第12話
仮の住処となったその賃貸マンションは、実家がある関屋の山間とは違って、葛城盆地の随分と開けた場所にあった。拝み屋さんに告げられた通り、実家から西南西方向、直線距離にして3kmほどの場所にそれは位置していたのだが、山間の曲がりくねった細い田舎の旧道を縫って葛城盆地まで下って行く訳だから、実際に車で走ってみるとたったそれだけの距離で15分もかかってしまうのだった。同じ香芝市内でもそのマンションは、家々の密集する新興住宅地の中にある実家とは違って、旧村落の背丈の低い家々がポツリポツリと点在する中に全く同じ表情の背高い2棟が寄り添って立っていた訳だから、遠目からでもそれは嫌に目立つ存在だった。恐らく村の地主がバブルの時代に、不動産屋と銀行にそそのかされるままに先祖代々の土地をマンション経営に当てたのであろうことが簡単に想像のつく、そんな物件だった。その表面はバブリーなツヤのある赤レンガで、周りの景色に全く馴染まない外観をしていた。
香芝市という町は、元々は広がる田畑の中に小さな村落があちらこちらに散らばっているだけの、本当に何もない村落の集合体だった。しかし昭和の経済成長時代において、大阪のベッドタウンという謳い文句のもとに開発が一気に進められ、南北に国道168号線、東西に国道165号線がきれいに整備され、その国道からの利便性のいい場所あたりの田畑が食われていくように多くの小規模な新興住宅地が生まれていったのだった。だから、遠く昔に私たち家族が大阪の長屋から移り住んだ頃は、国道沿いにはまだ店の一軒もなく、国道の脇には田畑と、そしてその向こうに旧くからの村の家々が目線の高さで見ることができたのだが、その頃から20年近くも経って、いざ移り住むために国道168号線に下りてくると、飲食店、スーパー、その他大型ショッピングセンターなどが国道沿いに所狭しと軒を並べていて、そのあまりの数の多さ、そしてその様変わりに私は驚かされた。しかし賑やかに化粧された通り面の裏側に一歩踏み入ってみれば、そこにはやはり昔のまま、田畑と旧くからの家々が息を潜めたようにひっそりと点在していた。私はそのコントラストを異様に感じた。
国道168号線の東側に、それと並行してJR和歌山線が北は王寺駅から南は香芝駅までほぼまっすぐに延びていた。移り住むそのマンションは、その国道から東に逸れて村の旧道を進み、その線路を越えてすぐ、左手奥の入り組んだところにあった。20年近く実家を奈良に構えていたにも関わらず、私はその引越しの日までそのJR和歌山線の線路を一度もまたいだことがなかった。というか、恐らく私が国道168号線に下りてきたのも、小学生の頃の少年野球大会の時以来だったように思う。確かその時、グラウンドの向こうに見たこともない線路が横たわっているのをチラッと目にしたように思う。そしてその時、あの線路はどこに向かうのだろうとほんの一瞬だけ思いを馳せたような、そんなあやふやな記憶が微かに脳裏に残っている。様々な店が立ち並ぶようになったのはその後のことだったのだろう。しかし私は、町の様子が賑やかになった頃にはもう実家から離れた場所で暮らしていた訳だから、様変わりしたその様子については何も知らないままに大人になったのだった。私のいない間に父も母も、そして由美子も、恐らく国道沿いの賑わいにはすでに馴染んでいたのであろうと思うのだが、私にとってその引越しの当日というのは全くの新しい土地に乗り込んでいくという感覚だった。
「なんや僕、この辺に来るんは小学生の頃以来とちゃうかな?田圃しかなかったのに・・・。えらい賑やかになったんやな」
実家のある関屋の山間を後にして、渋滞する国道168号線に差し掛かった頃だった。タイムカプセルの蓋を急に開けられてそこから外に放り出されたような、そんなどこか寄る辺ない気持ちで、私は車の窓の外に目を当てたまま呟いた。
「なんや、幸治、・・・。幸治はこの辺、賑やかになってから来たことないんか?」
父が不思議そうに少しかすれた声で訊いてきた。
「うん、ずっと家におらへんかったしな・・・」
寄る辺なさで声に全く力が入らないでいるのを、私は自分でもよくわかっていた。
「そうやな、幸治がずっと家におらへんかった間にえらい変わってもたもんな。昔はな、ほんま何もなかったのにな。幸治、もう少し行ったらな、紅乃屋さんがあるんやで」
と母が少し寂しそうに話した。紅乃屋とは、実家の外で暮らす私が帰省してまた実家を離れる際に、「友達と一緒にみんなで食べな」と言っては必ず持たせてくれた美味しいおはぎのお店である。
「そうなんや・・・」
妙にもの哀しい車内だった。取り戻せない時間の悔しさ、夢や希望に何度も何度も浮き沈みした後の疲れ、事がなかなか思い通りには運ばない苛立ち、その先何が起こるかもわからない不安、実家を後にする前に母が口にした泣き言、その他にも色んなことが車内に渦巻いていたようだった。そのすべては、一向に滑らかに進まない渋滞のせいだと私は思った。ほとんど車内では何の会話もないままに、私たちは踏切を越えてマンションに到着した。
