第2話 心理学者探偵、芹沢孝次郎

冷たい風が舞う夕暮れ時、斉藤康隆は重い足取りで警察署を後にした。工事現場での遺体発見から始まった捜査は、彼にとってこれまでのどの事件とも異なる不穏さを放っていた。失踪事件の記録、沈黙を守る関係者たち、そして鍵を握る古いスマートフォン――いずれもが絡まり合い、真相への道を阻んでいるように感じられた。


「このままじゃ埒が明かない……」


独り言のように呟きながら歩いていると、斉藤の脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。何かを見透かすような瞳と、物腰柔らかな語り口。それでいて、事件の核心に触れるたびに冷徹なまでの分析力を発揮する男――芹沢孝次郎。


「心理学者探偵、か……あいつなら、何か掴めるかもしれない。」


斉藤は歩みを止め、スマートフォンを取り出して芹沢の番号を呼び出した。


数時間後、斉藤はビルの一角にある古びた看板の前に立っていた。


「芹沢心理研究所」


その文字を見上げると、斉藤はため息を一つつき、ドアをノックした。程なくして、中から芹沢の穏やかな声が響く。


「開いてますよ。」


ドアを押して中に入ると、書棚に所狭しと並べられた心理学や哲学の書籍が目に飛び込んできた。その中心に座っていたのは、スーツ姿に身を包んだ芹沢孝次郎だった。机には何冊もの本が積み上げられ、彼はその中の一冊を手にしていた。


「久しぶりですね、斉藤さん。」


「相変わらず、胡散臭い場所だな。」


「それはどうも。ところで、今日はどういったご用件ですか?」


芹沢は微笑みながら椅子から立ち上がり、斉藤をソファに案内した。斉藤は無言で席に着くと、持参した資料を机の上に広げた。


「工事現場で10年前に失踪した大学生の遺体が見つかった。川村紗英って名前だ。」


芹沢はファイルに目を通しながら軽く頷いた。「川村紗英……。10年前、ニュースで騒がれた事件ですね。」


「そうだ。その事件が再び動き出した。だが、関係者たちは全員が沈黙を守っている。何も覚えていないと言い張っているが、そんなことがあるわけがない。」


芹沢は斉藤の言葉を黙って聞いていたが、ふと静かに口を開いた。


「『沈黙を守る』というのは、人間の防衛本能の一つです。特に、自分の利益や安全が脅かされると感じたとき、人は嘘をつくよりも沈黙を選びます。それが彼らの心理的防御手段である可能性が高いですね。」


斉藤は苛立ちを込めて机を叩いた。「だから、それをどうにかして崩せないかと思って、あんたを呼んだんだ。心理学者としての腕を貸してくれ。」


芹沢は少し考え込む素振りを見せた後、資料の中から一枚の写真を取り出した。それはスマートフォンから復元された、パーティーの写真だった。


「この写真……。彼女が不安げな笑顔を浮かべていますね。」


「気づいたか。」


「ええ。この表情は何かを隠そうとしている人間特有のものです。恐怖や困惑、それに自己防衛の意識が交じり合った複雑な心理が読み取れます。」


芹沢は写真を指差しながら言葉を続けた。


「彼女は、パーティーで何かを目撃した。もしくは、気づいてしまった。そして、その瞬間から彼女の安全が脅かされる状況に陥ったのではないでしょうか。」


斉藤は真剣な眼差しで芹沢を見つめた。「それが原因で、彼女は殺されたってのか?」


「可能性は高いでしょう。ただ、もっと深く掘り下げる必要があります。誰が彼女にとって脅威だったのか。その関係性を探ることが重要です。」


芹沢は立ち上がり、書棚から一冊の本を取り出した。それは「集団心理と沈黙」というタイトルの本だった。


「集団内で一人が危険を訴えた場合、その声が広がるかどうかは、周囲の反応次第です。しかし、周囲がそれを無視した場合、その人間は孤立し、最終的に沈黙を余儀なくされる。今回の事件も同じ構造があるのかもしれませんね。」


