第13話

 1993年12月19日、その日は私の25回目の誕生日だった。当然誕生日が迫ってくるとそのことを意識するのだが、いつからか私は、周りから「おめでとう」と囃されるのがどうも苦手で、そして気恥ずかしくて、できるだけその年も何事もなかったように静かに通過したいという気持ちでいた。その上、もうその頃は母の衰弱がもう手の打ちようもないほどに進行していたので、その年の私の誕生日なんてものはさらっと素通りされるものだと思い込んでいた。しかしそうはならなかった。

 その年の私の誕生日は日曜日だった。その3日前の12月16日の木曜日、仕事を上がって仮の住処に帰って慌ただしく夕飯を終え、いつものように母のそばに行くと、ベッドの背もたれを起こしてテレビを観ていた母が不思議なほどに、もう嬉しくてたまらないというほどに嬉しそうな顔をして、

「幸治、明日は配達、あるの?」

 と訊いてきた。

「うん、あるで」

 と答えると、母はさらに嬉しさを膨らませたような顔でまっすぐ私を見つめながら、

「日曜日、幸治の誕生日やな。明日、配達の途中にな、どっかに寄って、幸治の一番欲しいもの、買っておいで」

 と話した。そう話し終えた母は満足気な顔をしていた。母は恐らく、もうベッドの上から下りることもできずに横たわりながら、私の誕生日が近づいてくるのを指折り数え、私にそう話しかける日のことを想像して、毎日ワクワクと胸を躍らせていたのだろう。そう思うと胸が締め付けられる思いだった。ただ切なかった。母は私に話しかけた後、すぐに父のほうに向き直って、

「なぁ、お父さん、ちょっとくらい幸治が仕事、サボってもかまへんやろ?」

 と、笑いながら甘えるように父の了解を確認した。

「うん、ちょっとくらいやったらかまへんで」

 と父は言って、母に優しく微笑んだ。すると、それまで嬉しそうにしていた母は一変して、見る見るうちに目を真っ赤にしてシクシクと涙を零しだした。私はそんな母をただじっと見つめていた。母は泣きながら俯いた。しばらくして顔を上げた母は、真っ赤な瞳で私をしっかりと見つめ、そして思い詰めたように話しだした。

「幸治、・・・、これがな、お母さんからの最後の誕生日プレゼントやからな。・・・。幸治が一番欲しいもんでな、一番ええもんを選んでくるんやで。わかったか・・・」

 母の声はかなり震えていた。泣いていたせいで、震えていたせいで、そしてすっかりと衰えたその声のせいで、本当にその声は小さくて、弱々しくて、聞き取りにくかった。しかし、最後の「わかったか」だけははっきりと聞こえた。母はその一言にだけ、語気を目一杯強めて思いっきり口から放ったからだった。母の放ったその一言には、「必ずやで」、「絶対やで」、「約束やで」、「お願いやで」という母の切なる願いが乗せられていたようだった。そんな母の気持ちはそのまままっすぐ私の胸の奥深くにねじ込まれるように届いた。私は母が望むままに、母からの「最後」の誕生日のお祝いを素直に受け取ろうと思った。その「最後」という言葉、私はそこに、「もうその先、繰り返されることはない」という悲しい現実を感じた。胸の中で「最後なのか?本当に最後なのか?」と呟き、そして疑おうとしてみても、「本当に最後」というのはやはりもうすでにほぼ明らかなことだった。どこにも持って行きようのない悔しさが急激に胸に膨らんできた。そして気がつけば、私は母の前で俯いて泣いていた。それまではできるだけ母の前では涙を見せないように心がけてきたつもりでいたのだが、もうそんなのはその時は無理だった。そんな私に母は優しく話しかけてきた。

「幸治、・・・、いま幸治が一番欲しいもんは何や?正直に言うてみ・・・」

 幼い子供に話しかけるような、そしてどこか愛しさのままにあやしているような、そんな母の話し方だった。顔を上げると、母は泣きながら遠い昔の頃のように微笑んでいた。私は子供のように甘えていいような気がした。そして、私が目一杯甘えることを母が求めているような気がした。私は思いっきり甘えてやろうと思った。しかし、いざ欲しいものを急に尋ねられても、その時の私にはそんなものは何もなかった。何か口からサラっと滑り出ればいいのだが、そんなものは探しても何も見当たらなかった。ふと私は、どうしても母は形に残るもので、生涯私が愛用し続けるものを私に買い与えたがっているような気がした。そしてそうすることで母は、私が喜ぶ顔を胸に刻みつけたがっているような気もしてきた。私は忙しく頭を働かせた。ずっと私のそばで形のまま残り続けるもの・・・。するとふと頭の中に、その1年半以上前の渡米直前、母と二人きりの時にでたらめにギターを弾いて母に歌って聴かせた時のことを思い出した。その時、確か母は私にこう言っていた。

「幸治、・・・。幸治はな、中学、高校と勉強に打ち込んで、趣味に打ち込むことなんかなかったやろ。大学に入って少し幸治にも時間のゆとりができて、ギターとバイクに夢中になった幸治のこと、お母さん、ほんまに嬉しかったんよ。ギターはこれからも続けるんよ・・・」

 私はギターだと思った。ギター以外に母が喜ぶものはないと確信した。私は母に子供のようにねだって、ギターを買ってもらうんだ。そして私はいつまでもそのギターを大切に愛用するんだ。私はそんなことを一人頭の中でグルグルと考えていた。そんな私の頭の中を見抜いたのか、

「幸治、なんか欲しいもの、決まったんか?」

 と母が訊いてきた。しかし少し冷静になると、そのずっと前から私には欲しいと思っていたギターがあって、いつかは自分で稼いだお金でそれを買おうと思っていて、そのギターは10万円近くもする高価なもので、気易く母にねだれるようなものではなかったことに気づいた。私はギターを諦めようと思った。すると母がまた、

