第4話
大切なものはやはり、手に届くあたりの一番身近なものである。それを『今』という時の中で守り抜くうちに、自然な流れに乗って、私たちは『未来』につながっていく。そして『未来』も、それまでの一番身近で大切なもので満たされたまま、そこにまた新たにつながった大切なものを加えて、いずれ次の『今』となる。
そこにある身近なものと真摯に向き合わないで背を向けていたり、それらを当たり前にあるものと勘違いばかりしていると、『今』という箱の中で先ずはそれらが腐り始める。そして次に『今』という箱も一緒に腐り始める。そんな場所で人は、安心して息もしていられない。あるいはまた、未来の利益やそのための箔が身に付くことばかりを追い求めていると、つま先立ちになっては足元がふらついて、いずれはひっくり返る。そんな危うさでは、そこにある身近なものを抱きしめる前には己が傷だらけになってしまうんだから、そんな状態ではそれらをただ大切になんてできるわけがない。『今』という箱の中で、それらは抱きしめられることもなく凍えていく。『今』という箱も一緒に凍えていく。そして命も凍えていく。
そうはわかっていても、人は一番身近なものほど当たり前と思い、余所見をしては遠くへ手を伸ばし、競い合うように先へ先へと駆け出していく。まるで、「生きるってことは『今』を飛び越え、まだ知らない向こうへ駆けていくことだから、さあ、先へ急ぎなさい。『未来』に向け走って行きなさい。そしてその先々で新しい何かをつかみなさい」という、声のない心の衝動の声を信じて、そしてそれに操られるように人は駆け出していく。この衝動というものは魔物のように捉えられ、人は己を律して衝動に打ち勝つことを人の道として正しいと教えられている。そしてそうやって正しく生きた人のことを、人は神のように崇めたりする。それでもやはりほとんどの人は、その教えに背いているという後ろめたさを抱えながらも、そんな魔物に踊らされるように駆け出していく。
しかし私は、心の衝動に素直に生きることを全否定する気はさらさらない。というのも、命はいつも、命を震わせてくれる、そして命を活動させてくれる、そんな何か次の新鮮な刺激や栄養を止むことなく求めているんだから・・・。
ところが、膨大な情報が飛び交う刺激過多、栄養過多のこの時代、その中で人は麻痺して、身近なものには一切目もくれず、四六時中次々ともっと強く新しい刺激と栄養ばかりを求め、経験したこともないような未知のものでしか満足できないような体になってはいないだろうか。さらなるものを追い求め、またその次を追い求め、立ち止まることも振り返ることもせず、背伸びして、手を伸ばして、人を掻き分けながら駆けずり回って、挙句の果てに人は背後に『今』という箱を放ったらかしているような気がしてならない。
この現代、一番身近で大切なものを人はどこか陳腐で、古ぼけていて、刺激と栄養の全く足りないものとして見下し、そして『今』という箱の中は、自身の栄養とも刺激ともなり得なかった凍え朽ちた『過去』の残骸で散らかり放題になってはいるように感じる。そんな日々の中で、『今』は冷え切って、薄まり、ぼやけ、隠れ、埋もれ、人は益々大切だったものが何だったのかさえもわからなくなっていくんじゃないだろうか。そして、人は『今』に、自分の姿、そして影さえも見つけ得なくなって、自分の存在意義さえも次第に見失っていくんじゃないだろうか。
母が、私が渡米する前日に言った、「帰ってくるために向こうに行くんやから・・・」。この一言は、渡米後に未知の新たな刺激と栄養を求めては手を伸ばし、若さに任せるままに方々を彷徨うであろう私にとっては、本当にありがたく嬉しい一言だった。私には、「この先幸治がどこへ行こうと、何をしようと、すべては『今』ここにある一番身近で大切な家族を基地としての活動だから、刺激と栄養をたくさん吸収したら必ず、先ずは一番に帰ってきなさい」という、母の切なる願いのように受け止めた。私はそれまでの長い間、ずっと外で暮らしては時々威勢のいい土産話を両親のもとに届けるという、全く家族の外の人間として暮らしてきたし、その間は実家に帰りたいなんて考えることもなかった。長年、私は彷徨うままだった。長すぎる家族と離れた生活のせいで、どこか家族の他所者意識みたいなものが頭の片隅に少しひねた状態で転がってはいたが、それを特別悲しいとも淋しいとも感じることはなかった。そばにいた仲間たちのおかげで、私は結構飄々と暮らしていたと思う。しかし、その時の母の話を聞いて初めて、海外での活動の末には家族の一員として実家に、そして母のもとに帰ってきたいと私は心から願った。母の言葉を私は、私が渡米する前の最後の母の願いとして心に刻みつけることができた。もし母のその言葉を聞かずに渡米したとすれば、私は恐らくアメリカで未知の世界を相変わらず彷徨ううちに、自分の存在意義、自尊心を見失っていたかもしれない。
1992年4月28日、ついに生まれて初めて海外に飛び立つ日がやってきた。その前の晩はほとんど眠れなかった。そして変な夢を見た。日本では水道をひねれば水は重力に逆らわず上から下へと流れるが、アメリカではそうじゃないらしい。水は下から上へと流れるそうだ。また、アメリカでは日本とは逆で、月の方が太陽よりも明るくて、月が昇っている白く明るい昼間に仕事し、月が沈んで太陽が昇った薄黄色くぼんやり暗い夜に家に帰って休むらしい。夜になればそんな薄黄色く、そして薄暗い空にたくさんの星がまたたき、たいして迫力のない太陽が満ち欠けもせず浮かんでいるんだそうだ。夢の中での私は、飲み屋でたまたま隣り合わせたアメリカ帰りの見知らぬ人からそんな話を延々と聞かされて、それをそのまま全部信じ込んでドキドキしているという、そんな何とも奇妙な夢にうなされているうちに、当日の朝を迎えた。その前日の夜になって、それまでで一番の渡米に対する緊張に襲われた私は、あまりにも酷い緊張のせいでこのような壊れた夢を見たようだった。
