第8話

 彼女の手紙を何度も読み返したその後の数週間はどのように過ぎていったのか、全く覚えていない。仕事にだけはちゃんと顔を出していたんだと思う。それ以外は何をして暮らしていたのか、全く覚えていない。恐らく自炊もすることもなく、惣菜をスーパーで買ってきてはそれをあてに、音楽を聴くこともない静かな部屋で酒ばかり飲んで、すっかり腐っていたんだと思う。無為に時間だけが過ぎ去って、3月の下旬、日差しがだいぶと春めいて暖かくなってきた頃、何かきっかけがあったのだろうが、そしてその何かが全く思い出せないのだが、ふと、そのままアメリカで暮らし続けることは本当に自分をだめにしてしまうという危機感を感じたことがあった。思えば、父にも母にも全く連絡することなくかなりの時間が過ぎ去っていた。私は、申し訳なさや後ろめたさを抱えながらも父に電話した。その時はきれいに素面だった。そんな普通のことでさえ、少しは親に誇れることだなんて考えていた。意を決して堂々と電話したつもりだったのだが、電話口に出た父は私の声を耳にするなり、いきなり怒鳴りつけてきた。

「なんやお前、その覇気のない声は・・・。一体なにして暮らしてるんや。どういうつもりなんや。何を考えてるねん。なんでお前、お母さんに電話、全然せえへんねん。お前、お母さんのこと、考えたことあるんか?お母さんがお前のことばっかり心配して、毎日毎日、今日も幸治、ちゃんとご飯食べてるやろうか、今日も幸治、仕事場で元気よう働いてるやろかって・・・。毎日毎日、幸治、幸治って・・・。嬉しそうな顔して幸治のこと話しててもな、お母さん、ものすごい寂しそうにしてるんやぞ。お前もお母さんのそんなとこ、よう知ってるはずやろ。・・・」

 私ははっとした。父は苛立ちを隠そうともせず、そのまま話を続けた。

「お前、最近のお前、ほんまどうなってるんや。スコットから中村さんにこないだ電話あったそうや。仕事はちゃんとしてるけど2月からは急に元気がなくなって会社の人みんなが幸治のこと、心配してるそうやってスコットから聞かされて、中村さんも心配しはって、わざわざお父さんのところに知らせに電話かけてきはったんや。男が周りに心配かけてどうするんや。また泣きべそかきながら、帰りたい、帰りたいってことばかり考えてるんか。ええかげんにせえ・・・」

 受話器に鳴り響く父の怒鳴り声を聞き続けているだけで、私は血の気が失せていった。しばらく沈黙が続いた。一言も返事することもできないでいる私に対して父が、

「何を黙ってるんや。話すことないんか。用件があって電話してきたんと違うんか。用件がないのに電話してくるな。何も話さへんのやったらもう電話切るぞ。お父さんかってな、忙しいんや」

 とまた怒鳴った。私は慌ててやっとの思いで、

「もう無理や。日本帰る」

 と口にした。父はしばらく黙った。そして情けなさそうに、

「逃げるように日本に帰ってもなんの悔いもないんか、お前には・・・。お前はそれでええんか?」

 と訊いてきた。私はすぐに、

「悔いも、未練も、何もない」

 とだけ答えた。私の言葉にしばらくまた黙ったままでいた父が、

「わかった。お父さんも少し考える。また近いうちに連絡する。あっ、それとな、このことはまだお母さんには言うなよ」

 とだけ言って、一方的に電話を切った。

 電話を切った私はボロボロに泣いた。そしてただ母の声が聞きたくなった。母に誇れるような、そして母を喜ばせられるような話なんてやはり私には何一つなかったのだが、ただもう母の声が恋しくなってどうしようもなくなった。無理に泣き止んで、無理に心落ち着かせて、私は母に電話した。もう母に嘘をつき通す気力はなかった。そのままの私で、私は母に電話した。

「お母さん・・・」

「幸治か、久しぶりやな。元気でやってるか?」

「うん、大丈夫やで。少しな、ホームシック気味でな、電話もせんでごめんな。もうだいぶとマシになってきてな、そしたらお母さんの声、聞きたなって・・・」

「うん、そうか。たいへんやったんやな。・・・。もう大丈夫か?」

「うん、どうにかマシになってきてるわ。お母さんはどない?変わりない?」

「うん、・・・。そうやな。右足も悪うもならんけどようもならんし・・・。まあ、それ以外はどうってことないねん。お父さんも由美子もようやってくれるし、お母さんは自分のことだけ心配してたらええだけやから、楽に過ごさせてもらってるで。大丈夫やで、お母さんの心配はせんでも・・・」

