんに気に入っていただけるかどうかはわからないんですから、・・・」
と言いながら門扉を開けて、そこから玄関扉へと続く5,6段の階段を上っていった。そして玄関扉を開けて、先に父、そして私を通した。
中に入ると、そこは吹き抜けだった。右手には、木枠にガラスのはめ込まれた扉があった。奥の壁の左手にも同じ扉があった。思わず、
「何やこの家、・・・。こんな家、見たことないな」
と呟いた。そして私たちは玄関を上がり、スリッパに履き替えた。右手の扉の向こうは書斎のようだった。
「ここ、書斎か?」
とまた呟いた。すると父が私の後ろで、
「お父さんも一度は書斎、持ちたかったんや」
と言った。
玄関から見て奥の左手の扉の向こうはリビングだった。その手前、左手には階段があった。その階段の左側は2階に伸びていて、右側は地下に伸びていた。
「あぁ、これが外のシャッターのところの内側、駐車場に繋がってるんやな」
とまた呟いた。何度も呟く度に、私は驚きとともに、それ以上に怯んでいた。なぜか、こんな所に住めば大変なんじゃないか、というような気持ちでいた。すると父が、
「地下見て来い。駐車場だけと違うぞ。地下室もあるんやぞ」
と可笑しそうに言った。私は、目の前の扉を開ける前に、先に地下へ下りていった。地下室という響きが、やはり部屋に閉じこもることの多かった私には相当魅力的に感じたからだった。下りていくと、右手に鉄の扉があった。そこを開けると地下駐車場だった。今度は、左手の少し重ための木の扉を開けた。そこにはバーカウンターが作りつけられてあった。お酒好きの私はその作りが気に入ったし、そしてその部屋なら誰にも気兼ねなく、夢中になってギターに打ち込めるとも思った。気が付けば父が後ろに立っていた。驚いて私は、
「ほんまにこんな家、あるんやな」
と、とりあえず口にした。すると父は、
「気に入ったか?せやけどな、まだほかの部屋、全然見てないやろ。リビング、見に行こ」
と笑いながら言って、先に歩き出した。私はその地下室に魅せられて、つい先程まで思っていた「関屋の実家がいい」という考えを、いとも簡単にいつの間にかどこかになくしていた。
その後、一通り家の中を見て回って、帰りの車の中、父が、
「家の中もなかなかおもしろかったやろ。お父さんと一緒にあそこに移り住もか?」
と訊いてきた。正直なところを言えば、地下室が魅力的だったということ以外に、私の気をそそるものは特に何もなかった。そしていざ見終わって冷静になると、私はふと、私のそれまでの引越し歴、そして外での暮らし歴を思い、そしてぞっとした。東大阪の長屋から関屋への引越し、中学3年生の頃からは塾での泊まり込み、高校3年間の寮生活、京都で予備校時代も含めて5年間の一人暮らし、その間に実家が関屋の中で引越し、卒業後はすぐに群馬のF商事での研修期間のひと月の寮生活、アメリカでの1年間の海外生活、その後の実家での生活、その間のマンションの仮の住処での約2ヶ月の生活。そのことを思うとやはり、ようやく少しは馴染み始めた母との思い出の残る関屋の実家に私は留まりたいと思った。
忙しく私は、父の真意がどの辺りにあるのかをもう一度考えてみた。無口な私を救い出すためだけなのだろうか。母との思い出の色濃く残る場所に暮らしているのが辛いからなのだろうか。韓国の拝み屋さんに言われた、実家の地下の水脈の澱みというものが父の心に引っかかっているからなのだろうか。本当にただ引越しをしたいと以前から単純に思っていただけなのだろうか。父に、父の真意を問うてみようかとも思ったが、私はそれを思い止まった。というのも、父はいつも忙しくその先のことを考えているような人で、「あれはなんだったのか?」などといちいち過去を掘り下げられて質問されるのを何よりも嫌う人だったからだ。
なかなか返事をしない私に痺れを切らしたのか、
「幸治、どないするねん?あそこに一緒に移り住むんか?どないや?」
と少し苛立たし気に父が訊いてきた。私は慌てて、
「いや、僕が気に入ったかどうかばっかり、えらいお父さん、気にかけてくれるからな。お父さんはほんまに引越ししたいんかなって、ちょっと考えてたんや」
と言って、咄嗟にその場を切り抜けた。すると父が、私が母を亡くしてから私には親と呼べる人がもう父しかいないと意識したように、父もあの日から私の知らないところで、息子には親と呼べる人がもう俺しかいないと密かに意識していてのその焦りからか、そしてそれに加えて、本当はそんなことは口にしたくはないのだが、それでもその頃のどこか沈み気味の状況打開の必要に迫られてか、