朝7時頃には家族で朝食をとり、すぐに私は父の車に荷物を積み込んだ。そうしているうちに、父も母も由美子も、もうみんな余所行きの服に着替えていた。私も急いで着替えて出発の準備を整えた。玄関で靴を履いている時だった。なぜか私は、玄関先で両親と私が入った写真を撮っておきたいと思った。玄関扉は開け放たれたままで、先に庭に出ていた由美子が見えた。私もすぐに表に出て、カバンからカメラを取り出して、由美子のところへ歩いて行った。門扉の手前で、私は由美子にカメラを手渡して、写真を撮ってくれるようにお願いをして、そのスイッチやズームの説明をした。その後に両親のほうに向き直ると、玄関扉の前で、母は父の隣りで、左手をポケットに突っ込んだ父の左腕に右腕を絡め、左腕で杖をついて立っていた。そしてカメラを向けられるのが久しぶりだったのだろうか、母は嬉しそうに微笑んでいた。父は、一体何のために玄関で写真を撮るんだという顔をして、私の方をじっと見ていた。一体いつからだったのだろう。私はそれまで一度も、母が杖をついている姿を見たこともなければ、家族の誰からもそのことについて聞かされたこともなかった。
その時の写真は、今、私の書斎の机の真ん中の引き出しの右手前にいつも仕舞われている。この写真はもう24年も前に撮られたもので、両親と私との3人で最後に写り込んだ、私にとっては何か特別なものである。まさか最後の写真になるなんてことは、あの時は全く想像もしていなかった。額に入れて机に飾ることを考えたこともあったが、どうもそうしてしまうと、あの頃からこれまでに抱え込んだ雑多な悲しみを思い出しては心沈みそうな気がしたし、かと言ってアルバムに入れてしまえば、もうそれっきりこの写真を見ることがほとんどなくなってしまうような気がした。そんなわけで熟考を重ねた末に、その写真は机の中央の引き出しに仕舞われるというところで落ち着いた。引き出しにしまうことで、時々引き出しを開けた時にだけこの写真をふと目にするくらいとなって、そのくらいが私にはちょうどいい加減のようで、今はそうしたことにそこそこの納得がいっている。
その写真の中、真っ白い玄関扉の前に左から、父、母、そして私という順番で横一列に並んでいる。私の左後方にはいくつかの大きな庭石が配され、さらにその後方には、巨大なツツジが隙間もないほどの数の蕾を膨らませ、今まさに花を開こうとしている。父は普段からほとんど感情を無意味には顔に表さないのだが、その写真の中の父もやはり相変わらず、いつもの無表情に近い顔をしている。母は恐らく、写真を撮られるのが好きな方だったんじゃないかと思う。その写真の中の母は、それまでの母の写ったどの写真を見てもそうなのだが、まるで目力をフィルムに押し込むようにしっかりとレンズを見つめ、かすかな微笑みを浮かべた余所行きの顔をしている。私はといえば、寝不足と緊張に加え、初めて杖を握っている母を見ての動揺が顔に表れていて、困り果てた顔をしている。こうして書きながら写真を取り出して眺めていると、あの時の自分の心の様子がもうひとつ見えてきた。その時の私は確か、その前日に母と過ごした二人きりの時間の中で自分も家族の一員だとしっかりと確認したのだが、初めて母の杖をつく姿を目にしたことで、私には家族のことでまだまだ知らないことが山のようにあるんじゃないかという気がして、いずれ帰国した頃に果たしてちゃんと家族の中に馴染んでいけるのだろうかという不安が湧き上がってきて、胸がドキドキしていたのだった。確か、そのようなことを私は考えていた。
父の運転で阪神高速池田線を伊丹空港に向け北上していると、私たちのすぐ前方に着陸態勢に入った飛行機が、その巨大な胴回りと翼を見せながら高速道路の真上をまたいで右から左へ横切るのを目にした。その日は尼崎に嫁いだ長女、美佐も、夫、英明と一緒に見送りに来てくれることになっていた。美佐と会うのは正月以来のことだった。空港に家族全員が集結することを思うと、私は、小学4年の夏、家族全員で伊丹空港を飛び立って九州旅行に連れて行ってもらった時のことを思い出した。美佐はその翌年には中学3年になって受験生となったため、あの九州旅行が結局最後の家族旅行となった。形こそ違えどまた伊丹空港に家族全員が集まることに、ふと懐かしさと、そして時の流れを思った。もうあれから13年もの時が流れていた。
あの家族旅行の中で、私には忘れられない出来事がひとつあった。それは小学4年の私の胸に、それまで感じたことのない疼きをもたらした。確か、別府あたりのどこかの観光地でのことだったと思う。夏の日差しが容赦なく照りつけて、陽光のせいで景色が白んで見えるほどの激しい夏日だった。私はその日、その旅行のために母が買ってくれたポロシャツを着ていたのをなぜかよく覚えている。袖の部分だけが紺色で、胸と背中が白のタオル地のポロシャツだった。たぶん、その夏に母が買ってくれた服の中で一番のお気に入りだったんだと思う。そのシャツもあまりの暑さのせいで、ただの濡れタオルのような状態になって私の体にへばりついていた。
