第21話
北海道を旅する前と後とを較べると現実の生活は何も変わらなかった。すべてはもとのままだった。父とは特に口を利くこともなかった。姉たちともそうだった。どうやら私は、北海道で夢のような時間に浸りすぎたのかもしれなかった。私だけが大きく変わってしまったようだった。
北海道で手にしたものがあまりにも大きすぎたのかもしれなかった。一人切りの旅でいろんなことを感じ、いろんなことを考え、そしていろんな自分なりの納得いく答えを出し続けるうちに、どうやら私はふわりと現実から浮かび上がってしまったようだった。私が奈良に戻ってから「普通」と感じることは、家族の者や街の人からすれば「異常」と映っているようだった。そして私が「異常」と感じることのすべてはその逆に、周りの人からすれば至って「普通」のことのようだった。
そう気づいての私は、浮かび上がった場所から慌てて意図的に「静」の中に滑り込んでいった。そうすることで気配さえ薄めれば、どうにか攻撃されることもなく居場所だけは確保できると思ってのことだった。そしてその場所で、私は北海道で手にしたものをひっそりと守り通すつもりでいた。しかしその場所では、次の春の雪解けの北の大地で富良野のお父さんとお母さんが「頑張れ」と言いながら手を振って笑っていてくれたし、また旭岳の雪の頂きの空でも母が私の帰ってくるのを楽しみに待っていてくれたものだから、ただ嬉しくて、私はピタリとそこに留まるようになってしまった。帰りの機内で早く夢から目覚めなければならないと意識はしたはずだったものの、私は逆に、一気に夢のもっと深みへ、「静」のもっと奥のほうへと滑り落ちていってしまった。
それでいて私は、孤独な現実の日々の中で、父に認めてもらえるくらい仕事のできる人間に憧れるということだけは手放さなかった。それだけはやはり、どうしても私には手放せなかった。手放すようなことをすれば、私という人間がまるで糸の切れた凧のように街の風に吹き上げられて、揉みくちゃにされるうちに消えてしまうんじゃないかと、無意識のうちに恐れていたんだと思う。
「静」の場所から現実にしがみついている中で、「私の意識が真っ二つに割れていっている」という奇妙な違和感を私は敏感に察知していた。しかしそれを認めてしまうのが怖くて、つまりは認めてしまうということは自分のことを「異常」だと自身に判断を下すことのような気がして、ほとんどそこに意識を向けないままに過ごしていると、私の中で夢と現実との境界がなくなり始めた。そうなってからの私の中は、時間概念、空間概念、そこに散りばめられた記憶、現実、未来への夢や希望など、あらゆるすべてのものが混沌とした状態で雑然と散らばり始めた。
そうなってしまってからは、私は目の前の物事に全く集中できなくなっていった。例えば、仕事の生産予定の計画を立てている時、頭の中ではウッディライフの窓からの景色が広がり始め、それに引き連れられるように様々な色、匂い、そして言葉やメロディなどが同時に浮かんでくるようになった。それらを押しやろうにも私にはそれらがあまりにも自然すぎて、そしてあまりにもリアル過ぎて、私はそうする気力さえ沸き起こらないのがいつものことだった。そうなってしまえば計算機を前にして何の計算をしていたのかもさっぱりわからなくなり、諦めては呆けたままの時間がただ流れ去り、結局はしなければならない仕事をこなせなくなって、月に一度くらいは休日出勤をしてまでどうにかそれを片付けるようになった。またその逆もあった。仕事を終えてから家に帰ってきてギターを弾いている時に、生産予定の数字が突然頭の中で自動的に整理され始め、もうそれは事務所でいくら計算機を叩いて頭を抱え込んだとしてもはじき出せないほどほぼ完璧な生産計画で、私はいつも持ち歩いていたメモ帳に慌ててその閃きを書き記したりすることもあった。仕事でも家でも起こるそのようなことは、私自身が私の意識を全く自由に操ることのできないような状態で、まるで何かが私に乗り移ってそれに弄ばれているような気分だった。
そんな時期がしばらく続くと、今度は目の前の物事にまっすぐに集中できるような時期も稀に訪れた。それはいつも突然やってきた。その時期が来ると、頭の中には集中できないで苦しんでいた時期の記憶が鮮明に残っていたものだから、私は執拗なまでに集中することに意識を燃やした。そんな時期の仕事のはかどり具合は凄まじいものだった。またそんな時期のギターを弾いている時間は身も心も真っ赤に燃えていた。何一つ邪魔なものは頭には浮かんでこなくて、簡単にイメージを形にすることができた。しかしいつもその激しい時期が過ぎ去ると、その反動はひどいものだった。完全な無気力状態に陥った。日々をどうにか動き回っているだけのゾンビのような状態になった。
