第2話

 母が体調を崩し始めたのは1990年の秋頃だった。私はその頃、大学に通うために京都の太秦で一人暮らしをしていた。私は3回生になっていた。

その下宿のすぐそばでは、1時間のうちに数回はゴトン、ゴトンと呑気な心地のいい音を立てて、京福電鉄のチンチン電車が走っていた。近所には昔ながらの大衆食堂、お豆腐屋さん、お肉屋さん、お酒屋さん、花屋さん、銭湯などがそこら中に散らばっていた。しっとりとした情緒、そして昭和の香り漂う下町風情が何とも素敵な町だった。私の記憶の一番奥深くにある、幼かった頃に過ごした東大阪の近畿大学の裏に隠れた長屋での日々を思い起こさせる、そんなどこか心懐かしい町だった。そんな町で、実家のある奈良から離れ、自由奔放に暮らし、私は、何の形もない素敵な未来を漠然と夢見ながら青春を謳歌していた。

 そんなふうに大学時代、実家から離れた生活をしていたのだが、それ以前からもずっと、私はほとんど実家から離れた場所で暮らしていた。

 私は小学生の頃から、両親からの勧めで、習い事によく通わされた。幼稚園の年長の秋に、家族で東大阪から奈良に移り住んだのだが、その新転地で両親から書道教室に通えと言われればそうする、ソロバンに通えと言われればそうする、公文式に通えと言われればそうする、スイミングスクールに夏の間だけ通えと言われればそうする、そんな実に従順に、素直に、口答えもせずに、ニコニコと笑いながら言われたところへ通う子供だった。というのも、習い事を私に勧める時の両親が何だか楽しそうで、それに素直に応じるだけで、私まで何か胸が躍るような楽しい気持ちになれたからだった。そんな忙しく習い事に通う私だったが、成績は安定して下から数えたほうが早く、しかしそれを特に気に病むこともなく、習い事のない日はいつでも、家の裏山を駆け回っているような呑気な少年だった。

 中学に上がる直前に父の勧めを受け、いつものような軽い二つ返事で、私は大阪・帝塚山にある塾に通うことになった。入塾してわかったのだが、そこは関西でも屈指の進学系のスパルタ塾だった。私が入塾した日、大教室では300名以上の名門高校を目指す鼻息荒い新中学生が、高校で使用される数学の参考書を開いて授業を受けていた。そこで私は係りの人から、みんなが開いているのと同じ参考書を手渡された。それをとりあえず開いてみたが、算数もろくにできなかった私の目には、それは何かの極秘の暗号の羅列にしか見えなかった。算数の延長線上に数学があるとぼんやりと思っていたのだが、その参考書にはアルファベットと見たこともない記号がぎっしりと並んでいて、そのことに私は驚かされた。とんでもないところに来てしまったと少し後悔した。しかし、きっとまたいつものように両親も、私が塾通いに励むのを楽しみにしているんだろうなと思うと、やはり辞めるわけにはいかないという気持ちだった。もう腹をくくるしかなかった。

 通い始めてしばらくすると、その塾の成績トップクラスの生徒たちのうちで、プライドが高く、勉強のできない私を含めた底辺層を見下す連中のことが私はどうしても許せなかった。太刀打ちできないのは明らかだったが、それでも私は悔しくて、そして苛立っていた。足掻き倒して、あんなけったくそ悪い連中、何が何でもあいつらの足元に食らいついて、いずれは引っかき傷の一つでもつけてやる、私はそう強く心に決めた。そんな決心は塾では決して口にしなかったが、家では威勢よくそれを口走っては悔しがっていた。そんな元気に弾ける私を見て、両親はいつも本当に楽しそうだった。私は期間を設けず、納得に行くまで英語以外は勉強しないと密かに心に決めた。そして中学3年に上がる頃には、他の科目は当然のごとく散々な成績で相変わらず底辺層に所属していたのだが、英語に関してはいつでもトップ5に食い込むほどまでになっていた。密かな目標は辛うじて達成された。しかし、受験まではもうあと1年しかなかった。

