第14話

 美佐のあの恐ろしい言葉、「お前なんか、人間ちゃうわ」、その言葉を境にその前と後ろでは、日々の私の周りの色も、匂いも、温度も、もう何もかもが全く別物に変わってしまった。一言で片付けてしまうなら、その前までの私の人生を「動」、その後ろの私の人生を「静」という一文字で言い表すのが一番しっくりと来るように思う。「動」の時間というものは、その渦中にいる時は短いものに感じられるものだが、振り返れば本当に長いものに感じられる。やはり、そこには数え切れないほどの想い出が散りばめられているからだろう。その反対に「静」の時間というものは、その渦中にいる時は長いものに感じられるのに、振り返れば実に短いものに感じられる。そこにほとんど取り上げて語るべき何の内容物も見出すこともできなければ、そのあまりの空虚さに時々は胸が気持ち悪くなることもある。

 美佐のあの言葉以降の私の日々の活動は、傍から見れば「動」のように映っていたことだろうと思うのだが、私的にはその内面は明らかに気味の悪いほどの「静」だった。ひんやりと冷たく、寒色系の色がうっすらと広がり、無機質な匂いがいつも立ち込めていた。そしてそんな「静」の時代はあの日からジリジリと深まっていき、その期間はごく最近までの20年以上にも及んだ。そして最近になってようやく、いい意味で、そんなそれまでの自分に諦めがついてきた。本当に時間がかかった。しかしそのおかげで、少しは気が楽になってきたような気がしている。そして、少しは心自由になれたような気がしている。今の私の心の状態は、自分の判断では、「動」でも「静」でもない、そんなどっちつかずのあやふやな中間の場所あたりで、ただ規則正しい呼吸を繰り返しているだけという感じである。そしてそのような状態だからこそ、自然のリズムに合わせて、もうそろそろ、もう一度願う場所に向けて歩き出し、そして生き直していけそうな気がしている。もし生まれたての赤子に意識があって心の中を認識しているのなら、スタート地点は違えど、それは今の私の心の状態と似通っているのかもしれない。

 誰かが昔、テレビでこんなことを言っていた。

「この世界はたくさんの違いで出来ている」

 この言葉を、なぜか最近の私はよく思い出す。この言葉は実に本当だと思う。そして実に無条件の優しさが満ち溢れてているようにも思う。時間の横軸、世代の縦軸、その中でのそれぞれの根ざす環境、そこでの影響を受けながら形成されていくそれぞれの性癖や性格、そしてその土台となる生まれ持っての生命力や運の強さなど、この世界というものは、それら人それぞれの様々な違いが複雑に絡まるようにしてできあがっている。あの頃の美佐は、自分の小さな世界から異物であると感じる私を必死になって排除しようとしていたのだろう。そしてそうすることが絶対正しいと信じ込んでいたのだろう。逆にあの頃の私にとっては、ここまで色々と書き綴ってきたが、美佐こそが私という小さな世界の中で全くの異物だと認識していたのだが・・・。あの頃からすっかり遠く離れて、今の私はこんなふうに思っている。どうやらあの頃の私たちは、そしてあの頃の時代の人々のほとんどは、この世界はたくさんの違いでできているということをそれほどまで意識すらしていなかったんじゃないか。そしてまた、物事がうまく転がるためには、あらゆる異物と感じるものを徹底的に排除することが絶対的に正しいと誰もが信じていたんじゃないか。そして実際に、時代自体もそのように徹底して動いていたんじゃないか。今の私は、あの頃の時代の風潮をこんなふうに捉えている。

 それぞれの時代の幸せの価値基準というものは、その時代の大人世代が築き上げるものである。精神的に豊かな時代というものは、幼き頃に精神的に満たされることのない子供時代を過ごした大人たちによって、あるいはその反対に物質的に豊かな時代というものは、幼き頃に物質的に満たされることのない子供時代を過ごした大人たちによって、その過去の苦しみ、悲しみを突き破ろうとするように、願い、祈りながら築き上げられていく。そしてその形がようやく築き上げられた頃に大人たちも一息つけるようになって、後続の者たちに、「幸せのレールは敷いてあげたんだから、安心してその上を進んでいけ」と言ってバトンを手渡そうとするのだが、後続の者たちは2手に分かれてしまう。1手は、嬉々としてレールをなめらかに進む者たちで、もう1手は、ガタゴトと音を立てながらレールから脱線してしまう者たちである。やはり、そのような時期にでも、新たな違いというものが顔をのぞかせるものである。私はと言うと、明らかに後者の人間だった。