しかし私がどのような状態であれ、結局は私の仕事に関しては傍から見れば、それは確実な結果を残し続け、成果を上げ続け、そして将来も安泰と傍を信じさせるようなものだったのだろう。ものを言わない専務がまた社長である父に私の昇給を提案したようだった。私の知らないうちにそうなっていた。確か夏頃のことだったように思う。北海道から戻って、すっかり現実に塗れ、旅の中で蓄えたエネルギーをすっかり使い果たして、意識が自分の中でバラバラに散らばった状態にすでになっていた頃だった。給与明細を取り出してその額面を見ても、私は何も感じなかった。他人事のようだった。私は完全に壊れていたのだった。
そのせいで、旅を終えてから以降の私の記憶はあまり定かではない。そしてまた現実の中で起きた出来事が本当にあったことなのか、そしていつのことだったのかもあまり定かではない。自分が自分でないような日々をずっと送っていた訳だから、そのことを当然のことのように今は思っている。そんな感じなのだが、それでもいくつかの父、そして姉たちとの間の出来事は頭に残っている。不鮮明ながらもそれらを思いつくままに書き進めていこうと思う。書き進めるうちに、頭の中で鮮明に思い出されてくるかもしれない。
北海道から奈良に戻って数日後に、私は仕事の配達途中に大きな文房具店に立ち寄った。そこで私はB5サイズのいろんな色の紙を買った。それを家に持ち帰り、それまで書き綴ってきた詩の一つ一つをワープロに打ち込んでは、その詩のイメージに合う色の紙を慎重に選んでそこにプリントした。そして同サイズのクリアファイルにそれらを差し込み、一冊の詩集みたいなものをまとめた。北海道のお父さんとお母さんに読んでもらいたくて、私は5月のうちにそれを富良野に送った。また少し心のふるさととのつながりが太くなった気がして、私は幸せな気持ちだった。
それを納得のいく形でやり終えると、家にいる時の私は、旅をする前と変わらず部屋にこもってとにかくギターばかりを弾いていた。6月のある日のことだった。ビールを飲んでタバコを吸いながらギターを弾いていると、いつも決まったコードばかり押さえているのが嫌になってきて、ふとデタラメな感じで弦を押さえてみた。すると夢への導線のような音が鳴った。そのコードの響きは初めての耳にする響きで、そして美しかった。それはいとも簡単に私をふわりと浮かび上がらせ、そのまま私の手を引っ張った。私は手を引かれるままに素直にそれに続いた。気がつけば、10分もしないうちに一つの曲がまとまっていた。その後うっとりとその曲を弾きながら小声で呟くように歌っていると、頭の中が白むほどの眩い光が差し込んできた。そこに言葉が次々に浮かびだした。私はそばにあったノートを開いて、そこにその言葉を書き付けていった。自分が書いている感覚などなかった。夢中に書き付けているうちに、10分もしないうちに詩の原型ができあがっていた。眩く白むほどのその光の景色から発想を得て、私はそのタイトルを”HEAVEN”とした。
HEAVEN
誰かが遠くで僕を呼んでる
深い呼吸の眠りのなか
導かれるように歩き続けて
いつかたどり着く場所
誰かが遠くで君を待ってる
光あふれる夢のほとりで
照らされるままに歩き続けて
いつかたどり着く場所
ほつれた記憶を指で解いて
少しずつ近づいていく
限りあるものは置き去りにして
少しずつ近づいていく
大きな翼に身体ゆだねて
少しずつ近づいていける
心静かに感じるままに
少しずつ近づいていける
いつかはきっと
あなたとその場所で・・・
その頃はそんな調子でスイッチが一度入ってしまえば、短時間のうちに心に浮かぶ景色をメロディーと言葉にするなんてことは私にすれば何でもないことだった。
仕事に関してはやりかけの目標、つまりは徹底的に効率的な生産ラインコントロールの役割を担う人材になるんだという目標、それに向けて私は再度尽力を注ぎ始めた。第二工場のねじ切りラインには自動ねじ切り機が30台以上並んでいた。その1台1台にはそれぞれ癖があって、生産能力の多少のバラツキがあった。1分間に90個のネジを加工する機械もあれば85個の生産能力しか持たない機械もあった。5個の違いを日産で考えると3,000個、月産で考えると70,000個、それがもし10台の機械が生産能力の劣った機械だとすれば、月間700,000個の計算の狂いが生じるということになる。ということは計算上それは、2ヶ月に一度丸1日の生産予定の狂いが生じるということだった。そのせいで得意先の納期を遅らせるわけには行かなかったし、自身の役割を果たそうとする上で現場の従業員の永谷を始め、その他の者に休日出勤をさせてまで穴を埋めてもらう訳にはいかなかった。私は機械1台1台の特性をすべて調べ上げ、生産予定の精度を高めにかかった。そんな日々の中で永谷が、
「お前はそんなふうに調べ回って、それがなんの役に立つって言うねん。製造業は品質が命やろ」