 実家にいるのは、食う、寝るためだけだった。時には終電に乗り遅れて、そのまま塾に泊まり込んだ。そんな3年間を過ごしたおかげで、中学の頃からはもうほとんど実家にいることはなかった。とにかくいつも、どこにいても寝ぼけているような時代だった。時には爆睡していて、いくら母に起こされても目覚めることもなく、中学を欠席することもしばしばあった。しかし塾だけは、何が何でも休まなかった。電車で座席に座るとそのまま爆睡、そしてよく、どこか見知らぬ駅で車掌に起こされた。大阪の帝塚山に向かって、気づけば三重の名張の山奥で目覚めた時は本当に驚いた。大阪の環状線では、夕方からいつまでもぐるぐる大阪中を回り続けて、目を覚ますと終電間近の閑散とした車内、隣にヘベレケの酔っぱらいがヨダレを垂らしてとろけるように眠っているのを目にしたこともあった。そんな私に母は、中学3年の頃から、何のアンプルかはわからないが、小指ほどの小さな小瓶の頭のガラスをへし折ってそこにストローが突っ込まれたものを、起きがけにいつも手渡した。ほんのわずかな量の小瓶の中の液体をストローできゅっと吸い込むと、一瞬にして目が覚めた。一体あれは何だったのだろうか。

 そんな起きているのか寝ているのかもわからないハチャメチャな生活の末、中学3年の秋口の頃だったのだろうか、「おまえには高校に当てる内申書など書けない」と、そんなことを担任の先生に直接言われた。ひどいことを言う先生だと思った。残された道はもう私学の高校しかなかった。そう言われて、私はもう学校にはほとんど顔も出さなくなった。受験まで時間がなかった。公立高校へ行けないなら私学を目指してやれるだけやるしかない、そんな思いで、そのままズルズルと塾に泊まり込んで飯を食う、寝る以外の時間をすべて勉強に当てた。年が明け、その流れのままに、塾の受験直前合宿に参加することになった。50名近くの塾生が合宿に参加していた。合宿場は兵庫県の山奥、氷上町にあった。私は塾で紹介された岡山の私学を受験することにした。

 その高校の受験へはその合宿仲間と共に、塾が用意したバスに乗り込んで向かった。試験は3科目、英語、国語、数学のみだった。社会、科学、生物など一切勉強しなかった私にとっては有難い受験科目だった。合宿が激しすぎて、試験用紙を前にして、止めどない睡魔との戦いの中でどうにか回答を埋めていった。試験会場での昼休み、仲間の一人が見知らぬ受験生と目があったとかの何かの因縁を吹っかけて、殴り合いの喧嘩が起きた。止めに入った時には相手の左頬が腫れ、鼻血が廊下に散らばっていた。そこは試験会場である。とんでもないことだと思った。その後も予定通り試験は続いた。目を開けているのもやっとの状態のまま試験を終え、みんなでバスに乗り込んだ。試験がよくできたのか、それともそれほどできなかったのか、それすらもわからないほど眠かった。バスでは誰もが爆睡した。起こされると、外に合宿場の建物と敷地を照らす水銀燈の灯りが見えた。一瞬にして岡山の受験会場からから兵庫の合宿場に帰ってきたような不思議な気持ちで、バスの外の合宿場を眺めていたのをなぜかよく覚えている。

 その2日後、合宿場に、岡山の高校から合否結果が届けられた。「朝10時、大教室集合」の号令がかかった。私は、誰よりも先に緊張した面持ちでその教室に向かった。畳敷の大教室、折りたたみ式の長座卓が黒板を前にして横3列、後方にまでずらっと伸びていた。私にはその高校しか合格の可能性はなく、そんな気持ちの表れであろうか、迷うことなく最前列の中央に祈るような気持ちで座った。その後しばらくして、ゾロゾロと仲間たちが集合した。大教室の外、その室内をのぞき見ることのできる廊下付近には、多数のご父兄の方々が願う結果を願って集結していた。考えれば異様な雰囲気である。その日は休みだったのだろうか。私の両親もそこに混じっていた。

 右足の悪い塾長が両切りのピースの缶を右手に、数枚の書類を左手にびっこを引きながらくわえタバコでやってきた。ついにその時がやってきた。塾長を見ると顔が怒っていた。会場での喧嘩の件で怒っているのは明らかだった。もうその気配は半端じゃなかった。教壇に立って生徒たちを睨みつけながら見渡して、塾長は怒りに体を震わせながら、