 私の両親の世代は戦中生まれで、そんな時代に生まれた人たちの幸せの価値基準というと、3度の飯、ゆっくりと眠れる場所、そして昨日より今日、今日よりも明日が物質的にほんの少しでも豊かになることであった。そのあたりがその後も、私の親世代の大人たちの幸せの価値基準の土台になっているようだ。私の父で言うと、父は1940年生まれで、1960年に成人になった。全く物のない時代をくぐり抜け、1970年代に入った頃から少しは人並みの生活ができるようになったらしい。

 こんなことがあった。私が高校生の頃だったと思う。つまりは、日本がバブル経済の時代に突入した頃のことである。親戚の寄り合いの席で少し酒の入った父は、その時に初めて、これまでにたった一度だけ、決して人に話して聞かせない過去の貧乏時代の話を懐かしむように口にしたことがあった。

「あの頃は飯も食えんでみんなガリガリで、服を買う金もないからみんな汚いボロ布みたいな服を着込んで、それが恥ずかしいかって言うたら、別になんも恥ずかしいことも全くなかったなぁ。周りを見渡しても、みんな、どいつもこいつも同じような格好してたんやから・・・。そんな格好で、石原裕次郎の映画でも観て、映画館から出てきたらみんな裕次郎になりきってるんやからな、可笑しい時代やったな」

 すると親戚の誰かが父に言った。

「そんなガリガリで、汚い格好してても、兄さん、それでもローレックスの腕時計をはめてたやんけ」

「そうや。そうや。そのためにコツコツと、飯の金もケチって、俺、必死に金、貯めてたんや。汚い格好でもな、ピカピカのローレックスはめて、飲み屋に行ったらな、それだけで、オーって歓声が上がったもんや。おかしなもんやったで。どや、このローレックスが目に入らぬかって言うたりしてな」

「もうせやけど、みんなも一丁前に上品になったもんやな」

「いやいや、お前、お前が風呂入ったら、今でもあの頃の垢が皺からにじみ出てくるんと違うんか?」

「兄さん、堪忍してえや。俺もそこそこ上品になったつもりでおるんやから・・・」

「さぁ、どうやろ?過去の貧乏はなかなかうまい具合に隠しきれへんって言うからな」

 貧乏という壁をどうにか乗り越えることができたという安堵の気持ちで、そして貧乏時代には考えられないほどの料理を大勢で囲んでいるという喜びの気持ちで、親戚の者誰もが、そして父も、相当にはしゃいでいた。

 その後1990年、ちょうどバブル経済の真っ只中、父は50歳、そして1991年、バブルが崩壊した頃は父は51歳。金品が溢れかえるようになったその頃、父の会社経営は堅実そのものでバブル崩壊の余波をそれほどひどくは受けなかったのだが、それでも父の意識というものはその後も長きに渡り、築き上げたものをさらに膨らますことばかりに集中していた。そのようにただ上を目指し続けることがいつの間にか絶対的価値基準として、戦中生まれの私の周り大人たちの元の質素な幸せの価値基準の上に築かれていた。

 そんな世代の父の子供として生まれた私は、ある時期から、父の世代の説く一般的な幸せの価値基準、そしてそれに沿うようにという周りの大人たちの願いなど、そんなものに心から素直に馴染めないでいた。表面上はそうは見えなかったかもしれない。しかし私は、それらに上手く馴染んでいるような顔を取り繕いながら、いつも胸の中では説明のつけようのない違和感を抱えていた。その取り繕いの負荷が大きく私にのしかかることがあって、そのせいで私は、あるいは多少なりとも私にも元々生まれ持ってそういったところもあったのかもしれないが、それ以前にもまして臆病で、泣き虫で、不器用になっていったように思う。

 そのある時期とは、1980年代に入って私が中学に入学する前の頃だったと思う。その頃から次第に、我が家からは、それまで私が生まれてから慣れ親しんできた昭和の香り、大らかさ、慎ましさ、朗らかさなど、そんないつもそこらに当たり前にあった空気が薄まっていった。そしてそれと取って代わるように、新しい時代の匂い、偏狭さ、図々しさ、落ち着きなさなどがひっそりと忍び込んでくるようになった。それが何らかの形となって顕著に現れだしたのが、父の言動の変化である。何かを私に勧める時の父は、必ずと言っていいほどにこの言葉を口にした。