斉藤は考え込むように腕を組んだ。「つまり、パーティーの全員が口裏を合わせているというわけか?」


「それも一つの仮説です。ただ、もっと興味深いのは『なぜ彼らが沈黙を守るのか』です。それは、彼らの心理的な利益や恐怖に直結している可能性があります。」


芹沢は柔らかい声で続けた。


「沈黙は武器にもなりますが、それが長引くほど人間はその重荷に苦しむものです。おそらく、全員が本当のことを話したい気持ちもどこかにあるでしょう。ただ、それを解きほぐすには慎重なアプローチが必要です。」


斉藤は頷きながら、芹沢の言葉を噛み締めた。「慎重なアプローチ……あんたの得意分野だな。」


「まずは、当時のパーティー参加者たちの心理を探ります。」芹沢は資料を手に取りながら言った。「彼らがどのような感情でこの10年間を過ごしてきたのか。その沈黙がどのように形成され、維持されてきたのかを分析する必要があります。」


斉藤は席を立ち上がり、拳を握りしめた。「分かった。参加者全員の情報を改めて洗い直す。あんたの分析が必要になったら、すぐに連絡する。」


芹沢は微笑みながら頷いた。「期待に応えますよ、斉藤さん。」


最後の一言


事務所を後にする斉藤を見送りながら、芹沢は一人呟いた。


「沈黙の裏に隠された真実……興味深い事件になりそうですね。」


冷たい夜風が彼の言葉を掻き消すように吹き抜けた。


翌日、捜査は改めて10年前のパーティー参加者たちへの聞き込みから始まった。斉藤康隆は芹沢孝次郎の助言を胸に、彼らの「沈黙の理由」に迫るべく一人ひとりと向き合う覚悟を決めていた。


「全員が何かを隠している。それが事件の全貌を覆い隠している――。」


斉藤の眼差しは鋭く、今回ばかりは正面突破では通用しないことを理解していた。


斉藤が最初に訪ねたのは、当時パーティーに参加していた森本祐介という男の自宅だった。現在は地元の不動産会社に勤める森本は、大学卒業後に地元に根を下ろし、目立たない生活を送っている。


自宅の呼び鈴を押すと、森本は慎重にドアを開けた。その顔には、突然の訪問に対する驚きと動揺が見え隠れしていた。


「森本祐介さんですね。捜査一課の斉藤です。少しお話を伺いたい。」


「な、何のことでしょうか……?」


「10年前のパーティーに関することです。覚えていますね?」


森本の顔色がさっと変わった。彼は目をそらし、額に浮かぶ汗を拭った。分かりやすい動揺に、斉藤は核心に迫る。


「川村紗英さんの失踪についてです。彼女が最後に目撃されたのは、あなたも出席していたパーティーだった。」


「……そんな昔のこと、覚えてませんよ。」


森本は小さく笑いながら言い訳を始めたが、その声は震えていた。斉藤は一歩前に踏み出し、森本を真正面から見据えた。


「本当に覚えていないのか? それとも、覚えていることを話したくないのか?」


その問いに、森本は短く息を呑んだ。しばらくの沈黙の後、彼は視線を落としたまま呟くように言った。


「……何も覚えてません。あのパーティーでは、特に変わったことはなかった……と思います。」


「本当に?」


「はい……」


明らかに嘘だった。斉藤はそれ以上追及せず、「また改めて伺う」とだけ言い残してその場を後にした。


森本だけではなかった。斉藤が訪ねた他の参加者たち――誰もが同じような反応を見せた。全員が口を揃えて「何も覚えていない」「特に変わったことはなかった」と言うだけで、具体的なことを話そうとしなかった。