「我々は、今回の合否結果、せっかくだが辞退する。もうお前たちはわかってるな。異議のある者、起立せい」

 と大声で怒鳴った。塾長はやはり、受験会場での喧嘩騒ぎのことを言っていた。場は静まり返っていた。

 先頭に陣取ったせいで後ろにいる仲間の気配がわからず、もう私にはその高校しか合格する可能性がなく、普段から何においても戸惑うことを許さない塾長の手前、私は間髪入れずにすくっと立ち上がった。

「柄本一人か、異議があるのは・・・。他にはもうおらんな」

 とつぶやいた塾長が、のそのそと私の前にやってきた。そして、

「恥を知れ」

 と大声で叫んで、大きく振りかざした右手で私の左頬をぶった。塾長はかなり小柄な方で、私よりも随分背が低かった。下からすくい上げるような平手打ちのせいで、私のメガネはきれいに持ち上がり、そのまま教室の後列あたりまで吹っ飛んでいった。ほんの一瞬、大教室がざわついた。後ろの席の誰かが私のメガネを拾って、私のところへそそくさと素早く届けてくれた。

 その後はしばらく、また鈍い沈黙が続いた。私は一人だけ座るに座れず、立ったままだった。

 塾長は教壇に戻り、無表情のままもう一度全員を見渡した。そして何もなかったように、

「合格者25名、発表する。六藤、坂本、山田、富永、六車、伊藤、・・・、柄本、・・・、中辻、梶原、・・・。以上。解散」

 と大声で、丁寧に、ひとりひとりの名前を読み上げた。その後塾長は、おもむろに教壇の上のピースの缶から一本引き抜き、そして火をつけた。

 塾長の「解散」という言葉を合図に、もう先ほどの合否辞退のお話があった頃の緊迫した雰囲気は消え去った。合格者の父兄は自分の子供のところに駆け寄って、共に喜びを分かち合い始めた。不合格の生徒たちもそれぞれの父兄のそばで共に項垂れていた。しかし、いくら合否は分たれたとしてもそこに集結していたのはお切磋琢磨しながら3年間をともに励んだ仲間、同士で、合格者側、不合格者側のどちらもがお互いを気遣いながら静かに喜び、そして静かに項垂れていた。

 私はというと、なぜか、そのまま緊張して固まったまま全く動けずにいた。私の両親もなぜか、すぐには私のもとにやってこなかった。そのまま立ち尽くし、じっと黒板を睨みつけていた。そうしながら、それまでの3年間の様々な出来事を思い出し、感慨に耽っていた。すると塾長が、咥えタバコのまま私のそばにすっと近づいてきた。そして誰にも聞こえないような小さな声で、私の耳元で、

「柄本、ようやった」

 と一言だけ残し、ピース缶と書類を手にして大教室を後にした。

 その直後、父と母が駆け寄ってきた。父は笑っていた。少し父の後ろに立つ母は泣いていた。泣きながら、時々私を見つめては微かに微笑んだ。泣いても泣いても、母の涙は止まらなかった。そんな母に釣られて私も震えた。父は私の背中に右手を回し、ポンポンと柔らかく背中を叩いたり摩ったりしながら、「ようやった」と何度か口にした。母は何も言えず、ただ泣き続けた。何度ハンカチで拭っても、その後も涙は止めどなく流れ続けた。涙を拭いては私の顔を見つめ、少し微笑んで、そしてまた俯いて泣いた。母はそんなことをただただ繰り返した。どこか懐かしさを感じる、心地のいい温かで幸せな時間だった。

 両親と共にそんなふうに過ごしていると、塾のスタッフの方がやってきて、一人で塾長室に行くようにと伝えられた。私は両親の元を離れ、塾長室に向かった。ノックをして塾長室に入ると、塾長は執務机の前に座っていた。私の顔を見るなり塾長は大きく笑った。先程とは打って変わって、塾長は鷹揚な雰囲気で私を迎えてくれた。