私たちが移り住む仮の住処は、その背高いマンションの9階にあった。排気ガスの煤で黒ずんで汚れながらも異様に光る赤レンガのマンションの壁際で、父が母を背におぶった。そして父が、
「幸治、すぐそこに線路見えるやろ」
と言ったので振り返ってみると、崩れかけたブロック塀の隙間から線路が見えた。
「あぁ、うん・・・」
「そのすぐ向こうの空き地みたいに見えるのがな、あれが駐車場や。なんぼか車、停まってるのが見えるやろ。あそこの5番から7番、駐車場を借りてあるからな、お父さんの車、そこに停めてきてくれ。恐らくもう由美子の車、停まってるんと違うかな。その隣りのはずやから、・・・。それとな、踏切渡り直して駐車場に進入するところの道がかなり狭いからな、田圃に車を落とすなよ」
「うん、わかった」
「あっ、そうや。ここに住んでる人らはな、そのブロック塀の隙間から線路を渡って駐車場に行き来してるらしいわ。そのほうがグルッと回ってくより、うんと近いからな。踏切も何もないから、気いつけて線路、渡るんやぞ」
もの哀しい車内の空気を二人ともまだ引きずったままだった。父も私も、二人とも全く声に力が入らないでいた。父と母がマンションの玄関に入っていくのを見送って、私は父の車に乗り込んで駐車場に向かった。駐車場への進入口は父の言う通り、車幅ギリギリの狭さだった。何とか進入路を通り抜け、稲の刈り取られた後の田圃にぐるりを囲まれた駐車場に到着した。そこにはひと気が全くなかった。そのことに安心して、私は車内で一度だけ大声で、「あー」と叫んだ。少しすっきりした気がした。ほんの少しだが何かを振り切れた気がした。そのあと私は、特にそうしなければならない理由もなかったのだが、全速力で駐車場を突っ切り、線路の赤錆の色移りした砂利を踏みしめながら線路を横切って、マンションの玄関口まで走った。
エレベーターで9階に上がって、その日からの仮の住処の扉を開けた。緊張で胸がドキドキしていた。玄関を入ると真ん中に通路があって、右手に由美子が使う予定の部屋、左手にはトイレとお風呂が見えた。その奥に横長の間取りで台所兼リビングのひと部屋があって、その奥の左右に2部屋があった。その左手の部屋を父と母が、そしてその右手の部屋を私が使うことになっていた。不動産屋の盛田さんからもらっていた見取り図通りだった。私はほんの少しの時間、靴も脱がずに玄関先から中の様子を窺っていた。そうすることで胸の緊張を落ち着かせようとしていたのだった。引越し業者の方々は、私たちが到着する前にすでに荷物の搬入をすべて済ませてくれていたようで、大きな荷物は一応据えられるべき場所に据えられているように見えた。由美子が一人台所で黙々と片付け物に忙しそうにしている姿が時々ちらっと見えた。その日は尼崎から美佐が手伝いに来ると聞いていたのだが、美佐の姿を確認することはできなかった。しばらくして、ようやく私は靴を脱いだ。玄関を上がって廊下を進んでいくと、奥の左手の部屋で介護ベッドに横たわる母にへばりつくようにして話しかけている美佐の姿が見えた。私は驚いた。引越しでバタバタしている時に、そして由美子がひとり片付けをしながらその日の夕食のことに頭を傾けているであろう時に、美佐は一体どういう神経で嬉しそうに母のそばで時間を過ごしているのだろうか。私にはとてもその神経が理解できなかった。
私はそのまま由美子の側に寄って行って、
「なんも一人でせんと、美佐姉ちゃんにも手伝ってもろたらええやんか」
と小声で話しかけた。すると由美子は、
「美佐姉ちゃんもお母さんに会うのん、久しぶりやし、お母さんも美佐姉ちゃんに会うのん、久しぶりやし・・・。もうほとんど片付いてるから・・・」
とだけ言って、片付け物をそのまま忙しげに続けた。ちょうどその時、美佐が私のほうに顔を向けた。そして目が合った。つい先ほどまでの浮かれた表情をサッと消して面倒くさそうな顔をして、美佐は
「あんた、いつからおったん?」
と話しかけてきた。相変わらずだと思った。別に美佐に関してはもうその頃の私は諦めていたから、それほど気にもしなかった。私に対してだけぞんざいな態度を取る美佐は、私がアメリカから帰国してすぐの頃に一度だけ母に厳しく叱られたことがあったのだが、その後の美佐の、母の逆鱗にギリギリ触れない範囲内での雑で憎々しい態度や言葉使いは本当に見事と言えるほどのものだった。私が帰国してからの美佐は、1、2ヶ月に一度の程度で実家に帰ってくることがあったのだが、大体がいつも私に対する接し方は同じ、そのようなものだった。私のほうももうすっかり慣れたもので、背中を向けたままに、
「ゆっくりしていきや。お母さん、ちょっと自分の部屋、片付けてくるわな」
とだけ言い残して、自分の部屋に入っていった。そうしながらも、きっと美佐と私のことで母が悲しんでいるように思えて、私まで悲しい気持ちになった。それもいつものことだった。しかしそうする他にどうすることもできなくて、心の中で母に謝りながら自分の部屋で片付けものを開始した。
