第19話

 新居に移り住んでからの父は、ほんのしばらくの間は実に浮かれ調子だった。その一方、心崩れ散った気分のままに新居に飛び込んだ私はと言えば、そんな父の調子にどうにか合わせようとただ必死だった。その努力の甲斐もあってか、移転当初だけは、どうにか父と私の新生活も順調に滑り出したかのようだった。しかしそれは長くは続かなかった。というのも、どうやら父には私がまだ悲しみの淵に留まっているのがお見通しだったのかもしれない。恐らく父にすれば、私を救い出そうとして、そして母に対する責任を果たそうとして、それまでの数ヶ月の間お金を叩くだけ叩いて動き回ったのだが、思いのほかすんなり浮き上がってこない私が面白くなかったのだろう。ほんの2週間ほどの間に、父の浮かれ調子は次第に薄れていった。そんな父を前にして私は、それまでにも増してひどい緊張感を背負い込むようになり、無口になっていった。それは私にとっては、一縷の希望の蜘蛛の糸は切れてしまいそうという、どうしようもなく不安な気持ちだった。そしてその後、その蜘蛛の糸をプツリと断ち切ってしまう、そんな止めとなってしまう小さな事件が起きた。

 引越しを終え、移り住んで1週目の週末のことだった。父はどこかで買ってきたのか、印象派のモネの「日の出」の絵のそこそこ立派なレプリカを持ち帰ってきた。リビングのテーブルにそれを置いて、ダンボールに巻かれた紐をナイフで切る父に、

「何をまた、買ってきたん?」

 と私は訊いてみた。その頃はまだ、二人の新生活もどうにか順調な頃だった。私は、余計な気負いもなく素直に父にそう訊いてみることができた。

「モネや。モネの本物とはちゃうで。せやけどな、ちょっとなかなかええレプリカやで」

 そんなことを言いながら、父はダンボールの蓋を開いた。アメリカに滞在中によく訪れたシカゴ美術館で見たモネの「睡蓮」を思い出した。私は、あの頃は特に、光や空気、気温、そして季節さえも散りばめたような、そんなモネのふくよかな絵が好きだった。私はその絵を前にして、様々なものの散りばめられたモネ独特の世界観にうっとりとしながら、

「モネは僕、好きやな」

 と呟いた。すると父が可笑しそうに、

「お前にモネの良さの何がわかるねん」

 とからかってきた。そんな父とのやり取りも、私の中では後悔と希望のギリギリのせめぎあいが続いていたとは言え、心温まるものだった。

 その1週間後のことだった。事件が起きてしまった。

 ようやく新居の中も片付いて、後はそこでの暮らしに慣れていこうという頃だった。珍しく父は、朝からシャワーを浴びていたようだった。私は仕事が休みで、9時頃まで2階の自分の部屋で休んでいた。起き出して部屋から出ようとした時、吹き抜けの玄関先から大きな音が聞こえた。何かが落ちて、床に叩きつけられたような音だった。きっと何かが壊れたに違いないと思って、私は慌てて2階の手摺のところから玄関先を覗いた。するとそこには、玄関を入ってすぐ正面の壁に吊り下げられてあったモネの絵が床に落ちていて、そのフレームが砕け散っていた。私はすぐに階段を下りていった。そして絵が落ちた場所のすぐそばで、なぜ落ちたんだろうとぼんやり考えていると、父が私の左手奥、お風呂場から出てきて、洗面所の前を通って私のところにやって来た。父の顔色を見て、私は、「あっ、疑われている」と思った。そして緊張して何も話せなくなった。

「幸治、お前、触ったんか?」

 やはり父は私を疑っていた。私はドキドキしながら、否定しようとした。

「起きて部屋から出ようって思ったら、ガシャンって音、聞こえて、上から見たら・・・」

 そんな私の話を父は遮った。

「そんなもん、絵が勝手に落ちるわけないやないか」

「せやけど、ほんまに・・・」

「もうええ、片付けて捨ててしまえ」

 とだけ言い残して、父は書斎に消えていった。

 私は疑われたまま、その場に一人取り残された。その絵は結構な重さのあるものだった。私はビスが打ち込まれていた壁の箇所を見てみた。壁はどうやら石膏ボードのようだった。石膏ボードのような柔らかい素材では、ビスにかかった絵の重みに耐え切れなかったのだろう。そのビス穴の円は下に向かって押し広げられていた。そのことを、私は父に話す気にもならなかった。腹が立っていたというのもあったが、それよりも、勝手に私を疑って私の話を聞こうともしない父を引き戻して話したとして、あれだけ言いたいだけ言った父が壁の穴を確認した上で自分の非を認め、そして私に詫びてくることを考えると、それはそれでとても気の毒なことように思ったからだった。私は一人ゴミ袋を台所から持ってきて、散らばったクズをその中に放り込んで、最後に掃除機をかけた。私にできることはそのくらいだった。片付けた後、私が一人で全部済ませたことで、きっと父は私のことを疑惑の目ではなく確信の目で見ることになってしまったことだろうという気がして、嫌になった。関屋の家のほうがよかったと思った。動き回るだけ動き回って、身も心も金もすり減らして、真新しい馴染みのないものばかりに囲まれて、浮かび上がりすぎた生活をお互いとも守ろうとしては力が入るばかりの毎日で、終いには何もしていない私が一方的に疑われて、・・・、そんなことを思っていると、いろんな思いの末に越してきたというのはわかってはいても、すべてが無意味だったように思った。