「柄本、おめでとう。ようやった。ほんまにようやった。おめでとう、おめでとう」

 嬉しそうに祝福の言葉を再度、改めてかけて下さった。どん底の成績からジリジリと這い上がり、負けず嫌いで、癇癪持ちで、悔しがり屋で、そのくせ気が弱く、神経質で、不器用で、バランスが悪く、・・・、そんな私を塾長はいつも気に留めてくださっていたのかもしれない。その後すぐに、塾長は私の試験成績を広げて見せてくださった。3科目、各教科100点満点中、英語92点、数学60点、国語22点、これが私の3年間の精一杯の集大成だった。ひどく偏った成績で、ギリギリぶら下がるように合格を決めたことがどこか私らしく、沸々と笑いがこみ上げてきた。どうやら塾長は、その成績を見て私と一緒に笑うことが、私を呼びつけた最大の目的のようだった。塾長にとってもその成績が私らしく映ったのだろう。塾長も本当に可笑しそうに笑っていた。

 何でもありで、やりたい放題、威勢よく元気よく、己の信じるまま、夢中に駆け抜け、その末に勝ち取った凸凹の成績の合格結果、それを私は喜びはしたが、そんなことよりも両親、そして見守り続けてくれた塾長が喜んでくれたことのほうが何十倍、いや何百倍も嬉しかった。こんなにも喜んでもらえたと思うと、塾通いを途中で諦めて投げ出さず、腐ることなく挑み続けて良かったと思った。

 今でも、その塾に入学した日に初めて目にした、大教室の大黒板の上部に掲げられた大きな額縁の中に太筆で力強く書かれていた言葉、塾の理念を時々思い出す。

「学力三分、人間七分」


 少し中学時代の話が長くなってしまった。しかし書き進めるうちに、この話の中に、私の両親や私という人間の素の姿が現れているような気がして、もう少しあっさりと描くつもりだったが、敢えてあのハチャメチャで凸凹の時代のことを思い出すままに描いてみた。両親、そして私が二人三脚で、時にフラつきながらも寄り添い合い、励まし合い、嫌なことはみんなで笑い飛ばし、協力し合い、共に前を見据えて、目出度く命を燃やして駆け抜けた時代。今も、大切なものをしまってある宝箱からその内の一つをそっと手に取って眺めるように、うっとりと、寝てるのか起きているのかもわからなかったあの素晴らしい時代を振り返ることがたまにある。

 そんなふうに中学の時からほとんど家に落ち着くこともなく、高校時代は岡山の山奥で3年間の寮生活、その後受験に失敗して予備校に通うのに京大の近く、京都・百万遍での1年間の寮生活、そして大学での一人暮らしと、それまでの約10年間、私はほとんど実家から離れて暮らしていた。離れていても、遠くで日々格闘している私のことを楽しみにしている両親の思いだけはいつも感じていたから、時に荒涼とした寂しさに襲われることがあっても、それでもいつも目の前の何かと格闘し続けていられた。そして数ヶ月に一度、実家に帰省する時には、私は山ほどの威勢のいい土産話を実家に持ち帰るのがいつも楽しみだった。本当はもう、倒れそうなくらい疲れている時もあった。それでも私の土産話に相槌をひたすら打ち続け嬉しそうにしている母を見ているだけで、疲れがどこかへ消えて行くのはいつものことだった。


 卒業して社会に出るまで残された時間が1年と少しというところまで迫ってくると、大学の仲間たちからはそれまでの浮かれ遊ぶ話題は徐々に減り始め、その先の進路についての話題が幅をきかせるようになった。もう無邪気な子供のままではいられない、そんな雰囲気を誰もが身に纏い、それぞれの志望企業の待遇や給料体系、そして業務内容について、あるいは面接のテクニックや新しい求人情報について、新大人の顔で熱く語り合うようになった。ちょうどそんな頃に、父との久しぶりの電話の話の中で、母の体調の異変について初めて聞かされた。

「お母さん、こないだな、友達と韓国へゴルフ旅行に行ったやろ。その時にな、向こうに着いたその日から右足のふくらはぎが痺れ出してな、歩くのも難儀するぐらい大変やったそうや」

「えっ、そうなん・・・?」

「それでもお母さん、ゴルフ好きやろ。無理して3日ともゴルフ回ってな。しんどうてしんどうて、そらもう大変やったらしいけど、ほんまに楽しいて、ええ旅行やったって言うてから、えらい喜んでたで」