「お父さんのことはな、ほんまにどうでもええねん。いずれはな、お父さんが先におらへんようになるねん。そして幸治がな、柄本家の人間として残っていくねん。幸治があの家、気に入ったんやったらそれでええんや。いずれは幸治がな、幸治の結婚相手と暮らす家になるんや。幸治はほんまのとこはどないなんや?気に入ったんかいな?」
と、その2日のうちに何度も聞かされた同じような悲しい言葉をまた口にした。父の真意がようやく掴めた気がした。父はきっと、その話口調は多少ぶっきらぼうだったのだが、世間一般人並みの親の役目を一親として立派に果たそうとしていたのだった。私はその時、父を悲しませてはいけないと肝に銘じた時のことを思い出した。
それは、美佐を怒鳴りつけた2週間ほど前のあの夜のことだった。あの夜、父は、美佐を怒鳴りつけた私を怒鳴りつけたものの、本当は美佐のぞんざいな振る舞いに対して怒っていたのかもしれなかった。父が昔、口にしたことを思い出した。「女の人はな、できるだけ悲しませたらあかんのや」。それは、父から母の病名”ALS”を初めて聞かされた時のことだった。父は何があっても、女の人を守る姿勢を貫く人なのだ。母に対しても父は、最期までその姿勢を崩さなかった。美佐に怒りをぶつけた私を怒鳴りつけることで、父はあの夜、美佐を傷つけることなく美佐に釘を刺したのかもしれなかった。父という人にはそんな廻りくどいところがある。
私は、女の人にそこまで気を回す父が、もういなくなった母の魂に対してまで、私がすっかり無口になり覇気のなくなったことを申し訳なく思い、そして責任を感じているんじゃないか、という気がした。そして私は、父がそんな思いから、何が何でも、手段も選ばず、悲しみに溺れていく私を一気に救い出そうとして動き出したんじゃないか、という気がした。もう父の真意は、私にはそれ以外に考えられなかった。
私は、本当は父に、「もうわかったから・・・。もうこれ以上は無理を重ねないでくれ」と話しかけたかった。しかし思い止まって考えれば、そんな弱気な息子の言葉が一番父を悲しませるもののような気がした。私はもう、父の信じる幸せの価値観が私のものとは全く噛み合わなくても、そして自分の心を置き去りにしたままにすべてが進んでいくことになったとしても、そのまま父の後に黙って続こうと思った。そして私は、努めて楽しそうなふりをして、
「お父さんはあの家、気に入ってるんか?僕はええ家やなって思ったで。お父さんが移り住みたいって言うんやったら、僕は嫌も何もないけど、・・・。せやけどあれやな、お父さん、・・・、あんな家、めちゃくちゃ高いんと違うんか?」
と話しかけた。すると父は、それには答えずに、
「よっしゃ、あの家に決めてしまおか。これでお父さん、やっと幸治のことでお母さんに責任が立つわ」
と、まるで肩の荷が降りたように嬉しそうに口にした。私は驚いた。父はやはり母に対して、私のことの全責任を感じ、そして抱えていたのだった。その後、少し間を置いて、父は熱く語り出した。
「幸治、・・・、あのな、・・・、高いかどうかなんてな、そんなもんはどうでもええんや。今年も大手の証券会社も破綻したやろ。銀行も潰れよる。そんなご時世や。それでもな、お父さんところの会社はな、バブル時代の他所の連中みたいに金ばっかり追いかけることはせんとな、自分とこの商品の品質ばっかり追いかけてきて、それでやっと今があるんや。見てみ、このご時世に、どこもかしこも暇やって言うてる時にな、お父さんとこは今も業績、伸ばしてるやろ。こんな真面目な会社がな、潰れることがあるとしたらな、日本中みんな、戦後の頃みたいに乞食になってるわ。真面目にやってたらな、最後の最後まで当てにされるんや。そしてな、どうにかいる分の金はな、自動的に回るんや。お父さんところと取引のある銀行も、あいつら今、みんな暇や。金ばっかりに目が眩んで、儲かるって思て、金貸し回って、回収できんようになって、山ほど不良債権抱え込んでっしまいよって、身動きが取れんようになってもて・・・。あいつら、行くとこないからうちばっかり覗きに来て、金借りてくれへんかって言うてきよる。そんな話、持ちかけられるうちはな、うちは信用があるってことや。困っとるんやから借りてやったらええんや。お父さんも助かるし、あいつらも助かりよる。それでええんや」