引越しとは疲れるものである。景色、空気、匂い、音、備え付けのもの、従来からの物の置き位置など、そんな身の周りのものが何もかも変わってしまうのだから本当に疲れるものである。それが例えば、家族が全員元気で、新天地に希望を持って興奮した心持ちで移り住む場合においてもかなり疲れるものであるのに、私たち家族の場合、拝み屋さんのお告げ通りにただ素直に従って、一抹の不安、揺るぎそうな願い、それまでの疲れ、持って行き場のない苛立ちなどの様々なある意味重すぎる荷物を背負ったままでの引越しであったから、仮の住処での生活はどことなく空気がピリピリとした中で始まった。決して余計なことは一切口にしてはいけない、そんな雰囲気が仮の住処の中にはいつも漂っていた。綱渡りの緊張感とでも言おうか。ほんの微かな刺激でさえも誰もが過敏に反応し、そうなれば家族みんなで真っ逆さまに転げ落ちそうなくらい綱が大きく振れてしまいそうな、そんな得体の知れない緊張感が張り詰めていた。そんな中で、どことなく誰もが空気を揺らさないように、ほんの微かな刺激をも周りに放たないように細心の注意を最大限に払いながら、仮の住処での新たな生活の日々は始まった。
しかし、願うように事は何一つ運ばなかった。10月末に仮の住処に越してきてからの母は、拝み屋さんのお告げを信用して西南西に越してきたにも関わらず、その症状は悪くなる一方だった。引っ越してからのほんの数週間の間に母は、先ずは食欲が落ちていった。スプーンを握り締める力が手からなくなっていった。頬がすっかり痩せこけていった。声が出にくいのか、話し声がひどく小さくなっていった。車椅子に座って体を支えていることができなくなってしまった。一日中介護ベッドで過ごすようになってしまった。そのベッドの上で寝返りもうてなくなってしまった。とにかくそんなふうに、ものすごい速さで急激に症状が進行した。何もかもがもう歯止めなく転げ落ちるように、悪い方へ悪い方へと流れていった。そして父は、そんな母の手となり足となるため、母のそばからひと時も離れなくなった。母の代わりにスプーンを握り、母の口元に耳を近づけて母の声を拾い、母を抱き上げてトイレに連れて行き、母の寝返りの手伝いをし、母の体をお湯に潜らせたタオルで拭いてあげたりと、健常者が普通にできることで母ができなくなってしまったことを補うように、父は母の手となり、足となった。そしてそんな父にはもう、昼も夜も関係がなくなっていった。夜になれば母の足元に布団を引いて父も横になるのだが、隣りの部屋で休む私には、夜中に起き出して母の世話を焼きながら小声で母に話しかける父の声が聞こえてくることがしばしばあった。そんな父に、由美子も私も、
「お父さん、台所でちょっとゆっくりしたら?」
などと話しかけることも何度かはあったのだが、父は、
「いや、・・・、大丈夫や。お母さんのそばにはお父さんがおらんとあかんのや」
と、疲れ切った顔に右の口角だけを吊り上げるような、そんな歪んだ微笑みを浮かべて答えるばかりだった。そんな父にはもういつしか、由美子も私も何も言葉をかけられなくなっていった。父の体のことを気にしながらも、もう父には父のしたいようにさせてあげる以外にはないと、半ば諦めたように私は思うようになっていった。それなのに由美子は、父や母から目の届かない場所で、
「お父さんがあない言うてても、幸治、あんたが強引に、お母さんのそばにおるからゆっくりしててってお父さんに言わんとどないするの?」
と小声で、頻りに私に責付いてくるのだった。由美子の言うことも、父が意地になったようにとっていた行動も、どちらも間違いじゃなかった。仕事から帰ってくると、いつも私は寝るまでのほとんどの時間を母のそばで過ごしていたのだが、由美子から頻繁に責付かれた末に仕方なく、父に一度だけ、努めて明るく、
「お父さん、僕がお母さんのそばにいてるから大丈夫やで。ちょっと隣りの部屋でゆっくりしてたらどうや?」
と話しかけたことがあった。すると父が、
「大丈夫やって何遍言うたらわかるんや。同じこと言わすな」
とムッとした表情で答えた。やはり余計なことを口にしてはいけない空気が、そんなふうにいつも周りに漂っていたのだった。
母の症状が悪化の一途をたどり、父が無理に無理を重ね、由美子や私にはそんな父に意見を通すことができず、そして由美子は、由美子なりの様々な苛立ちを抱えていたのだろうと思うのだが、私に色々としつこく責付いてくるようになって、仮の住処の中での私の周りの空気だけは次第に、ピリピリした雰囲気を通り越して息苦しさを感じるほどまでに張り詰めたような感じになっていった。
そんな状況の中でも、母だけは他の者とは少し違っていた。母だけは仮の住処に漂う不穏な空気とは別の空気の中にいるようだった。常に気丈で、微笑みを絶やさず、穏やかで、優しさがとめどなく滲み出ていて、どこか一人だけ幸せそうな気配を放っていた。泣き言は一切言わなくなって、家族の者に何かをしてもらえばすぐに「ありがとう」と嬉しそうに口にするのだった。とにかく一切の角がきれいに落ちてまん丸になった、こう言ってしまうのが一番ぴったりのように思う。