 その事件を境に、父と私の間にはすっかり距離が開いてしまった。必要なこと以外、お互いに何も話さなくなってしまった。仕事が終わって帰宅しても、父はリビングで一人テレビを観るようになって、私は一人自分の部屋にこもってギターを弾くようになってしまった。関屋から新居に場所を移し替えただけで、二人ともやっていることは関屋の頃と何も変わず同じままというところに結局は落ち着いてしまった。

 3月の中頃を過ぎた頃のことだっただろうか、新居のお披露目ということで親戚の者たちが我が家に集まった。お昼前から父の兄弟から従兄弟まで、そして姉たち夫婦も、いろんな人が訪れた。誰もが口にすることは一緒だった。

「幸治くん、よかったな。こんな立派な家に引っ越すことができて・・・。お父さんのおかげやな」

 私は、誰もが同じことを口にする度、適当に嬉しそうに微笑んで、そして適当に頷いて、ただ苦いだけのビールを飲み続けた。そうしないではやってられなかった。

 由美子夫婦は週に2度ほど、私が残業のない時と週末に合わせて、新居で一緒に夕飯を食べるようになった。そんなことは、関屋で暮らしていた頃には一度もなかったことだった。そして美佐夫婦は月に2度ほど、二人でわざわざ尼崎からやってくるようになった。まるで姉たち夫婦は新居のことを、真新しいテーマパークとでも思っているんじゃないかと思うほど、やたらとよくやってきた。姉たちと話さないと心の決めていた私は出かければいいものを、日々の仕事と引越しの慌ただしさの中で心身ともに疲れ切っていて、結局は夕飯時、集まった者たちとともに食卓を囲まなければならなかった。そのことがただ苦痛だった。

 4月に入ってばかりのある日のことだった。美佐夫婦もいた。由美子夫婦もいた。みんなで食卓を囲んでいた時のことだった。由美子が父に、

「お父さん、ハワイにゴルフ行く日取りは決まったん?」

 と尋ねた。父は微笑みながら、

「うん、1週間後に決まったんや」

 と笑いながら答えた。美佐が、

「そんな早うに、・・・。もっと先なんかなって思ってたわ」

 と口にした。すると可笑しそうに父が、

「行きたい時に行きたい場所に行くんが一番値打ちがあるんや」

 と言って笑った。どうやら、父がハワイに旅行に行くことを知らないのは私だけのようだった。私は悔しくて、早くその場を後にしようと思い、急いで飯を掻き込んだ。すると英明が、

「どないしたん?急に急いで食べだして・・・」

 と可笑しそうに訊いてきたから、私は、

「友達に連絡せなあかんこと、思い出して・・・」

 と言って慌てて食事を済ませ、2階の部屋へと駆け上がっていった。外の姉たちが父の動きを知っていて、内の私が何も知らない。情けなくて、悔しくて、涙が溢れてきた。関屋の家なら、これほどまで頻繁に姉たち夫婦が来ることもなかった。この新居よりもずっと静かだった。あの頃、いくら日々が悲しいとはいっても、あの静けさに癒されていたような気がする。この新居では、あの頃の静けさなど求めることはできそうにない。関屋がやはりよかったのだ。今頃、食卓の前で、急いで2階に上がっていった私のことをきっと父は心の中で、「ここまでしてやったのに、あいつは・・・」と詰っているに違いない。そんなことばかり考えていると、私にはもうどこにも逃げ場はないように思えてきた。

 しばらくじっと自分の部屋で過ごしていると、少しは心も落ち着いてきた。すると、このままではいけないように思えてきた。少し冷静になって日々の悲しみを見つめてみた。私の悲しみというものは、そのうちのいくつかは私の習慣化された思考、そして行動に起因するものなのかもしれないと思えたのだが、そのすべてをそれで片付けようとする必要はないようにも思えた。理不尽な出来事ばかりに振り回されていること自体が、何か馬鹿馬鹿しいような気がした。そしてその中で留まっていること自体がすべての問題の原因であるようにも思えてきた。

 父がハワイから帰ってきたのは4月の後半に入った頃だった。父が不在の1週間は静かな時間だった。姉たちからは連絡ひとつ入らなかった。ずっと望んでいた静かな時間だった。私は一人仕事に行き、帰宅し、買ってきた惣菜で夕飯を済まし、気ままにギターを弾いて過ごすことができた。そんな時間を過ごすことができたのは、アメリカで生活していた頃以来のことだった。

 その週末、また姉たち夫婦が父の土産話に群がるように集まった。一度気ままな時間を貪ってしまった私にとって、それはただの苦痛以上に苦痛なことだった。

「お父さん、ハワイ、どうやった?」

「そんなもん、お父さんが旅行が行ったら決まってるやないか。飛行場に着いたらそのままゴルフ場に直行して、毎日ゴルフ場に通って、それで帰りはゴルフ場から飛行機に間に合うように飛行場に向かうんや。ほとんどそれだけや」

「何か他のことはせえへんかったの?」

「一回だけな、カジキ釣りに行ったんやけどな、餌のカツオを釣った時点で退屈してもてな、そのまま船を戻して、またゴルフに行ったんや」

「他は?」

「ゴルフでボールを打ち回って、夜は金を使い回ってな、・・・。ほんま、それだけや」

「へぇ~、・・・」

 姉たちと父のそんな会話を食卓の前で聞いていて、私には、嬉しそうに話す父が何がそんなにも嬉しいのか、そして姉たちは何をそんなにも羨ましそうな顔をしているのかがさっぱり理解できなかった。食卓を囲む者の中で、私だけがそこに紛れ込んだ余所者のような気がしていた。母がいればきっと、このような会話の中にも何らかの慎ましさが見え隠れしたことだろうと思った。そしてきっとその慎ましさのおかげで、誰もが図々しいまでに欲どしい顔になることもなく、そしてみっともないほどに妬ましそうな顔をすることもないように思った。そんなことを思っていると、不意に父が話しだした。