「そうか。・・・。お母さん、あのな、日本で正月過ごした時、お母さんにもお父さんにも、友達にも会えて、ご馳走もいっぱい食べて、嬉しいて楽しすぎたのかもしれんわ。そのお陰で1月は元気でおれたんやけどな、2月になって急に寂しいなってもて、ほんまは悶え苦しんでたんや。なんでかそんなふうに暮らしてたのをな、お母さんには聞かせたくなくってな、よう電話せえへんかってん。今はな、もうあん時のこと、辛かったって笑いながらこうして話せる気がしてきたから電話したんや。もう僕、大丈夫やで」

 母の声がすぐに身に染みて心解れた私は、決して大丈夫でもないのに大丈夫だと、やはり母を悲しませたくなくて、そんな嘘を口にしてしまうのだった。しかし思うと、そのくらい母の声というものは弱り切った子の心を回復させるもののようだ。そして周りを悲しませたくないという気持ち、そして立ち上がり歩き出そうという勇気を植え付けてくれるもののようだ。母という大きな女性のそのとてつもない大きな愛、どんなに離れていても求めればすぐに届けられる愛、いくら注ぎ続けても枯れることのない無尽蔵の愛、母とは愛そのもののようだ。

 しばらく私はぼんやりとしていた。すると母が静かにゆっくりと話しだした。私はそれをうっとりと聞いた。

「そうやったんやな。たいへんやったんや、幸治・・・。幸治な、苦しかったりしたら何でもお母さんに話したらええんよ。お母さんができることやったら、幸治のためやったら何だってしてあげるからな。せやけどな、幸治ももう大きなって、大人の仲間入りしたんや。自分で乗り越えることができそうなことはお母さんに頼ったらあかんよ。幸治がな、お母さんのこといつまでも頼りにしてくれることは嬉しいことやけど、それと同じくらい、幸治が自分の力で壁を乗り越えていってくれるのもな、お母さんは嬉しいんやで。いつまでもお母さん、幸治のそばで生きてるわけやないんやから、強うなって欲しいんや。そうなるためにな、どう頑張ってもお母さんに頼らへんかったらどうしようもない時だけはな、今はまだなんぼでもお母さんを当てにしたらええんやで」

 母の声を聞きながら、私の瞳からは涙がポトポトと零れ続けた。父に怒鳴りつけられた後にうっとりと母の優しい声を聞いているだけで、心の奥底の緊張という氷が溶け出したかのようにポトポトと涙が頬を滑っては膝を濡らし続けた。私は、心が久しぶりに温かく、そして柔らかくなっていくのを噛み締めた。何を母に話せばいいのかわからなくなっていたのだが、ふと口からこぼれ出るように、

「お母さん、ありがとう。お母さんの声聞けて、久しぶりにすっきりしたわ」

 と私は母に語りかけた。その言葉には一切の嘘がなかった。すると母は、

「うん、よかった。また何かあったら、いつでもお母さんに言うてきたらええんよ」

 と言ってくれた。

 その次の日に父から電話があった。

「お母さんに昨日、電話したんやな。お父さんが仕事から帰ったら、お母さん、えらい喜んでたぞ。お母さん、悲しませたらあかんぞ」

 その父の言葉を聞いて、返事することもすっかりと忘れて、すぐに私の心は学生時代、バイクに夢中になっていた頃の懐かしい思い出のなかを漂いだした。


 大学2回生の夏休みだった。アルバイトでお金を貯め、バイクのタンデムシートには寝袋と着替えの入ったカバンを縛り付け、ガソリンタンクには強力磁石のついたライダーズバッグを貼り付けて、そのバッグの大きなビニールの窓の部分は折りたたんだ地図を差し込んで、友人とふたり、フェリーで北海道に向かった。夏の北海道ツーリングに向かうライダーのことを、今はどうかはわからないが、あの頃のライダーは「ミツバチ族」と呼んでいた。平坦な直線道を一定のエンジン音で駆け抜けていく音がミツバチの羽音に似ていることから、そのように呼ばれるようになったらしい。友人と私は、その「ミツバチ族」という言葉の響きにライダーとしてときめき、そして憧れていたのだった。父は私がバイクに乗ることを反対していたが、母はそんな父の反対をねじ伏せてくれた。2回生になったばかりのある春の日、たまたま私が京都から奈良の実家に帰省した時のことだった。

「幸治がこれまで勉強ばっかりしてきて、自分から初めてやりたいことをやりたいって言うてるのに、バイクになんか乗ったらあかんて反対なんかしたら、そんなん幸治がかわいそうやろ。事故とか心配は心配や。せやけど何やっても心配はつきものやろ。幸治、お母さんは賛成やで。いくらお父さんでも反対はさせへんからな」