こんなことがあった。レーズンパンの好きな父のために、我が家の朝食はレーズンパン、ヨーグルト、バナナ、そしてコーヒーというメニューが決まっていた。帰国してから毎日それが続いていて、仮の住処に越してからしばらくした頃には私はもう、レーズンパンの匂いを嗅いだだけでえずくようになり始めた。もう条件反射的にそれを前にするだけで胃が痙攣するようになってしまい、由美子も日々忙しいのはわかっていたのだが、ある朝、由美子に私は、
「お姉ちゃん、パンの売ってるとこに普通のバターロールとかあったら買ってきてくれへんかな?レーズンの匂いがな、どうも最近、体が受け付けへんねん」
と話しかけたことがあった。台所で母の朝食の用意していた由美子はピタリと手を止め、振り向きざまに私を睨みつけ、いきなり、
「お前は明日からな、そんな贅沢を言うんやったら、朝ごはん食べんと出て行け。何も食べるな」
と怒鳴りつけてきた。私は目が点になった。それほどの贅沢を言った覚えもなければ、由美子の買い物の大きな負担にもなるなんて思ってもいなかったのだ。狭い仮の住処では、またすっかり衰えてしまった母のそばでは、関屋の実家でのように時々感情を爆発させるように吐き出すこともままならず、由美子はその内面に相当苛立ちを溜めこんでいたのだろうか。そして、たったパン一つのことが引き金となって、押さえ込んでいた感情が一気に爆発してしまったのだろうか。私に怒鳴りつけたあとの由美子は、目を真っ赤にさせて泣きながら私に背を向けた。そしてそのまま黙々と中断した母の朝食の用意を続けた。すると母が隣りの部屋で、背もたれを少し起こしたベッドの上で優しい微笑みを浮かべたまま由美子に、
「由美子、そないにカリカリせんと・・・。パンのことくらいでそないに怒ることやないよ。由美子はお母さんの仕事、わからんままに全部一人で引き受けてくれて、その上な、お母さんの食事のことまでいっつも一生懸命に考えてくれて・・・、ほんまによう頑張ってくれてな。・・・。由美子もちょっと疲れてるかな。なぁ、由美子、毎日疲れてるのはわかるけど・・・。パンぐらい買ってきてあげな・・・」
と、由美子の日々の苦労をねぎらいながら、そして由美子を柔らかく抱きしめるように話しかけた。恐らく、母が元気な頃だったらそんな些細な諍いに対しても厳しく、例えば私の帰国後に美佐を叱りつけた時ように由美子を叱りつけたことだろうと思う。しかし、仮の住処に越してきてからの母は、怒るという感情をどこかで脱ぎ捨ててきたのか、何が目の前に起きてもそのようにまん丸な心でやり過ごすようになっていたのだった。もう母は、いつ旅立ちの日が来てもおかしくないとすっかり覚悟を固めていたのかもしれない。そしてそれまでの残された時間だけは、自分の苦しみ、悲しみは脇に置いておいて、とにかく家族との最後のいい思い出をできるだけたくさん残しておきたいと願い、そしてそのように振舞っていたのかもしれない。あるいは全く別のところでは、たったパン1個のことで喧嘩し合う姉弟のことを、困った者としてではなく活き活きとした元気な若者の素敵な姿として捉え、確実に先に旅立ってしまうであろう者としての慈しみ深き瞳で微笑ましく見つめていたのかもしれない。
そんなふうに母がただ優しくて、父がそのそばで意地になったように無理を重ね、由美子が時々私に責付いてきたり怒りを爆発させたりしながら過ぎていく日々の中で、私だけが家族の者のように個性も、色も、癖も、匂いもなく、そんな存在のままにいつも家族の中でふわふわと揺れ動いているような気がしていた。それはいつも私にとって、実に不安なことだった。日々の振る舞い、あるいは心の信念、そのどちらかを固めることで人は自信を持って人生を生きていくことができると思うのだが、どうやら私はそれまで25年も生きてきた中で自信を形作る、あるいはその裏付けとなる振る舞いも、そして信念も、私は何一つ固めることもなく過ごしてきたようだった。母の状態が最悪の局面にまで迫り来て、誰もがギリギリの精神状態にまで追いやられて、それぞれの家族がそれぞれのやり方で日々を逞しく渡っていく中で揉まれて初めて、私の自信のなさ、人としての浅はかさが私の目の前に突如露呈されたようだった。それまで頑張って生きてきたつもりだったのだが、どうやら無駄に数字を稼ぐように生きてきただけだったということを、私は仮の住処に移り住んでから深く思い知らされたようだった。しかしもう遅かった。家族の前に晒す私の振る舞いを容易く変えることのできるような時期ではとてもなかった。そのまま行くしかない、周りに言われるままにそれまで通りふわふわと行くしかない、私は一人静かにそう覚悟した。情けない気分だった。そしてまた惨めな気分だった。