お土産物屋がずっと奥のほうまで軒を連ねていた。その幅広い日陰もない通りを私たちはみんなで歩いていた。父と私は通りの中央あたりから周囲に目を配りながら、母と姉たちは一軒一軒のお土産屋をじっくりと覗き込みながら歩いていた。母と姉たちが随分楽しそうにゆっくり進むものだから、父も私も自然に母たちの進む速さに合わせて歩いていた。あるお土産屋の軒先で母が立ち止まった。そして店のおばちゃんと話し込みだした。母が立ち止まったせいで、退屈した姉たちは母を残して次の土産屋へと向かった。仕方なしに父も私も通りに立ち止まった。母は最初、遠目で見てもわかるほど楽しそうにおばちゃんと話し込んでいた。しかしちょうど退屈した私が母のそばへゆっくりと歩き出した頃、母の表情は見る見るうちに曇りだした。そしてそのまま母は、おばちゃんの話に相槌を打ちながら涙を零し始めた。おばちゃんを見ると、悲しみを抱えた人を労わるような瞳を母に注ぎながら、辛かったろう、辛かったろうと、小声で懸命に母に話しかけていた。そばにいる私に話を聞かれたくなかったのか、聞かせたくなかったのか、二人とも妙にヒソヒソとしていた。私はそこにはいてはいけない気がして、すぐにその場を離れた。が、もう私は母のことが気になって仕方なかった。
しばらくしてようやく母はその店を離れた。なぜか母には何も尋ねてはいけないような気がしていたのだが、先ほどの母の様子が頭の中一杯に広がっていて、私はもう周囲に目を配ることさえもできないほどに余裕がなくなっていた。何となく歩き出した父と私の少し後ろを、母はひとりで歩き出した。何度か振り返って母の様子を窺っていると、母はもう、せっかくの家族旅行、さぁ気を取り直してみんなで楽しい時間を過ごそう、と無理に自分に言い聞かせたのか、その瞳は真っ赤に充血していたのだが、その顔にはどうにかいつもの微笑みを取り戻しつつあった。しかしその後の母は、もうお土産屋を覗き込むこともなく、ずっと一人でブラブラと歩き続けた。何も知らない姉たちは、私たちのずっと前方で二人でふざけ合っていた。私は母のことがその後もずっと気になって、何度も何度も何気ない素振りで振り返っては一人歩く母の様子を窺うことを繰り返した。そのうちに、次第にしっかりと母とよく目が合うようになった。その度に母は微笑みを返してくれた。私は思い切って母のそばにジリジリと近づいて行った。そして、
「お母さん、大丈夫?どうしたん?」
と訊いてみた。すると母は話してくれた。
「うん、大丈夫やで。あのおばちゃんと話してたらな、あのおばちゃん、お母さんにな、お宅さん、昔、このあたりに住んでたんか、って言わはってな・・・」
「えっ、そうなん。・・・。それで・・・?」
「うん、それでな、・・・。うん、お母さん、昔、子供の頃な、九州に住んでたことがあるんや。おばちゃんがな、お母さんの関西弁にはな、お母さんが九州にいたのはもう20年も前のことやのに、どっか九州弁の響きが残ってるって言わはってな。もうお母さん、びっくりするわ、懐かしいわでな、涙が出てきてん・・・」
「そうなんや。もう大丈夫?お母さん・・・」
「うん、うん。もう大丈夫やで。ありがとうな、幸治・・・」
私は少し安心したが、まだ腑に落ちないことがあった。一体なぜ、あんなにもヒソヒソと話し込んでいたのだろう。しかし私は、もうこれ以上蒸し返すように母に尋ねてはいけないような気がした。
姉たちは本当に仲がよくて、いつも二人でいるとコロコロと転がるように笑い合っていた。そこには私が入り込む隙などなかった。私が母と話した後も姉たちは私たちから少し離れた前方で、何がそんなに楽しいのか、ふたりでずっと笑い合っていた。
母はまだ、どこか一人で歩いていたいような気配を静かに放っていた。私は母のそばをそっと離れた。そして父のほうにゆっくりと近づいていった。母は、やはり父と私に追いつこうともせず、少し後ろを一人でトボトボと歩いていた。私は、今度は思い切って父に、
「お母さん、昔、九州にいてたんやてな」
と話を振ってみた。すると瞬時に、父は少し顔を曇らせた。父と私の間に嫌な緊張が走った。しばらく時間を置いて父は、まるでそこにあった何か少し不穏なものすべてに終止符を打つように、
「そうや。お母さんは昔、お父さんと知り合う前は九州にいてたんや。大阪に出てきてからも、えらい貧乏しとったらしいけどな、九州にいてた頃はもっと貧乏してたらしいわ」
とだけ、一気に口から吐き出すように話して、そのまま口を噤んだ。もう私は、父にも母にも、一切何も尋ねてはいけないような気がした。
それと似たようなことが、私が小学校に上がった頃に一度だけあった。もうすっかり忘れていたそのことを、私はその後しばらくしてから思い出した。
小学校に上がり、新しい友達もできた頃のことだった。毎日、放課後は、家に帰ってランドセルを自分の部屋に放り投げると、私はそのまま自転車に飛び乗って友達の待つD公園に急いだ。そこからいつもの仲間たち、数人で裏山に出かけるのだった。もう、そうすることが日課のようになっていた。川に行って素っ裸で泳いだり、沢ガニを捕まえたり、花の蜜をすすったり、高い木に登ってみたり、ぶら下がった枝が折れてそのまま山肌の斜面を転がり落ちたり、蜂に石を投げて攻撃した挙句に蜂に追い掛け回されたり、山道から逸れて道なき道をドキドキしながら突き進んでみたり、・・・。来る日も来る日も飽きもせず、そんなことばかりをして過ごしていた。
ある日のことだった。一人遅れての夕食を終えた父は、いつものようにテレビのプロ野球ナイター中継を観戦していた。いつものことだったが、その時間帯の父はもうかなり眠たそうだった。右腕を折ってそれを枕に畳の上に寝転がり、しばたたかせた目で父は試合の流れをどうにか追っていた。そんな父に私は、
「なぁ、お父さん、お父さんが子供の頃は何して遊んでたん?」
と訊いてみた。友達ができて、日々忙しく遊び回っていた私は、ただ単純に、父の子供時代に興味が沸いただけのことだった。するとその時も、父の顔が瞬時に少し曇ったのだった。