などと憎々しく言いながら詰め寄ってくることが何度もあった。永谷には、メーカーがシビアに納期管理をしなければならない時代になっているという意識など全くなかったようだった。ただいい商品を生産することだけをメーカーの仕事だと、昔のままに信じ込んでいたようだった。私はそう言われても聞かぬフリをして、何一つ返事も返さなかった。永谷との関係は悪くなる一方だった。
本社工場の高速圧造機10台の生産能力調査に関しては、ねじ切り工程のそれを一度経験したおかげで私は比較的スムーズにそれを完了することができた。そのようにして私は、社内の生産の数字面での全体的な流れに関してはほぼ把握できているようになった。そして夏頃までには、生産業としては大元の業務である鉄線材料の2トンコイルの発注を担当する専務に、生産の遅れが生じそうな商品がある時には意見をするようになっていた。
しかしそのように結果を出し続けていたとは言っても、私の意識はもうすでに狂い出していて、ひんやりとした緊張感を持ってどうにか細い綱の上を渡っているような危うい毎日だった。いつもビクビクしながら過ごしていた。振り切ろうとしても消えない景色の色、メロディー、言葉などがいつも頭の領域の大部分を占領していた。そのせいで仕事に夢中になって打ち込めるはずもなく、どうにか仕事をこなすことと自身の役割を果たすだけで心身が日々磨り減っているのがいつも私にはよくわかっていた。しかし泣き言を聞いてくれる人など、私の周りには誰もいなかった。私には、逃げ道がなかった。
商品の平均単価は1円前後だった。中には40銭ほどの商品もあった。今なら40銭の商品を100,000個売れば40,000円の売上で、そのお金があれば何ができるかと想像することも容易にできるのだが、あの頃にはそんな簡単な売上の計算を計算機を叩かなければできないほどに、そしてその計算機ではじき出された売上が何ものかも理解できないほどに私の頭の働きは鈍っていた。あの頃の後遺症が今でも残っている。数字を見ると変に緊張し、どう扱えばいいのか、そしてどう理解すればいいのか、今でも困り果ててしまう。
時々は、事務机の前で椅子に腰をかけてその背もたれに全身を預けた父から、不意に私は直近の受注状況について問われることがあった。ある日のことだった。
「最近はどないや?貿易の仕事は入って来てるんか?」
貿易の仕事というのは、商社を通じての海外、主に東南アジアの日本の自動車メーカーの下請けに流れていく、月に一度あるかないかの単発的な、生産を活気づかせ売上を一気に押し上げる、そんなありがたい仕事だった。父が知りたいのは売上金額だった。私がぎりぎりどうにか把握しているのは、それをうまくラインに挟み込む生産計画だけだった。私の中では、生産と売上は完全に分離したものだった。私は父にそう問われて、
「Tコーポから大口が来てるで」
とドキドキしながら答えた。
「それ、なんぼになるんや?」
と父が売上を訊いてきた。私は慌てて注文書を開いてそれに答えようとすると、
「お前はそんなんもわかってないんか」
と呆れ顔で詰られた。そしてぼそっと、
「大学まで出してやったのに・・・」
と吐き捨てるように呟いた。
そんなことが何度もあった。ただでさえ精神状態が壊れ始めている中で仕事だけは手放さないでいようと踏ん張っていた私だったのだが、そんなことが何度も続くと緊張のあまりに、金銭に対する意識と生産に対する意識とが私の中で益々噛み合わなくなっていった。私は自分のことを「使えない人間」、「役立たず」と思うようになり、益々塞ぎ込んでいった。
そうなれば仕事を終えて家に帰っても、父と顔を合わすということが以前にも増してひどい苦痛となっていった。家に帰って来て、地下の駐車場からリビングに上がっていく足取りが重くなった。私は毎晩必ず家の近くの自動販売機でビールを買うようになった。そしてその量は次第に増えていった。
夏頃に、すでに上記したことなのだが、ボンと音を立てるようにまた給料が上がった。何の感動も沸かなかった。家に帰ってきてから、とりあえずはテレビの前の父に、
「ありがとう、・・・、またお給料を上げてもろて・・・」
と口にした。それに対して父は、
「専務が、幸治が頑張ってるってえらい褒めとったぞ。その調子でいけよ」
とだけ言った。私には、その調子の先に見えるものは幸せな日々ではなかった。心身ともに磨り減らしたボロ雑巾のような私の姿だった。
父は、月に一度くらいはどこかにゴルフ旅行に出かけた。あの頃の私はそんな父のことを、「言いたいだけ言って息子がボロボロになっているのを気にも止めず、仕事にもろくに顔を出さず、いい気なもんだ」と思いながらも、父がいなくなればその家に姉たちからも連絡も入らない、そんなひとりの静かな状況をありがたく貪るように味わって過ごしていた。