12月に入る少し前のことだったと思う。会社の事務所の机の上に、なぜか輪ゴムが一つ転がっていた。仕事上で掲げた目標には、様々な気がかりに惑わされるままにたったの一歩も前に進んでいなかった。昼間の時間も家で過ごす時間と同様、毎日自信もなく、不安塗れのまま、騙し騙しのままに流れ去ってすでに半年近くが過ぎていた。配達から戻ってきた事務所には誰もいなくて、私は事務机の前に腰掛けて気を緩めた。その時に、机の上の輪ゴムが目に入ってきたのだった。私はそれを指で摘み上げた。それから私は何を思ったのか、その輪っかの一箇所を爪でちぎった。一本のひも状になった。私はその両端を両手の親指と人差し指で摘んで、無心で捻っていった。指先の感覚が気持ちよかった。気持ちよさを感じるままにひたすら捻っていった。団子状になれば、一度両端を左右に引っ張ってはまた捻り続けた。そんなことを何度も何度も繰り返しは、指先にゴムの反発をかなり強く感じるところまで私はただただ捻り続けた。相当に捻じれ、捻れた螺旋がかなり細く、そして窮屈そうになった。そこまで来て私は満足して、それを机の上にそっと置いてみた。するとそれは、ゴムの反発力に任せて元気よく飛び跳ねながら踊りだした。机の上を前後左右に自由に飛び跳ねながら、可笑しそうに踊り続けた。しかししばらくすると、ゴムの反発力が弱まってきてその舞いに勢いがなくなっていった。そしてついに、踊るのを止めて動かなくなった。しかし顔を近づけてよく見ると、弱まった最後の反発力を振り絞るかのように微かに震えながら、もう一度飛び跳ねようとしてもがいていた。そして突然に、まるで顔を近づけて凝視する私を驚かすように、また何度か飛び跳ねた。その後、ゴムはもう自分の力だけでは動けなくなってしまった。まだ少しの捻じれの残っている部分に、私はそっと指を貸した。すると小さく跳ねた。何度かそうしているうちに、最後まで凝り固まっていたところも解れて、ゴムは勢いもなく気だるそうに捻れを解きながら、ついにもとの一本のひも状に戻っていった。私はその後も、そのゴムが何度も捻られた末にくたびれてヨレヨレになるまで、同じことを繰り返した。
人は口を開けば、「金になるのか?」、「そんなことして何になる?」、「何のメリットがある?」などの厳しいことばかりを投げかけてくる。そんなことを考えたり分析することも、それはそれで大切なことだと思う。確実に、そして時にはしたたかに計算高く考えて活動しなければ、人は日々を上手く渡って生きていけない。しかしそれと同じくらいに、何も考えない、そして人からは無意味だと言われかねない時間を持つことも大切だと思う。飛び跳ねて踊る一本のゴムは無邪気な命のようだった。見ているだけでワクワクして、自信もなく不安に塗れて凍えそうな私の命が温まって来るのを感じていられた。そして何度もゴムと戯れて、もうゴムがくたびれた頃には、私はいくらかはマシな気分になっていた。もし家族全員で額を突き合わせながら飛び跳ねるゴムを真剣に見つめる時間を少しでも持つことができたなら、一度でもそんな意味のないことで無邪気に笑い合うことができたなら、仮の住処の空気も少しはマシになることができたであろう。とてもそんなことなど望めそうにもなかったのだが、そうできた時のことを想像して、私は遠く懐かしい家族の笑顔を思い出していた。笑顔のままに家族が寄り添ってさえいれば、どんな結果が訪れようとその先へ嬉々とした気持ちで走って行けるはずなのにと思った。しかしそれは、一番近くにあるはずなのに、決して手の届かない何よりも遠くの夢のまた夢のように思われた。
机の上に伸びたままのくたびれたゴムを、私はしばらく呆けたようにぼんやりと眺めていた。するとくたびれたゴムが、どこか命の役目を終えて旅立ちの日を迎えた人のように思えてきた。私は、人というものは誰かからその人をくたびれさせてしまうほどのたくさんの栄養を吸い取って生きているんだと思った。そして自然に、自身でもわからない心の奥深くあたりで無意識のうちに、その有難さに深々と頭を垂れながら生きているんだとも思った。すると、「人には迷惑をかけるな」という言葉なんてものは迷惑をかけることに気を病むこともない人のきれい言で、「人に感謝しろ」という言葉なんてものは頭を垂れることなど一切ないご都合主義者の脅迫のように思えてきた。次第に私の心は、見えない敵に挑んでいくかのように激してきた。何が「迷惑をかけるな」だ。人は人から栄養を吸い取って、そしてその人に迷惑をかけて生かしてもらってるんじゃないか。何が「感謝しろ」だ。感謝しろなんて言われる前に、心はもうすでに頭を垂れているんだ。教育か何かは知らないが、あちらこちらでうるさいほどにもっともらしく語られるそんな言葉のせいで、人は体裁ばかりを気にするようになって自然に振る舞えなくなっていくんじゃないか。そして自然に振る舞えない自分が悲しくて、訳もわからぬうちに人は孤独を纏うようになっていくんじゃないか。