「幸治、正直に言い。先からもう欲しいもの決まってるんやろ。何や?言うてみ・・・」

 と訊いてきた。やはり母を誤魔化すことなどできなかった。

「ギターって思ったんやけどな。そんなんえらい高いし・・・。気易うに買ってなんか言われへんわ。せやからお母さん、別のもん考えるわ・・・」

「ギター、いくらするん?」

「10万円前後かな?」

「うん、わかった。それ、お母さんが買ったげる」

「お母さん、そんな高いの、ええって・・・」

「幸治、そのギターがな、お母さんからの最後の誕生日プレゼントや。遠慮しな」

「お母さん、もうええから・・・」

「あかん、幸治はギター、ほんまに好きなんやからな、ギターを買ったげる」

「お母さん、そしたらな、あんまりにも高いから、僕、半分は自分で払う・・・」

「あかん、幸治、お母さんに全部払わせなあかん。お母さんが幸治に買ってあげるんや」

 母も私も、二人とも泣きながら言い合った。母は一歩も引こうとはしなかった。私はそのまま寄り切られた。

「お母さん、ごめんやで。そんな高いの・・・」

 すると母は、私のすぐ後ろで母と私のやり取りを聞いていた父に向かって、

「お父さん、明日、すぐそこのN銀行のお母さんの口座からな、10万円下ろしてきて」

 と嬉しそうに話しかけた。父はもう母の好きなようにさせるつもりでいたようだった。

「よっしゃ、わかった」

 母は願い通りに事が運んだことにほっとしたのか、次第に普段の穏やかな表情に戻った。私は母に対する申し訳ない気持ちと、母の願い通りに事が運んだ喜びとで複雑な気持ちでいた。しばらくして母が、

「幸治、どんなギターかほんまに楽しみやな。明日、必ず買って、帰ってきたら一番にお母さんに見せてや」

 と話しかけてきた。本当に母はそのギターとの対面を楽しみにしているようだった。私は、

「うん、わかった。ほんまにええの、僕、選んでくるな」

 と母に話しかけた。

 寝る前にトイレに行こうと廊下に出ると、そこで由美子に話があると呼び止められた。由美子はそのまま背を向けて自分の部屋に入っていった。私はそれに続いた。するといきなり、

「あんたは何を考えてるの?今からでもお母さんにな、ギターはやっぱりええわって断り。そんな高いもん、ようお母さんにねだったな。信じられへんわ。家の中、今はそれどころやないの、あんたにはわからへんのか?」

 と詰られた。かなり怒っている様子だった。しかし私は、きっぱりとそんな由美子に言い返した。そんなことをするのは私には珍しいことだった。

「あのな、お母さんはな、どうしてもそうしたいんや。それはもうお金のこととはちゃうんや。僕がほんまに好きなことに、お母さん、高いお金使ってでも、僕が喜ぶ顔を見たいんやろ。お母さんももう、こんなん言いたくはないけどな、いつどうなるかもわからへん。お母さんもその覚悟の上でやな、お母さんなりに満足いくように生きようとしてるんや。そんなお母さんの気持ち、僕はよう断らへん。ギターみたいな高いもん、お母さんに買ってもらうことになたこと、僕も悪いって思てる。せやけどもう、流れでこうなってしもたんやから、断れる訳ないやろ。僕は明日、楽器屋さんに行って、一番ええギター選んでくる。もうこれ以上はこのことはなんも話したない」

 とだけ言って由美子の部屋を後にしようとした。一度だけ由美子は、私を引き止めようとして私の名前を呼んだのだが、私は振り向きもせずに廊下に出た。そのままトイレに入って気持ちの昂ぶりを落ち着かせて、その後また私は母のそばに行った。そして、まるで父に宣言でもするように、

「明日、配達中にギター買って、昼から別に特に急ぎの仕事、なんもなかったら、少し早く仕事、切り上げて、帰ってこようかな。お母さん、早うにギター見たいやろうし・・・」

 と笑いながら口にした。母はそれを聞いて笑っていた。父はそれを聞いて、そして母の笑顔を見て顔色を曇らせた。私のそんな宣言なんて、母を少し楽しませるための冗談だったのに、どうやら父は真に受けたようだった。そして困った表情のままに父は、

「幸治、ほんまはな、そんなんあかんけど、・・・、明日だけ特別やぞ」

 と仕方なさそうに口にした。冗談がまさかそのまま通るとは思いもしていなかった。母は先ほどよりももっと可笑しそうに笑っていた。私も笑いが止まらなかった。そして父に正直に打ち明けた。

「冗談で言うたつもりやったんやけど、明日だけ特別やってもう聞いてしもたし・・・。そしたら明日は早うに仕事上がらしてもらうで」

 そして私はそのまま母に向き直って、

「そしたらお父さんの気が変わらんうちにな、・・・。おやすみ、お母さん、また明日な」

 と言い残して、そそくさと自分の部屋に入っていった。

 次の日、私は、近鉄八尾駅の正面にあるS百貨店の始業時刻、朝10時前にはもうすでに配達を終えて、その隣接する駐車場ビルのゲートの前で開門を待っていた。開門するとすぐ、私は駐車場内の坂をひたすら登り続けた。駐車場の最上階に2t車を駐車し、その階の連絡通路を渡ってS百貨店の7階に駆け込んだ。予想していた通り、7階に楽器店があった。ほとんどの百貨店では、文房具店、CDショップ、楽器店、書店などは地上から離れた上のほうの階に押しやられている。S百貨店もその例外ではなかった。床いっぱいに、ギタースタンドに立てかけられたギターがずらりと並んでいた。とにかく時間がなかった。1時間ほどで買うギターを決めなければならなかった。私はずらりと並ぶギターを前に困り果てて、店員さんを呼びつけた。

「国産メーカーのKのエレガットで、カッタウェイモデル、あるだけ全部見せてもらえます?」

 とお願いしてみた。ちょうどその頃は、国産のメーカーKのギターを使用する国内アーティストが増えていた頃だった。玉置浩二さんがそのメーカーのギターを使用していたということが、そのメーカーを選んだ一番の理由だった。店員さんはKのエレガットを5本ほど運んできてくれて、その全部の弦をチューニングしてくれた。私は並べられたギターを触れもせずにしばらく見比べていた。その中で1本だけ、嫌に気を引くギターがあった。佇まいがその1本だけ、妙に落ち着いて静かだった。母のようだった。私は椅子に腰掛けて、そのギターを抱き抱えて、そして指で少し弾いただけで、直感的に「これだ、こいつを連れて帰ろう」と思った。一応は店員さんが並べてくれた他のギターも少しだけ触れてはみたが、最終的にはすぐにもとのギターに戻ってきた。値段を見ると、8万円だった。ケースの値段を尋ねると、2万円ということだった。

「これにします」

 と私は店員さんに言った。私のあまりにも速い決断に店員さんは驚いているようだった。それは当然のことだった。大概の場合、楽器を購入するということは、同じメーカーの同じモデルのギターでも個体差がかなりあるものだから、方々の楽器店を巡っては自分の好みやイメージに近い音を出してくれるものを探し歩くということだからだ。それを私がものの10分もしないうちに1本のギターに決めてしまったのだから、店員さんが驚くのも無理はなかった。