「まるで全員が打ち合わせでもしているようだ……」


斉藤は苛立ちを隠せなかった。パーティー参加者全員が沈黙を貫く理由は何なのか? 彼らの態度は、ただの忘却ではなく明らかに意図的なものだった。


警察署に戻った斉藤が苛立ちを抱えてデスクに腰を下ろしたその時、一通の匿名メールが届いた。それは警察署の公式アドレスに送られたもので、件名はこう書かれていた。


「真実を知りたければ、大山家を調べろ」


本文は短く、事実関係を示すものはなかった。しかし、大山家という名前が書かれているだけで、斉藤の中に新たな疑念が生まれた。


「誰が送ってきた……?」


匿名のメッセージは、捜査を新たな方向に向かわせるきっかけとなる一方で、その発信者の意図が読めなかった。送り主が協力者なのか、それとも捜査を撹乱するためのものなのか――。


「芹沢に相談するべきか……」


斉藤はそのメールをプリントアウトして持ち出し、芹沢の研究所へ向かう準備を始めた。


「……なるほど、全員が沈黙を守り、その上で匿名のメッセージが届いたと。」


芹沢孝次郎は、斉藤から渡された資料を手に取りながらそう言った。事務所の薄暗い室内で、彼は静かにその内容を読み込み、頭を巡らせているようだった。


「参加者たちが全員同じ反応を示すのは異常です。普通、人間の記憶というものは曖昧で、解釈に個人差があります。なのに彼らは皆、まるで同じ記憶を共有しているかのように話を合わせている。」


「つまり、打ち合わせがあったということか?」


「可能性はあります。ですが、もっと興味深いのは、その『沈黙の維持』に対する動機です。何かしらの共通の利益、または共通の恐怖がなければ、このような心理的な一体感は生まれません。」


芹沢は資料から目を上げ、斉藤を真っ直ぐに見た。


「あなたが会った彼らの態度――怯えた様子でしたか?」


「ああ、ほとんどがな。」


「怯えという感情は、潜在的な恐怖が根底にあります。彼らは10年前、何かを目撃したか、知ってしまった。だが、その真実を話すことで自分たちが危険に晒されると思っている。」


「10年間もそんな恐怖に囚われ続けているってのか?」


「人間の心理はそう単純ではありませんよ、斉藤さん。恐怖は時間が経つにつれ形を変え、時に過剰な防衛反応を引き起こします。それが彼らの沈黙を守らせているのです。」


芹沢は一枚の写真を机の上に広げた。それはスマートフォンから復元された、パーティーの様子を撮った写真だった。


「彼らが隠しているのは、単なるスキャンダルではない。もっと根深い問題――つまり、犯罪行為そのものかもしれませんね。」


斉藤は芹沢の言葉を静かに噛み締めた。全員が沈黙を貫く背景には、10年間隠され続けた「何か」がある。それは、彼らの記憶の中に確実に存在している。


斉藤はふと、匿名メールを送った人物の意図について考え始めた。その人物が何者であるかは分からない。だが、斉藤には一つの確信があった。


「このメールの送り主は、10年前の真実を知っている。」


メールにはまだ手がかりが少なすぎる。だが、これが単なる偶然ではなく、誰かの計画の一部であることは明白だった。芹沢もまた、静かにその可能性を示唆する。


「送り主が何を求めているにせよ、この行動には目的があります。あなたを誘導しようとしているのか、それとも助けを求めているのか――どちらにしても、沈黙を破る兆しです。」


斉藤は拳を握りしめた。捜査が行き詰まる中、このメールが唯一の光となる可能性があった。


「沈黙は、いつか必ず崩れるものです。」

芹沢の静かな声が室内に響いた。


そしてその沈黙の裏に潜む真実――それがどれほどの代償を伴うものなのか、二人はまだ知らなかった。


夜の闇が深まる頃、斉藤康隆は匿名メールに記された「大山家を調べろ」という一文に基づき、大山家に再び向かっていた。豪邸の門前に立つ斉藤の目には、強い決意と警戒が浮かんでいた。


「本当にここが核心なのか……?」


門をくぐり、大山家の庭に足を踏み入れると、辺りは不気味なほど静かだった。明かりが漏れる窓に向かいながら、斉藤はこれまでのピースを頭の中で組み立てていた。10年前のパーティー、失踪した川村紗英、そして沈黙を守る関係者たち。その中心に、大山家がいる。