心が激した末に気が滅入りそうな気がして、私は気分を入れ替えるために事務所の窓の外に目を向けた。北の窓の向こうには八尾空港と、その上の晴れ渡る初冬の冷たそうな青空が見えた。空港の敷地の奥の方に見える格納庫の手前あたりでは、20名ほどの迷彩服に身を包んだ自衛隊員が数メートル浮き上がったヘリコプターの下に集まって、キビキビと何かの訓練に当たっているようだった。その光景を目にした時はまだ、そのすべてがきれい言と脅迫に塗れたただのフィクションの中の景色としか映らなかった。しかししばらくじっと眺めていると、その光景の中で自衛隊員の方々だけが活き活きとした命の姿として浮かび上がってきた。そして次第に私は、自衛隊員の方々のように、騙し絵のようなフィクションの世界に飲まれそうでも夢中に命を燃やしていられるなら、それはそれで素敵な日々なんじゃないかという気がしてきた。仕事に出ても、家にいても、一日中どこにいても何の自信もなくつまらない自分のことを思った。個性も、色も、癖も、匂いも、何もかもが人よりも明らかに影の薄い自分を思うと、今はもうそれで仕方のないことのように思った。そしてそんな自分でも、惨めでも、悔しくてもそのままに、次の願う場所を心の別の場所に密かに描いていながらも、だまし絵のような現実に塗れていれば幸せなのだろうかと考えた。頭がひどく混乱して訳がわからなくなった。私は考え事を丸めて床に投げつけるように、大きく腕を振り下ろした。そして息を大きく吐き出した。
私はその頃から輪ゴムを見かけると、ポケットにそっとそれを忍ばせるようになった。そして一人になると輪っかを爪でちぎって、ひとり遊びに耽ることが好きになった。
12月の半ば頃、休みの日のお昼すぎに、母のそばで母の痩せた腕を摩ったりしながら過ごしていると、そばにいた父がふと閃いたように、
「おい、幸治、ホームセンターに行って延長コードを買ってきてくれ」
と言った。どことなく急いでそうだったので、何メートルほどのものがいるのかだけを確認して、すぐに私は仮の住処を飛び出した。マンションの玄関先を出て見ると、その日は思っていたよりも随分と寒い日だった。空を見上げると、北の方角に雪雲のような雲が迫り広がっていた。例年よりもかなり早く訪れた雪雲を、私は疑わしく思ったりもした。そう思ってはみてもやはり、いかにも雪が降りそうな肌寒さと空模様だった。
ホームセンターは、旧道から国道に出て左に曲がればすぐのところにあった。歩けば10分ほどで、車で行くほどの距離ではなかった。しかしどうしてか、なぜかその日の私は、車で混み合う道を歩くのが嫌で、ふと、いつもの駐車場への抜け道、ブロック塀の脇から駐車場の向こう側を覗いてみた。するとどうやら、いつものように線路を渡り、駐車場の向こう端あたりから田圃の畦道に下りて、それを一直線に進めば、そのままホームセンターの真裏側にたどり着けそうだった。私は畦道を進んでみることにした。そしてもし、ホームセンターの真裏側にたどり着いてもその敷地に入れそうになかったら、その時は引き返せばいいと思って私は歩き出した。駐車場の向こう端まで早足で1分ほど、そして畦道を早足で3分ほど歩けば、あっという間にホームセンターの真裏側にたどり着いた。目の前のその敷地の回りにはフェンスが高く張り巡らされていたのだが、どういう訳か1箇所だけ、人ひとりが通れるほどに破られた穴が空いていた。私はそれをくぐり抜けて、ホームセンターの敷地内に入っていった。そしてそのまま、数名の作業員が忙しげに動き回る裏の商品搬入口や従業員専用駐車場あたりを何食わぬ顔でさっと横切って、正面玄関へと向かった。その頃には時間をかなり短縮できたことに、私はかなり満足していた。しかしそれ以上に、小学生の頃に裏山で分け入ったことのない茂みを突き進んだ時の冒険のような感覚を久しぶりに味わえたことに、私はもっと満足していた。
延長コードを買ってそれを手に、私は帰りもまた、行きと同じ道を進みだした。帰りは冒険の興奮もすでにすっかりと落ち着いていて、畦道の柔らかな足裏の感触をじっくりと楽しみながらゆっくりと歩いた。すると、小学生の頃に意味もなくよく畦道を歩き回っていたことが思い出されてきた。れんげ草やすみれ草の色の頃、水鏡に雲が映る頃、頼りない苗が春風にそよぐ頃、おたまじゃくしが泳ぐ頃、カエルが騒がしく鳴く頃、緑の色の濃くなった稲が風に揺れる頃、赤とんぼが飛び回る頃、稲穂がたわわに実る頃、稲穂が黄金色に色づく頃、忙しい刈り取りの頃、稲穂が棒がけされる頃、くい棒だけが置き去られた頃、田圃一面に霜柱が立つ頃、・・・。思い返せば、季節に関係なく、なぜか可笑しなほどに本当によくあぜ道を歩き回っていたものだった。その中でも特に好きだったのは、やはり冬の季節だった。寝静まったような田圃に進入できるのは冬だけで、そこに広がる霜柱で凍った稲の刈り取り跡を、一つ一つ丁寧に端から順番に踏みつけていくのだった。刈り取り跡と霜柱とが同時に崩れる足裏の感触がたまらなくて、友人と話すことも忘れて別々の場所から黙々とにやけながら踏みつけていくのだった。ちょうど、商品なんかを保護するための空気の入った緩衝材を一つ一つ指先で割っていく心地よさ、そんなものに冬の田圃遊びは似たところがあった。仮の住処に移ってからはいつも追いやられ気味の苦しい状況だったせいで、久しぶりに思い出したそんな遠き日の想い出はより温かく感じられた。そしてその温かさに一度触れてしまえば、温かかった遠き日の想い出は心の中で目まぐるしく次から次へと蘇ってくるばかりとなった。