「あのな、もう喪も明けたしな、これからはみんな、好き勝手に働いて、好き勝手に金使って、自由にやったらええんや。お父さんもな、もうこれまで十分すぎるくらい頑張ってきた。もうこれからはな、お父さんのすることに余計な口出しはせんどってくれよ。これからお父さんはな、とにかく好き勝手に自由に暮らすんや」

 姉たちは普通に頷いた。私はそれを聞いて、そしてそんな姉たちを目にして、我が家から完全に「昭和」が消えたような気がした。母が亡くなる少し前に、母がいなくなれば母が守り抜いた温かな「昭和」の雰囲気が我が家からなくなるんじゃないかと危惧していたのだが、こんなにもあっけなく、まるで突如シャッターを閉ざされ締め出されたかのように、「昭和」の幕が父の一言で下ろされることになるなんてことは思ってもみなかったことだった。

 ちょうどその時、テレビの画面の中で、あるお笑い芸人が服を脱いで裸で暴れ回っていた。美佐がそれを見て、

「あの人、いっつもあんなことやって、・・・、ほんまに頭、ちょっとおかしいんとちゃうやろか?」

 と小馬鹿にするように口にした。すると、英明も、崇も、由美子もその話に乗りかかって、その芸人のことを、これでもかというくらいに酷くこき下ろした。それはもうとても一緒になって笑えるようなものでなく、私は自分の部屋に上がっていった。

 部屋でタバコを吸っていると、私の中で静かに雪が降り出した。母が悲しむ私の身近にいるのを感じた。私はその景色の中に飛び込んで、もっとたくさんの雪の中を歩きたいと願った。すると、すぐに私の周りには、目の前の景色さえ霞んで見えなくなるほどの大雪が吹き荒れだした。私は、雪にかき消されそうなままにその中を歩き続けた。途中、私は立ち止まって両手で雪をすくってみた。そしてその結晶を眺めてみた。私はそれを慎ましいと思った。慎ましさとは人知れず自ずと美しいものだと思った。雪の結晶は母の心の美しさそのものだと思った。

 ふと私は我に返り、「一人で北海道に行こう」と思った。それはきっと、このまま家にいるのはよくないという思いが私の中にあったからだったと思う。しかしそれ以上に、まだゴールデンウィークならどこかの山に登ればきっとたくさんの雪に触れることができるんじゃないか、そしてそこできっと母に会えるんじゃないかという、ふと湧き上がってきたその思いのほうがずっと強いものだったからかもしれない。北海道のどこを目指していこうかとぼんやり考えていると、ふと私は、いつ何の情報でそれを知るに至ったのかは忘れたが、そしてまたそれが確かな情報かどうかもわからなかったのだが、旭川は日本で一番美しい雪が降る街だということを思い出した。とにかく旭川に行こうと思った。そしてどう過ごすかは、現地でその時々に考えようと思った。

 とにかく、もうゴールデンウィークまでは1週間ほどしか時間がなかった。私は次の日、配達途中に旅行会社に立ち寄って、そこでゴールデンウィークの期間に大阪-旭川の航空券が取れるかどうかを確認してもらった。すると、往路4/30、帰路5/5に空きがあるということで、私はその航空券を発券してもらった。次にその期間のレンタカーも手配してもらった。宿に関しては、どこで何をするかの予定を全く立てていなかった訳だから、1軒の宿も予約を取らなかった。航空券を手にトラックに乗り込んで一人になってようやく、久しぶりに起こした誰の指図も受けない自分の思いのままの行動に、そして1週間後には北海道に降り立っているんだということに、私の胸が高鳴り始めた。

 その日の夜、帰宅して、一応父にはゴールデンウィークの北海道旅行について報告だけしておこうと思った。私は一人夕飯を済ませ、テレビを観ている父に話しかけた。

「お父さん、ゴールデンウィーク、4月の月末から5月の5日まで、ちょっと、北海道に行ってくるから・・・」

「なんやそれ?・・・」

 父の顔色が曇った。

「せやから、旭川とか、富良野とか、あの辺に行ってこようって思ってるねん」

「なんや、それは、・・・、ひとりで行くんか?」

 父は不思議そうだった。

「そうや、・・・」

 父は私のことを、きっと、家族からも社会からも一人で逃げ回る意気地なしと見倣していて、どこまで逃げ回るつもりなのかと苛立っていたのかもしれない。

「なんしにひとりで旅行なんかするねん。お前の考えてること、お父さんには全く理解でけへんわ。なんやそれ、ほんまに・・・。ゴールデンウィークに飛行機のチケットなんか取れへんのんとちゃうんか?」

 私は、父に馬鹿者扱いされているような気がした。

「チケットは、・・・、もう取れたんや」

「勝手にせえ」

 勢いよく言い放って、そのまま父は口を固く噤んだ。その口元から判断して、「もう話しかけるな」と父が拒否しているように感じられて、私は黙ってその場を離れ、台所で片付けものに取り掛かった。