会社にいることも、家にいることも、家族のことも、自分のことも、私はもう何もかもが嫌になり始めた。そしてもう何もかも信用してなどいなかった。そのすべての嫌気を蹴散らすように、私の生活は7月頃から荒れていった。もうほとんど自棄糞だった。北海道が心のふるさとだとは言っても、そう簡単に帰っていけるはずもない。自分の外にも中にも安心できる居場所もない。鬱々とした気分の私は、救いを、学生時代の仲間で関西に暮らす者たちに求めるようになっていった。そして私は平日も週末も全く家にいつかないようになった。
ほとんどの週末を私は学生時代の仲間と梅田や難波で過ごすようになった。しかしいくら親しい昔の仲間と会うと言っても、歯を食いしばるような毎日を過ごす私には、そう簡単に日々の緊張を緩めることもできなければ気分を入れ替えることもできなかった。もうすでに私は、素面のままで仲間に会うことさえも怯えるようになっていた。昔の仲間に会うのは嬉しいはずなのにその約束の日は朝からそわそわして、そしてドキドキして、そのために私は仲間との待ち合わせ場所に2時間も早く出向いてはその附近のお店で強い酒を2、3杯ほど引っ掛けるようになった。素面の緊張した面持ちで昔の仲間に会うのはなぜか絶対に嫌だったからだった。そして、どこにいても緊張ばかりしている自分も嫌だったからだった。そうすることでほんの少しは緊張は緩んだ。
待ち合わせ場所に仲間がやってくると、酒の入った私はまだ素面の仲間と一緒にいるのが嫌で、すぐに腹が減ったなどと適当な理由を並べては仲間をすぐ近くの居酒屋に連れ込んだ。そして仲間が少し酔いの回った頃になって、私も少し安心し始めるのだった。その後はいつもベロベロになるまで酔っ払った。居酒屋で景気よく飲んで、カラオケでバカ騒ぎをして、それで一時でも気が紛れるならそれほどありがたいことはなかった。仲間はきっと楽しげに酒をあおる私を見て、学生時代の活発で陽気な私のままだと信じていたに違いない。しかし本当の私は、ただ早く酔いが回ること、気分が酒の力で高揚すること、そしてその中で気が紛れることをばかりを求めていて、決してそれは活発でも陽気でもなく、ただの自棄糞でしかなかった。あの頃の酒の席で仲間たちと何を話していたかなんて、今では何一つ覚えていない。必死で激しく飲み続け、終いには終電を逃してしまうこともしばしばあった。そんな時は、サウナの仮眠室で一人見知らぬ人に混じって夜を明かすこともあった。その時の孤独感は惨めなものだった。
学生時代の仲間との付き合いを重ねるうちに、仲間の紹介で女性との出会いも増えていった。そして今ではその女性の名前さえも覚えていない、その程度の短い期間の浅いお付き合いをいくつも立て続けに重ねた。当然の流れでそれらの女性ともデートをした。しかしデートの時には酒が入っていない訳だから、それらの女性からすれば私は決して初めて出会った酒の席での陽気な私ではなく、恐らく相当幻滅させたことだろうと思う。その後の女性との関係は、私自身がそんな自分に嫌気がさして女性を遠ざけることもあったが、何となく自然消滅することのほうが多かった。しかし中には、そんな私の悲しく重い気配に心くすぐられたのか、保護者のようにいつもそばにいてくれるようになる女性もいた。しかしそんなふうに保護されるように扱われると、居心地がいいというよりは逆に余計に惨めな気分になって、そんな女性から私は逃げるように離れていくこともあった。どのような場合でも、すべては何も信用できなくなっていた私の心の責任であったように思う。
その年は学生時代の仲間たちの結婚が続いた。仙台、東京、京都、大阪、神戸、岡山など、私は声がかかればどこへでも飛んでいった。結婚する仲間たちは式のひと月ほど前に必ず電話をかけてきて、
「柄本、曲を作ってくれや」
とお願いしてきた。そうお願いされることは私にとって素直に嬉しいことだった。それは、仲間が私の素のところを理解してくれていて、そしてそこを当てにしてくれているということだったからだ。
「よっしゃ、ええのん作るわな」
私は母が買ってくれたギターを抱えて、新幹線に乗って方々に出向いた。
披露宴では余興なんてものは最後のほうで、それまでの長時間、いつだって酒を引っ掛けなければやってられない私は緊張のあまり、運ばれてくる料理には全く手も付けずにいつだってひたすら酒を飲み続けるのだった。司会者から名前を呼ばれるとふらふらと立ち上がり、軽く気分のいいままにステージに向かうのだが、ステージに上がれば上がったでふと酔いも覚めて、新郎新婦にはおどおどとやっとの思いでお決まりの
「この度はおめでとうございます。末永くお幸せに・・・」
という以外にはろくな挨拶もできず、それでもどうにか「心を込めて歌います」なんてことを口にして、緊張を蹴散らすように大声で歌ってそそくさと引き下がるのだった。その後は2次会、3次会と場所を変え、いつもの調子で必死に元気よく飲み続けて、気づけばいつも用意してくれていたホテルの部屋で目を覚ますのだった。そして目覚めてから、どこで目覚めても酒の残っている自分に嫌気がさしながらも式の翌日ということで、「自分には昨日の新郎新婦のような朗らかな幸せが訪れるのだろうか」なんてことをふとぼんやりと考えたりもするのだが、そんな夢のような未来なんて私には一切想像ができないでいた。