 お会計を済ませ、私はギターケースを両腕で胸に抱きしめて駐車場に向かった。2t車の助手席の鍵を開けて、ギターケースを座席に座らせてシートベルトをかけた。ゆっくりと駐車場の坂を降りて、八尾駅前から一度中央環状線に出てそれを南下し、八尾空港南脇の父の会社に戻った。いつものように第1工場の玄関先にバックで2t車を駐車しようかと思ったが、会社の従業員の職人さんやその近隣の町工場のオヤジ達にギターを手に歩いているところを見られ、その後に何か言われることを考えたら、もうそれは堪ったものじゃなかった。私は駐車せずにそのまままた飛び出し、母の車を止めてある駐車場にトラックで乗り付けた。そこでこそこそと2t車からギターを下ろして、母の車の後部座席にそれを積み込んだ。後は仮の住処に帰って、母に見せるだけだと思った。どこか大きな仕事の段取りを一つ一つ確実にこなしているような気持ちだった。

 事務所に戻って、日々舞い込んでくる納期の短い小口の注文を確認した。どうやらその日は、特に急ぎの納品はもうないようだった。そしてその次に、週明けの名古屋向けの大口注文の予測を立てた。在庫表を眺め計算機を叩いてみたが、梱包担当の従業員に特にこれといった指示を出す必要もないようだった。それを終えると、早く仕事を上がることを専務に報告だけはしなければならないように思った。気が重かった。それでもやはり、普段からほとんど専務と話すことはなくて面倒でも気が進まなくても、立場上そうしなければならないように思った。どこにいるのかはわからないが、現場に降りていって専務を捕まえようと思った。するとそこに専務が上がってきた。そして事務所の中に入ってきた。珍しくその日は気味の悪いほどに妙にご機嫌そうだった。笑いながら壁際のストーブの前まで専務は歩いて行った。そして、

「何や、えらい寒いな。幸治、また雪、降るんと違うか?今年はどないなってるんかな・・・」

 と、ストーブの火に手をかざしながらはしゃいだように話しかけてきた。そんな専務の様子を見ていて、どうせ、いつまたお天気屋の専務の天気が崩れるかも知れず、そんな易易と調子を合わせて話す気にもなれなかった。私は、専務と目を合わせないままに、

「ちょっと今日、お父さんが早よに帰って来れたら早よ帰ってこいって言うてたから、もう急ぎの仕事なかったら先に上がりたいんやけどな・・・」

 と、適当な嘘をついて要件だけを単調に伝えた。

「おう、それやったらもう仕事、上がったらええ。奈良はもう、雪ちゃうか?気つけて帰れよ」

 専務は、全く気にも止めていないふうな口ぶりでそう答えた。お天気屋は機嫌がいい時ほど厄介だと思った。その時の記憶が頭に残ってしまうから、天気が崩れた時のその落差に本当に参ってしまう。私は、もう言うべきことは言ったんだからと気持ちを切り替えて、

「そしたら悪いけど、・・・、お先に・・・」

 と言って立ち上がった。背中で

「おう・・・」

 という専務の気のない声を聞きながら、私は事務所を後にした。

 2時過ぎに仮の住処に帰ってきた。台所を通り抜ける時、由美子が私をきつく睨んだ。そんなこと気にも留めていないふうに装って、私は普段通り由美子に、

「ただいま」

 と声をかけてみたのだが、由美子からは何の返事もなかった。仕方なくそのままそこを素通りして、私は母のそばに行った。父は、

「何や、えらい早うに帰ってきたんやな。ちゃんと専務に言うてきたんやろうな?」

 と困った顔で訊いてきた。

「うん、ちゃんと言うてきたで」

 と言いながら、私は母の顔を見た。母は、「もう待ちきれない。早く見せてくれ」というような、かなりワクワクとした顔をしていた。まだ母は一言も何も口にしていなかったのに、その思いのすべては私に伝わってきていた。私は母に、

「ちょっと待ってや。いま、ケース開けてお母さんに見せるわな」

 と言ってケースのフックを外して、蓋を開け、ギターを取り出した。

「お母さん、ええ顔したギターやろ」 

 そう言いながら、少しだけ背もたれを起こしたベッドに横たわる母がよく見えるようにと、私は母の顔の上にギターを高く持ち上げた。

「なっ、お母さん。見て。優しいええ顔したギターやろ。よう見えるか?」

「うん、幸治、よう見えるよ。・・・。ほんま、・・・、きれいやな。・・・きれいなギターやな・・・」

「そうやろ。何本かギター、店員さんに並べてもろてな、その中で一番ええやつ選んで、そしてちょっと弾いてみただけでこれやって思たんや」

「そうか。・・・。ええギター見つかってよかったな、ほんまに・・・」

「お母さん、ええ誕生日プレゼント、ほんまにありがとうな・・・」

「うん、・・・。幸治な、お母さんはな、もうそんなに生きられへんから・・・。幸治はな、このギター、お母さんや思てな、ずっと大切にしてや。ずっと大切にしてくれたらな、お母さん、・・・、あっちに行ってもずっと幸治のこと、見守ってるから・・・」

 途中から母は、鼻水をすすりながら泣き出した。私も母に釣られるままに泣き出した。泣きながら私はなぜか、母はきっと、私がギターを母に見せる時にそう話すことをすでに心に決めていたんだというような気がしてきた。この世でまだ生き続ける私、もうすぐにあの世に先に旅立つであろう母、そんなふたりの間にはその先ずっと架け橋としてギターがあるんだと、そう確実に私に伝えるんだと・・・。私は一度ギターをケースに戻して、そばにあったティッシュで母の鼻水と涙を拭った。そして自分でもそうした。そうしながら、その日が確かに迫っているという現実を頭から外に放り出したいのにそうもできないまま、全身の力を振り絞って、

「お母さん、なんでそんな寂しいこと言うんや。こうしてまだみんな、生きてるのに、・・・、そんなこと言うたら絶対にアカンやんか。寂しいなって、悲しなってしまうやろ。先のことなんかわからんのに、・・・。そんなこと、絶対に言うたらあかんのや・・・」

 と母に訴えかけるように話しかけた。話せば話すほど嘘に心がやられた。振り絞った力が空回りしているのが自分でもよくわかった。全部嘘だったと母に謝るに謝れないところまで話してしまったような気持ちだった。尻つぼみのように私の話は勢いをなくして、そのまま途切れた。私は項垂れた。すると、母はまた同じようなことを話しだした。母は必死だった。

「幸治、絶対やで。なぁ、約束やで。お母さんもうじきおらんようになるけど、・・・。このギター、お母さんや思てな、ずっと大切にしてや。幸治、・・・、なっ、わかったか。約束して、・・・、なぁ・・・・」