 私はそれほど心配しなかった。その時の母の年齢はまだ50歳で、そんな若さで何か事が起こるなんてことなど、とても考えられなかった。ゴルフのやりすぎだろう、私はそのくらいにしか考えなかった。

 その5、6年ほど前に初めてゴルフを始めた母は、あっという間にゴルフにのめり込んでいった。母は何をやるにも集中力の強い人だった。始めてすぐに、母は来る日も来る日も練習と試合に明け暮れるようになっていった。徐々に実力を付け、始めてから2年も経つとコンペなどでは優勝争いにくい込むのが常となって、様々な景品を頻繁に家に持ち帰ってくるようになった。離れて暮らしていても、電話の向こうで母は、「幸治、お母さんすごいやろ」と言って、獲得した商品について、いつも嬉しそうに自慢気に話して聞かせてくれた。女性のゴルフコンペだから、男性の大会とは違って景品も女性らしかった。ヘアドライヤー、ブランド物のバッグや傘、ホットプレート、コーヒーメーカー、ゴルフ場の近所の農家さんの無農薬野菜、北海道魚介詰め合わせセット、新米30kg、・・・。そんなふうに元気よく飛び回っていた母が、まさか命に関わる病に冒されていたなんて、一ミリたりとも想像などできるはずもなかった。すぐにまた足の痺れも取れて、ゴルフボールを追いかける日々に戻っていくだろうと私は思っていた。

 美佐の婚礼の日取りがその翌年の1991年6月に決まったのは、その頃のことだったように記憶している。右足の痺れも取れないままに、母の持ち前の集中力による、美佐の婚礼準備のために忙しく奔走する日々が始まった。周りの者が母に、「休み休みしながらボチボチやったらええがな」と話しかけても、母はただ微笑んで頷くだけでまったく聞く耳を持たなかったそうだ。そうこうするうちに、母の痺れの取れない右足の筋力がジリジリと衰え始めた。それでも母は、初めての我が家の婚礼儀式という一大事ということで、その奔走ぶりを自分の体調など全く顧みない勢いでさらに加速していったそうだ。式の1週間ほど前からの母は、ずっと微熱が続いているにもかかわらず、それでも動き続けていたらしい。式の前日、私は数ヶ月ぶりに京都から奈良の実家に帰省した。父が困り果てた顔をしていた。

「幸治、お母さんな、結婚のことなんかもうええかげんにしてちょっとゆっくりせえって言っても全く聞く耳持たへんねん。しまいには微熱が出始めてもて・・・。熱が治まらへんねん。明日は式の当日やいうのに・・・」

 それをそばで聞いていた母が、

「何、大丈夫や。何も心配せんでええ。明日乗り切ったら、お母さん、しばらくは大人しく過ごして、休んでた鍼治療にもまた通い始めて・・・。そしてようなったらな、お母さんはもうそのあとは毎日ゴルフ場へ行くで。ご飯の用意なんか、もうせえへんからな。覚悟しときや」

 と笑いながら口にした。

 ついに美佐の婚礼当日の朝を迎えた。日が明ける前から母は起き出していた。私もなぜか気が高ぶって、あまり眠れなかった。そのせいで、早くから動き回る母の気配には気づいていた。1階に降りていくと母は、何かから急かされているような雰囲気で、足を引きずりながら走り回っていた。台所にいたかと思えば和室の仏壇の前、和室にいたかと思えば2階へ、そして車に積み込む荷物を抱えて階段を降りてきて玄関先へ、そこからリビングのソファへ、一瞬腰掛けたかと思うと、何か閃いた顔をしてまた2階へ、・・・。家族全員が礼服に着替え終わっても、母は走り回っていた。リビングでは、出発の準備のできた美佐が両親に最後の挨拶をしたそうな顔をしていた。しかし母は、まるでそんな美佐から追いかけられ、捕まってしまい、お決まりの挨拶をされることを嫌い、それを振り切り逃げ回るように、ひたすら走り回っていた。しびれを切らした美佐がついに母に、