そんなふうに、どこにいてもやっていることは同じだった。酒を飲んで気を紛らわせてくれるなら何だっていいから、勢いよくその中に飛び込んでいくような荒れた生活のリズムが私の「普通」になっていた。
そのくらい生活が荒れていたのだが、秋頃にはもう私は、そんな気を紛らわせてくれると信じていた毎日にさえ次第に手応えをなくし始めていた。すべてが虚しくて、すべてが悲しかった。何かを起こさなければならないとジリジリと焦り始めていた。そしてこのままでは本当に駄目になると思い始めていた。ほかの誰でもない、ただ母に対してだけは申し訳なく思っていた。しかし私にはもう、何一ついい考えも浮かんで来なかった。
そんなある日のことだった。いつものように昔の仲間と難波で激しく飲んで、最終電車にどうにか間に合いそうだったから、私は難波駅から近鉄電車に飛び乗った。折り返し駅である難波駅からの路線は近鉄奈良線で、私の実家の最寄り駅の五位堂駅に向かうには、その3つ先の鶴橋駅で向かいのホームの近鉄大阪線に乗り換えなければならなかった。鶴橋駅の1番線に私を乗せた電車が滑り込んでいった。私はそこで電車を降りて、向かいの2番線にやってくる大阪線の区間快速の電車を待った。
鶴橋駅は1階が改札口と通路になっていて、2階には近鉄電車のプラットホームが東西に、そして3階にはJR大阪環状線のプラットホームが南北に伸びていた。2階の近鉄線と3階のJR環状線とは、利便性よく3階の連絡改札口を利用することで乗り継ぐことができた。終電の時刻が迫る頃からは、多くの乗客が近鉄電車に乗り込んで奈良方面に帰っていくために3階から2階に下りてくる。私が鶴橋駅に着いてから区間快速の電車を待っている時もそうだった。その連絡階段の附近に立っていると、数分おきに酒臭い人波がどっとなだれ込んできた。しかし五位堂駅に到着してからのことを考えると、私はその辺りから電車に乗り込まなければならなかった。というのも、そうすることで五位堂駅に着いた時、改札に向かう階段のそばで電車を降りることができるからだった。そしてうまくいけば、五位堂駅で改札を一番に抜けて、駅前で列に並ぶことなく一番にタクシー乗り込むことができるからだった。
電車を待っている間、私はなぜか昔の鶴橋駅をふと思い出した。私が中学の3年間、塾の受験合宿に参加する直前までは、私は大阪の帝塚山の塾からの帰り、毎日人波に混じって環状線から階段を駆け下りてきて2番線に滑り込んできた電車に飛び乗ったものだった。ほとんどの場合はうまく飛び乗ることができた。しかしたまに飛び乗ることができず、仕方なく次の最終の各駅停車の電車に乗って時間をかけて帰らなければならなかった。私はふと、鶴橋駅も昔に較べると小ぎれいになったものだと思った。私は、あの昔のドロドロに汚かった頃の鶴橋駅が好きだった。
今もそうだが、あの頃も1階の改札を抜けた辺りにはコリアンタウンが広がっていた。高架下辺りには迷路のような細い路地が入り組み、そこには様々な韓国のお惣菜屋さんが軒を連ねていた。そして高架を避けた辺りには、恐らく戦後にその辺りで闇市露天商を始めて財を成した者が開業したのであろう焼肉店のビルがいくつも立ち並んでいた。そのせいで夕方から終電にかけての時間帯は、駅構内には焼肉の匂い、気化した脂、そして煙がいつも漂っていた。あの頃は恐らくどの焼肉店でも、換気に気を配ることなくそのまま外に煙を撒き散らしていたんだろうと思う。そしてそのピークの時間帯以外も、駅はどことなく臭っていたものだった。
あの頃の終電間際のプラットホーム上には、鶴橋で焼肉をあてに酒を飲んできた大人たち、その他に大阪のあちらこちらで酒を飲んできた大人たちなど大勢が、ぼんやりとだらしない姿で好き勝手に散らばっていた。ネクタイを緩め首元を開けている人、プラットホームの屋根を支える鉄骨に向かって喧嘩を売っている人、呆けたように線路上の細長い空を眺めている人、自動販売機の側面の壁に凭れて地べたに座り込んで項垂れている人、訳のわからないことを叫びながらポケットの小銭を線路に向かって思いっきり放り投げる人、喉を鳴らしてはずっと痰を吐き続ける人、激しく嘔吐して駅員さんに介抱されている人など、今の時代では考えられないような元気よくだらしない「昭和」の大人たちがそこにいた。