畦道をゆっくりと歩きながら、ふと私はなぜか母のことを思った。母が回復するなんてことはもうとても望めそうになかった。母は日に日に痩せ衰えていくばかりだった。そんなことは考えたくはなくてもやはり、お別れの日がそこまで迫っているような気がした。私が考えていたそんな嫌なことを、口にしなくても家族の者も意識し始めているように思った。それまでの8ヶ月間の日々は、誰かが泣き出したり、苛立ちを爆発させたり、母が首を動かせるようになったそれだけのことでみんなで喜んでみたり、次の新しい希望をみんなで心から信じてみたり、そして上手く事が運ばなくてまた項垂れたりと、何かとドタバタとしながら転がるように激しく過ぎ去っていった。いつか将来、そんな中を家族みんなで駆け抜けたこの8ヶ月のことを懐かしく思う日が来るのだろうか。そしてその時、懐かしく笑っていられるのだろうか。そんなことを思っていると、涙が溢れてきた。その涙は寒風に吹かれ、すぐに乾いた。目尻に乾いた跡がカサカサと残った。しつこく涙がまた溢れては、またすぐに乾いた。やはり心は騙せないようだった。心はどうやら、情けない気持ちのままに、惨めな気持ちのままに、周りに流されるままふわふわと生きてきた私を悲しんでいるようだった。涙は、どうやらそのための涙のようだった。そんな気がした。
帰り道、たったその数分の間に昔を激しく思い出し、そして現実に目を向けて悲しくなり、私はひどく疲れた気がしていた。私はふと、ゴミゴミとした街を抜け出して、人も街もどこにも見当たらない大自然の中に溶け込みたいという欲求に駆られた。朝日が昇り、夕日が沈み、夜空に月と星が浮かび、足元には芳しい土の香りが立ち込め、景色は目にただ優しい緑で、そのような、ただ当たり前に目の前に広がっていて、そして何も語らずにただ繰り返される大自然の営みの中で、その営みだけを信じていられるような、そんな孤独かもしれないが心豊かな時間を私の心は求めているようだった。そんな場所で胸を張り、両手を広げながら空を仰ぎ、そして軽く瞳を閉じて思いっきり深呼吸をしてみたいと思った。そして体が解れたら、心のままに思いっきり走っては転げ回りたいとも思った。すると、学生時代に友人と訪れた北海道のサロベツ原野の広大な景色が目の前に広がってきた。左手には北国の濃紺の海、前方には丘の向こうに消えていく一本道、そして右手には広大な大草原。そんなサロベツ原野は今頃は季節柄、もう色をなくし、きっと猛吹雪が吹き荒れていて、生き物の気配などどこにも見い出せないほどなのだろう。そんな中にひとり、この身を置くことが何よりも素敵に思えた。そしてそんな厳しい場所で、必ず訪れる春の日をただ待ちわびることが何よりも贅沢に思えた。
畦道がもう終わりかけていた。あとは駐車場を横切って、線路を越えて、崩れそうなブロック塀をすり抜けて、仮の住処に帰るだけだった。一度立ち止まって、私は乾いた涙をジャンバーの袖で拭った。そして気合いを入れ直すように背伸びをして顔を上げた。その時だった。北の方角の景色が白けていた。雪だった。本当に雪だった。その巨大な白けた壁のような光景が一気に私の方に迫り来ていた。見る見るうちに白の景色が膨れ上がりながら近づいてきて、あっという間に私はその中に飲み込まれた。かなり激しい雪の降り方だった。どの方角に振り返ってみても、どこもかしこももう真っ白だった。雪に飲まれた途端に私は、結局は、諦めたように俯いて過ごそうが、悔しがって精一杯足掻こうが、最後は何ものかの大きな移ろいの前ではただ素直でいるしかないように思った。その時、混乱していた頭の中が急にすっきりとした気がした。開けた盆地の広い空に舞う雪をしばらく見上げていたのだが、ふと私はもうすぐにでも母のそばに帰りたくなった。母のもとに子供のように走って帰って、雪が降ってきたことを誰よりも早く、この私が母に知らせなければならなかった。そんな気がしていた。気が急くままに私は思いっきり走った。駐車場を走り抜け、線路を飛び越え、マンションの中に駆け込み、エレベーターに乗り込み、9階で降りてからはまた通路を走って、やっとのことで仮の住処にたどり着いた。由美子がぜいぜいと息を切らした私を見て可笑しそうに、
「何をそんな、・・・、走ってきたんか?」
と話しかけてきた。私は何か気恥ずかしくて、
「雪が降ってきたからな・・・」
とだけ言って、そのまま母のそばまで行った。
「お母さん、外、結構な雪、降ってきたで・・・」
息を切らしたままに、たったそれだけのことを報告するために駆けてきたであろう私のことが母には可笑しかったのだろう。そして嬉しかったのだろう。痩せ細った顔に、母はいつもの母の柔らかな微笑みを浮かべて、
「そうか、雪、降ってきたんか」
と返事をしてくれた。私は満たされた。きっと父も由美子もずっと家の中にいるのだから、そのどちらかから母はきっと外の様子を聞かされていたように思う。それなのに母は、ただ嬉しそうに返事をしてくれた。そんな母が私には、帰り道で思い描いていた雄大な大自然そのもののように思えた。