そんな父の話は全部、この日本という国の時世の動向の中で実際に父が全身で経験した事実に基づいた、そしてそれに裏打ちされた自信の漲る本当の話だった。そんな父の話の中には、父という人の内側の優しさや厳しさ、外側に対する悔しさや愛しさ、留まることなくなく先へ進もうという勇気や願いなど、いろんなものが詰まっていた。父の父なりの人生訓、処世術に、私はほんの少し触らせてもらったような気がして、私は胸が熱くなった。普段から何を考えているのかもわからない、自分からは進んで話さない、そんな父はきっと、いつも一人心の中で迷い、彷徨い、信じるものを探そうとして、何かに手を伸ばし、それをそばに置いておくべきかどうか悩み、覚悟を決め、それと真摯に向き合い、自分というものが間違ったことをしていないかを省みて、細部にまで確認作業を怠ることなく、全部自分の責任として背負い込みながら生きてきたように思えた。
熱い父の話に、私はようやく覚悟が固まった。父の勢いに巻き込まれるうちに、私はきっと悲しみから抜け出し、その先に広がる願う場所にきっとたどり着ける、私はそんな気がした。そしてそこにたどり着く過程での置き去りにしてしまう心なんてものは、きっと後から追いついてくるはずだ、という気もした。もうすべてはそれでいいと思った。
私は本気で父に言った。
「楽しみやな」
たぶん、本当だったと思う。すると、父が笑いながら言った。
「忙しなるぞ」
たぶん、本当だったんだろうと思う。
年末に、父はその物件の仮契約を済ませた。そして1996年の年明けから、取引先銀行との借入金額やその金利、そして返済期限などの交渉事を進め、2月に入ってすぐの頃に本契約を結んだ。その頃から父は、私をやたらと連れ回すようになった。リフォーム業者との打ち合わせや家具屋さん巡りをするのに、父は必ず私を引き連れて動き回った。リフォームが始まると、その進捗具合を週に2,3度は確認しに新居を父と二人で訪れた。
アメリカから帰国した頃からあれだけ深々と悲しみに沈んで、家族のことを危険だと言っては遠ざけ、それ以上に憎しみに近い感情を抱え、もう孤独に生きていくしか道はないんだと諦めたように悟ってしまったのが嘘のように、そして、父に引越しのことを話して聞かされてからは、「関屋の実家に住み続けたい」と口にできないままそう願っていたのが嘘のように、私はそんな慌ただしい日々の新しい風に舞い上がり、父と共にはしゃぐようになっていた。そんなふうにうまく浮き上がった私を見ての父は、悲しみから救い出すことができたということで、そして母に対する責任を果たすことができたということで満足そうで、それまで見せたことのなかったような自然な笑みをいつも顔に浮かべるようになっていた。とは言っても、すべてがうまく転がりだしたというふうには行かなかった。
思えば、渡米後すぐにホームシックにかかった頃から、私の心は、学生時代には想像したこともなかったほどに沈み始めたのだった。そして美佐がS病院で言い放った、「お前なんか、人間ちゃうわ」の一言から、私の「静」の時代が始まったのだった。1993年の5月から1995年の年明けまで、その間のほとんどを私は、悲しみから抜け出す術を探し見つけることもできずにただ怯え、そして一人震えていたのだった。
習慣とは恐ろしいものである。そう簡単には断ち切ることができない。魔の手のように全身に絡みつき、嫌がってみても体も心もその手に操られてしまう。何を前にしても警戒し、怯え、戸惑い、震えるといったそんな私の心や体の反応は、もうすっかり習慣化されていた。父がいくら嬉しそうに私を連れ回そうとも、リフォームが進むにつれて絵に描いたような幸せが想像もでき、そして心がうまく浮き上がろうとも、新しい家具を見に行って父と意見を楽しく交わし合おうとも、その時々の喜びが持続することは私にはなかった。一人になれば、私は必ず魔の手に操られ、そして一人震えるのだった。
今振り返れば、ただのバランスの問題だったように思う。振り子は右に振れれば、右に振った距離と時間だけ左に振れる。当然の理屈である。私の心という振り子は、悲しみの方向に2年近くも大きく振れ続けていたのだった。理屈を捏ねて言ってしまえば、それを喜びの方向へ振れるようになるのに最低同じだけの時間を要するということになる。そしてその後ほどほどの振れ幅、つまりは普通の生活が営めるほどの心の状態に戻っていくのには、さらにいくらかの時間を要するということになる。それを父が一気に数ヶ月で果たそうとし、そして私がそれにしがみついて一気に悲しみの海から抜け出そうというのは、どう考えても無理があるということであった。