「幸治、あのな、お父さんの言う通りにせえ。間違いないから・・・」

 時代を自分の手で仲間と共に築き、大きな流れがそこに起きて、そしてその波にうまく乗っているうちに、父は人として、男として、親として、経営者として、油が乗りに乗りまくって自信をかなり高めていたのだろうと思う。そんな父の姿なんてものは、そのほんの数年前なら目にすることもなかったものだった。その頃からの私は、次第に、圧迫感、息苦しさ、そして窮屈さを覚えるようになりだした。そして時々は、父のそんな言葉に少し顔を曇らせるようにもなりだした。そして父は、そんな私を困った顔で睨むのだった。それでも「動」のままの私でいられたのは、昭和を大切に守るように生き抜いてくれた母が間に入っていてくれたおかげである。母はいつも父と私との間に入り、時に父の思いを私に伝え、時に私の思いを父に伝える、そんな橋渡し的な役割を丁寧にこなし続けてくれていた。

 母が「言葉」を自分の口で話すことのできなくなったあの日、私の「静」の時代が始まった。父の言葉は全部、直接私の耳に押し込まれるようになった。私はただ難しくなっていった。あの頃の私には、恐らくそうなる以外にはなかったように思う。今度はそんな私のことを、父の思いに素直じゃないと言って、姉たちはタガが外れたように言葉で、そして行動で、そうすることが当然の権利とでも言っているかのように、自由自在に攻撃してくることがそれ以前にも増して増えていった。

 このことはずっとその後のことなのだが、ある日私は、「北の国から」というドラマを観ていた。その中で、純が草太兄ちゃんから引き継いだ牧場経営に失敗し、富良野を追われるように後にしたシーンがあった。その時に父、五郎さんが、

「純の責任じゃない。みんな、今の時代の運命みたいなもんだ。そういうふうに神様が、・・・、決めたんだ」

 と呟くシーンがあった。そのシーンのところで、私は父のことを思い、姉たちのことを思い、そして「静」に甘んじる自分を思い、激しく泣いた。それはというのも、どう神様という何ものかが時代を決めようとも、その私の置かれた「静」の状況の責任というものは、時代の責任だと言い切ってしまえば楽なものを、私はその原因を、その時代を生きる、そして作っている私自身にあるのだと自分を激しく責めてしまい、そんな自分まで許せない自分自身があまりにも哀しすぎたからだった。

 母が言葉をなくしてからは、父や姉たちにいつも追いやられ、自分を責めるうちに、私は、どこにも居場所がないところまで押しやられていった。しかし今振り返ればそれは、何ものかの大きな意志がそこに働いていたように思うのだ。そしてその何ものかは私を、私が私らしく私の命の役割が果たされるであろう場所へ運び出そうとしていたように思うのだ。

 ここからは、私の「静」の時代のお話である。私がその場所へ運び出されるために、どうしてもくぐり抜けなければならなかった暗くて長いトンネルの時代の話である。そんな時代の話だから、私の頭の中にはそれほど正確な記憶は残ってはいない。しかし、私自身覚えていないながら精一杯振り返ってみようと思っている。今の私は、どうやらトンネルの出口付近にまでたどり着いているようで、ここで精一杯振り返って過去の悲しみに落とし前をつけることで、そのトンネルの向こうのまだ見ぬ景色にたどり着けそうな気がしている。だから、泣き叫びながら、のたうち回りながら、奥歯を噛み締めながら、ここから「静」の時代をくぐり抜けていこうと思う。


 母が大阪・生野のS病院に転院して、そこでどのくらいの期間入院していたのか、私ははっきりとは覚えていない。そして私は母に時々は顔を見せにいっていたのかどうかも、その他に何をしていたのかも、ほとんどのことを私は覚えていない。しかし確か、呼吸器を付けたままの母が実家に戻るための打ち合わせが、父と病院の事務局の方との間で頻繁に行われていたように思う。そんなかすかな記憶が残っている。その間に、仮の住処から実家のほうに母の介護ベッドを移したはずなのだが、そして仮の住処の契約を打ち切って荷物を全部運び出したはずなのだが、果たして私がその現場に立ち会ったのか、それとも父がどうにか時間を工面して動いたのか、それとも親戚の者の協力を得てそれらすべてをなし得たのか、私は何一つ覚えていない。

 その母の入院期間中に、美佐のあの深夜の廊下での事件以降で次に私が覚えているのは、なぜか父と私のふたりが病院の事務局の奥の一室にいた時のことである。そこで私たちは、母が実家に戻るにあたって必要となる家庭用医療機器の呼吸器、吸引器、酸素ボンベ、その他備品の説明を、医療機器商社の方、酸素ボンベの業者の方、そして事務局の方から受けていた。どうやら、それらの方々を一同に同時に集めたのは父のようだった。そうすることで父は、すべての雑事を一度に片付けるつもりだったのだろう。そのせいで、私たちの前のテーブルの上には、いくつもの製品のカタログ、取扱説明書、そして何パターンかの見積り書や契約書など、その日初めて目にする書類が隙間なく散らばっていた。とても何の知識もない私たちには、それをどう取り扱っていいのかすらわからなかった。