 父は仕方なく私がバイクに乗ることを許してくれた。

 北海道の小樽に朝の4時頃に到着した。その旅に出るに際して父との約束が1つだけあった。毎日宿に到着したら一番に母に連絡すること、その約束を守ることが無謀な旅に出る上での絶対条件だった。小樽の港を離れ国道5号線に出ると、正面から朝日が昇ってくるところだった。そして左手の石狩湾も、次第に北の海特有の濃紺のその姿を現し始めた。一気に気分が高揚した私たちは、その日1日目は、札幌、旭川、富良野、層雲峡、そこから旭川に戻り北上して士別、そして苫前まで走った。その日は母に電話をした。2日目はサロベツ原野を北上し、稚内宗谷岬を目指した。そして今度はそこからオホーツクを左手にして南下、紋別まで走った。その日も母に電話した。3日目は紋別を後にしてサロマ湖、網走、知床峠、野付半島、開陽台、摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖、足寄を回って帯広に宿を取った。その日は友人と定食屋での食事後、それまでの3日間の疲れが出たせいか、部屋に戻るとそのまま横になって寝袋に潜り込んでしまい、結局母に電話することなく眠ってしまった。次の日の朝、4日目を迎えた。その前日までの疲労が抜けなかった友人と私は、その日の走行距離は200km以内に抑えることにして出発した。貧乏旅行だったため、休むわけにもいかず前に進むより他はなかった。普通に走れば3時間くらいの距離を、体に負担のないよう倍以上の時間をかけてゆっくりバイクを走らせた。その日は襟裳岬、日高を経由して支笏湖湖畔には午後3時頃に到着。そのまま支笏湖温泉で体を休め、夕飯を宿の樽前荘で定食をいただき、夜になってから実家に電話をした。特に前日実家に電話をしなかったことに対しては何の罪悪感もないまま、私は普通に電話をした。ベルが鳴るなりすぐに母の声が聞こえた。電話が私からだとわかると、母はそのまま泣き出した。そして、

「なんで昨日は電話してけえへんかったんや。毎日、新聞でもニュースでも、バイクの事故があったいうて流れてるやろ。危ない乗り物やから、連絡なかったら幸治に何かあったんと違うかって心配するやないの。毎日電話するって約束やったのに。昨日晩からずっと、幸治からの電話、お母さん待ってたんやで。もう・・・。ほんまに・・・。あぁ、でもよかった。ほんまよかった。幸治から連絡あって・・・」

 と一気にまくし立てた。確かにそうだった。母の言う通りだった。母に悲しい思いをさせてしまった。

「お母さん、ごめん。・・・」

 私はその一言を言うのが精一杯だった。その後母はすぐにいつもの母に戻って、泣いた後の鼻声のまま私に話しかけてくれた。

「うん、もうええ。ええ旅行してるんか?美味しいものに当たってるか?」

「うん、じゃがいもの天ぷらが美味しいてな、お土産物屋さんで休憩する時はな、そればっかり食べてるねん。ほんまにおいしいんや。・・・」

「そうか。よかったな。明日も気つけてバイク運転するんやで。そして夜になったら、ちゃんと電話してくるんやで。あっ、ちょっと待ってや。お父さん、電話変わるって言うてるから・・・」

 すぐに父が電話口に出た。

「幸治、約束は破るな。それとな、お母さんだけは絶対に悲しませるな」

 私が返事しようとすると、その前にもう父は電話を切った。


「おい、幸治、お父さんの話、聞いてるのか?」

「あぁ、うん・・・」

 私はひどくぼんやりしていたようだった。

「どうするんや?もうそうすることに決めたんやな」

「えっ、何の話や?」

「せやから・・・。聞いてなかったんか?今、話ししたやろ。もう日本に帰ってくるって気持ち、変わらへんのやな」

「あぁ、うん。・・・」

「それやったらな、幸治、よう聞けよ。お父さん、これから中村さんに電話するわ。2年の予定でスコットのところにお世話なることになってたんやけど、予定を1年に縮めたいってな。お父さんがお母さんの世話しなあかんから、幸治にはお父さんの会社で配達やら、出荷の手配や、その他お父さんがやってたことを手伝ってもらわなあかんようになったんやって・・・。ホームシックで幸治が苦しんでるってことは一切中村さんには言わへんからな。それとな、お母さんにはな、幸治も1年もアメリカにいててもう十分やってお父さんが判断して、幸治を呼び戻したってことにしとくからな。お父さんもそろそろ幸治にお父さんの仕事、少しずつ教えていかなあかんって思い始めたんやってことにしとくぞ。せやから4月の末まではな、あと1ヶ月、スコットの会社でしっかりとやるんやぞ。わかったか?それでええな?」