父も私も、そしてその時代の人々も、恐らく、悲しみなんてものは動き回っては振り切って、そして消し去るものと考えていたように思う。そしてそんな時代の風潮は、この国の隅々まで行き渡っていたように思う。振り子の原理で言えば、悲しみも喜びも同じ数だけ、そして同じ時間だけ、入れ替わり交代交代に人の眼前に現れるものなのだ。目に見えていない時も、それらは消え去ったという訳ではないのだ。悲しみを消し去ろうと意識するあまり、いつも悲しみばかりを見つめる習慣を人は身につけてしまうのかもしれない。今の私は、悲しみなんてものはそこにあるのを当然だと見倣して、そのまま放っておけばいいもののように思っている。しかしあの頃の私は、そうではなかった。父もそうではなかった。ただ敵と見倣し、それを必死に振り切ろうとしていた。そして消し去ろうとしていた。そして必ずそうできると、二人とも信じていた。
2月の母の命日に一周忌法要を終えて、その週末に新居に引越した。その当日は美佐夫婦、由美子夫婦も手伝いに来てくれた。姉たちは父と一緒に先に新居に乗り込み、引越し業者によって運び込まれた家具や新しく届いた家具の中に、細々としたものを次から次に収める作業に当たっていたようだった。美佐の夫・英明と、由美子の夫・崇、そして私は、関屋の実家に置いてきぼりにされた古い家具やその他にも細々とした不用品を、その日の夕方に引取りに来てくれることになっていたゴミの収集業者に運び出してもらえるよう、庭に運び出す作業に当たっていた。
階段を上がってすぐ右手の部屋の奥の倉庫には、東大阪で暮らしていた頃の小さな食器棚があった。その表面の薄いプラスチックの化粧板は、長い年月の中で、太陽の光を一日のうちにほんの数時間でも毎日浴び続けていたせいか、変色して木目調の色が薄くなって白んでいた。すっかり遠くなってしまった東大阪での日々のことを思い出した。そのそばに、足元に埃を積もらせたパイプハンガーがあった。確かに、急にパイプ家具が流行りだした時代というものがあった。深夜の通販番組で、パイプベッド、パイプハンガー、パイプラックなど、様々なパイプ商品が売られていた頃のことを思い出した。母の部屋に置かれていた、母の小物が山のように積み上げてあった古いテーブルのその表面は、家族の歴史を静かに物語っているかのように、様々な擦り傷が外の光で浮き上がっていた。なぜか小学生の頃の夏の暑い日、母お手製の梅ジュースを汗だくになりながらそのテーブルの前に腰掛けて飲んだ時のことを思い出した。
思い出す様々な景色が引き金となって、振り切るにも振り切れるはずもなかった悲しみが激しく暴れだしていた。それを必死で堪えながら、私は義理の兄たちと言葉少なめに作業に当たっていた。
昼過ぎに父がやってきた。その頃にはもうほとんど細かいものは庭に出されていて、後は母の部屋のテーブルと奥の古い食器棚だけだった。
「どないや。もうほとんど片付いたんか?」
そう言いながら父が上がってきた。英明がいつものように調子よく、
「お父さん、えらい埃ですわ。せやけど、崇くんと僕が頑張ったんで、あともう少しです。幸治くんは、なっ、・・・」
と言いながら、ニヤニヤと笑って私のほうに振り向いた。私をからかっているような瞳だった。相変わらずだと思った。そんな英明を気にも止めずに父は、家の中をバタバタと見て歩きだした。その後に私たちも続いた。
「なんや、食器棚とテーブルがまだか、・・・。」
父がそう言うと、英明が、
「今から担ぎ上げて、庭に運び出すとこです」
と言った。すると父が、
「ほかすんやから、そこのベランダから外に放り投げたらええんや。おい、英明、崇、こっちに持って来い」
と言って、父は母の部屋のベランダの窓を開けた。英明と崇が食器棚を運んでいった。
「こっから放り投げろ」
と言う父の号令で、食器棚は二人によって庭に落とされた。私はベランダの隅でそれを見ていた。私の目の前で、ガシャンという音とともに食器棚はバラバラになり、その破片はその周囲に散らばった。私の心までバラバラになり、散らばったような気がした。
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