「この機器をリースでご使用になるのが、一番だと思います」

 誰かからそんな説明をされると父は、

「わかった。それにしてくれ」

 と、何一つ迷うことなく返事を次々と重ねていった。そして私に向かって、

「よう話、聞いて、見積書とカタログ、ちゃんと整理していけよ」

 と振ってくるのだった。私はもう焦るばかりで、それと思う書類に手を伸ばすのだが、

「それと違うやろ。何の話を聞いてるんや。ちょっとはしゃんとせえ」

 と父に怒られ続けた。そして話がひとつまとまる毎に父は、

「この契約書、お父さんの名前、住所、あと書かなあかんこと、みな書いていけ」

 と言って紙を私に突き出した。私は緊張で震えそうになりながら、言われるままにひたすらペンを走らせた。

 一気に雑事をほぼ片付けた頃、どこか苛立っているような父は事務局の方に、

「これで月々いくらになるんや?」

 と不躾に問いかけた。すると事務局の方が、検めますと言って、業者の二人と一つ一つ丁寧に確認をしながら計算機を叩き始めた。目の前でなされるそのどこか悠長な作業をじれったく思ったのか、

「おおよそでいいんや。いつも数字見て仕事してるんやろ。計算機の正確な細かい数字なんか、求めてないんや。そのくらいわからへんのか」

 と事務局の方に怒鳴りつけた。事務局の方は慌てて、怯えたようにすぐにおおよその数字を口にした。

 私は父の外面を初めて見た気がした。私は恐ろしくなった。しかし、しばらくして気持ちが落ち着いてくると、貧乏の時代の長かった父が時代と共に駆け上り、そして願う場所にたどり着くためには、そんなふうに立ち止まらされることを何よりも嫌い、そんなふうに振舞っては障害を蹴散らし、ただ一目散に突き進むしかなかったのだろうという気がしてきた。「時代の哀しみ」という言葉が、なぜかふと私の頭の中に浮かんできた。私が予てよりいつも恐れていた父の父なりの精神論と行動力、その2つをなくしては我が家の安定した日々の暮らしは保証されなかったのだが、その暮らしが、ブルドーザーが勢いよく木々をなぎ倒して突き進んでいくような、そんな父の人の怯む気持ちなんか全く気にも止めない勢いによって支えられていたんだということを初めて知って、「時代の哀しみ」という言葉が不意に浮かんできたのかもしれなかった。それは父ひとりだけの責任だとは思えなかった。

 恐らくその日の夜のことだったと思う。そこのところもはっきりと覚えてもいないし、その前後のことも何一つ記憶に残っていない。病院の前の内環状線を渡ったところに、一軒のホルモン焼きのお店があった。そこで父と二人、席についていた。その場面でのことだけが、なぜかしっかりと頭の中に残っている。そのお店は古くからそこで経営されていたようで、壁も、コンクリートの床も、厨房のカウンターの上の暖簾も、生ビールのポスターも、何もかもが気化した牛の脂を吸い込んでねっとりと汚れていた。足の裏の粘り付く泥沼のような感触を、なぜか今も私は特に覚えている。そんなふうにその店には、昭和の気配が色濃く残っていた。私自身その場所で、どこか懐かしい気持ちでいた。そんな場所で父も、少し気を緩めることができたのだろうか、

「もう疲れたな・・・」

 とさらりと口にした。それは実に弱々しい声だった。そんなふうにはっきりと声を出して、父が弱音を吐き出すのは初めてのことだった。ぼんやりとした瞳をあたりに泳がせながら、父はそのまま続けた。

「どないなるんやろな・・・」

 私も疲れていたし、意識はいつも飛びがちだったし、それにその先のことなんて想像する余裕すらなかったし、父の言葉に私は何も返せないでいた。すると父はまた続けた。

「もうお父さん、お金、すっからかんになりそうや。・・・」

 母の医療機器のお金のことや、それまでに父が母のためになりふり構わず叩いてきたお金のことなどで、現実の中のもっともリアルな現実問題がそこまで迫っていることを、父は初めて私に愚痴るように打ち明けた。しかしそう打ち明けられたところで、社会に出て間なしの私にはそんな父の力になれる訳もなく、ただ胸が萎縮していくような思いだった。やはり私には、何一つ言葉は浮かんでこなかった。するとまた父が続けた。

「車、買うたんも、鍼治療に通ってたんも、九州に行ってきたんも、韓国からなんやようわからへん拝み屋さんに来てもろたんも、引越ししたんも、・・・、そんなんであの病気が治るわけないんや。いろいろやってきたけどな・・・」