その時の父はゆっくりと起き上がって、そのまま畳の上にあぐらをかいで座った。そして、どこか焦点の定まらない虚ろな瞳で右斜め上のほうに視線を向けたまま、少し間を置いた後にようやく口を開いた。
「幸治、あのな、・・・。もう昔のことはええんや。幸治にもいっぱい友達できて、毎日元気に遊び回れて、美佐も由美子も元気にやっててな。お母さんは毎日、みんなのこと思って、一生懸命に家のこと、ご飯の用意から掃除、洗濯まできっちりとやってくれて、・・・。それにお父さんもな、家族みんなが三食きっちり食べて生活していけるだけのお仕事、周りの人さんからもらうことができて・・・。こんな嬉しいことはないんや。ほんまにこんな嬉しいことはないんや。お父さんはな、今まで生きてきた中でな、今が一番幸せなんや。だからな、昔のことはな、ほんまにもうええんや。・・・」
私の質問に対する答えにはなっていなかった。私は、そんなふうに普段と違う父を前にして少し怯えていた。訊いてはいけないことを訊いてしまったんじゃないかと思っていた。私の質問のせいで父を悲しい思いにさせてしまったのはやはり明らかだった。何か悲しい気配がはっきりと父の回りに滲み出ていて、それが風のない部屋に漂うタバコの煙のように、夏の湿っぽい和室の中を邪魔臭そうに気だるく浮かび上がっているように感じた。私は父に、
「うん、わかった」
とだけ、意識して精一杯元気よく返事をした。そうすることで、父から私の非を許してもらえるような気がしたからだ。そんな私の返事を聞いて、やっと父は私のほうに顔を向けた。そして微笑みながら両手を伸ばして私を担ぎ上げて、私を自分の膝の上に座らせた。私は野球には全く興味がなかったが、その夜はもうそのまま仕方なしに、父の膝の上で父と一緒に野球観戦をした。
そのことを、確か、私は、別府を後にして宮崎方面に向かうバスの中で思い出したんだと思う。バスの車窓の景色はただ流れ去るだけで、私の中には何も入ってこなかったのを朧気に覚えている。母の涙、父の遠い視線、ふたりの過去の貧乏、知ることをなぜか決して許されることのないそれらの理由など、それらはあの旅行以降ごくたまにふと私の中で湧き上がってくることがあって、私の胸にほんの一瞬疼かせてはサッと何もなかったように消えていくようになった。
私たちの日々は、先輩によって遺されたものを礎として築かれていく。そして私たちの後輩の日々は、先輩と私たちによって遺されたものを礎として築かれていく。そうやって時代が前に進んでいく。
遺されたもの、それは単に物体だけではない。喜びや悲しみ、怒り、苦しみ、叫びなどあらゆる感情の記憶、そこから生まれた誰かの言葉やメロディ、その先への願いや祈り、そしてそれらが自然に醸し出す時代のムード、そういったものも物体以上に遺されていくように思う。そしてそれらあらゆる目に見えるもの、目に見えないもの、何もかも遺されたものすべてが渾然と交差するところの上に、私たちの日々が築かれていく。
いつの時代も後輩は貪欲だ。先輩が語りたくないことまで暴き知る権利があると主張しては、ついには先輩を困らせる。先輩がどんな時代に産まれ、どんな蔑みに嘆き、どんな怒りに震え、どんな恨みを抱き、どんな苦難を乗り越え、どんな悲しみに流されそうになりながらもどうにか生き抜いてきたかなど、後輩が絶対に肌身に染みてまで知り得ない新たな時代の中で、どうにかそれらを他から少しでも学び取ろうする努力もしないで、ただ手を伸ばす。
いつの時代も先輩は先を走る者として、命をつなぐ者として、自分たちの悲しみの記憶が繰り返されないことを願い、自らが発信していいことと悪いことのけじめの責任者としての役を担っている。自分たちが亡き後に、自分たちが果たし得なかったことを後輩に是非つないで欲しい。そんな後輩を世に遺すために、悲しみの記憶が繰り返されてはならないと願って、そして命が連鎖することを願ってその責任を果たそうとする。
私が子供の頃はそんなふうに、子供はやはり子供らしく貪欲で、大人は大人らしく責任を果たしていたように思う。踏み込まれたくない、語ってはならない、そして伝え遺してはいけない過去に対して大人はしっかりと、はっきりと線引きをし、そこに子供が容易く侵入するのを決して許さなかった。先輩である大人にそうされると、後輩である子供はもう手を伸ばすことを絶対に許されることはなかった。そのお陰で、先輩の悲しみの記憶は封印されたまま、たまにその匂いを鼻にすることはあったにはあったが、後輩にそれらがばらまかれることはそれほどなかったように思う。そんな感じだったから、大切に護られた実にシンプルな命の歓びのムードのままに、物のない戦後の時代から一気に経済大国にまで上り詰めることができたんじゃないだろうか。そして子供はそんな環境の中で護られて伸びやかに、立派な責任ある大人になることを憧れて育つことができたんじゃないだろうか。
裕福になり過ぎて、自由の権利が主張されすぎて、浮かれた夢ボケの大人が増えた頃、けじめはもうなくなって、先輩と後輩との関係性はグダグダの横並びになった。そして、後輩から先輩に対する敬意、先輩から後輩に対する願いや祈りは急激に弱まった。両者が命の歓びのムードに生きていられたのはもう昔のことで、先輩が胸に秘してきたことは知るを当然の権利との旗のもと、引きずり出され、そしてばらまかれた。夢ボケの先輩は、いとも簡単にかつての先輩のようなけじめもなく、封印の紐をほどいてしまった。「知りたいんだろう。知って満たされたいんだろう。みんな自由だ。誰だって、なんだって知る権利ってものがある。それが幸せってものだろう。全部見せてやるし、どこへだって持って行って、自由に使えばいい」。後輩は、それを嬉々として貪りだした。自由とは、使い方を一歩間違えれば、ただの曲者である。