そんな大人たちのほとんど皆はタバコを吸っていた。駅構内には床に置く背の高い灰皿も置いてあったし、鉄骨の柱には灰皿としていくつもの空き缶が針金でくくりつけてあった。しかしそんなものは何の役にも立たなかった。いつそれに目をやってもそれは溢れかえっていて、もう灰皿の役目を到底果たせないような状態だったからだった。大人たちも大人たちでそんな灰皿など当てにはしていなかった。プラットホームの床に吸殻を放り投げて足で踏み消す人もいれば、線路に堂々と放り投げる人もいた。駅員さんの仕事といえば、当然電車発着時のアナウンスと安全確認なのだが、駅員さんを見ているとその人の業務内容はまるで掃除係のようだった。小さな箒と蓋付きの塵取りを持って、電車のいないうちはひたすらプラットホーム上の吸殻を掃き集めていた。駅員さんは駅員さんでそれが普段の通りのことだったからだろうと思うのだが、不服そうな顔をする人を見かけたことはなかった。ひどい人になると駅員さんの真横で吸い殻を捨てる人もいた。地面に落ちたすぐさまから駅員さんがそれを掃き取ると、捨てた人は駅員さんに何かを言いながら笑いかけ、駅員さんもそれに笑い返していた。すべてがそれでうまく回っていた。
そんな訳であの頃の終電間際のプラットホーム上は、焼肉の匂いと気化した脂、そしてその煙、その上にタバコの煙までが合わさっていつでも真っ白だった。そして様々な臭いの混ざり合った異臭がいつも充満していた。そんな状況が何十年も続いてきた訳だから駅構内の床、壁、手すりなどありとあらゆるものが粘ついていて、すべては黒や黄色の混じった褐色の膜のようなもので薄く覆われていた。足を一歩踏み出す度に靴底に地面がねっとりとへばりついているのがよくわかるくらいだった。そのくらい昔の鶴橋駅はひどく汚れた駅だった。
しかし私はそんな汚れた駅が好きだった。そしてそこにいる大人たちも好きだった。煙や異臭が充満していようが、大人たちがどれだけだらしない姿を晒していようが、そこには人間の命の勢い、そばにいる者同士文句ひとつ言い合うでもなく許し合っているような懐の深さ、そして素の姿をせめて夜くらいは顕にしようとした末に深く酔ってしまった大人たちの縛りのない自由さと可愛らしさなどが広がっていた。中学生だった頃の私は言葉にならないほどの意識の中で、恐らく、周りの様子に目をやりながらそんな感想を持っていたんだと思う。
10年以上の歳月が流れ去って昔を思い出しながら改めて駅構内を見渡していると、随分と小ぎれいになって寂しい気がしたのと同時に、私の中に行き場のない怒りが沸き上がってきた。床は10cm角のつるりとしたタイルが貼り付けてあった。壁は真っ白なつるりとした化粧板が張り巡らされていた。鉄骨の柱は真っ白の塗装が塗りたくられていた。灰皿は全部撤収されていた。プラットホームにも線路にも吸殻はひとつも落ちていなかった。駅員さんはもう箒を握っていなかった。だらしなく酔いに揺れる大人の姿も、訳のわからないことを叫んでいる大人の姿もなかった。確かに小ぎれいにはなった。異臭もなければ焼肉の煙も薄まったようだった。しかし臭いをなくし、命の気配も懐の深さも可愛らしさも薄まり、私にはそこからは冷たいものしか感じられなかった。先人に対して敬意を払って過去が葬られることもなく、時代の勢いに任せるままに息苦しいつるりとしたものにあの頃の何もかもが一気に覆い隠され、その裏側から先人の怒りの声が聞こえているような気がした。そして誰も覆い隠された怒りの声に気づかないまま、何もなかったような顔をして、つるりと化粧されたそんな場所で上品ぶっているような気がした。
電車を待っていた私は、何で読んだのかは忘れたが、街にカラスが集まり、それを害鳥ということで駆除することに躍起になり排除した結果、カラスに変わる別の害獣が住み着くようになったという記事があったのを思い出した。何十年も続いたあの頃をきれいに排除したつもりでいい気になっていても、それに代わる何かが人の知らないところで、人の手には負えないほどの強力な生命力を持って生まれ、そしてその姿をまさに今現そうとしているような気がした。汚いもの、害のあるものと決めつけてはそれを排除するという車輪を転がしだしたものだから、もうそれを転がしだした者たち、そしてそのそばでいい気になって暮らす者たちは、終わりなく続く排除活動にうなされるようになって疲弊するまでそれを止めることができないんだろうと思った。しかし、何もかもがつるりときれいになっていくことを幸せだと時代は信じているんだろうから、自分とは噛み合うはずがないと思った。
それが「平成」の時代だとしたら、「昭和」を心に生きると決意した私にとっては息苦しい時代だということは明らかなことだった。私は周りを見渡した。誰もが小ぎれいに着飾っていることに、そして公共の場をわきまえて体裁を保っていることに、悦に浸っているように見えた。立派なもんだと思ってうんざりして、私はわざと音を立てて、喉の奥に溜まっていた飲酒後の粘りついた痰をタイルの上に思いっきり吐き捨ててやった。私の周りの数人が私を睨んだ。私は、ざまあみやがれと思った。そしてすぐに、そんな自分にがっかりした。