夜も更けて、たくさんのことを感じ、興奮し、思い出に戯れ、項垂れ、また興奮し、変に疲れた一日が終わりかけていた。私は母に、
「おやすみ、お母さん。また明日な」
と言うと、母も同じように、
「おやすみ、幸治。また明日な」
と返してくれた。
自分の部屋に入っても、やはり興奮のせいか、私は全く寝付けなかった。頭の中では延々と繰り返し、学生時代、友人とふたりで北海道にツーリングの旅をした時の様々な景色が浮かび上がってはまた消えた。サロベツの原野の原始の景色のような心懐かしさ、サロマ湖からの朝焼けの淡くしっとりとしたオレンジ色、野付半島のトドワラの荒涼としたもの淋しさ、開陽台から遠くに臨む地平線付近の揺らめく霞み、川湯温泉そばの硫黄山の地球の鼓動を感じさせるような荒々しさ、日高の海霧の中を駆ける馬たちの無邪気さ、・・・。頭の中で次々にすり替わっていくスライド写真のような景色を、もう私は眠ることを諦めてひたすら楽しんでいた。すると、そこに割って入るように、その日の畦道での雪景色が時々浮かんでくるようになった。その割り込みに何の違和感もなくそれまで通り楽しんでいると、今度はメロディーに乗った言葉がそこに割り込んできた。枕元の蛍光灯をつけて、そばにあった裏の白い広告チラシとペンを握って、布団に潜り込んだままに私はその言葉を拾っては紙に書き写していった。すると、10分もしないうちに詩のようなものが出来上がった。その後、先ほどのメロディーをもう一度口の中で小さく口ずさみながら、手直しを加えた。出来上がって読み直してみると、そこにはその日、雪に飲まれた時の素直な気持ちがそのままに表れていた。
大空と大地の間に
生まれたての空
忘れかけていた朝焼けが
山の背 赤く染めていた
新しい一日 始まった
いつも変わらず そのままいるようで
いつも変わってどこかに行くような
気がする
そう
そっと静かにまかせてみよう
ちっぽけな悩みも苦しみも
この広い大地のうえに
風が鳴いていた
君は畦道で吹かれていた
低い雲 いま 忍び寄り
見上げた空 ただ雪が舞う
いつも覚えてる 春風の中 畦道 散歩道
だけど震えてる そんなこと 遠い夢
届かぬようで
そう
心静かにまかせてみよう
悲しみの雲 抜けるまで
この広い大空の下に
とても眠れそうになかった。詩がまとまっての嬉しさと興奮が冷めやらない状態のまま、布団の中でずっとゴロゴロとしていた。その頃の私にとって励みとなる本当にいい詩がまとまったように思って、私は本当に嬉しくて興奮していた。時計はもう1時を回っていた。眠らなければいけないと焦る気持ちも少しはあったが、眠れないのは仕方ないようにも思えた。自分ではどうしようもなくて、そのままに過ごす以外にないように思った。ずっと布団の中でゴロゴロしていると、ふと8月にデサからもらった手紙のことを思い出した。その手紙を引っぱり出して読もうと思ったのだが、実家に置いてあるんだということをすぐに私は思い出した。私は頭の中で、デサの手紙の内容を思い返してみた。確かあの手紙には、私が書き綴った「風の鳴く草原」のことをデサがものすごく喜んでくれたことが記されていたな。そしてまた、嬉しくて涙が出るって、読むといつも頑張ろうって思えるって記されていたな。そんなことを思い出していると、出来上がったばかりの詩をすぐにでもデサに届けたいという気持ちが沸いてきて、そしてそれは次第に強いものになっていった。私は大学ノートをちぎって、そこにできあがったばかりの詩を清書した。そしてまたもう一枚ちぎって、そこに短い手紙を書いた。
デサへ
ご無沙汰です。元気にしてますか?
俺の方は、お母さんの回復を家族みんなで願いながらここまで来たけど、すっかりとお母さんはやせ細って、もう何もできないところまで来たようです。悲しいけど、仕方ないです。
今日、お昼過ぎに雪が降りました。外を歩いていた俺は一瞬にして迫り来るその雪に飲まれました。すべての悲しいことに足掻いてもみても、項垂れてみても、それは仕方ないことのように思いました。諦めじゃありません。そのままを受け止めるしかないように思ったのです。
いま、夜中の1時をすでに回っています。今日のことを思い出して、その他にも懐かしいことをいっぱい思い出して、眠れないでいました。すると言葉が浮かんできてこんな詩ができました。
デサに読んでもらいたくなったので、できたての詩を同封します。
「風の鳴く草原」、ギターで弾けるようになったかな?コード、難しかったと思いますが・・・。いつかデサの弾き語りの「風の鳴く草原」、目の前で聴いてみたいです。こんな時期だから、俺、その日のことをいま想像するだけで泣きそうな気分です。
俺、頑張るな。デサ、お互い、頑張ろうな。
私は次の日、配達中にその手紙をポストに投函した。
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