 その次の夜は由美子から電話があった。どうやら父は、私のひとり旅を由美子に話したようだった。一頻り、由美子は私に、

「あんたは何、考えてるんや。お父さん、ゴールデンウィークどこも行かんて言うてるのに、一人で可哀想やって思わへんのか?あんたの考えてること、普通とちゃうわ。私には全然理解でけへんわ」

 など、その他にも散々詰られた。私は面倒で、一言も返事しなかった。すると由美子は、

「聞いてるんか?返事もでけへんのか?」

 と電話の向こうで怒鳴り散らした。が、私は、一言も返事する気にさえならなかった。どうしてでも私を悪者にしようとして、そして罪悪感を植え付けようとしてくる人とはもう、言葉を交わす気にもならなかった。結局最後は、由美子は電話を叩き切った。

 その次の夜は美佐から電話があった。美佐が私のひとり旅のことを、父から聞いたのか、それとも由美子から聞いたのか、その辺りのことはわからなかった。しかし美佐の口から出てくる言葉は、その前日の由美子の言葉とほとんど同じものだった。よって私は、また一言も返事をしなかった。結局最後は、美佐も電話を叩き切った。

 その後は旅行当日まで、何も起こらなかった。由美子夫婦が旅行2日前くらいにやってきたのだが、そして食卓を一緒に囲んだのだが、一言も話さなかった。詰られもしなければ、北海道のことについても何一つ話題にも上がらなかった。

 当日の朝、私はリビングにいた父に、

「いってきます」 

 とだけ声をかけてみた。父は、

「おう、気いつけてな」

 という、全く気のない返事を返してきた。

 ただ旅行に出るだけで、なぜにこんなに精神的に追い詰められるのだろうという情けない思いのままに、私は家を後にした。

 新居のある真美ケ丘という広大な住宅地には、その南北を突っ切る遊歩道が整備されていて、それは五位堂駅という駅の前にまで続いていた。私は住宅地の中をトボトボと歩いて、その遊歩道に出た。遊歩道沿いには、様々な木々の新芽が顔を出していて、その薄い緑が朝日の中で光りながら揺れていた。最後に季節を感じながら外を歩いたのはいつだったかを思い出そうとしたのだが、どうやらやはり相当昔のことだったような気がするだけで、とても私には思い出せなかった。そんなことを思いながら歩いている時のことだった。急に足元が揺れだした。股関節辺りから下が全く力が入らなくなって、足を一歩前に出すのがやっとというような状態になってしまった。スタスタと歩いて駅に向かう多くの人の中で、私だけが普通に歩くことができないというのがなぜか恥ずかしかった。しかしそんなことよりも、誰ひとり私に顔を向けようとする人がいなかったのが、というか、私などその遊歩道に存在していないかのように普通に前を向いて歩いていく人ばかりだったのが、衝撃だった。どうにか足を一歩ずつ運んで、普段の倍以上の時間をかけて五位堂駅に到着した。その頃には足の症状は、力がもと通りに戻ったというまでにはなっていなかったが、どうにか普通に歩けるほどまでには回復していた。その後約20年の間に、私はその症状を何度も繰り返すようになった。ほとんどの場合、張り詰めていた緊張が解けた時、その症状が現れた。最近になって、それは失立症と言って、精神的なものが原因として起こり、一時的なものが多いということを知った。

 伊丹空港に到着した。空港というところは不思議な場所だ。こちらから無理をしなくても、あちらから心を弾ませてくれるようなところがある。そうとしか言いようがない。私は空港に到着してすぐに、もうすっかり日々の悲しみを忘れていた。母が私を素敵な世界に導いてくれるような気がして、その期待感だけで私の心は弾んでいた。


 旭川空港に着いたのはお昼前だった。先ずは雪だと思った。それ以外には何も浮かばなかった。空港内のレンタカー会社のカウンターに向かった。するとカウンターに近づいてくる私を見て、受付の方が親しそうに、

「柄本さんですか?」

 と訊いてきた。その親しみのこもった応対に、私は、大阪の街も、その周辺の街も、そしてそこで暮らす人々も、何もかもが狂っていると思った。久しぶりにただの「人」に会えたような気がした。もうそれだけで北海道にやってきただけのことはあったように思った。

「そうです。柄本です」

「じゃあですね、今から当社の事務所のほうに向かいます。すぐそこに車が留めてありますんで、そちらのほうへ・・・」

 と言ってその方は先に歩き出した。私も続いて歩き出した。そして外に出た。外の空気を吸い込んだその瞬間に、これだ、と思った。北海道に下り立つのは、学生の頃バイクでツーリングした時以来4年ぶりだった。あの頃と同じだった。空気がとにかく新鮮に感じた。もぎたてのトマトを口に含んだ時のような新鮮さを感じた。新鮮で、そして甘かった。疲れた身も心もたっぷりの栄養を含んで、急速に癒えていくような感触を覚えた。