「うん、わかった」

 電話を切ってしばらくして、日本へ帰国できることは望んでいたことで喜ばしいことのはずなのに、なぜか私は苦しくなっていった。自分の周りを引っ掻き回し、心配ばかりかけ、迷惑ばかりかけている。一体私のアメリカでの日々はなんだったのだろう。そうだ、すべては大学4回生の初夏の頃、大学の構内の公衆電話で父と話したことから動き出したのだ。何の自分の将来の景色も描かないまま、ただ幼かった頃のように父と母の喜ぶ姿だけを描いて、父とのあの日の電話でそれまで通りのその場凌ぎの瞬間芸のような受け答えをして、そして心にもない嘘を口から滑らかに滑り出させて、すべてが動き出したのだ。その結果、父を苛立たせ、母には寂しい思いをさせ、彼女を苦しませ、中村さん、スコットには迷惑をかけることとなってしまったのだ。自身のことで言うと、日本を離れ孤独に苦しんで、家族と親戚の間に起きた様々な出来事を一切知ることもできずにまた苦しんで、自堕落な暮らしに日々罪悪感を覚え重ね、それでもどうすることもできない自分を許せず、そのままもしあと1年アメリカで暮らすこととなっていたなら、その末にどうなっていたかもわからないほどになってしまったのだ。そんな考えが頭の中で飛び回っては私をただ苦しくさせていた。考えたところで過去は変わらない。私はそう自分に言い聞かせ、そして自分を奮い立たせ、「もういい、やめよう」と胸の中で叫んだ。そして、ただ前を向いて、どうにかその先を描こうと思った。

 先ずは、とりあえずは次の父の電話を待とう。きっと父は、中村さんと話したこと、母と話したことを伝えるために、近いうちに連絡をしてくれるだろう。そしてその時にきっと、どういう運びで帰国することとなるか、打合せすることとなるだろう。その時までは動かないでいよう。彼女はまだ、私があと1年以上アメリカで暮らすと思っている。まだ一度も彼女には、帰国が早まる可能性があることなどをほのめかしたこともない。彼女にはもうひと月ほど前に、ひどいことを言ってしまった。その後届いた彼女から手紙には、正直堪えた。それからは連絡をしていない。帰国が決まったということ、彼女には電話、それとも手紙、どちらで知らせればいいのか。それとももう、ふたりの関係は終わりに向かっていて、何も知らせないほうがいいのか。

 少し私は頭を休めようと思い、冷蔵庫からビールを出してタバコをふかした。その後、久しぶりに湯船に湯を張って長時間身を浸した。服を全部、洗濯してあったものに着替えた。気分が少しはさっぱりとした。少し気は早いのだが、帰国するに当たって不要なものを見て回ろうと思った。それほど物の多い暮らしではなかったのだが、暮らし始めてからは服がいくらかは増えているはずだった。クローゼットに入った。その奥のほうの服の影にギターが転がっていた。そのギターは、アメリカに来た頃に同じ職場の事務のノーリーンがギター好きの私のために、家にあったのを格安で譲ってくれたものだった。引っ張り出すと、その背中にはこぶし大の大きな穴が開いていた。そしてその穴の回りは、木のささくれが鋭く立っていた。その前年は普通によくそのギターを弾いていた記憶があったから、恐らくは完全に孤立した寂しさの中、2月以降のある日、急に激した心のままに冷静さを失って叩き割ったのだろう。引っ張り出した破れたギターを眺めていると、そんな正気ではない日々の中、私は彼女にどんな手紙を送り続けていたのだろうと思い、ぞっとした。思い出そうとしても、彼女宛の手紙の内容はやはり一切思い出せなかった。そのギターの影になっていたあたりに、丸められた紙くずが転がっているのが見えた。わたしはそれを拾って開けてみた。するとそこには、走り書きの文字の上に線を引いては書き直し、書き直した上にまた線を引いては書き直し、紙の上一面が黒く染まるほどのその行間に、どうにか1つの詩がまとめられていた。



大きな微笑みのために


君の気持ち 何となく僕にもわかってきてる気がしてる

何もできない今 何かを始めるなんて無理な気がしてる


僕はもう何も言わない 「僕の気持ちを信じてる」と言ってくれた君のため

できることは僕自身の暮らしを貫き通すことだけ


ずっと忘れずにいる だけど

お互いの道 歩こう

そして大きな微笑みを

いつか神様に「ありがとう」と言えるように

なれたらいいね



 それを読んで、あの狂ったままに過ぎた2月の中で、この詩のような冷静な瞳の自分がいたことに驚いた。そして、必死になって紙が黒くなるほど書き直しを重ねて、どうにか詩をまとめあげようと執念深く挑み続けていた自分がいたことを全く覚えていないことにも驚いた。私は机の引き出しから便箋を取り出して、その詩をゆっくりと丁寧に書き写した。きっといつの日かこの詩を懐かしく読むことがあるような気がして、心の日記として残しておくほうがいいという気がしたからだった。