その時だった。私の前に電車が滑り込んできた。それは快速急行で、私が乗り込む電車ではなかった、その電車は鶴橋を出ると、次の停車駅は大和高田だった。私はふと、大和高田に住む上島のことを「元気で願う場所で暮らしているだろうか」と思った。そして私は、やはりあいつのことを誰よりも愛していたんだと、数年前のあいつとの日々をぼんやりと思い返した。いくら思い返したころで、それは私が壊してしまった恋だった。どうしようもないことだった。また私は、みっともない日々を過ごしている自分のことを、とてもあいつには見せれないとも思った。急にひどく気分が落ち込んでいった。その時に、環状線からの人波が2階になだれ込んできた。そのなだれ込んできた人波のほとんどが、停車して扉を開いたばかりのその電車の中にそのまま流れ込んでいった。扉が閉まるというアナウンスを聞いて、私はなぜかふと顔を上げた。すると、目の前に上島が立っていた。上島は驚いた顔をした。そして緊張した表情のままに小声で、
「柄本くん、・・・」
と言った。そして右手を胸元に上げて、それを微かに振ろうとした。ほんの一瞬、私は上島の顔をしっかりと見つめた。ほんの一瞬だけだった。かなり驚いていたようだったが、どことなく幸せの満ちた顔をしていた。願う場所に落ち着いているように見受けられた。私はホッとした。そしてすぐに、私は上島に全く気づいていないふりをして目を逸らした。それは、幸せそうな上島の邪魔になりたくないというという思いと、私自身の全身からみっともなさが滲み出ているような気がしてそんな姿でいつまでも顔を合わせていたくないという思いからだった。そして後すぐに、目の前の扉は音を立てて閉まった。
彼女を乗せた電車が動き出し、次第に遠ざかっていった。私は自分自身に、「それでよかったんだ」と何度も言い聞かせた。彼女は時代の移ろいにうまく順応し、そして彼女自身の願う場所で「平成」の顔をして過ごしてるんだと思った。またそんな彼女でも、私のよく知る彼女のことだから、人には見せない深い場所で密かに「昭和」を抱きしめながら日々を渡り歩いているようにも思った。私だけが「昭和」、「昭和」と拘ってみせているのがどこか間違っているような気がした。しかし、「平成」、「平成」と派手に踊っている人のこともどこか間違っている気がした。その夜、ちらっと目にした上島だけが、なぜか私は正しいような気がした。
その頃のことだったと思う。父は恐らく、北海道から帰ってきてからそれまで何一つ私に意見をしてくることもなかったのだが、思うように事の運べない私のことを心配し、そして痺れを切らしていたのだろう。父は、夕飯を一人黙々と食べる私に静かに話しかけてきた。
「あのな、幸治、・・・、物事を難しい考えんと、気楽にやれよ。どうも幸治のこと見てたらな、人が何を考えて、何を思って、何をするんも自由やけどな、・・・、どうも何でもかんでも難しいなりすぎてて、生活もちょっと乱れすぎてるんとちゃうか?もう少し普通に気楽に過ごされへんか?」
何も信用できなくなっていた私には、父のそんな話なんかはもうただうんざりするだけのものだった。「普通?」、「気楽?」、よくそんなことを言えたもんだ。普通や気楽を求めない人間なんていない。俺だって普通にいられるなら、気楽にいられるならそうしていたい。俺がこうなった責任を全部俺一人に押し付けようとするつもりか?俺が本当に望んでこうなってしまったとでも思っているのか?何一つ話さなくなった俺を「平成」のやり方で排除するつもりか?母が元気だった頃から俺はこんなに乱れていたとでも言うのか?俺は昔からずっとこんな調子だったか?そんなことはないだろう。「普通」に接することもなくずっとここまできて、よく「普通」なんて口にできるものだ。・・・。
父の話にかなり気が立ってはいたのだが、私は馬鹿らしくなって適当に頷いてみせて、黙って片付けを済まし、そしていつものようにビールを握って自分の部屋に上がっていった。部屋に入ってすぐにビールを開け、タバコに火をつけた。改めてうんざりだと思った。気を紛らわせようと思いギターを握った。私は、かなりゆっくりとした足取りで少しずつ雪景色の中に分け入っていった。太陽が雪のベールのずっと向こうでぼやけて見えた。それはすっかり輪郭をなくしていて、クリーム色の毛糸のぼんぼりのようだった。掴めば柔らかそうな気がした。人の夢や希望なんてものを眺めているような気持ちだった。そして自分には絶対に縁のないもののように思った。メロディーと言葉が自分の中でくすぶっているのを感じた。くすぶってはいたのだが、それに向き合う気力もなく、私はすぐに諦めた。その後はデタラメにコードを押さえ、適当にぼんやりと音を鳴らしていた。一人ぼんやりと過ごしていると、父が階段を上ってくる音が聞こえた。すぐに私の部屋の扉が開けられた。今度は何を言いたいのかと思った。私は体半分を父のほうに向けた。そんな私をじっと睨みつけてから、いきなり父は、
「お前はギターばっかり弾いて、・・・、そんなもんやって一体何の役に立つんや」