「桜はまだですか?」

 と尋ねてみた。自然に言葉が口から滑べり出た。

「もうそろそろですかね。今回はご旅行ですか?」

「そうです。雪を見たいと思って・・・。どこか雪がいっぱい残ってるところ、あります?」

「旭岳に行ってロープウェーで上まで登ればですね、まだ積雪が1,2mくらいあると思いますよ。春スキーがまだ十分楽しめるくらいですから・・・」

 私は一番に、旭岳に向かうことにした。

 レンタカーの手続きをすべて済ませ、私は空港から車を東へと走らせた。東神楽の町の通り沿いに並んでいた家々の数も次第に少なくなっていき、30分ほどで忠別ダムに差し掛かった頃には、建物らしきものは私の視界にほとんど入ってこなくなった。私は車の窓を開けた。寒さを感じないわけではなかったが、そのほうがずっと気持ちよかった。そして空気の味を楽しむことができた。ダムの脇を通り過ぎて、道が二手に分かれるところに来た。右手前方が天人峡方面で、左手に折れれば旭岳方面だった。左手に折れると、すぐに忠別川を渡る大きな橋が掛かっていた。日差しはすっかり春の日差しで、眼下には澄んだ水がキラキラと輝いていた。雪解け水だろうと思った。そこから先の景色が素晴らしかった。朝日岳に向かって続く緩やかな上り坂の両脇には、新芽を今まさに開けようかという雑木の林が広がっていた。その足元には、雪解けを始めた残雪が木漏れ日の光を浴びて瑞々しく銀白に輝いていた。私は、所々で車を停めては木々の足元を覗き込んだりしながら、旭岳の麓を目指した。春を待ちきれずに雪を突き破った蕗の薹が、あちらこちらで生まれたての淡い緑の頭を銀白の中に覗かせていた。どこに目を向けても、命が命の喜びのままに懸命に生きている姿が私の目に飛び込んできた。それに誘われるかのように、私の命までが大きくざわめいているのを感じた。当たり前のことだが、私も生きていると思った。そんなことを久しぶりに思えたことがただ嬉しかった。

 お昼の2時頃だっただろうか、旭岳ロープウェーの山麓駅の建物の前に到着した。そこはもう旭岳に迫りすぎていて、とてもその全貌を視界に捉えることはできなかった。ただ目の前には、なだらかに上へと伸びるその斜面に背高いダケカンバなどの広葉樹、その他にもトウヒ、トドマツなどの針葉樹などが植わっていて、その木々の間に私の想像をはるかに超えるほどの雪景色が広がっていた。山頂を目指せばとんでもないほどの量の雪に出会えそうな気がして、胸が高鳴った。

 すぐに駅構内に入ってチケットを購入した。そして乗り口に向かうと、そこにはスキー板を抱えたたくさんのスキーヤーが列をなしていた。誰もがスキーウェアに身を包んでいて、観光するためだけに訪れたとすぐにわかってしまうような軽装姿でいるのは私だけだった。

「何方かお一人の方はいらっしゃいますか?」

 乗り口で定員人数を数えていた係の方が声を上げた。すかさず私は手を挙げ、

「私、一人です」

 と声を上げた。前へお進みください、急いでくださいと係の方に言われ、私はすぐにゴンドラに乗り込むことができた。

 姿見の池駅に到着するまでの約10分間の間に、眼下では、森林限界を超えるあたりから背の高い木々は次第に姿を消し、ハイマツなどの背丈の低い木々がそれに代わった。そしてその低い木々のほとんどは、雪面からほんの少し頭を覗かせているだけで、ほとんどその姿を雪に隠していた。

 姿見の池駅に到着して、スキーヤーに混じって私もゴンドラを下りた。スキーヤーは板を抱えながら、私と反対方向へ歩いていった。私は一人、山頂に向かって歩き出した。山頂に向かえば、人の足でまだ踏みつけられていない真っ新な雪に触れることができると思ったからだった。しかし、しばらく踏み固められた雪の上を歩いてみると、すぐに雪の壁にぶつかった。もうそこから前へは進めなくなった。私はその場で立ち尽くした。遠くに山頂が見えた。そしてどこかの火口から立ち昇る煙も見えた。しばらくその景色をじっと眺めていた。すると私は、一瞬、母が空の辺りから私を見下ろしているような気がした。私は懸命に母の姿を探し始めた。そして私は、山頂附近で母が微笑んで私を見つめているのを見つけた。母は、私に見つかるまいとでも思っていたのか、少しはにかんでいた。そんな母を見つめていると、母のほうから私に声をかけてきてくれた。

「幸治、お母さんを探してここまできてくれたんやな」

「お母さん、何でここにいてるん?」

「幸治がな、雪を見に来るの、お母さんにはわかってたんや。せやからな、先にここに来て、幸治が登ってくるのん、ほんまはお母さん、待ってたんや」

 私は母に甘えるように愚痴りだした。

「もうな、毎日がな、ほんまめちゃくちゃでな、ずっと苦しかったんや。それでな、ふと雪の多いとこに来たらお母さんに会えるって思って、・・・、それでここまで来たんや」

「うん、知ってるよ。・・・。幸治、今、ちょっと大変やな。全部、お母さんは知ってるよ。せやけどな、大丈夫やで。安心してたらええ。それしかな、こっちにいるお母さんには言えへん。・・・。幸治のことはな、お母さんが一番よう知ってる。幸治はな、大丈夫や。この先、何があってもな、大丈夫なんや。幸治はな、護られてるねん。これだけはほんまやで。ただ安心してたらええんよ。幸治はな、ほんまにええ子なんやから・・・」