 机の前の窓の外には駐車場が見える。街灯の明かりの下、根雪となって留まっていたくすんだ雪もほとんどその姿を消していた。季節は着実に流れていた。そんなふうに心静かに、移ろいに目を向けるのも久しぶりのことだった。人がどれだけ日々の中で高揚しようが下落しようが、季節はほぼ同じペースで流れ去り、そして繰り返す。なぜ人間は、自然の繰り返す緩やかな移ろいから離れた場所で、目出度すぎるほどに日々忙しい上下を繰り返すのだろう。悔やんではケツに鞭を打ち、ムチを打っては走り回り、走り回っては擦り切れて惨めになって倒れこみ、そして悔やんで・・・。何かで読んだ、「人間は怪物だ」という言葉を思い出した。私はふと、もうすべては彼女の思うままに任せようと思った。それでいい、きっとそれがいいと思った。そう思うと、やっぱり自分は心底から彼女を愛していたんだと思った。そんな自分を少し誇らしく思った。

 夜もすっかりと遅くなっていた。そんなふうに時間を意識することさえも、久しぶりのことだった。歯を磨こうと洗面所に向かった。鏡に顔が映った。私は鏡の中の自分をまっすぐに見つめた。それまでずっと、自分の顔をそんなふうに見つめることもなく過ごしていた。げっそりと痩せていた。頬がこけていた。スコットが心配して中村さんに私の様子を報告したのも無理はないと思った。しかしそれだけ痩せてはいたものの、表情はどこか晴れやかだった。疲れ切ってはいたが、何かをやりきって、くぐり抜けて、ようやく憑き物が落ちたような、そんないい顔をしていた。すべてが移ろっていくが、ひょっとしたら正月明けのあらゆる移ろいの中での私は、そのかすかな予兆を察知しては人よりも先に反応していただけかもしれない。そして過剰に反応しすぎては足掻き、暴れ、そのせいで周りに心配、迷惑をかけたのだろう。彼女は私と違って、きっとすべての移ろいに上手く身を任すのだろう。気配や予兆には敏感な彼女のことだから、確実に乗り遅れることなく身を任せるだろう。その時に彼女は、自分でそれまでのすべてに感謝しながら、大きな波風を立てることもなく丁寧にけじめをつけながら運ばれていくのだろう。一抹の不安を抱え、それがあることを当たり前に思い、そんなことよりも無事に運ばれていくことだけを願い、粛々と日々を渡り、そして確実に次の願う場所に納まるのだろう。ふと私は、私から先に彼女に連絡するのは止そうと思った。移ろいに素直に身を任せる彼女からの連絡を待ってあげること、そのことが私から彼女への最後の本当の思いやりのような気がしたのだった。寂しいことなのに、なぜか私は温かな気持ちで満たされていた。

 4月に入ってすぐ、久しぶりに彼女からの手紙が届いた。


(前略)

 柄本くん、私、ずっと忙しくしてるけど、その中で私たち二人のこと、私なりに真剣にいつも考えてたの。この先、まだずっと柄本くんも日本にいなくて、そばで私を支えてくれる彼氏がいないと思うと、耐えられへんの。それとやっぱりこないだの電話で、柄本くんに私のこと信用してもらえてなかったこと、ショックやったっていう気持ちがどうしても消えへんの。なんでこうなってしまったのか、悔しい。私は私なりに柄本くんのこと大切やった。柄本くんもそうでしょ。でも、あの電話の後こうして手紙を書くまで、このままやっていけるか、もう無理なのか、真剣に考えて、やっぱり今の私には、もうこのままでは無理だと思った。寂しいし、悔しいけど、私たち、もう終わりにしよう。そのほうがお互いのためやと思うの。私の気持ち、どうかわかってあげてほしい。ずっと私、柄本くんにはわがままやった。柄本くん、ずっと私にわがままのままでいさせてくれた。それやのに、ごめんね。またわがままいうね。これまでほんと、たくさんありがとう。・・・・・・。

 (後略)


 私は彼女の手紙を読んで、実に彼女らしいと思った。本当に素敵な女性を愛していたんだと改めて思った。悲しい手紙だったのに、悲しみは全く湧いてこなかった。それよりもただ、彼女にはいつも幸せでいて欲しいと思った。強い意志、まっすぐな瞳、しっとりとした思いやり、ごくたまに見せる茶目っ気など、そんなものをいつまでもなくさず、ただいつも幸せでいて欲しいと思った。