「せやけど、お母さん、いろいろやってもろて、調子のええ時もあったやんか・・・」

 父の言葉は、現実の酷さに萎縮する私に追い打ちを掛けてくるような哀しい言葉だった。私の言葉は、あまりにも父の言葉が哀しすぎて、あまりにも現実が悔しすぎて、つい口からこぼれただけの行き場のない虚しい言葉だった。私の尻つぼみに消えていく言葉を遮るように、父は少し声を荒げてさらに続けた。

「そんなもん、ほんの一時のことやったやろ。幸治、お前はお父さんからお母さんの病気、美佐や由美子が知らんうちに聞かされとったやろ。それでもお前はあんな祈り事みたいなもんで、お母さんの病気、すっかり治るとでも思ってたんか?信じてたんか?そんなもん全部な、お母さんの気が紛れるためだけのもんやったんや。全部はな、ただの気休めやったんや」

 私は、父の胸にあった本当のところを全部聞かされて、そして、仮の住処での父が母に注ぐ柔らかな笑顔を思い出して、何もかもが薄気味悪く感じた。もう身の周りの物事なんて全部嘘なんじゃないかという気さえしてきた。そしてそこから、何を信用すればいいのか、もうさっぱりわからなくなっていった。それまで信じていたものが全部、音を立てて崩壊していくような気分だった。そんな私に、まだ父は話し続けた。

「幸治な、よう覚えとけよ。世の中にはな、願って叶うもんと願っても叶わんもん、その2つしかないんや。神様がおるのかどうか、そんなもん誰が知ってるねん。神様がおって救ってくれるんやったら、そんなもん、世の中に病気の人も、貧乏人もおらへんはずやろ。人間の目に見えるのはな、その2つだけなんや。それを見極めながらな、ひたすら生きていかんとあかんのや」

 私は「もう止めてくれ」と叫びたい気分だった。それまで幼い頃から教えられてきた、そして素直にただ信じてきた「夢は願えば必ず叶う」だとか、「努力は裏切らない」だとかいう言葉は一体何だったのか。全部嘘だったのか。何のためにそんな嘘を信じ込まされてきたのか。そしてそんな嘘に踊らされるままに踊ってきたこれまでは一体何だったのか。急に今になって現実を広げるくらいなら、なぜそんな夢の御伽噺なんかより現実の中の現実だけを幼い頃から見せ続けてくれなかったのか。そのほうが現実に怯まない大人になることができたんじゃないのか。なぜこのタイミングで現実ばかりを全部顕にするのか。・・・。父から現実を突きつけられれば突きつけられるほど、現実に対する耐性というものが全くない自分というものをより深く思い知らされているような気分だった。そしてそのまま私は、それまでの自分の人生が全部、ただの徒労だったように思った。

 そんな私の気配に少し気を回してくれたのか、父はその後、ピタリと何も話さなくなった。そこから私たちは、黙々と箸を動かし始めた。全く味のない食事だった。

 食事を終え、お会計の時、その店の主人に、

「白紙の領収書、5枚ほどくれへんか」

 と父は無表情に話しかけた。店主は少し困った顔をして、

「こないだ、うちの知り合いのお店、困ったこと起きましてな。だいぶ前にそこのオヤジ、空の領収書、お客さんに渡しよったんですわ。そしたらそのお客さん、アホみたいな金額を書き入れて、それを経費に上げよって、それでその店も税務署に睨まれてしもて・・・」

 と話しだしたのだが、その話を途中で遮って父は、

「おれがそんなアホに見えるか?」

 と言って店主に凄んでみせた。するとその店主は、

「大将、無茶なことだけは勘弁してくださいや。頼んまっせ」

 と言いながら領収書を言われただけ、渋々父に手渡した。

「ありがとな。また来るわな」

 と言い残しながら、もう父は背中を向けて歩き出していた。そんな父が、誰よりも哀しいほどに孤独な人に見えた。

 こうして書き進めながら、病院での母のことを思い出そうとしても、そして上記のエピソード以外のことを思い出そうとしても、何一つ、私は思い出せなかった。そして母がS病院でどのくらいの期間お世話になったのかも、やはり思い出せなかった。