「こんな僕、どこがええ子なんや。お父さんとも、お姉ちゃんらとも全然うまくやれんで、会社でもずっと一人で、・・・、どこにも馴染むことがでけんで、・・・」

「幸治、いろんなことが起きるもんや。せやけどな、お母さんがな、大丈夫って言うんやから、なっ、絶対大丈夫や。幸治、・・・、お母さんの言うことは信じれるやろ?」

「・・・、うん、・・・」

「じゃあ、黙って安心しとき。幸治はな、優しいて、強うて、たくましい、ほんまにええ子なんやで。自信持って、ただ生きてたらええや。それだけでええんや。わかったか?」

「・・・、うん、わかった」

 私はやはり母の前では絶対に素直だった。その時だけは、本当に自分のことを信じようと思えた。ふと私は話を変えた。

「なんで急に僕、雪を見たいっていうて、それでなんでまた急に、北海道に来ようなんて思い付いたんやろな?」

 すると母が可笑しそうに笑った。そして話しだした。

「幸治をな、少し休ませてあげよって、お母さんがな、思ったんや」

「なんや、お母さんが僕、ここに運んでくれたんか?」

 私まで可笑しくなってきた。すると母が、少しかしこまって話しだした。

「幸治、この旅行ではな、先に言うのもなんやけどな、・・・、幸治にええことがいっぱいあるからな。しっかり休んで、楽しんで、美味しいものいっぱい食べて、それでお父さんとお姉ちゃんらのところに帰るんやで。元気になって帰るための旅行やで。なっ、わかったか?」

「うん、わかった」

 そこまで話すと安心したのか、母はニコリと微笑んで手を振って、背を向け、そして頂きの陰に姿を消した。

 私は新雪に両腕を突っ込んだ。そしてごっそりとすくえるだけの雪をすくい上げて、顔を洗うかのように顔に擦り付けた。穢れない白いものが皮膚から染み込んでいくような気持ちだった。そして、それまでの日々の中で心に降り積もっていた澱みが浄化されていくような気持ちだった。何度もそうする毎に、私はあらゆることからほとんど解放されていった。あまりにも嬉しすぎて、私はそのまま雪の壁に倒れ込んだ。全身が雪の中に沈んでいった。母の胸で抱かれて休んでいた幼き日の柔らかさを思い出した。私はそんなふうに過ごす時間のことを、母が私に与えてくれた時間だと信じることができた。

 一頻り満足いくまで雪と戯れるように過ごして、私はもと来た道を戻っていった。姿見の池駅の脇を通り過ぎて、スキーヤーが滑り降りていったゲレンデのほうへと歩いていった。ゲレンデの一番高い場所まで来ると、そこからは眼下に、低い峰々が遠くどこまでも広がっているのが見渡せた。そしてその場所から見上げれば、広い空一面にちぎれ雲が散らばっていた。太陽は傾き始めていて、雲をいろんな色に染めていた。そこに立っているだけで今度は、雪に塗れて白く染まって解放された私が新鮮な無限の色に染められていくような気持ちだった。全身が染め上げられていくに連れて、その場所に立つまではただ生きているだけで精一杯だった私は、ただ生きていればいいんだと素直に思えてきた。私はもう一度、その場所から旭岳の頂きのほうへ振り返った。その頂きの陰に母がまだいるような気がして、

「お母さん、ありがとう。この旅行、ええこといっぱいありそうな気がするわ。ちょっと贅沢させてもらうわな。思いっきり気ままに遊んで、元気になって、奈良に帰るわな」

 と言って、そこで初めて体が冷えきっているのに気づいて、私は慌てて姿見の池駅の構内に走っていった。

 行き帰りの飛行機の出発時間以外、そして雪を前にして立つということ以外、何の計画もない旅だった。そしてもう雪を前にするという目的はやり終えた。そうなってしまうと、帰りまでの時間は完全に自由ということになってしまった。朝日岳を後にして行き先も考えずにぼんやりと車を走らせていたら、そのまま夕方頃に旭川の街に到着した。ビジネスホテルを見つけたので、そこで宿をとることにした。

 夜の旭川の街を歩き始めた。小さな居酒屋に入った。そこで出会ったアルバイトの学生さんが気持ちいいほど元気な青年で、なぜか彼と仲良くなって一緒に機嫌よく喋っているうちに、話の流れの中で彼が1軒のスナックを教えてくれた。そこは、安全地帯の玉置浩二さんのお兄さんが経営されているということだった。私はその頃には相当玉置さんの音楽に心支えられていたということもあって、すっかり興味をそそられて、一度そこを訪ねてみることにした。

 青年に手渡された手描きの地図を頼りに、10分ほどでほろ酔いの私はそのスナックの入っている雑居ビルの前に到着した。階段を上がっていってその扉を開けた。するとカウンターの中に、玉置浩二さんそっくりのお兄さんが立っていた。それだけでもう私はかなり興奮した。カウンター席に腰を掛けると、多少緊張しながら私はビールを注文した。店は私以外に1組2名さんがテーブル席に座っていた。ビールを注いでくれたお兄さんが微笑みながら、

「こちらにお越しになるのは初めてですか?」

 と訊いてきた。私は、正直に、

「旅行に訪れて、ついさっき居酒屋で玉置さんのお兄さんがこちらのお店を営んでいらっしゃるのをたまたま知って、こうしてやってきた訳です。玉置さんの音楽にはいつも支えてもらっているんです」

 とお話した。すると、お兄さんは嬉しそうに、

「よくね、浩二のファンだというお客さんがうちを覗いてくれるんです。そしてね、そんな時はね、店が暇なときは必ずですね、浩二がこの店でカラオケを歌った時のビデオを見せてあげることにしてるんですよ。よろしければお見せしましょうか?」