 彼女からの手紙が届いた日の夜、父から電話があった。

「幸治、まだ起きてたか?」

「うん、起きてたで・・・」

「中村さんに電話したらな、中村さん、そんなことやったら幸治くんには早うに日本帰ってきてもらったらええって言うてくれはったんや。それでな、4月の半ば頃ってことで、中村さん、たぶん今日にでもスコットと話しして調整してくれるって言うてはったわ。そんなん、あと2週間もないのに、幸治の後の従業員の確保とかどうするんやって中村さんに訊いたら、そんなもんどうでもなる、スコットがとりあえずのアルバイトでもどっかから見つけよるからって・・・。中村さんは、一日でも早うに幸治を日本に帰国させようって動いてくれてるから、あとはスコットの言う通りにしたらええ。わかったか?」

「うん、わかった。ありがとう・・・」

 私は前回の電話の最中も、この電話の最中も、どこか父がそれまでとは違うふうに苛立っているような、変に急いでいるような、そして呼吸が実に浅いような気がして、どうせ尋ねても素っ気ない返事しか返ってこないだろうと思いながら、父に思い切って尋ねてみた。

「お父さん、何かあったんか?お母さんは大丈夫なんやろ?」

 私がそう尋ねた時、電話の向こうの父の、どこか苦しそうにして震えている気配が目の前に見えたような気がした。私は何か嫌な胸騒ぎがして、また同じことを繰り返し父に尋ねた。

「お母さん、どないかしたんか?」

 するとゆっくりと息を吐き出してから、父は静かに話しだした。

「3月入ってな、びっくりするくらい急に、お母さんの調子、悪うなっていってるんや。今はな、もう両足とも全く力が入らんようになってもてな、どっかに掴まって立つことも全くでけへんようになってしもてるんや・・・」

「・・・。なんでや。お母さん、こないだ、変わりないよって言うてたのに・・・。なんで僕には一切教えてくれへんかったんや。なんでや・・・」

 私は、何もかもがただ悔しかった。ボロボロと涙が溢れて止まらなかった。

「泣くな、幸治。男が泣くな。・・・。幸治に言わんかったんはな、お母さんがな、幸治にいらんこと言うて余計な心配かけるなって言い張るんや。お母さんな、幸治が帰ってくるまでに絶対に体を治すんやって言うて・・・。毎日頑張ってるんやで、お母さんは・・・。せやけどな、もう今はお母さん、トイレにも自分で行けへんようになってもて、自分で便座に腰掛けることも、そこから立ち上がることもでけへんのや。お母さんがトイレ行くのを手伝うの、由美子では無理やからな、せやからお父さん、毎日、会社と家を4往復してるんや。ほんまのこと言うたらな、今、お父さんももう大変なんや。幸治が帰ってきてくれたら、お父さんもほんまは助かるんや。せや、幸治・・・。あのな、こないだの電話ではな、お母さんにはお父さんが幸治に帰ってこさせることにしたってことにしよって話してたけどな、そうじゃなしに、幸治が自分の意思で、もうアメリカでの生活に見切りつけたから帰ってくることにしたってことにしとけ。幸治が自分の意思で帰ることを決めたって聞くほうがな、きっとお母さんは喜ぶやろ。わかったか?」

「うん、・・・、わかった」

「もう電話切るぞ。お父さん、家でお母さん待ってるから急がなあかん。スコットの言う通り動いて、帰ってくる日が決まったらまた連絡して来い。そしたらな」

 生まれて初めて父の弱音を聞いた。勝手にそれまではスーパーマンだと信じ、恐れながらも見上げ尊敬していた父の姿は、私が作り上げたただの幻想の姿だったということに気づかされた。父も辛い時は辛い、そんなただの人だったのだ。それでも生きたいから生きていくただの人だったのだ。初めて私が父のことをただの人、ただの男だと意識した日だった。複雑な気持ちだった。人としての父を見ることができて、距離がそれまでよりも近く感じて喜ばしく思った反面、やはり父にはいつまでも幻想のスーパーマンのままの父でいて欲しかったとも思った。大人になるにつれ、夢のような幻想は次第に遠のいて、現実が迫って来る。少し気が落ち着いてくると、初めて耳にした父の弱音も、訪れるべくして訪れた現実だと思った。そこで立ち止まってはいけない気がして、そしてそこから逃げ出してはいけない気がして、嫌に胸がドキドキした。