と怒鳴りつけてきた。父は父なりに考えて、怒鳴りつけることでぼんやりと遠のいた私を一気に父の描く「普通」のところまで引き戻そうとでも思っていたのだろうか。しかしそんなやり方では、私が幸せそうな顔をして日々を過ごせるようになるところにまで一気に戻って来れるはずもなかった。それよりも、ギターといえば私にとって母がいなくなってからは最後の心の拠り所だったから、そのギターのことをそんなふうに言われると私はさらにうんざりしただけだった。人の気も知らず平気でそんなことを口にした父のことを、私は本気で憎んだ。
私はまた一言も返事をしなかった。ただ体だけで思いを伝えた。私は、一度半分だけ父のほうへ向けた体を父に背を向ける形にして、背を丸め、そして胸の中で母が買ってくれたギターをぎゅっと抱き抱えた。そうまでして父に私の気持ちが何も伝わらないのなら、もう私は消えてしまいたいと思った。しばらく父は私の背中を睨んでいたようだった。そんな気配を私は背中でジリジリと感じていた。その気配がふと緩んだ。そして父はバタンと扉を閉めて階段を下りていった。どっと疲れて、私はもう何かする気力もなくし、そのままベッドに潜り込んだ。
次の朝だった。目が覚めると炊きたてのご飯と味噌汁の匂いがしたような気がした。しかしそんなはずはなかった。私はただ、奈良に移り住んだ頃でまだ母が元気だった頃のある秋の朝に目覚めたような錯覚をしていただけだった。しかしそうとも気づかず、早く起きて顔を洗わなければ母にまた叱られると思って布団から抜け出そうとした。その時にやっと私は、もうあの頃から20年以上も経って今は父と二人で暮らしているんだということに気づいた。枕がべったりと涙に濡れていた。なにか夢を見ていたのかもしれなかった。しかし思い出そうとしても、どんな夢を見たのかは思い出せなかった。ただ微かに、元気だった頃の母と幼かった頃の私が手をつないで、ぼやけた太陽のほうに向けて雪道を共に歩く夢を見ていたような気がした。私の中にある母と歩いた記憶と言えば、真夏の溶けるような夕日を背にして、母と二人、買い物帰り、東大阪の騒がしい町の中、ドブ川沿いの臭いをものともせず、意味もなく嬉しそうに、そして訳もなく楽しそうに歩いていたという長屋の頃の記憶だった。私はふと、母が「今はすっかり歩く景色は変わってもいつも一緒やよ」ということを、そして「今日もしっかり食べて、栄養を取って、頑張って生きるんよ。その先にうまくいったら夢も希望も叶うかもしれんよ」ということを伝えに来てくれていたような気がした。その時、私のベッドの足元のギタースタンドに立てかけられた母の買ってくれたギターが、朝日に包まれて白く輝き、そしてほんの一瞬だけ母の姿に変わった。母は、その白い姿の周りに慎ましい銀色を纏い、じっと立ったままで私を見つめていた。そして母は、一度だけ悲しそうに私に微笑んでその姿を消した。
その日の配達の時のことだった。秋の深まりとともにすっかりと勢いを弱めた太陽が照らす町は、風に吹き飛ぶ色づいた落ち葉のおかげで普段ほど嫌なものには映らなかった。そんな景色のおかげだろうか、トラックのハンドルを握る私は昨夜のうんざりした気持ちをほとんど引きずってはいなかった。そんなことよりも、その日の朝に母が姿を現してくれたことばかりを心に思い浮かべては、珍しく少し幸せな気持ちでいた。普段よりもゆったりとした気持ちで運転していると、ふと私の中で、昨夜くすぶったままに諦めてしまったメロディーと言葉が突然堰を切ったように突然溢れ出してきた。その時私は、中央環状線沿いの久宝寺公園の敷地の脇を八尾に向けて南下していた。慌ててトラックを公園脇の広いスペースに停車し、胸ポケットに入れてあったメモ帳に溢れ出す言葉を書き綴っていった。
いつかは・・・
森をただ抜ければ
ひかりあふれる国
そこにあると信じて
歩いていけばいい
手を空に重ねて
こころ晴れる頃
いつか忘れ去った
自分と出逢えばいい
風のうたを聴いて
柔らかな露草が
素足となじむまで
ずっと そのままで
きっと そのままでいい
読み返してみると、母が私を肯定してくれているような、そんな母からメッセージのような気がした。心のふるさと、富良野に帰りたいと思った。そして朝日岳に登ってまた母に会いたいと思った。もう富良野は冬を迎え、雪が降り始めたというニュースを少し前にラジオで聞いたことを思い出した。富良野という慎ましい町で、慎ましい心のままに、慎ましい姿の雪にすぐにでも溶け込みたいと思った。しかし意識はバラバラ、生活は荒れ放題、父にはまた詰られ、仕事も思うように捗らずたまの休日出勤でごまかし補うような状態で、何に触れても心は空虚のままで、そこまで荒んでいた私には富良野というふるさとはとんでもないほど遠い場所にあるような気がした。どうにかしなければと思ったが、あまりにも散らかりすぎていて何も考えは浮かばなかった。
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