 母は意地になって、私に返事をさせようとしていた。しかしそうすることは、母がもうすぐこの世を去ってしまうということを認めることのような気がして、そう簡単には返事ができなかった。母はその後も、ただ私の返事だけに拘って、ちゃんと返事を聞かせろと何度も責付いてきた。もう私はそんな母を前にして、嘘をつくことも、無理に力を振り絞ることも、勝手に無理をしてその後に傷つくことも、何もかもが全部無駄なことのような気がしてきた。

「うんわかった。お母さん、約束するな。ずっと大切にするからな・・・」

 私は何の嘘も、計算も、無理もなく、素のままの自分でそう口にした。思いのほか現実を認めた悔しさより、肩の荷が降りた身軽さと母の求める返事をそのまま与えることができた喜びのほうが大きかった。

 母はもう一度、また同じようなことを話しだした。そして私ももう一度、同じように返事をした。母は一番大きくて、一番しなければならなかった仕事をやり終えたあとのような満足した顔をしていた。ただ嬉しそうだった。

 かなり長い時間の母とのやり取りのせいで、部屋中に緊張が張り詰めているような気がした。確かに私は疲れていた。私は顔を、母の後ろの吐き出しの窓の外に向けた。するとそこには、細やかな雪が騒がしいほどに舞っていた。これほど私にとって好都合なことはなかった。これで部屋に漂う緊張が解けると思った。

「お母さん、えらいぎょうさん、細かい雪が降ってるわ」

 と言って、後ろを振り返ることのできない母のために、私は小さな座卓の上に置かれた母の手鏡を手にとった。そして母が外の雪を見れるよう、私は母の顔の前に手鏡を持っていき、そこに外の景色を映そうとした。

「お母さん、どないや。雪、見えてるか?ちゃんと見えてるか?」

「うん、ちゃんと見えてるで。えらい細かい雪やな。風が強いんかな?」

「うん、そうやな。風、強いみたいやな。・・・」

 母は何を考えていたのだろうか。その後はただ真剣に、何も話さないまま、鏡に映る雪をしばらく見つめ続けた。私は、そんな母には何も話しかけてはいけないような気がしていた。しばらく沈黙が続いた。そして母は、

「うん、・・・、しっかり見せてもろたわ。ありがとうな。えらいかわいらしい雪、見せてもろたわ。うん、・・・、幸治、もう十分やで。ありがとうな」

 と言った。また母は満足した顔をしていた。

 その手鏡は、私が物心のついた頃から母が使い続けていたものだった。手のひら大の丸い鏡が赤いプラスチックの枠にはめ込まれていた。その背にあたる部分のプラスチックには1本のヒビが走っていた。なぜかその手鏡はいつも母のそばに置かれていた。そんな母の愛用の手鏡で、まさか外の雪を母に見せる日が来ることなんてことは、それまで一度も考えたこともなかった。母に雪を見せてその手鏡をもとの座卓に戻した時、私は項垂れそうになった。しかしそうなる前に私は、

「お母さん、一回もギターの音、まだ聞いてないやん」

 と明るく母に話しかけ、ケースからギターを取り出して指でそっと弾きだした。

 その日はずっと母のそばで過ごした。ずっとギターを抱えたまま過ごした。以前に父から、「うるさい。自分の部屋で弾け」と言われて以来その日まで、私は父のそばでギターに触れることは一度もなかった。しかしその日は違っていた。父は私のすぐそばで母と同じテレビを観ていたのだが、そばで静かにギターを弾いていても何も言わなかった。恐らく父は、母の思うようにさせることを何よりも最優先することにしていたのだろう。

 夜も更けて、私はギターをケースに戻した。そしていつものように母に、

「おやすみ、お母さん。今日はありがとうな。また明日な」

 と挨拶をして、ギターを抱えて自分の部屋に向かおうとした。

 その時、トイレにでも行っていたのか、少しその場を離れていた父が廊下のほうから私のすぐそばにまで近づいてきて、

「幸治、大切にせえよ」

 とだけ、私の耳元でかすれた小声で囁いた。私はすぐそばにある父の顔に自分の顔を向けた。するとすぐそこには、私をまっすぐに見つめる潤んだ父の瞳があった。見てはいけないものを見たような気がして、私はすぐに目を逸らした。そして、

「うん、大切にする」

 とだけ言い残して背を向け、私はそそくさと自分の部屋に入っていった。絶対に人には涙を見せないと心に決めている父の涙は、見てしまいそうになった時はこちらから目を逸らしてあげるのが尊敬する父に対する礼儀だと、その時の私は考えていた。少し大人になれた気がしていた。

 父の瞳をさっと逸らして部屋に逃げ入っても、まだしばらくは胸がドキドキしていた。私はおもむろに、またギターケースを開けた。そして触れもせず、ただじっとギターを眺め続けた。しばらくそうしていると、胸の鼓動も次第に落ち着いてきた。そうなってきた頃に私はふと、その天板に母からの最後の誕生日プレゼントだとわかる何らかの文字を刻みたいと思った。その時に、カセットテープがしまわれている箱が目にとまった。開けてみると、そこには、カセットの背表紙にタイトルを綺麗な文字で表記するために買ってあったアルファベットのインデックスシールが一緒にしまわれていた。私はそれを取り出して、一文字ずつ丁寧にギターの天板に貼り付けていった。

「’93,12,19  from K. E.」 ( K. E.とは母、柄本一子のイニシャル)

 私はそれだけの文字を天板に貼り付けて、それでいいと納得し、そして満足した。


 年末が近づいていた。仕事納めも済んで、私は仮の住処にいることがほとんどだった。由美子はいつの間にか普段の機嫌を取り戻していた。父は相変わらずずっと母のそばにいた。そんな父や由美子に用事を頼まれて外出する以外、私はほとんど母のそばで過ごしていた。そしていつも、私は母が買ってくれたギターを胸に抱えていた。

 私の誕生日が過ぎたあたりから、母は小さな弱い咳を繰り返すようになった。そうなると父が母の背中を摩ったり、軽く叩いたりした。そうしてもらうことで、母の咳はいつもすぐに治まった。少し気にはなっていたのだが、いつもそんな感じですぐに治まるから、私もそれほど深刻に捉えていなかった。だからいつも気軽に、咳の治まった母に、