 電話を切った後の私は、母のそばに帰るため、とにかくひとつひとつ速やかに片付けていかなければと思った。先ず、彼女への返事を書こうと思った。そうしなければ次に動けそうにない気がした。彼女も移ろいの中、一抹の不安を抱えながらも粛々と日々をどうにか渡り、苦しみの中にあっても自力で丁寧にけじめをつけようと踏ん張っているのだ。そして次の願う場所に納まろうとしているのだ。もう時計は深夜0時を回っていた。私は机に向かって、便箋に思うまま文字を書き綴っていった。


 上島。正直な気持ち、そのまま手紙に書いて送ってくれてありがとう。これまで苦しい思いばかりさせてしまったこと、先ずは謝る。本当にごめん。すまなかった。アメリカに戻ってしばらくしてからの自分を今思い返すと、完全に狂っていたように思う。お前にはどんな手紙を送ったかも正直、覚えてない。たぶんお前が読んだら苦しむようなことばっかり書いたんじゃないかな。そんな気がして、今少し気持ちの落ち着いた状態でそのことを考えると、悔やんでばかりいる。

 この一ヶ月、お互いに連絡を取り合わんようになって、狂ってた自分に気づいて、このままでは俺、もうあかんて思い始めて、父に、「日本に帰りたい」って気持ちを打ち明けた。上島には言うてなかったけど、去年から何度も父にそんなことばかり言っては困らせてたんや。その度にいつも、父からは、「根性叩き直せ」って言われ、言われるままにどうにかこっちで生活を続けてたんやけど、こないだの電話で父が俺の狂ってる気配を察してくれたのか、日本に帰ることを理解してくれた。そしてつい先ほど、母の状態が急激に悪くなっていることを初めて聞かされた。まだはっきりとは決まってないけど父の仕事を手伝うため、おそらく4月の半ばには日本に帰ることになると思う。

 お前の手紙、読んで、実にお前らしいって思ったよ。そんなお前にずっと憧れて、ずっと恋して、お前に気持ち、打ち明けてからはお前のことがただ大切で、それやのに今年に入ってからはお前のこと、苦しめるばかりで・・・。今になってお前とのここ1年弱の短い期間のお付き合いのことを思うと、お前っていう女性は俺が出会った頃にイメージしたままの素敵な女性やったよ。芯が強くて、まっすぐで、人を思いやる心があって、可愛らしい茶目っ気があって。俺っていう男は、メッキが剥げていって、だんだんとお前の思っていたイメージからズレていったんやろな。臆病で、泣き虫で、さみしがりで、どうしようもない、・・・、そんな俺ももっとお前に習って強くなる努力、せなあかんかったって、今になって思ってるんや。もう遅いけど・・・。

 お前からの手紙が届く数日前かな、夜、窓の外の根雪がほとんど溶けてなくなっているのを目にした時にな、お前はきっと身の周りの移ろいに抗うことなく流されて、それでいてただ流されるんじゃなくて、けじめをつけるところにはけじめをつけながら、移ろった先のお前が願う場所に確実に納まって行くんやろうなって思ったんや。それはな、したたかで計算高いから悪いとか言うてるんじゃなくて、女性として本当に素敵なことやって思ったんや。そして男はな、やっぱりそんな女性にはかなわんって素直に思ったんや。そんなことを思ってな、俺、どんな手紙がお前から届いて、どんなことをお前が考えて願っていようが、お前の言うままに素直に従おうって思ったんや。そう思えた時にな、俺、初めてお前っていう素敵な女性を心から愛せたって思った。そしてそれまでは愛してるって思ってるだけで、俺の行動は全然それには伴っていなかったってことにも気づいた。そんなふうに思えるようになってな、寂しいことやのになぜかな、今は心が温かな気持ちで一杯になんや。

 お前の一番ええようにしような。それが一番ええことや、きっと・・・。お前と知り合えたこと、お前とお付き合いできたこと、お前とのすべて、ほんまありがとう。言葉では言い尽くせないほど、今、俺はお前に感謝しています。そして今、これまでで一番お前のことを愛しています。なんでもいいから、どうかいつも幸せでいてください。俺は、お前がお前らしく、お前の願う場所でいつも幸せでいられること、いつも願っています。

 ほんとありがとう。さよなら。


 私は次の日の朝、会社の近くのポストにその手紙を投函した。アメリカから手紙を投函するのはそれで最後だと思った。そして自分の周りの移ろいを強く意識した。移ろいの中で、彼女のようには強くはなれなくても、それでもどうにか私も願う場所に納まっていくんだと思い、そして願った。