 と話してくれた。それは、もう1ファンとしては願ってもないことだった。そんなレアなものに出会えるなんてことは滅多にないことである。私は興奮にドキドキしながら、

「いいんですか?」

 と訊いてみると、

「せっかくわざわざ来てくれたんですから、・・・、今から準備しますね」

 と言って、お兄さんはビデオデッキにテープを差し込んだ。

 画面の中の玉置さんは、テレビで観るいつもの姿とは全く違っていた。終始嬉しそうに微笑んでいて、曲の間奏のところでは店内の客に向かって、

「踊りたい人は僕の歌で自由に踊ってくださって結構ですよ。店を壊すこと以外は何をしてくれても構いません。どうぞ自由に楽しんでください。いいですか?そうしていただけるのが僕の喜びなんです」

 などと言いながら、実に楽しそうだった。テレビの中のいつも気難しそうな玉置さんしか知らなかった私にとっては、そんなふうにはしゃぐ玉置さんの姿を見るのは初めてのことだった。私は、そのビデオの中の姿こそが玉置さんの本来の素の姿のように思った。ビデオを観ながら私は、世の中のシステムの中ではいくら玉置さんと言えども素の姿を押さえ込みながら生くしかなかったんだ、という気がした。時代に翻弄される中で安全地帯の活動を休止した玉置さんの悔しそうな心が、一瞬見えた気がした。人は皆、同じ悔しさを突き破りたいと願いながら生きているように思った。そしてまた、人の心の素のままの躍動を押さえ込んでしまう、そんな人の手で築かれた世の中の便利そうなシステムとは一体何ものだろうとも思った。玉置さんのような音楽で人心を震わせることのできる人には、どこまでもシステムの枠の外で自由で歌っていて欲しいと思いながら、私はビデオを観続けた。結局私は、玉置さんが”my way”と”愛の賛歌”を歌う姿をじっくりと観させていただいた。その姿はどこまでも伸びやかで、嬉しそうで、無邪気な子供のようだった。その時代の世の中が一番欲しがっている姿のように思った。その2曲を観終えた頃に、どうやらそのお店の常連さんらしき数名が騒がしく店内に入ってきた。お兄さんが私に目配せをした。ビデオを止めるよ、という意味らしく思えた。私は頷いた。そして店内にはジャズのサックスの音色が流れだした。

 私はもう十分満足していた。素の玉置さんに触れることができた気がして、いろんなことを考えさせてもらった。もう店を後にしようかと思った。お兄さんの手が少し空くのを待って、お会計をお願いすると、

「浩二がメンバーと音楽合宿していた場所があって、そこが今、レストランになっているんですよ。知ってます?」

 と話しかけてくれた。私が、知らないと答えると、お兄さんはその場所の地図を描いてくれた。是非とも覗かせていただくと言って、私はその店を後にした。

 次の日、朝から快晴だった。今日一日をどう過ごそうかと起きがけからベッドの中で考えていると、また母に会いたくなってきた。どこに行くにも何の制約もない訳だから、私は素早く身支度を整えてホテルを引き払って、気の急くままに車を東へ走らせた。朝9時前にはロープウェーの山麓駅前に到着した。その前日とは違って、随分心は落ち着いていた。どこかそんな心で、母に何かを約束するために山頂に向かうことが決まっていたような気がしていた。快晴の天気が、そんな気持ちでいる日には相応しい天気のように思った。車を停めたところで車の扉を開けると、そこに500円玉が一枚転がっていた。不思議に思った。

 私が500円玉を拾うのは、それで3度目だった。1度目は、学生の頃、友人と北海道にツーリング旅をした時のことだった。その時は、屈斜路湖附近の食堂で定食をいただいた後にバイクのところに戻ると、後ろタイヤの脇に500円玉が転がっていた。2度目は、野沢温泉に学生時代の大勢の仲間とスキーに行った時のことだった。リフトを降りて全員が揃うのをゲレンデの脇で待っていると、足元の雪の中に光るものを見つけた。スキーグローブをはめた指先で掘じってみると、それは500円玉だった。そしてその時が3度目だった。必ず、本当に心弾んでいる時に、私はどうやら500円玉を拾うようになっているようである。私は足元の500円玉をポケットに入れた。まだまだいいことがあるような気がした。

 前日と同様、リフトの乗り口はそこそこの数のスキー客が詰めかけていた。しかしその日は、すんなりとゴンドラに乗り込むことができた。姿見の池駅に到着すると、私はまたスキー客とは離れて一人、山頂のほうに向かって歩き出した。前日母が姿が現した辺りに小型カメラを向けて、何枚もの写真を撮り続けた。気の済むまでそうしてから、私は母を探した。母はその日は姿を現さなかった。頂きの陰から、私の旅の邪魔になるんじゃないかと遠慮してでもいたのか、見つからないようにこっそりと私を窺っているような気がした。別にそれでよかった。私は頂きの陰に向かって、

「昨日はな、居酒屋でな、元気のええ若い子と仲良う喋って、その子にな、玉置さんの兄さんのお店、教えてもろて、ついさっきはな、また500円玉拾ったんやで。いいことがこの先、いっぱいありそうやわ。そんな気がするわ。お母さん、昨日はごめんな。愚痴聞いてもろて、・・・。なんやわからんことばっかりやけど、苦しいことばっかりやけど、・・・、それでも僕、思った通りに生きてみるわな。誰とも喋らんでもそれでええって思ったらそうするし、お父さんに喜んでほしいって思ったらその時もそうできるよう頑張るし、やりたいようにやったらええよな。それでええよな。それ以外にはでけへんわ。遊ぶんも、喧嘩するんも、黙り込むんも、落ち込むんも、・・・、全部心が元気なままにそうしてるんやったら、それで生きてるってことやんな。今はそうとしか思えん。せやからそうしてみる。間違ってるのかもしれん、こんな考え方はな、・・・。せやけど間違ってるって思ったらな、その時は反省して、また一からやり直して、・・・、そんなふうにしながら毎日、生きていくわ。それでええよな、・・・」