またそれに拍車をかけるように、本来は便利で利用価値の高いはずのインターネット上では、顔が見えないのをいいことに、誰もが評論家気取りとなった。しかし発信されたものは、評するでも論ずるでもない、ただの憂さ晴らしと野放しの愚痴、そして自由の旗のもとの大人げない正義ごっこのようなものだった。あらゆるものに対する蔑み節、罵り節、怒り節、恨み節などが蔓延し、新種の得体の知れない悲しみは時空ボーダーのけじめまでもなくしたまま溢れかえり、それが今日の奇妙な悲しみの時代のムードとなった。言葉は、使い方を間違えれば、時代のムードさえ簡単にひっくり返す力を持っている。
そんな時代にあって、それでもこの国の首相は言う。「先ずは景気回復」。あれほどの頭のいい人が、得体の知れない悲しみのダダ漏れの時代の波に疲れて生命力が弱まった国民に向かって、何よりも経済活動強化、景気回復が最重要と説く。投票率が上がらないと騒がれ出して、もうどれくらいになるのだろう。単純に誰もが願う幸せとは違う方向へベクトルを向けるこの国の政治に対して、もう国民は何も期待していないということがそこに表れているんじゃないだろうか。願う幸せ。この時代、夢ボケに少し虚しさを覚えた大人と、そんな大人のそばで虚しさ風邪を患った子供は、けじめある中に護られた単純な命の喜びを願い求め、そこに幸せを夢見ているんじゃないだろうか。そんな気がするのだ。
少し長々と散らかし放題に書いてしまったが、何が言いたかったかというと、大人が大人であった、そして子供が子供でいられたあの頃はいい時代だったということと、この時代の閉塞感を破るには、先ずは自由と言葉の扱いには気をつけなければならないんじゃないかということ、そして、もう一度振り返ってあの時代から大切な何かを学び取るということが何よりも先決であるべきなんじゃないか、ということである。
私は、線引きをしてけじめづけてくれる大人がいた環境で育つことができて幸運だった。そして私は、単純に命を願い、そして育むムードがまだ残っていた時代の子供であったことも幸運だった。そう思っている。
空港に到着した。奈良の山間から出てくると、伊丹空港あたりの空の広さが気持ちよかった。よく晴れ渡り、きれいな青空が広がっていた。空港の玄関先で母、由美子、そして私は先に車を下ろされて、父は駐車場に車を入れに行った。私たちは空港内に入ってすぐのベンチに座った。どことなくそばにいる母も由美子も、緊張した面持ちで座っていた。私もそうだった。そしてみんな無口だった。しばらくすると父が走ってやってきた。そして父が走ってくるその後方から、先日、渡米日程の変更があった時にそのお話をされた旅行会社の係りの方も走ってきた。
「柄本様、柄本様、・・・。おはようございます。先日は本当に失礼しました。わざわざ当社までお越しくださったのに、日程の変更をお願いし、その上チケットもお渡しできなくて・・・。せめてものお詫びの印と致しまして、成田からシカゴまでの便、こちらファーストクラスのお席、ご用意いたしました。ぜひファーストクラスでごゆっくりと道中をお寛ぎ下さい・・・」
その係りの方は恐らく50歳位のように見受けられたが、今まさに社会に出ようとしている若造の私に、私なんかよりもずっと長く生き抜いてこられた方があれほど深々と腰を折って、そして丁寧な言葉で接されるのに驚いた。父、晴一が友人とゴルフ旅行に出る時、いつもすべての手配を任せている旅行会社だったのだろうか。そうでなければ、大の大人があそこまで低姿勢になんてなれない。いや、しかしもし、たとえそうであったとしても、その方の丁重さはいくら何でも度を越しているんじゃないか。あそこまで低姿勢な大人にそれまで出会ったこともなかったが、社会ではあれが普通のことなのか。私は、複雑な気持ちで去っていくその方の背中を目で追っていた。その方とのやり取りすべてがなぜか、未だ全く知りもしない社会の縮図のような気がした。そして社会に羽ばたく前に、「社会とはこういうもんだぞ」と釘を刺されたような気がして、少し怯えた。
それまでほとんど空港に来ることなどなかった私は、何をどうすればいいのか全く分からないでいた。そんな私に父が、
「あそこのカウンターに行って、荷物を預けて来い」
と言ったので、取り敢えず言われるままに、私はボストンバッグを引きずってその列に並んだ。どうにかカウンターで荷物預入の手続きが済んで家族のもとに戻ると、少し離れた場所にある自動ドアを通って美佐と、その前年に結婚した私の義理の兄、英明がゆっくりと歩きながらやってきた。
私は英明のことがあまり好きではなかった。年齢が私よりも10歳以上離れているというのに、いつもだらしなくヘラヘラと笑っていて、軽薄な印象がどうしても拭えなかった。滅多に顔を合わせることはなかったが、たまに会ってもその時に挙がる話題といえば、直近の週刊誌の記者が捏造した記事の話題以外には何もなかった。それは、私に対してだけそうだったというのではなく、私の両親に対しても、親戚の者に対してもいつもそんな感じだった。そんなどうでもいいことばかりをベラベラと喋っては、いつも得意気な顔をしていた。一緒にいても、そこに一切の願いも、祈りも、深みも感じることはなかった。
また、その頃はバブル崩壊からまだ1年ほどの頃で、英明が営んでいた阪神尼崎駅前の焼き鳥屋も好調で金回りがよく、まだ30代だというのに英明はとにかく鼻につくほどいやらしく派手な生活をしていた。金のローレックスにベンツ、住むところは高級賃貸マンション。そんなふうな成金ぶりをひけらかしながら、軽薄な話題の最後に大きく笑っては鷹揚に振舞って見せるのだが、その眼鏡の奥の小さな垂れ目だけはいつも笑っていなくて、そこに英明の油断ならない狡猾さと気弱さが表れているようだった。人の本性は隠せない。