 出社するなりスコットに呼び出された。社長室に行くと、スコットがいたわるような瞳で私を見つめながら話しかけてきた。

「幸治、重三(中村さん)から話を聞いた。お母さんがそんな状態だったなんて、何も知らなかった。すまない。マンションや車、その他もろもろ、俺が後かたづけを全部引き受けてやる。お前がまず今一番にしなければならないことは、すぐにチケットを買ってカバンひとつでお母さんのもとに速やかに帰ることだ」

「ありがとう、スコット・・・」

「そうだ。もう今日で仕事は終わりにしろ。そして明日からは帰りのチケットの手配や荷物の整理を急ぐんだ。わかったな」

「わかった。ありがとう。スコット・・・」

 その日のうちに私が日本に帰国することが決まったという話は全従業員に伝わり、誰もが頻繁に私のそばにやってきては「寂しくなる」と声をかけてくれた。そして誰もがその時に、「お母さんのそばにできるだけいてあげて」とも言ってくれた。アメリカでの生活にも馴染めず、あれだけ職場の人達と距離をあけてのお付き合いしかしてこなかったのだが、どの国の人間でも親を想う気持ちに違いはないということを帰国前に知ることとなって、日本を恋しがるばかりで心を誰にも開くことのなかった自分を悔いた。

 その日の夜、最後の仕事を終えてマンションに帰ってすぐに、私はホームシックで苦しんでいた頃にお付き合いのあったパーティー仲間に電話をした。もう彼の名前は忘れてしまった。バカ騒ぎでのお付き合いは、お互いに名前はなくても成立するくらいのお付き合いでしかなかったのだった。彼は旅行社に勤めていたので、大阪に帰る直近の便の手配をお願いした。彼は、また明日調べて連絡すると言ってくれた。次の日、その3日後の便でどうだという連絡を彼から受けた。私はすぐにチケットを取りに行った。そしてその足で、スコットのところへ向かった。スコットに帰国日を報告すると、

「幸治、お母さんに何かプレゼントをこれで買ってくれ」

 と言って100ドル紙幣を渡された。散々スコットには心配ばかりかけてきたのに、そうまでしてもらえることに私は涙した。するとスコットは、

「あと2日、アメリカでの生活を楽しめよ」

 と言って、私の背中を彼の大きな手でずっと摩ってくれた。


 帰国当日、スコットにオヘア空港まで送ってもらった。その道中、嬉しいのか悲しいのかもわからないまま、私は見慣れたハイウェイの上の広い空ばかりを眺めていた。そんな私にスコットは何も話しかけてこなかった。そして空港に到着するとスコットが、

「できるだけお母さんのそばにいてあげるんだぞ。そして父の会社を精一杯手伝うんだぞ。俺たちはいつだってお前の味方だからな」

 と言ってくれた。スコットはその日仕事だったので、私たちは空港の玄関先でお別れをした。一人になってから搭乗までの2時間、頭の中がずっとモヤモヤとしていた。帰国できることを望んでいたはずなのに、嬉しさもさほどなければ、かと言って悲しいでも寂しいでもない、そんなどこか心にポッカリと穴が空いたような気分だった。そして、どこを探しても正解が見つからなくて、いくらそれを求めても絶対に与えられることもない、そうとしか言いようがないのだが、そんな妙な気分だった。ずっとそんな気分が続きそのことが面倒になってきた時、ふとこんな考えが頭に浮かんできた。

「人が生きていくということは、正解なんてどこにもない中を、それでも納得のいくものが何か一つ欲しくて、手を伸ばして追い求め彷徨い続けるようなものかも知れない」

 なぜそんな考えが浮かんだのか不思議に思ったが、その時の私は深くその言葉に納得した。

 何一つ成し得なかった。目に見える結果も何一つ残せなかった。寂しさと苦しみに震えるだけの日々だった。そんな私のアメリカ生活だった。しかし正解なんてどこにもないんだから、そしてそんな日々の中でもそれでも手を伸ばして彷徨い続けたんだからと、私は、どうにかハッタリでもそれまでの1年間、一人生きてきた自分を自分で認め、そして許そうと思った。帰国すれば、きっと同じようなことが繰り返されることだろう。それでも1年間孤独に耐え抜いた私だから、どんな状況にあっても飄々と手を伸ばし続けるだろう。そんなふうに思えるようになったことが、たった一つのアメリカ生活での収穫だと思えた。そう思えてくると、心のモヤモヤが一瞬にして吹き飛んだ。

 晴れ渡る気分のままにカウンターバーに行って、元気よくバドワイザーを3杯飲んだ。やけ酒ばかり飲んでいた私にとって、アメリカでの初めての、そして最後の祝杯だった。それは、心にようやくけじめをつけることのできた私への最大級の祝杯だった。

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