 私はその時、ふと、私が小学生だった頃のことを思い出した。


 確か夏休みだったと思う。台所仕事をしている母のそばで、分数の割り算、掛け算の宿題をしていた時のことだった。私は、どの教科もそうだったが、特に算数が嫌いだった。私は、割り算をする時に分母と分子をひっくり返すと学校で教わっても、なぜそうしなければならないのかというその理由が納得のいくまでわからなければ、どうしても教わったやり方を受け付けることのできないような、そんな難しい子供だった。そんな私は、夏休みの宿題を全く進めることができないでいた。普段の宿題に関しても、納得がいかないものだからわざと分母と分子をひっくり返しもせずにいい加減な計算をして、それをそのまま先生に提出してばかりいた。すると先生はいつも私に、「柄本は教わったことに素直じゃない」、「柄本は集中力が足りない」、「なぜ言われた通りにできないのか」などと言い続けた。そんな毎日の中で、私は算数というものが益々嫌いになっていったのだった。そんな私が夏休みの宿題に身が入る訳がなかった。私は母を背にして、テーブルの上で鉛筆を転がしたり消しゴムのカスを丸めて揉んだりして遊びながら、一向にやる気の起こらない宿題を前にして嫌気が差して、母に言った。

「こんな難しい計算、なんの役に立つって言うんやろ。計算して、正解の答えをちゃんと出せって言われてもな、・・・。こんなん、なんしに計算しなあかんのやろ。分母や分子、ひっくり返すんやって言われるだけで、言われた通りのしようって思っても納得してへんのにする気もせえへんわ。嫌になるわ、ほんまに・・・」

 その時の母は、何か親戚とのことで気に揉んでいたことがあったのだろうか。そしてそのことが、どう考えてみても母が自分の意思で動かすことのできることではなく、納得していなくてもそのまま進むしかないということに、母の心は穏やかではなかったのだろうか、母は私のほうに振り向きもせず、

「幸治な、幸治の宿題なんかはな、ちゃんと答えが出るもんやろ。嬉しいことやないか。大人になったらな、答えが出えへん問題が次から次にやってくるんや。そしてな、答えが出えへんまま、なんも解決もせんまま、納得もいかんまま、そのまま時間ばっかりが過ぎていくんや。答えが出たらどうや、スッキリするやろ。大人になったらな、スッキリせんことがそのまま増えていくんや。それでもな、そのまま進んでいくしかないんや。幸治はな、今のうちに勉強してな、納得せんでも言われた通り、教わった通りやっていくことを学んでいかなあかん。大人になっていくための練習やって思って・・・」

 というようなことを一気に話した。

 私はそれを聞いて、そんなものなのだろうかと思っていると、母が少し声を和らげて話を続けた。

「納得せんままにやり過ごしたことってな、覚えてることもあれば忘れてしまうこともあるもんや。それでええねん。そしてな、納得せんかったことがな、ある日突然、納得のいくようになることもあるねん。その時にな、なんや、こんな簡単なこと、わからへんて言うて悩んでたんやって思うこともあるんやで。わからん時っていうのはな、初めてのことを前にしてな、緊張して、難しい捉えすぎて、まともに向き合ってなかったってことやと思うねん。ほんまはな、物事っていうもんはな、案外、人が思ってるほど難しいことやないと思うねん。ほんまはな、すごい単純で簡単なことばかりやと思うねん。それがわかった時、その時はな、幸治、それはちゃんとまっすぐに生きてきて成長したっていう証拠や。・・・」


 私は、あの夏休みに母が口にしたことを思い出して、山の頂きの陰に隠れているであろう母に話しかけた。

「お母さん、お母さんの言うてた通りやな。僕な、納得のいく、いかんなんてことなんか気にもせんと、思いっきり生きてみるわ。その結果がな、自分の納得いくものでなかったとしたらな、その時はまた次や。どんどん先へ突き進んでいくように生きてみるわ」

 山陰で母が嬉しそうにしているのがわかった。私は母に向かって話し続けた。

「お母さん、お父さんやお姉ちゃんらのこと、いろいろあってな、それをどうにかひっくり返そうと思ってたけどな、もうそんなことも考えるのも止めにするな。考えてもな、難しいなっていくだけでな、しょうがないもんな。お母さん、今回、僕をここまで連れてきてくれて、・・・、ほんまにありがとうな。この旅行、まだまだ時間があるから、目一杯遊ばせてもらうな。この旅行だけに今から集中するわ。せやから、・・・、もう行くわな。ありがとう、・・・」

 私は話したいだけ話して、頂きに向かって頭を下げた。そして顔を上げて大きく手を振った。私はすぐに下山するために、姿見の池駅に向かった。急がなければならない気がした。小走りで歩を進めながら、私は、旅を終えて奈良に帰った時のことを考えていた。心が決まった。「平成」の雰囲気にすっかり飲まれてしまった家の中でも、それでも私だけは、「昭和」を守り抜いた母の遺志を引き継ごうと覚悟した。メラメラと心の奥底から炎が大きく立ち上がり、そして激しく左右に揺れだした。本当にその時、私は、恐らく生まれてから初めてじゃないかというほど、生きているという命の激しい熱を、自らの内側に強烈に感じた。それは、周りに対して口答えせずに、従順に、流されるままに過ごしてきたそれまでの日々の中では決して感じることのなかった熱だった。

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