 関屋の実家に母が戻ってきた。恐らく1994年1月の半ば以降のことだったのだろうと思う。元気になって戻ってくるという母の夢は叶わなかった。

 母の介護ベッドは、玄関を上がってすぐ左手の和室、南の大きな窓のそばに据えられていた。それは、リビングの窓辺よりも和室のその窓辺のほうが外の景色の見晴らしがいいという父の配慮によるものだった。恐らく当日は、病院の先生、看護婦、そして医療機器商社の方など、その他にもいろんな方々とともに母は実家に戻ってきたんだと思う。しかし私は、その当日のこと、そしてそれ以降しばらくの間のことを全く覚えていない。ただ、一度だけ、実家に戻ってきた母とはっきりと目が合ったような気がする。その前年の年末に救急で奈良のK病院に運ばれた時の母と、その時の母とを較べると、全くの別人のように見えた。骨の周りに皮が張り付いているだけというほどに、母は痩せ細っていた。しかし、ガリガリに痩せた母の顔にあるその瞳だけは、K病院の集中治療室のガラス越しに見たあの時の母の瞳のままだった。真っ赤な泣きはらした瞳で、あの時のように母は、「幸治、なぁ、幸治はお母さんの気持ち、わかるやろ。こんな機械につながれたまま生きてたない。みんなに迷惑かけてまで生きてたない。お母さんはこんなん嫌や」と訴えかけてきているようだった。この記憶が実際にあったことなのかどうかも確かではないのだが、やはりその当日、恐らく一度だけ、私は母と目を合わせたような気がする。しかし、あまりにも変わり果てた母の姿が衝撃すぎて、恐らく私は時間の許す限り母のそばにいたのだろうと思うのだが、それ以降しばらくの期間、母と目を合わせた記憶が全く残っていない。その他に、父や由美子とどのように日々を暮らしていたのか、仕事はどうだったのか、母に買ってもらったギターに触れることはあったのか、そのあたりのことも何一つ記憶に残っていない。

 変わり果てた母を目にしたそんな衝撃も、時間とともに次第に薄れていったのだろう。窓の外、手の届きそうなところに植わっていた梅が咲き始めた頃、その頃からの母との記憶が、ようやく私の中に刻まれるようになっていった。

 母は24時間体制での介護が必要だった。尿の管を繋がれ、その流れが管の途中で詰まらないようにいつも気にかけていなければならなかった。呼吸器の喉に近い部分には蓋が付いていた。1時間に一度くらいはその蓋を開けて、母の喉にからんだ痰を吸引器を使って取り省かなければならなかった。母は寝返りを打つことができず、1時間に何度かは体を動かしてあげなければならなかった。全身の筋肉はなくなっていたのだが知覚神経だけははっきりしていて、母の訴える箇所をその都度摩ってあげなければならなかった。母の全身のうちで母の意思で動かすことができたのは、右手の指先、瞳、瞼、そして口だけだった。何か伝えたいことのある時、母は口を開閉して歯をカチカチ音を立てて、私たちを呼びつけるのだった。それ以外の筋肉はすべてなくなっていた。そうなってしまっていてもALSという難病の特徴の通り、母の意識だけはしっかりしていた。

 どのようにそう決まったのかは覚えていないのだが、その24時間体制での母の介護は父がその中心に立って、由美子、そして私が交代要員という、その3人のシフト制ローテーションで行われていた。私は、母が実家に戻ってきた頃からは恐らく、お昼すぎ3時頃には仕事を上がるようになっていたように思う。朝から昼間にかけては、父がずっと母のそばにへばりついていた。その間に由美子は家事、買い物を済ませ、そして食事の用意をした。そして私は仕事に出ていた。私が夕方に家に戻ってくると、父はリビングで夜になるまでしばし休憩を取る。その間母のそばには、由美子と私が交代でついていた。その後それぞれがバラバラに手早く食事を摂り、そして手早く入浴を済ませる。そして夜間は、10時頃から2時頃まで由美子、2時から5時までが私、そしてそれ以降が父という順番で母の世話をしていた。そのようにして毎日が動いていた。

 母とのコミュニケーションは、縦30cm、横40cmくらいの少し大きめな文字盤を使って行われた。母が歯をカチカチと鳴らすと、家族のうちの誰かが文字盤を母の顔の上に持ち上げる。そして母がその文字盤の上に目を走らせる。それに合わせて家族の者も指を走らせる。その指が母の求める文字のところに止まると、母は軽く瞳を閉じる。そんなふうに母の求める一文字、一文字を拾い上げていくのは、時間と根気のいる作業だった。そのようにしてどうにか組み立てられていく会話が、それでも何か明るいもの、あるいは未来のこと、あるいは本当に母が求めるものなら、いくら時間と根気を費やしたところでそれはそれで納得のいくものだったのだろうと思うのだが、ほとんどの場合、母が文字盤で訴えてくるのはその反対のことばかりだった。

「こ・ろ・し・て・く・れ」

「い・き・て・た・く・な・い」

 母はやはり、仮の住処での最後の覚悟を踏みにじられたこと、そしてK病院に担がれた時、自分のその先に対する選択の自由を全く与えられなかったこと、その2つのことが何よりも悔しかったのだろう。そしてその悔しさは、介護ベッドで横たわっているだけでは気が紛れるようなことが何一つある訳もなく、ただ膨らんでいくだけだったせいで、来る日も来る日も文字盤で同じことばかり叫び続けたのだろう。