「もう大丈夫?」

 と声をかけることができた。すると母はいつも、

「うん、ありがとうな。ちょっとまた、何やろ、前みたいに痰の切れが最近悪うてな」

 と、それほど気にも止めていないふうに返事をするのだった。

 ところが大晦日の前日の夜、その夜の母の咳はそれまでに見たこともないほど酷いものだった。衰えた全身の筋肉ではもう咳をして気管から痰を外に吐き出す力もなかったのか、父がいつものように背中を摩っても、手のひらで叩いても何の効果もなかった。見る見るうちに母の顔から血の気が失せていった。

「幸治、救急車呼べ」 

 父が叫んだ。役立たずの私は混乱して、そう言われてもどうすればいいのかわからずにボロボロと泣きながら、うろうろと、あたふたと歩き回るだけだった。

「あんた、そこ、どいて。邪魔や」

 台所の前を歩き回る私を押しのけて、由美子が受話器を握り締め、119番に繋いだ。

 隣りの部屋では、父が大声で、

「お母さん、お母さん、聞こえるか?聞こえてるか?しっかりせえ。しっかりせえ」 

 と叫びながら、母の背中をずっと叩いていた。父の声が次第に大きくなっていった。それに合わせて、私の混乱もさらに膨れていった。由美子が、

「あんた、泣きな。しっかりしい」

 と怒鳴った。その声を聞いて、私は苦しくなって、余計にひどく涙が溢れてきた。

 その後私は、由美子に指示されるままにマンションの玄関口に降りた。そしてそこで救急車の到着を待った。すぐに旧道のほうからサイレンの音が聞こえてきた。そしてマンション前の入り組んだ道に、真っ赤な回転灯の灯った救急車がサイレンをまき散らしながら進入してきた。そのけたたましい赤と音に、またひどく涙が溢れてきた。確かに救急隊員の方々を仮の住処に案内したはずなのだが、そのあたりからの記憶がプツリ、プツリと途切れている。確か父に、「早く着替えろ」と言われ、言われるままに脱ぎ捨ててあったジーンズを履いた。その時に床に転がっていた財布を手に取って、なぜか私はその中身を確認した。2万円が入っていた。担架を担ぐ隊員のあとを追って外に出た。母を乗せた担架がエレベーターに乗り込むことができず、父が何かを喚いていた。救急車に父が乗り込む時、奈良・橿原のK病院に来るようにと言われた。それと一緒に、由美子と私はそれぞれの車で来るようにと言われた。救急車の到着を待っていた時からK病院で夜明けを迎えるまでの記憶は、これ以外には何も残っていない。その間の私は、ただ怯えていただけの役立たずだった。そんな役立たずは、母がそばからいなくなることを恐れ、そして冷静すぎるほどに冷静な父と由美子を恐れていた。

 大晦日の朝は寒い朝だった。底冷えのするK病院の1階ロビーで、母以外の家族は夜明けを迎えた。気が付けば、誰が連絡したのかは知らないがそこには美佐夫婦もいた。父が姉たちに、

「表に行ったらコンビニでもあるやろ。パンでもみんなの分、買うて来てくれ」

 と言って、ポケットの中の千円札を数枚、由美子に手渡した。買出しに行った姉たちはすぐに戻ってきた。みんなで無言でパンをかじった。苦しくて喉を通らないパンを無理やり胃に押し込むような食べ方だった。誰もが食べ終わった後、苦しそうだったし、満たされたというよりも疲れ果てたといった感じだった。

 父はその後しばらくして、担当医からの呼び出しを受けた。残された者は何もすることがなく、ただロビーで腰をかけたままに父が戻ってくるのを待っていた。

 しばらくして父が戻ってきた。いずれこうなることは父も覚悟していたのだろうが、それでも担当医の説明を受けて戻ってきた父は、心をなくしてしまいそうな危うい顔をしていた。しかし、心明け渡してしまうわけにはいかないと、父はギリギリのところで力一杯踏ん張っているようにも見えた。それにしても、本当に危うい顔だった。父は、ロビーにいる私たちに話しだした。

「幸治はもう知ってたんやけどな、・・・。お母さんな、実はALSっていう筋肉がなくなってく難病に冒されてたんや・・・」

 父はその時初めて、姉たちに本当のところを打ち明けた。姉たちは黙って俯いたまま、静かに泣き出した。父はそのまま続けた。

「もうこれからはな、お母さん、・・・、喉に穴を開けて呼吸器をつないで、機械を頼って呼吸して、・・・、それでな、胃に穴を開けて管を通して、そこから流動食を胃に直接流し込んで、・・・、もうお母さん、・・・、それ以外に生きる方法はないらしいわ・・・」

 私はそれを聞いて、それまでの仮の住処での母のことを思い返した。留まることなく日々衰えていく体で、その2ヶ月間、母があれだけどこか一人だけ幸せそうな気配を放っていたのは、もうすぐ訪れるであろう旅立ちの日をゴールと定ることで、やはり残された時間だけは何が何でも幸せに過ごすんだという覚悟が固まっていたからじゃないのか。私にはそう思えた。私は、父が口にした延命処置の話を聞いて、そんな母の心の深い場所での本気の覚悟のことを思うと、とても諸手を挙げてそれに賛成する気分にはなれなかった。しかし、かと言って、そのまま母を見送る気にもとてもなれなかった。父はそのまま続けた。

「お母さんのいてる集中治療室に、お父さんだけ入れるらしいわ。・・・。お父さんな、今からお母さんのとこに行って、その話、してくるわ」

 父は立ち上がって背を向けて、力なく歩き出した。私たちも、そんな父に続いて廊下を歩きだした。

 集中治療室のガラス向こうに父が入っていった。ガラスの手前の廊下で、私たちは中の様子に目を当てていた。母は酸素マスクを口元に当てられて、腕や足に点滴の管などを何本も刺されたまま、やせ細った体を処置ベッドに横たわらせていた。そんな姿で母は、かんかんに怒っていた。そんな母の姿が私には、最後の覚悟を踏みにじられたことに対して抗議しているように映った。どうやら母は、たとえ仮の住処でも、家族に囲まれる中で幕を下ろしたかったのかもしれなかった。父は冷静に担当医の話を話し始めたようだった。話し始めてすぐに、母は真っ赤に泣き腫らした瞳で父を睨みつけだした。次第に父の声が大きくなり始めた。そしてその声は廊下にまで漏れて聞こえるほど大きくなっていった。

「お母さん、そんなん言うてもな。・・・・・・。・・・・・・そんなん無理やろ。・・・・・・。・・・・・・運命なんや。・・・・・・に従わんとどうするねん。・・・・・・・」