「お母さん、ちょっと落ち着いて座ってよ。お願いやから挨拶だけはちゃんとさせてよ」

 と悲痛に訴えると、母はピタリと立ち止まり、美佐に向き直って、そして一気にまくし立てた。

「何が挨拶や。美佐がどこに行っても美佐はうちの子や。結婚したから言うて、他所の子になるっていうのか?いつまで経ってもお母さんが産んだうちの子なんや。英明にも向こうの家の人にもよう言うときや、お母さんがこう言ってたって・・・。嫁いで嫌なことがあったら一切我慢なんかせんとすぐ帰ってくること。ええな、わかったか。そんなこと、なんも恥ずかしいことやないんやからな。うちの子やのに、何をかしこまって挨拶や。そんなもん、する必要なんかあらへんねん」

 美佐はもう、挨拶することをすんなりと諦めた。

 私にはその日の母が、まるで表面から炎を吹き上げている真っ赤な太陽のように見えた。そしてその太陽が、家族に、そして3人の子供たちに、それまでも、その時も、そしてそれ以降も生きるエネルギーを注いでくれているんだと思った。

 家族全員で父の車に乗り込んで、式場のある神戸に向かった。なぜか、車の中では誰もが無口だった。会場のOホテルに到着した。式も無事に終わった。そして披露宴も滞りなく進んだ。そしてその最後、新郎新婦から両家の両親への挨拶が始まろうとしたその時だった。疲れ切って、微熱が続き、右足は痺れ、そのせいで立っているのもやっとの母が、来賓の方々の目に止まらないようにさりげなく、父の左袖を右手で掴んでどうにか体を支えているのを私は目にした。私はそれを目にした途端、自然に涙が溢れてきた。会場の音楽、ざわめきなど、すべての音が遠のいて聞こえなくなっていった。私は滲む瞳で、ただ母の右手だけを見ていた。それ以外は何も見えなくなっていった。胸が震えて苦しくなっていった。そのくらい何かを感じ、揺さぶられていた。

 その日一日中ホテルで過ごしていた間の母は、常に父の少し後ろで、少し伏し目がちで、一言も話さず、終始微笑みを絶やさず、ひたすら人様に対しては丁寧なお辞儀を繰り返していた。その姿は本当に美しく、どこか神々しく静かに輝いていた。柔らかく微笑んでいるように見える、雪舞う空の向こうにぼんやり浮かぶ太陽のような静かな輝きだった。

 夜になって実家に戻った。そしてその夜から母は寝込んだ。一週間もの間、ほとんど布団から抜け出すこともできなかったということを、京都に戻った私は父との電話で知った。

「なんや言うてもお母さん、あれだけ無理したんやから、そら誰だって寝込むわ。ほんまに無理のしすぎや。じっくり休んだらもうじきにようなって、またお母さん、ゴルフクラブ抱えて走り回るやろ」

 その父の言葉に、私は少し安心した。父は不意に話を変えた。

「それよりも幸治、お前は英語が好きやろ。英語を勉強する大学に入ってこれまでやってきたんやから・・・。どうや、お父さんの取引先の中村さんがアメリカのシカゴに小さな物流拠点を持ってはってな、そこで卒業したあと、2年ほど世話になってみる気はないか。お前がその気やったら、一度お父さん、中村さんに頼んでみてもええで。幸治は、小学校の時は勉強もでけへんかったのに、中学に入ってから英語だけ得意になって、そのことはお母さん、ほんまに自慢みたいやったし・・・。お母さんもきっと喜ぶで・・・」

 暗黙の了解で、私は卒業後、そのまま父の会社に入社するものだと考えていた。というのも、小学校の頃から母は、私が父と一緒に父の会社で働くのを楽しみにしていて、よくそんな遠い未来の話を聞かされていたからだ。何となくそんな心づもりで就職活動もせずにそこまで来た私は、父の新たな提案を聞いて困ったことになったと思った。幼かった頃からの私は、本当は誰よりも臆病で、神経質で、泣き虫で、淋しがり屋だった。そして、いつも威勢よく元気に振舞うことで、どうにかそれをひた隠してきた。そんな私が、家族からさらに遠く離れた、いつもの仲間にも会うこともできない、誰ひとり見知った人のいない、文化も風習も何もかも違う異国の地で一人でやっていける気などしなかったからだ。