英明と一緒にこちらに向かって歩いてきた美佐を見て、私はもっと驚いた。
美佐は、小学生の頃から勉強ができる方の子供だった。それを周りの大人に褒められて、いつも嬉しそうにはにかんだ笑みを顔に浮かべていた。しかしそれはどこか得意気で、そして嘘っぽく私には映っていた。美佐が大人に褒められ毎に、そんな美佐に私も習って近づこうなんて憧れたこともあったが、そんな思いはいつもすぐ放り投げた。というのも、大人のいないところでの美佐は、大人の前で被る笑みの仮面を外し、勉強のできなかった私には笑顔を見せることはなく、その声色はトーンを落として面倒くさそうで、そのすべてがどこか私を見下しているように感じることがしばしばあったからだ。それでも家族内での揉め事を嫌う母の手前、私は決して美佐に歯向かって反撃に出ることはなかった。
中学に上がってからの私はほとんど家にいることがなかったせいで、二人の姉たちとはほとんど会うこともなければ話すこともなかった。特に私より4歳年上の美佐に関しては、大学卒業までの約10年間、恐らく年に数えるくらいしか話すことがなかったように思う。それでも時々家ですれ違えば、その顔をお互いに確認でもするようにちらっと目を向け合ったものだった。私が大学に入学した頃の美佐は社会人3年目で、バブル景気の煽りを背にして金回りこそ良かったみたいだったが、それほど派手に暮らしているようには見えていなかった。しかし、人によってその態度を使い分けるところは、私が小学生の頃と何一つ変わっていなかった。両親に話しかける時の表情と声色、そして振る舞いは、やはり私に向けるそれらとは温度が全く違っていた。そしてそれを両親に気づかれないように巧みに使い分けていた。その辺が実に見事で、私はそんな美佐を見る度に、姉弟として悲しい気持ちでいた。
結婚準備が始まった頃からの美佐とたまに会うことがあると、化粧とか着る洋服とかの外見を飾るものもそうだったのだが、それまでどうにか内に隠し秘めていた巧さ、嫉妬深さ、そして欲深さまでもが派手になっていっているように私は感じた。そしてそれらは、もう内から溢れ出すそのままが外に漏れ出して、その頃から明らかに美佐の顔が尖っていった。それについて、私は別に驚きもしなかった。ただ、ついに化けの皮を脱皮して、本当の正体を現したかとくらいにしか思わなかった。
学生時代最後の年末を仲間とのドライブを楽しんだ後、私は実家で正月を迎えたのだが、その日の昼過ぎに美佐夫婦が奈良に帰ってきた。ふたりを目にして、見る毎に派手になっていくなと思った。正月の挨拶後、バイク乗りの私の汚れた格好を見て、美佐はその眉根をしかめながら近づいてきた。そして小声で私に、
「あんたはもう少しこぎれいな格好の服、持ってないんかいな。正月のみんなが顔を合わせる時に・・・。英明さんの手前、来てくれた親戚の人らの手前、お父さんもお母さんも恥ずかしいっていうのがわからんのか?」
と言ってきた。私はすぐ、「この嘘つき」と思った。両親でなく、美佐自身にとって私という存在自体が恥ずかしいのだろうと思った。そして、「嘘ばかり言ってないで正直に言ってみろ」と思った。
その日、久しぶりに私の前に姿を現せた美佐夫婦は、その派手さをさらに発展させていた。美佐の顔にまず驚いた。芸能人顔負けの化粧を施していた。気味の悪いほど真っ白な顔に真っ赤な唇がぼってりと乗っかっていた。正月からわずか4ヶ月の間に、美佐のその姿からはすっかりもう我が家で暮らしていた頃はまだ僅かに残っていた慎ましさ、お淑やかさも完全に抜け落ちてしまって、私たち家族の知らない完全に異質のものへと変貌を遂げ、私は、「あぁ、美佐は見事に柄本を脱ぎ捨て、断ち切って、完全に他所の人間になった」と思った。
本当に似た者夫婦だと思って、私は呆れ返った。そばにいるのも恥ずかしい気がした。しかし本人たちは、至ってそれが普通のことだったのだろう。
「幸治くん、いよいよやな。ファーストクラスのチケット、手配してもらえたんやってな。ええなぁ、ほんまええなぁ。俺も一度ファーストクラス乗って、ええ酒飲んで、ゆっくり飛行機で旅してみたいなぁ。幸治くん、俺とアメリカに行くの、交代せえへんか?・・・」
しきりに英明が話しかけてきた。人の緊張も知らないで、邪魔くさい奴だと思った。その時、ちょうど父が、
「幸治、富田が見送りに来てくれるって言うてたやろ。どこにおるんや」
と話しかけてくれたので、英明のヘラヘラとした愚話から逃げることができた。富田とは、私が大学時代いつもつるんでいた友人で、何度か奈良の実家にも遊びに来たことがあって、父とも面識があった。
「たぶん、2階にいてるんと違うやろうか。せやけどあいつ、時間通りに来ることは先ずないからな・・・」
「とりあえず、ここはごちゃごちゃしてるし、2階に行こ」
と言って、父は母のそばに行った。母はベンチから立ち上がり、自然な振る舞いで父の左腕に右手を絡めて立ち上がった。そして父は、母が足を運ぶ歩幅に合わせてゆっくりと歩き出した。それを見て私は、小学生の頃、大阪の布施の駅前の回転寿司屋に月に一度ほど、家族で食事に出かけた時のことを思い出した。
母と私たち子供3人は、父と外食する時はいつも、関屋駅から電車に揺られて布施駅に向かった。つり革に手の届かない私は、母の二の腕をつり革がわりにぶら下がるのが好きだった。いつもそうしながら、みんなで布施に向かった。