 そのように途切れ途切れに、父の言葉が私の耳に届いた。父が話を進めるごとに、母の顔は真っ赤になっていった。そして泣く姿も悲痛なほどのものになっていった。そんな母にずっと目を当てているのが、私にはどうしようもなく苦しいことだった。そう感じながら、そこから目を逸らせることは母を淋しい思いにさせてしまいそうな気がして、やはり私は目を逸らすことができないでいた。母は時々、どうにかしてくれという瞳で、ガラスの手前にいる私に目を走らせてはまた父を睨みつけた。そんな母の瞳とぶつかったところで、私にはそこにある悲しみをひっくり返す勇気も、度胸も、根性も、何もなかった。それ以前に、私には意見を口にする何の権限もなかったのだが・・・。

 どのくらいの時間が流れたのだろうか。かなりの長時間、母の説得に当たっていた父が廊下に出てきた。そしてそのまま廊下を歩きだした。母は今度は、「頼むからお母さんの気持ちを分かってくれ」と訴えてくるような瞳で、ガラスのこちらの私たちを見つめ続けた。私たちはそんなふうに見つめられてもどうすることもできず、「また後でな」という気持ちで小さく手を振って、後ろ髪を引かれる思いのまま、申し訳なさを引きずったまま父を追いかけた。私は母のそばを離れた後、そんな自分が許せなかった。

 ロビーのベンチに戻って全員が腰掛けた。そして父が話し出すのを待った。父の表情は疲れ切っていた。しばらくして、父がようやく話しだした。

「とりあえず、お母さんにはな、担当の先生の話、そのまま全部を話して聞かせたんや。そしたらお母さん、もう酸素マスクも、管も、全部外して殺してくれ、お願いやから殺してくれって、・・・、そればっかり言うねん。えらい泣いてからに・・・。お父さん、もう参ってもたわ。そんなとこもな、お母さんらしいって言うたら確かにそうなんやけどな・・・」

 父は本当に困り果てていた。

「もう説得するのん、無理やなって思たけどな、やっぱりお母さんの言う通りにはでけへんから・・・。ちょっときつうにお母さんには言うてしもた。・・・。もうこうして病院に運ばれてきたのも、延命処置受けることになるんも、全部お母さんの運命やったんやって、・・・、そしてそれにもう従うしかないやろってな・・・」

 自分を許せない私にはもう、父が正しいのか、それとも母が正しいのか、何がなんだかわからなくなっていた。そんな私はふと、この現代の医療というものがすぐ身近に存在するから、ただでさえ悲しい命の最後がこんなにもさらに悲しいものになるんだと思った。その後すぐに、私は哀しくなってきた。そんなふうに何かを悪者と決めつけることで納得して前へ進もうとする自分がどうしようもなく嫌な奴に思えたからだった。そしてそれまでの人生を振り返れば、何かが解決するわけでもないのに、ずっとそんな哀しい生き方ばかり繰り返してきたような気がしてきた。それが人というものだろうか。何もかもが虚しく思えた。そんな場所、そしてそんな生き方から自由になりたいと願った。しかし、やはりそうは思ってもそれはそんな簡単なことじゃないというのは何となく、漠然とよくわかっていた。

 どうやら母には、もう、選択の自由が与えられそうになかった。すべては父の決断で進んでいきそうだった。話し終えた父は心少し落ち着いたのか、疲れをすでに突き破ってしまっていて、どうにか意思的な顔を取り戻していたように見えた。結局すべては担当医の指示通りに運ばれていくんだと思った。そして私たちは、ただそれに飲み込まれて従うしかないんだと思った。集中治療室にいる母のことを思った。そして自分のことも思った。選択の自由がないということは、生きている上でそれほど悲しいことはないように思った。そんな事を思っているともうただ悲しくて、胸がどうしようもなく苦しくなってきて、私は人目を憚ることもなく急に声を上げて泣きだした。男の私がそんなふうにみっともないほど泣き出したことに苛立った父は、

「こら、男が泣くな」

 と怒鳴りながら、握りこぶしで思いっきり私の頭を殴った。母がそばにいなくなってすぐに父に殴られたことで、私の頭の中に突如、それまでの姉たちのこそこそと隠れた、私に対するぞんざいな振る舞いを受けた時の悔しさが蘇ってきた。私はその時、それまでそんなことを考えたこともなかったのだが、父も、姉たちも、近すぎてもっとも危険な存在のように気がした。そしてそんな思いは殴られた体の痛みとともに、鈍く、そして重く、心の奥底の届かない場所に沈んでいった。もう母がそばにいた時のように、心自由に振る舞えなくなるんだろうと思った。私はその先の未来に怯えた。

 その日のお昼前に父が、姉たちと英明に、

「先に外でお昼を食べて来い」

 と言った。姉たちは出ていった。病院のロビーに父と私が残った。ひどく緊張していた。母がそばにいないということがこんなにも苦しいものなのかと思った。結局姉たちが帰ってくるまで、一言も父と話さなかった。姉たちが病院の向かいにうどん屋があることを教えてくれた。父が、

「おい、幸治。お昼、行くぞ」

 と声をかけてきた。父と二人でお昼をとるなんて嫌だと思った。それに母のことを思うと、とても何か食べれるような気分じゃなかった。食べる気になれないと伝えると、父が、

「しゃんとせえ。食べれる者はな、しっかり食べて生きていかなあかんのや」

 とまた怒鳴られた。また殴られるんじゃないかと気が怯んだ。仕方なしに私は父の後ろをついていった。

 外に出ると、空には分厚い雪雲が垂れこめていた。12月に入ってからは例年になくそんな天気の日が多かった。その日もとても寒い日だった。また雪が降るんじゃないかと思った。病院前のうどん屋に駆けていく父に続いて、私も駆けていった。店内はお昼前でまだ空いていた。すぐに席に通されて、ただ寒かったという理由で私は何も考えずに鍋焼きうどんを注文した。しかしそれが間違いだった。手元に鍋が運ばれてきて蓋を開けてみると、湯気が立ち上がり、その向こうに具材が揺れていた。それを目にした途端、涙が溢れて、鼻水がこぼれて、顔中がぐしゃぐしゃになって、結局一切箸をつけられなくなってしまった。そんな私に父は何度も、

「無理して食べろ」

 と言い続けたが、とてもじゃないがもう無理だった。その3年ほど前の冬のことを思い出したからだった。


 それは、大学3回生の後期試験を終え、クラスメート40名ほどで信州・野沢までスキーツアーに出た時のことだった。

 京都で下宿していた私は、いつもクラスのイベントの企画、幹事、会計などのすべてを任されることが多く、そのツアーも、旅行会社との交渉事は全部私が取り仕切っていた。とにかくいつもそんなふうに企画して、多くの仲間たちが嬉しそうに集まって楽しそうに過ごしてくれるのが、なぜか私は好きだった。大人数のツアーということで、それを盾に交渉も上手く進み、旅行代金やリフト券、レンタルスキーのお代など、すべてを安く抑えることができた。