 父の最後の言葉、「お母さんもきっと喜ぶで・・・」が殺し文句だった。昔からずっと、そしてその頃も、私には特に何かしたいという夢などなかった。強いて無理にでもしたいことを夢として挙げるならば、両親、姉たち、先生や友達など、とにかくその時にそばにいる誰かが喜んでくれることくらいだった。そんなことが何よりも一番幸せで嬉しいことだった。ずっとそれまで、それだけを追い続けて生きてきたのだった。そんな私が、「お母さんもきっと喜ぶで・・・」なんて殺し文句など聞いてしまうと、もうやはりアメリカに行かない訳にはいかない気がした。嫌でもそうする以外にはないような気分だった。私は電話を強く握りしめながら、怯えながらも努めて明るい声で、

「うん、一度アメリカ行ってみたかってん。嬉しいな。お母さん、喜ぶやろか?」

「そら喜ぶやろ。行くんやな。今晩にでもお母さんに話しとくわ」

 すべてが決まってしまった。

 卒業までに残された日が少なくなっていた。1991年の年の瀬が迫っていた。仲間たちの誰もが、もう次の春からの進路が決定していた。学生生活最後の年末年始ということで、仲間たちと気の向くままにドライブしながら年を越そうということに決まった。そう決まったと父に電話で告げると、

「ちょっとはお母さんに顔を見せに帰ってこい、正月ぐらいは・・・。絶対やぞ」

 と言うなり電話を切られた。

 私は結局、仲間たちとともに、方々旅を共にした自慢のアメリカンバイクにまたがって夜の京都、滋賀を走り回った末に、途中で仲間の集団から離れ、今にも陽が顔を出しそうな正月の明け方、京都から奈良へ縦に伸びる国道24号線を木津川を右に眺めながら南下して、久々に実家に帰省した。

 家の裏手の駐車場に着くと、駐車場に面した台所の小窓からは、その明かりが外に漏れ出していた。毎年正月には親戚が柄本家長男の父のもとに集うので、どうやら母はもうすでにひとり起き出して、台所でそのための支度を始めていたようだった。玄関に回ると、もうすでに鍵は開いていた。中に入って玄関先の姿見の鏡に自分の顔を映すと、夜通し走り回ったせいでヘルメットの中にずっと置かれていた顔は煤けていて、寝不足と冷えから肌は粉を吹いてガサガサで、目は真っ赤に充血していて、その下には分厚いクマが出来ていた。自分でもひどい顔だと思った。そんなヨレヨレの私が、朝の7時前にいきなり玄関先からリビングに入ってきたものだから、その向こうの台所にいた母はかなり驚いたようだった。それでもすぐに、蕾が一気に開いたかのように、正月にちゃんと帰ってきてくれたんだという歓びを笑みとともに、母はその顔に浮かべた。母は、「寒かったやろ、寒かったやろ」と言いながら、嬉しそうにあったかいお茶を入れてくれた。その時の一連の母の所作を見ていると、テーブル、椅子、システムキッチンの天板、壁など、常にどこかにどちらかの手で触れていた。そうしながら不自由な右足をかばい、転ばないように体を支えているようだった。その動きがあまりにも自然すぎて、そこから、美佐の婚礼以降ずっとそうやって過ごしてきたんだということが見て取れた。学生時代最後の謝恩会や、アルバム制作や、その他にも遊びに毛が生えたようなイベント事に忙しく動き回っていることを口実に、恐らくそれまでの半年の間、私は1度ほどしか帰省していなかったのかもしれなかった。一人母に対する申し訳なさが膨らんでいく私のそばで、母は久しぶりに息子が帰ってきたという喜びを前面に押し出して、腹は減ってないか、親戚が集まる前に少しでも何か食べたらどうや、それとも冷え切ったやろうからお風呂に入るか、幸治が帰ってくると思って正月の新しい下着を買っておいて良かった、疲れてそうやし先に少し横になるか、などと言いながら、とにかく母は、申し訳なさで心までヨレてしまいそうな私の世話をひたすら焼きたがった。