布施駅は、私たちの最寄りの関屋駅とは違って、私たちからすれば大きくて、賑やかな駅だった。改札口は2階に2箇所、北側と南側にあった。改札を抜けると左右にエスカレーターがあって、それを上ると、3階は近鉄大阪線、4階は近鉄奈良線のプラットホームが東西両方向に長く伸びていて、その長さは10両編成の電車が優に停車できるほどのものだった。私たちの関屋駅は3両編成の電車がプラットホームに収まるのがやっとのことだったから、電車を下りて布施に降り立つと、そんな布施駅は立派に見えた。
プラットホーム下のスペース、1階、2階には近鉄百貨店が入っていた。そして、改札付近の広いスペースには週末ともなると、ベビーカステラ屋さんやシュークリーム屋さん、古本屋さんやレコード屋さん、生活雑貨屋さんなど、構内に屋台のような様々な店が開いていたものだから、父とのたまの待ち合わせはいつもどことなくテーマパークにでも出かけるような、そんな心浮き立たせるものがあった。
とにかく父は、歩くのが誰よりも速い人だった。ずっと後に父から聞いた話だが、「男は速飯、速クソ、速歩きだ」と言っていた。飯を食うのも、大便をするのも、歩くのも、さっと終わらせて次へ次へと突き進んでいくのが男のあるべき姿で、そうしなければ生活を潤してくれる金には満足にありつけないという意味だそうだ。そんな父は、待ち合わせ場所にいる家族のもとにやってきて全員揃っているのを確認すると、
「ほな、行こか」
と言ったと思ったら、もうすぐに家族には背を向けて、スタスタとものすごい速さで歩き出すのだった。母が笑いながら、
「お父さん、もうちょっと、なぁ、ゆっくり歩いてえな。みんなついて行けへんやんか・・・」
と父の背中に話しかけても、見る見るうちに父の背中は人ごみに塗れて小さくなって、そして消えてしまうのだった。どうせ向かう目的地はいつものことだから、それほど問題もないのだが・・・。
ちなみに、その布施駅前の商店街の回転寿司屋さんは「元禄寿司」と言って、回転寿司発症の地である。私たちの馴染みの布施で回転寿司が生まれたというのは、そしてそこに家族でいつも通っていたというのは、私の小さな自慢話である。
お寿司を食べ終わると、駅から南にまっすぐ伸びる駅前大通り沿いのいつもの駐車場に向かう。その時も父の姿はぐんぐんと遠ざかっていくのだが、腹を満たして心まで満たされた取り残され組は、もう別に先を行く父に関しては気にもしなかった。別に急ぐことはないんだからと、取り残され組は取り残され組でゆっくりとあたりに目を配りながら歩いていた。そんな父でも、いつも駐車場すぐ手前の「ひばりや書店」の前では、必ず私たちを待って立ち止まってくれていた。
親戚の者のいくつかの話をつなぎ合わせることで、後にようやく大人になった私の知るところとなったのだが、幼き日からなぜか家には親もなく、貧乏で、兄弟下4人と食べて暮らしていくのに賃仕事に出て行く必要のあった長男の父は、小学校の頃からもう全く学校に通うことができなかったらしい。そしてどうやら母も似たような暮らしぶりだったらしい。このことに関しては、親戚の誰もが決して詳しくは話そうともしない。話が昔の思い出話よりも深みに嵌りそうになると、誰もがすっと濁しては別の話題へと移っていくのだった。その分、余計に悲惨な時代、壮絶な日々だったということが想像ついてしまうのだった。そんな私の両親は当然のことながら読み書きが得意ではなく、それが自分たちの子供たちの手前、どうやらコンプレックスだったようだった。そしてその悔しさが、子供たちの教育への情熱となっているようだった。両親は、出先で本屋を見かけるといつも、それが算数の参考書であれ、漢字のドリルであれ、小学生向けの付録付きの雑誌であれ、漫画の単行本であれ、とにかく何でもいいから何か本を私たち子供に買い与えようとした。そしていつの間にかその「ひばり屋書店」に立ち寄ることは、日本初の回転寿司屋「元禄寿司」に食事に行った帰り道のお決まりコースとなっていた。
「幸治、もうこの前に買ったドラえもんは全部読んだんか?」
「うん、全部読んで、今は何遍も読み返してるねん」
「そしたら次の出てるか見ておいで」
「お父さん、次のはまだ出てないわ。次、また布施に来た時やったら店に出てるやろうか。今日はもうええよ」
「そしたらどうや、最近はプロゴルファー猿は読んでるんか」
「うん、あれももう何遍も読んでるわ」
「そしたら今日はプロゴルファー猿にせえ」
という感じで、とにかく私の両親はそんなふうに本を買い与えようとした。
速歩きで駆け抜けることで生活を満たす金にありつけると信じた父だったが、そして実際にそうすることで貧乏を突き破り人並みに暮らせるようになった父だったが、その分、自分ができなかったことを子供たちに託そうという思いは人一倍強かったのかもしれない。
あれだけの速歩きを己の信条とし、子供たちの成長を願って夢中で時代を駆け抜けてきた父が、もう父の腕を掴んでしか安心して外を歩くことができない母の動く杖となって、母に合わせて歩いている。私たち子供は大きくなってしまった。両親は年を取ってしまった。ドラえもんのように、プロゴルファー猿のように、家族揃って日曜日の夕方テレビで観たサザエさんのように、実際は誰も年を取らないというのはありえない。両親の後ろをついて自然と私も母のペースで歩きながら、やるせなさや切なさで胸がいっぱいになった。