 そんな母に対して私たちはうろたえ、戸惑い、苦しみ、苛立ち、終いには母に対して、

「何でそんなことばかり言うんや」

「そんなこと言うても、はい、わかりました、って言えるわけないやんか」

「そんなことばっかり言うたら辛いから、もう文字盤で何も話でけへんやんか」

 などと、一番辛いのは母だということを忘れて、自分たちのことばかりを考えたようなことを口にしてしまうのだった。

 今振り返れば、母にも、父にも、由美子にも、私にも、誰にも心に余裕など本当になかった。あったのは、ずっしりと重たい悔しさだけだった。あの頃、今になって思うのだが、母の置かれた状況に対して、それがたとえ嘘だったとしても、それがたとえ何の慰めにならなかったとしても、それが何のためかもわからなくても、ただ、ただ母に、「ごめんな、お母さん」という言葉だけを、ひたすらかけ続けてあげるべきだった。

 幼い頃、長家の前の路地で、転んでは擦りむいて血を流したり、飛び跳ねてはどこかに頭をぶつけてタンコブをこしらえたりと、日々何かと怪我を繰り返しては大声で泣き叫び、その声を母に精一杯聞かせ、母が飛んできてくれるのを必死で求めたものだった。そしてそんな時、いつだって母は、すぐにそんな私のそばまで飛んできてくれたものだった。そして、母は私に必ずこう言ってくれた。

「幸治、ごめんやで。なぁ、幸治、・・・。お母さん、堪忍やで、・・・。許してや、・・・。お母さんがな、幸治が怪我せんようにな、もっとそばで見ててあげなあかんかったな、・・・。ほんま、お母さん、堪忍な・・・」

 その言葉だけで、いつもすぐに痛みは忘れていたものだった。そして、いつもすぐに泣き止んでいたものだった。

 母は介護ベッドの上で、ずっと泣いていたのだ。そして、母は私たちより、ずっと弱い立場にいたのだ。

「ごめんな、お母さん。どうすることもでけへんけどな、僕らのこと許してや。堪忍やで、・・・」

 と一度でも母に話しかけてあげることができていたなら、あのような姿で実家に戻ってきた母との最後の日々は、きっともう少しマシなものになっていたのかもしれない。しかしそんなことを口にできる心の余裕すらなく、私たちの毎日は、苛立ちと悔しさとでただごてごてに転がるしかなかった。

 初夏の頃だったように思う。あまりにもひどく心許ない日々の生活ぶりに危うさを感じたのか、父は香芝市の福祉課に相談をした。その電話でのやり取りで、介護ヘルパーの方が週に2度ほど来てくれることとなった。しかしその方には数回来ていただいただけで、すぐにお断りすることとなった。というのも、母の喉の吸引作業を行う資格をその方は持っていないということだったからだ。私たちはいつも、母のそばに立つその方に遠慮しながら、吸引作業に当たらなければならなかった。それに加えて、我が家の事情を何一つ知らないその方にいつもあれやこれやと質問を投げかけられることは、ただでさえ肉体的にも精神的にも参りそうな私たちにとってのそれは、ただの煩わしさ以外の何物でもなかったからだ。一体何のための介護ヘルパーで、一体何のための資格なのか。私にはどうしてもそのあたりが理解できなかった。極論を言えば、少しひどい例えかもしれないのだが、泳ぐ資格がなければ溺れる者を救いにはいけないのかと言ってしまえばわかりやすいような気もする。どこか命と向き合うということが、職種や資格といったものの陰に隠れ、そして後回しにされているという気がした。

 その頃、次の手として父が考えたのが、家政婦を雇うということだった。そして実際に父が電話帳で調べて、問い合わせ、そしてすぐに来てもらうことになった。来てもらったその日、家族の誰もがすぐにもう無理だと諦めた。というのも、それまで母と由美子が主となって立ち続けた台所に全くの見知らぬ人が立っているという景色に、それだけで気味の悪さを感じたからだ。そして実際に料理をしていただいたのだが、それは慣れ親しんだ家の味でなくて、私たちの胃が受け付けなかったからだ。私はその食事をたった一度口にして、胃のあたりが冷たくなるのを感じた。もう無理だと諦めた。

 そのように困り果てていたところへ、親戚の中で母と一番仲のよかった父の妹、鈴江叔母さんが週に何度か顔を出してくれるようになった。そして由美子に変わって台所に立ってくれたり、父に代わって母の世話をしてくれるようになった。父の弟たち、真一叔父さん、将一叔父さんとは、母が体調を崩した頃からはなぜか我が家とは緊迫した関係がそのまま続いていたのだが、鈴江叔母さんだけはどうやら別のようだった。