 当日の夜、仲間たちが待ち合わせ場所の京都駅南のとあるホテル前に集まりだした。誰もがカバンに、そのツアーを最大限に楽しもうと、ビンゴ、トランプ、UNO,日本酒、ウイスキー、紙コップなどの色んなものをそれぞれ思い思いに詰め込んでいた。みんなでバスに乗り込んだ。そのバスの中でも、興奮した仲間の誰もが寝ることもできず、変にニヤついたまま過ごしていた。私の席の通路を挟んで斜め後ろに、上島もいた。

 明け方のことだった。眠れない私は上島のほうに顔を向けると、上島も起きていた。目が合った。

「どうしたん、柄本くん?寝れへんの?」

「うん、そうなんや」

「ワクワクして寝れへんのんと違うの?子供みたいやな・・・」

 彼女は小声でそう言いながら、可笑しそうに笑った。

「お前かて起きてるやないか。お前も興奮して寝れへんのんと違うんか?」

 私が言い返すと彼女は、

「わ・た・し・は・い・ま・ま・で・ね・て・ま・し・た」

 とブツブツと言葉を切りながら、私をからかうように笑いながら返事をした。その時だった。

「柄本くん、見て、向こう・・・」

 彼女が驚いたように右の窓の外を指さした。どうせ私が顔を向けるとその途端に、「何もありませんでした。残念でした。騙された、騙された」と言って私をからかおうとでもしているのだろうと思いながら、私は彼女が指さす方に目を向けた。すると遠くの山の麓あたり、広がる一面の雪原の向こうに、一軒の家が火事で燃えていた。そのあたりだけが真っ赤に揺れていた。私の後ろで、

「柄本くん、火事や・・・」

 という彼女の声が聞こえた。私も驚いて、どうすることもできないのはわかっているのに、隣りに座っていた有吉を起こした。有吉は後ろのトシを起こした。トシは隣りの崇を起こした。崇は後ろのシンちゃんを起こした。シンちゃんは・・・。あっという間に私たちのグループの全員が起きてしまい、「火事や、火事や」と騒がしくなった。そしてバスの運転手さんにマイクを通して、

「後ろの団体の40名さん、他のお客さんの迷惑になっていること、考えてください。車内ではお静かにお願いします」

 と叱られた。振り向くと上島が顔を真っ赤にして笑いをこらえながら、

「もう、柄本くん、アホ・・・。一人起こしたら、みんな起きて騒がしなるのん、わからへんかったの?怒られてもたやんか?ほんまにアホ・・・」

 と小声で話しかけてきた。ずっと憧れの女性だったから、そんな彼女とこそこそと、ヒソヒソと話しているのは、何とも言えないこそばい喜びだった。

 野沢についてからが本格的に忙しかった。現地3泊、バスの車中2泊のツアーだったのだが、とにかくその現地滞在中は朝から昼、夕方、そしてナイターまでゲレンデを滑り倒し、その後野沢温泉で体を癒し、そして明け方まで酒を飲みながらトランプやUNOに興じる訳だから、とにかく忙しかった。日々、みんなの顔が疲れていくのがよくわかった。それでも疲労を隠せない顔の仲間同士、顔を突き合わせると、お互いに「えらい疲れた顔をして・・・」と言い合うことでさえ、それさえもひとつの遊びとして誰もが楽しんでいた。

 最終日の朝、リフトに向かって宿の玄関先から滑り出す前に、偶然私の隣りに上島がい合わせて、私に話しかけてきた。

「私、もっとゆったりとしたスキー旅行が良かったな。こんな大変なことになるとは思ってもなかったわ」

 そう言って私を詰りながら、そんなことを口にすることさえも遊びにしてしまっているようだった。私はそんな彼女に、

「うちのクラスは狂ってる連中ばっかりやのに、ゆったりなんかできるわけないやろ。まさかうちのクラスの連中と、ゆったりと優雅なスキー旅行でもできると思ってたんか?そんなもん、できるわけないやないか」

 と話しかけた。すると彼女は、

「その先頭に柄本くんがいるの、気づいてる?」

 と言って、可笑しそうに笑った。

 夕方に帰り支度を整えて、全員で、お世話になった宿のフロントの喫茶コーナーで帰りのバス待ちの時間を過ごしていた。誰もがやりきった顔をして、椅子に身を投げ出していた。そして誰もがだらしなく、そして意味もなく半笑いでいた。そんな仲間を眺めていることを私は楽しんでいた。そんな時だった。私の全身に急に悪寒が走りだした。全身に痛みが走り、とても座ってはいられなくなった。そのまま隣りに座っていた仲間の誰かに席を空けてもらって、椅子を2つ並べて、そこに私は倒れこむように横になった。震えが激しくなって、奥歯がカタカタと音を立てだした。有吉が宿から体温計を借りてきてくれた。測ってみると、熱が40度近くあった。宿の方の計らいで、私はすぐに部屋に通された。その部屋は、その日の明け方までみんなでバカ騒ぎをして過ごした部屋だった。そこに、布団がひと組だけ敷かれてあった。どうやら宿の方が用意してくれたようだった。ひどく寂しい景色だった。しかし、寂しいなんて言っていられるような状態ではなく、私はすぐにその布団に震える体を潜り込ませた。そばにいる有吉に、「まだ寒い」と訴えると、押入れから何枚かの掛け布団を引っぱり出してかけてくれた。ひどく重たかったが寒いよりはましだった。バスが出る時刻が迫っていた。が、とてもバスに乗り込めるような状態ではなかった。私はそのまま宿に留まることとなった。そして有吉が付き添ってくれることとなった。私はその晩、一晩中うなされた。

 次の朝、起き上がろうにもやはりなかなか起き上がれなかった。宿の主人が気にかけてくれて、お粥を用意してくれたが喉を通らなかった。その後、宿の主人は車で私たちを病院へ運んでくれた。インフルエンザだった。熱が下がるまで安静にしているようにと言われた。が、しかし、宿に留まっていられるほどの持ち合わせのお金もなかった。無理をしてでももう私たちは、どうにか京都に帰るしかなかった。私は自分の服から有吉の服まで、とにかくそこにある服をどんどんと重ね着をした。