ドアをノックすると、しばらくして中年の使用人が顔を覗かせた。


「またですか? 何度も同じことを聞かれるのは迷惑です。」


「いい加減にしてくれ。これは事件の核心に関わる話だ。」


斉藤が強い口調で言うと、使用人はしぶしぶ斉藤を家の中に通した。大山家の主である父親が再び応接室に現れると、目に見えて苛立ちを隠そうともしなかった。


「しつこい男だな。何を聞きたいというんだ?」


斉藤はテーブルに拳を置き、低い声で問いかけた。


「10年前のパーティーで、川村紗英が最後に目撃されています。その後彼女は失踪し、最近になって遺体で見つかった。そして……この家の名前が、匿名の情報提供者から挙がっている。」


「ふざけるな! そんなこと、うちの家族が関わるわけがない!」


「では、なぜ川村紗英のスマートフォンには、この家で撮影された写真が残っていた? あの晩、この家で何が起きた?」


父親の表情が一瞬だけ硬直した。その微妙な変化を斉藤は見逃さなかった。


「……さっさと帰れ。」


「答えろ!」


斉藤が詰め寄ろうとしたその時、二階から物音がした。足音が急に止まり、次いで聞こえてきたのは、微かに開いた扉が閉まる音。


斉藤は素早く反応し、階段を駆け上がった。誰かが隠れている――その直感が斉藤を突き動かしていた。二階の廊下に差し掛かると、奥の一室から光が漏れているのが見えた。


斉藤が静かに扉を開けると、そこにいたのは若い男だった。30代半ばに差し掛かったその男は、パーティーの主催者だった大山達也その人だった。


「……達也さんですね?」


達也は怯えたように斉藤を見つめていたが、何も言わなかった。その手には、一枚の写真が握られていた。斉藤がその写真を奪い取ろうとすると、達也はそれを必死に守ろうと抵抗した。


「やめろ! 俺には関係ない!」


「何を守ろうとしている? あの晩、何があったか知っているんだな!」


斉藤が力任せに写真を奪うと、そこにはパーティーの一場面が写っていた。だが、写真の中央には異様な光景が広がっていた。


川村紗英が怯えた表情で誰かを指さし、その周囲にいた数人が冷酷な目を向けている。写真に写っているもう一人の顔――それは紗英の失踪と同じ時期に姿を消した宮田崇だった。


「宮田崇……彼もこの場にいたのか?」


「俺は何も知らない……俺はただ、その……」


達也の言葉は途切れ、彼は頭を抱え込んだ。その瞬間、斉藤の耳に銃声のような音が響いた。それは窓ガラスが割れる音だった。


「伏せろ!」


斉藤は反射的に達也を床に押し倒し、辺りを見回した。何者かが外から発砲したのか、それとも威嚇なのか――ただ一つ確かなのは、この事件が危険な段階に突入したということだった。


達也を守りつつ、斉藤は素早く無線で応援を要請した。その背後には、風に揺れるカーテンと、外の暗闇に漂う不気味な気配があった。


「誰だ……一体誰が、こんなことを……!」


彼の問いに応える者はなく、ただ冷たい夜風が吹き抜けるだけだった。そして、その風の中に、再び割れるガラス音が響き渡った。


次回予告


銃声が響く夜、闇の中に潜む敵とは誰なのか?

ついに姿を現した宮田崇の影。そして川村紗英が目撃した真実とは?

芹沢孝次郎が導き出す沈黙の理由が、次なる衝撃を呼ぶ――。

次回、「過去と現在の交錯」――全ての真実が動き出す。


読者へのメッセージ


最後までお読みいただきありがとうございます!

事件は新たな局面に突入し、10年前の闇が現代の危険へとつながり始めました。心理学者探偵・芹沢孝次郎が導き出す「沈黙の理由」、そして斉藤警部補の真っ直ぐな正義感が、次回以降どのように交錯するのか、ぜひ注目してください。


「沈黙は、破られたときに真実を語る」――次回もご期待ください!

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