「姉さん、私もな、ずっと姉さんのとこに顔を出そうって思ってたんや。せやけど、・・・、どれほど姉さんも兄さんも、由美子も幸治も、みんな大変な毎日なんやろうなって思うとな、兄さんになかなかな、どうしてるって電話もようかけて訊くこともでけへんかってん。せやけどな、こないだ、もう気になって兄さんに思い切って電話したんや。そしたら兄さん、気にせんといつでも顔出してくれたらええって言うてくれて・・・。これからはな、姉さん、うちもこうやって時々顔出すからな。ごめんやったで、ほんまに、・・・、これまで・・・、ずっと顔も出さんとな、・・・。ほんまに堪忍やで、・・・」

 母は瞼を軽く閉じることで、「わかった、わかった、ありがとう」と、鈴江叔母さんに思いを伝えていた。

 鈴江叔母さんが普通に謝ったことで、母は普通に素直だった。その後の鈴江おばさんは、週に3,4回は必ず、無理をして大阪の平野から電車を乗り継いで来てくれるようになった。私たちの前ではイライラとしながら、「こ・ろ・せ」、「い・き・て・た・く・な・い」と繰り返す母も、鈴江叔母さんの前では、もう昔のように言葉を口にして会話を楽しむことはできないのに、それなのにいつも昔のような嬉しそうな表情をしていた。そんな母の様子を目にしても私たちは、一番近くにいる家族が一番間違ったやり方で母に接していたんだということに、それでもまだ気づけないでいた。それはやはりそれまでの日々の疲れが、自分の日々の言動を省みることのできないくらいにまで、心の広大な領域を泥まみれにしていたせいだろう。


 「静」の時代に足を踏み入れた私は、その頃から少しずつ、自身の意識と行動とが上手く連動していないことに気づき始めていた。行動が、明らかに意識よりも遅れを取ることが多くなっていた。心が壊れ始めていたようだった。その頃から私は、父が、あるいは由美子が話しかけてきたことに対して、打てば響くように言葉を返したり行動に出たりすることができなくなり始めていた。どう踏ん張ってみても、目や耳に入ってきた情報に対して理解を示すのに時間が掛かり、そのことが以前にも増して父や由美子を苛立たせているようだった。そしていざ必死に返す言葉も行動も、どこか求められているものからはいつもピントがズレているようだった。そのことも、やはり父や由美子を苛立たせているようだった。自分でもそのことを奇妙に感じていた。そして自分のことを少しばかり異常だとも思っていた。しかしそれを、24時間体制で母の介護が必要だという家の中で、とてもじゃないが口にするわけにはいかなかった。私は誰にも打ち明けず、ひとりその気味悪さを抱え込んでいた。そんな私のことを父や由美子は、「気持ちがこもっていない」、「しゃんとしろ」、「何を考えているのか」、「全部、お前が悪い」、「お前はアホか」とズケズケと詰ることが激しくなっていった。傍から見ればそんな私は、いつも不安気な表情を顔に浮かべてアタフタしているだけの、ただのグズにしか映らなかったのかもしれない。母が間には入れないとなると、私はもう、直接その矢面に立たされ続ける状況に晒されるしかなかった。しかしいくらそのように晒されても、矢のように飛んでくる言葉に対しての私はやはりいつでも反応が薄かったせいか、そして意識がぼやけていたせいか、父があの時、由美子があの時、私の何を怒っていたのか、私は何一つ全く、気味の悪いほどに覚えていない。しかしいくら反応が薄くても、心がズタズタに傷ついてボロボロになっていっていたということだけは、はっきりと今も覚えている。

 そんな時がほとんどだったのだが、時には行動が先走って意識が追いつかないほどの時もあった。そんな時は、自分でも何をしでかすかわからないような変な胸騒ぎがしているのだった。例えるなら、何かが私の体に乗り移っているような感覚で、私の意識など関係なく私の体が動き出し、してしまったことに後になってはっと我に返って驚いてしまうのだった。それがいいふうに働くことも希にはあった。しかしほとんどの場合、それは悪いほうに働いた。その結果、また父と由美子に呆れられ、そして私は項垂れてしまうのだった。

 行動が意識より遅れを取るような時も、意識が行動より遅れを取る時も、どちらの時にも結局最後は、詰られ、呆れられ、私自身も項垂れた末に、その前日よりも確実に心はボロボロになっていくのだった。

 そんな不安定な私は、その夏の間に、大きな事件を2つ起こした。

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