 宿の主人がどこかの駅まで乗せて行ってくれた。しきりに主人は、本当に帰れるのかと心配してくれたのだが、やはり帰るしかなかった。どうやってその後、京都まで帰ったのか、ほとんど覚えていない。記憶にあるのは、ただ私が「寒い、寒い」と繰り返し口にしていたことと、有吉が「頑張れ、もう少しや、頑張れ」と何度も耳元で励ましてくれていたことだけである。有吉が、もうすぐ京都に着くと知らせてくれた。ふと顔を上げると、右手に京都タワーがぼやけて見えた。少しほっとした。もうすっかり夜になっていた。電車を降りて、ぼやけた意識のままに有吉の後ろをついていって、ふらふらと改札を抜けた。

「柄本、トシが駅前に迎えに来てくれてるからな、あともう少しやぞ」

「うん、・・・」

 トシの車が駅前のロータリーに停まっていた。それに乗り込んで安心したのか、その後私は意識をなくしたようだった。気が付けば、自分の下宿のベッドの上で布団にくるまって横になっていた。枕元の目覚まし時計を見ると夜中の3時だった。人の動く気配、話し声を耳にしたような気がしたのだが、何がなんだかわからないうちにまた意識をなくしたようだった。

 また次に気が付けば、今度は私は実家のリビングのこたつに全身を突っ込んでいた。お昼頃だったと思う。もう訳がわからなかった。コタツの中でごそごそしていると母の姿が見えた。

「お母さん・・・」

 母がすぐに飛んできた。

「起きたか?」

「うん、・・・、なんで僕、家にいてるん?」

「幸治、覚えてないんか?夜中に電話してきて、・・・、助けてっていうてそのまま話さへんようになったから、・・・、お父さんと二人、慌てて幸治の下宿まで走ったんや。幸治のとこに着いたら、幸治、鍵もかけんと、・・・。まぁそれで中に入れたんやけどな・・・。部屋の暖房を目一杯かけて、ベッドの上で苦しそうに唸ってたからな、お父さん、こらあかんわ、家に連れて帰るぞって言うて・・・。幸治おぶって車に寝かせて、帰ってきたんや。なんも覚えてないか?」

「うん、なんも覚えてない・・・」

「とりあえず横になって・・・。いま鍋焼きうどん作っているから、できるまでコタツに入っ横になっとき・・・」

 私は言われるままに横になると、また眠りに落ちた。

「幸治、できたで。起きて・・・。さぁ、起きて・・・。早う熱いうちに食べ・・・」

 そう言われても、珍しく私は食欲がなかった。

「薬やって思って食べ」

 無理をして腹に押し込んだ。

「汁も全部、飲んでまいや。温まらなあかんのや」

 言われるままに汁も無理して腹に押し込んだ。

「食べたらまた寝なあかん。早うそこに横になり」

 私は横になった。寝続けていたわけだから、寝れるかどうかなんてわからないなどと思ったのだが、すぐ寝た。

 そんなことが3、4日ほど続いた。目覚める度に、母の手によって私の手元に鍋焼きうどんが運ばれてきた。私はそれを毎回腹に押し込んだ。日に日に、次第に味がわかるようになってきた。そして食欲も湧き出してきた。しかし母は、私が起き上がることを許さなかった。鍋焼きうどんを食べたあとに横になれと母に言われるままに横になると、いつもそのまま寝た。実際にいくらでも寝られた。そんなことを繰り返しているうちに、ようやく体中に普段の力が戻ってきた。


 そんなことを思い出してしまった私には、いくら父から食べろと言われても、それは無理なことだった。私は何も口にしないままK病院に戻った。

 うどん屋を後にして、その後の数日間のことがどうしても私は思い出せないでいる。思い出そうにもその前に、何一つ頭に残っていないように感じている。そしてもう今は、それでも掘り出そうなんてすることをすっかり諦めている。人間というものは都合よくできているのかもしれない。忘れたい辛い記憶を忘れられるようにできているのかもしれない。何ものかが、人の命の全うされることをただ願っていて、その障害になるような辛い記憶を忘れさせるような機能をきっと人の中に備え付けたんだと思う。そうでなければ、幼き日の遠い昔の思い出をはっきりと記憶に留めているのに、うどん屋を後にしてからのことを何も覚えていないというのは、それはどうも辻褄が合わない。そのうどん屋で鍋焼きうどんを前にしたことよりも、もっと苦しくて辛いことがあったのかもしれない。しかしそれを記憶に留めておくのは危険だとその機能が認識、そして作動して、全部消し去ったのかもしれない。こうして私が今いることは、それが好都合に働いたおかげだと私は考えている。

 年が明けて父の友人が院長を務める大阪・生野のS病院に転院するまでの数日の間、母はそのK病院で過ごしていたんだと思う。そこのところも定かではない。しかしそれ以外にどうすることもできなかったのだから、そう考えるのが普通だと思う。その間、私はいつも病院にいたのだろうか、それとも家族で交代しながら誰かが病院に詰めていたのだろうか、頻繁に母にガラス越しに顔を見せに行っていたのだろうか、それとも全く母に顔を見せに行かなかったのだろうか、どこで何を食べていたのだろうか、いつも車のシートで寝ていたのだろうか、それともちゃんと仮の住処に戻って休んでいたのだろうか、どこかで気を抜くことはあったんだろうか、父や姉たちと私との間に何か醜い諍いでもあったのだろうか、・・・、私は何一つ覚えていない。よく戦争体験をした方々が、「もうあんな昔の辛かった日々のことなんて、何一つ覚えていない」と口にするが、それ以降の私は、そんな言葉を何かで耳にしたり読んだりすると、「辛かったんだろうな。きっと何も覚えていないんだろうな」って素直に信じるようになった。

 次に私が覚えているのは、美佐が転院先のS病院で口から憎々しく放った、

「お前なんか、人間ちゃうわ」

 という言葉である。

 あの日、あの時、すべてが激しく動きだした。まるで人というものの意志とは全く関係のないところで、大きく何ものかの意志のままに・・・。私の周りも、そして私自身も、その動きに一気に突き動かされるままに動くように、そして運ばれるようになっていった。まるで、手のひらに乗せられた小さな人形が弄ばれるように・・・。しかし、その頃の私はまだ、その激しく大きな動きの気配には全く気づかないでいた。それよりも、何一つ思い通りに行かないことに不満、苛立ち、怒り、恨みなどの感情を胸に積もらせるばかりでいた。そんな感情を抱えたまま、それでも、人は自身の苦しみを突き破り、見えない世界の何ものかの意志を断ち切り、その先の願う未来に努力すればたどり着けるんだと、その頃の私はまだ、愚にも信じていた。

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