2階に上がってみると、そこには見送りに来てくれることになっていた富田の他に、15名ほどの学生時代の仲間が駆けつけてくれていた。話によると、その日に合わせて富田が方々の友人に連絡を取り、私と親しく付き合いのあった友人を集めてくれたらしい。たくさんの私の仲間を、子供たちの成長だけを願い続けてそれまで生きてきた両親に見てもらえることが嬉しかった。自分がどんなふうに親の子供として学生時代、仲間とまっすぐに付き合ってきたか、それを全部両親に見てもらえるような気がして本当に嬉しかった。仲間の誰もが卒業したばかりで、そして中にはまだ在学中の後輩も混じっていて、みんなついひと月前と変わらないみすぼらしい身なりでそこにいた。中には、学園祭スタッフのボロボロの手作りの旗を手に持って立っている者もいた。みんな、誰もが、渡米前に会えるなら会いたかった私の大切な仲間たちだった。ただ、そんな仲間たちを前に、美佐夫婦の成金浮かれっぷりを晒すことが、私は本当に恥ずかしかった。
父と母がゆっくりと、仲間たちと私のいるほうに近づいてきた。そして父が、
「いつも幸治がお世話になりまして、本当にありがとうございます」
と、少しはにかんだような笑顔で仲間たちに話しかけてくれた。そしてそのそばで、母はただ丁寧に頭を下げてくれた。
父が富田に向かっていきなり、
「朝飯は食ってきたんか」
と話しかけると、不意打ちをくらった富田は、
「僕、寝坊して、あわてて電車に飛び乗ってきましてん」
と正直に答えた。すると父は仲間たちみんなに、
「まだ時間あるし、みんなで喫茶店に行こ」
と言って、仲間たちからの返事も聞かずに母を連れて歩き出した。
もう仲間たちはそれに続くしかなく、すぐそばにあった喫茶店でそれぞれ好きなものを頼んで、出発までの時間を過ごした。父なりの私の仲間たちに対するせめてもの感謝の気持ちだったのだろう。
もう搭乗の時刻が迫り、みんなで喫茶店を後にした。手荷物検査ゲートの列に並んだ。そのすぐそばのベンチで家族が座っていた。私は母ばかり見ていた。仲間に会う前のやるせなさや切なさが急にこみ上げてきて泣きそうになった。その時、母がハンカチを握り締めているのを目にした。そして母が先に涙をこぼして、ハンカチでそれを拭った。それを目にした途端に、こらえていた涙がボロっと溢れ出した。仲間たちが、
「柄本、何を泣いてるねん」
と囃し立てたが、もう恥ずかしさもみっともなさも、そんなものは私にはどうでもよかった。一度だけ私は仲間たちに手を振って、あとはもう涙で歪んで映る母ばかりに目を当てたままゲートを潜り抜けた。そして、一瞬のうちに一人になった。
その後のことは記憶が飛んでいる。確かに伊丹から成田まで飛行機で飛んだし、その後成田空港の構内を歩いたはずなのだが、そのあたりの記憶が全部、私から抜け落ちている。成田-シカゴ便の偶然割り当てられたファーストクラスの座席についたあたりから、その豪華さにかなり驚いてつい先程までの感情の昂ぶりから少しは気が解放されたのか、ようやくそのあたりからのことが私の記憶に刷り込まれ始めた。
私にとってファーストクラスが偶然割り当てられたことは、本当に幸運なことだった。それがなければ恐らく、狭いエコノミーの当たり前の光景では気が紛れることもないまま、感情の昂ぶりの整理もつかないまま、そしてそれまでの渡米準備の疲れを纏ったまま、ボロ雑巾のような状態でアメリカに乗り込むこととなったように思う。
座席に着くとすぐに、年配のスチュワーデスさんがドリンクリストを片手に、
「離陸する前に何かお飲み物をお持ちしましょうか」
と素敵な笑顔で訊いてきた。リストを上の方から眺めてみると、名前だけを聞いたことのある高そうなお酒の銘柄ばかりが並んでいた。何かを振り切ろうとする思いと、しばし酩酊状態で過ごしていたいという思いで、私はリストの上のほうの高そうなお酒を次々に空けていった。
離陸してしばらくして食事が始まった。コース料理だった。離陸前にかなりの酒を入れた私は、前菜を少し口にしただけで、そのまま眠りに落ちてしまった。しばらくして目が覚めると、体には毛布がかけられていた。少しゴソゴソしていると、お酒を運んでくれた最初のスチュワーデスさんが私のもとへ駆け寄ってきてくれた。
「どういたしましょう。今から先ほどのお料理の続き、ご用意いたしましょうか」
と訊いてきた。私は、そうしてくれるようお願いした。
パン、魚料理、ステーキ、デザートと、私は一気に平らげた。スチュワーデスさんが勧めるままにライスまで頂いた。それと並行して、またリストの中の酒も頂いた。そしてその後すぐ、私はまた眠りに落ちた。シカゴまで後もう少しという頃になって、私はまた目が覚めた。また毛布がかけられていた。周りを見渡すと、誰もが寿司とそばを食べていた。すると、私の世話をずっと焼いてくれていたスチュワーデスさんがまたすぐに駆けつけてくれた。そして、
「もうあと1時間と少しでシカゴに到着いたします。到着前の最後の日本食、お寿司とおそばをお運びいたしましょうか」
と訊いてきた。私はまた、そうしてくれるようお願いした。
運ばれてきたものを、私はまた一気にかき込んだ。また少し眠たくなった。すると、また先程のスチュワーデスさんが私のそばにやってきた。そして少し微笑みを浮かべて、
「実はですね、お寿司もお蕎麦も本日、余裕がございまして・・・。お若いですし、あれだけでは足りなかったんじゃないでしょうか?まだ入りますよね。よろしければ、すぐお運び致しますよ」
と親しげに話しかけてくれた。
みっともない客である。若いくせに、酒を飲んでるか、寝てるか、飯を食ってるか、その飯の途中で寝てしまったりと、本当にみっともない客である。自分でもよくわかっていたが、とにかく眠くて、そしていくら食っても足りなかった。周りの客に対する、そしてスチュワーデスさんに対する恥ずかしさを思いっきり押しのけて、
「お願いします」
と言ってまた運んでもらった。そしてすぐに平らげて、機体が停止するまでまた寝た。
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