 このことは後で知ることになるのだが、美佐の結婚式以降の約半年、母の体調は快方に向かうことは一度もなく、父は頻繁に仕事を抜け出しては知り合いから聞きつけた評判のいい病院ならどこへでも母を連れていく、そんな日々を二人はずっと送っていたらしい。そしてそうしながら、父は母には常に明るく接して、そしていつも母を勇気づけていたらしい。どうやらそのことは母の意思で、京都で一人暮らす私の耳には入れないようにしていたそうだ。これらのことを恐らく、私はその正月の帰省時に由美子から聞いたんだと思う。その時に初めて、年末に私からかけた電話を何の挨拶もなしに「お母さんに顔を見せろ」と言い放ったきり切った、そんな父の苛立ちが理解できた。

 1992年の幕開けを実家で過ごした後に、私は京都に戻った。それからの私たちいつもの仲間は申し合わせたように、寝る間も惜しんで来る日も来る日も束になって行動した。そうやって、もうすぐ離れ離れになる淋しさを必死でどこか向こうに押しやろうとしていた。しかし束になって足掻けば足掻くほど、下宿に帰れば一人の淋しさには更にこっ酷くやられた。だからまた目が覚めれば仲間のもとへ向かう。仲間もそうで、目が覚めれば私のところへやってくる。ぐるぐるとそんな日々を繰り返しているうちに3月になった。

 3月に入って、50名ほどで信州・奥志賀へ3泊4日の最後のスキー旅行に出た。いつもの仲間うちだけのお別れの飲み会や、その他の飲み会にもお呼びがかかればすべて出席した。卒業式後のクラスの飲み会の幹事をした。奈良の免許センターで自動車免許の試験を受けてようやく取得した。お世話になったバイクショップに挨拶に行った。学食のおばちゃんと良く喋るようになった。家の近くのホカ弁屋さんのおばあちゃんのところにも、なぜか繁く通って話し込むようになった。合間を見つけてはいつもの仲間とドライブに出かけた。大学主催の謝恩会に続き、卒業生主催の謝恩会にも出席した。そうこうしてるうちに、あっという間に卒業式の日がやってきた。その夜、私が幹事を取った飲み会は河原町の居酒屋で開かれた。クラス全員が参加した。朝まで飲んだ。その途中、別の飲み会に顔を出さねばならない者、次の日から進路先の予定が入っている者、終電に乗り込まなければならない者など、一人、また一人と去っていった。そういった者と一人一人、必ず握手を交わした。そして手を振って別れた。酔の廻った瞳には、繁華街のけたたましいネオンが柔らかな黄金色に見えた。そして去っていく者の背中がその輝かしい光の先の未来に溶け込んでいくように見えた。別れは淋しくもあったが、その景色を何度も見る度に、幸せな気持ちにもなった。

 その次の日、いつもの仲間10名ほどで最後のドライブに出た。夜通し、それまで走ってきた道を振り返るように車とバイクで走り回った。朝一番に北野天満宮にやって来た。もういつもの道はすべて走り終えていた。鳥居の前の広いスペースに車とバイクを並べて、それぞれの愛車の脇に寄りかかっての全体写真を撮った。そこで仲間と最後の別れをした。淋しさは拭い切れなかったが、どこかやり切った気持ちでいた。誰もがさっぱりとした顔をしていた。

 下宿に帰って荷造りを始めた。昼過ぎに父が会社の2tトラックで迎えに来てくれた。荷物を積み込み、大家さんに鍵を返した。そしてトラックの助手席に乗り込んだ。トラックが動き出した。父のそばで車窓から外の景色を眺めていた。すると、いつもとは勝手が違うからなのか、昨日まで自分の町だった京都の町が遠い昔の思い出の町に見えた。下宿のすぐそばの大衆食堂、お豆腐屋さん、お肉屋さん、お酒屋さん、花屋さん、銭湯、いつものカフェ、いつものカラオケ屋、いつもの居酒屋、いつものコンビニ、・・・。流れ去っていくいつもの店には顔なじみの店員さんが今日も働いているはずなのに、もう誰も見知った人のいない店に見えた。京都が確実に私から遠のき始めていた。もうもはや、自分の町ではなかった。京都南インターから名神高速に入る頃、突然激しい睡魔が襲ってきた。落ちていく意識の中で私は、アメリカに行って早くそこでの生活に馴染まないといけないと思った。

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