第12話

 月曜日、梅雨が明けた。

 種沢はいつもの習慣で山手線が渋谷駅に着くと下車する気持ちになった。が、今日からは違う。もう一駅先の恵比寿駅で下車だ。

 電車を降りるとむっとする夏の空気があった。種沢は駅西口に向かい、外に出た。

 梅雨時のジメジメした湿気はそのままで、眩しい陽が燦々と降ってきた。恵比寿の朝は眩しかった。駅から続くビルの合間にも夏の湿った風が立った。新社屋まで歩いて八分。その間も何かこの梅雨明けのタイミングで新社屋への移転が完了したのが何かの吉兆のように思えた。

「おはようございます」

 種沢が新社屋へ出社した。その場にいた二〇人の社員たちが一斉に返事をした。

 オフィスのエントランスには同業他社からの祝いの華のバルーンが七個ほどあった。中には胡蝶蘭もあり、結構な金額がかかったものもあった。

 これからフォーカスエンジン社の新しい船出だ。種沢は花の種類には全く無頓着だったが、これだけの同業他社が祝いの花を贈ってくれたことが内心、誇りでもあり嬉しくもあった。

 種沢はデスクに着くとPCの電源を入れ、まずはメールのチェックをした。

 各営業マンからの新規案件決定の件、新規SE登録の件、先月の売上報告の件……いつも通りと言えばそれまでだが、少しずつではあるが着実にフォーカスエンジン社が成長しているのが分かった。朝から幸先が良かった。こういった日常のルーティンワークが滞りなく進むのが気持ちよかった。

 が、その中に一通、不審なメールがあった。

 送信者は「Mr.X」、日付は2300/1/1となっていた。

 マルウェアか? 種沢はそう思い、メールを開かずに岡谷に相談した。

「うん。そのメール、開かなかったのは正解だね。ちょっと私のメアドへ転送してくれないか。調べてみる」

 言われた通り、種沢は岡谷へメールを転送した。

 岡谷はメールクライアントからメールの生情報を取り出し、ヘッダを解析していった。

 岡谷の顔はみるみる曇っていった。

「種沢、このメールなんだけどさ」

「何か分かった?」

「マルウェアでもフィッシングでもないんだけど、妙なところがあるな」

「ちょっと詳細を教えてくれ」

「サブジェクトは『警告!』、本文は『三ツ葉信用調査に関わるな』だけなんだけど」

 もう誰かが近藤の調査を調べ上げているということか、と種沢は眉間に皺を寄せた。

「問題なのはヘッダなんだ。ちゃんと経路情報は書かれているんだけど、発信元がロシアのドメインのメールサーバなんだ」

「ロシア? うちとは一切関係ないな」

「うん。関係ない」

「ようするに身元を隠してメールを発信したと?」

「そういうこと」

「でもどうやって?」

「簡単なことだよ。メールクライアントを使わずに直接メーサーバにtelnetでログインして手書きで必要情報を記入していったんじゃないかな。詳しい手順はRFCに書いてあるから、特に違法なことじゃない」

 たかがある銀行の支店の調査をしているぐらいで「警告」なんて大袈裟な、と、種沢は思った。

「で、その内容がたった一文の警告メッセージだったと」

「そういうこと」

 種沢の不審は募った。

「何か要求は?」

「いや、ない。さっき言った通りの警告だけだった」

「発信元のメアドは?」

「『qwer@asdf.com』。明らかに偽のメアドだな」

 左手でキーボードをなぞるとその配列になるのは言われなくてもすぐに分かった。謎の発信者は名前に気を使っていない。何か意味のある文字列であれば調査のしようもあるが、これでは全くのお手上げだ。つまり、発信者の意図が汲めない。

「つまり謎の第三者が警告をしてきた、と」

「そういうこと。こっちとしては身に覚えがあるからなあ。善意で送ってきたか悪意で送ってきたのか、これじゃ判断がつかない」

「警告」とある以上、これ以上の三ツ葉信用調査の捜査を続けると、何か悪いことがフォーカスエンジン社に起こる、と言いたいのだろうが、種沢は自分の清廉潔白を信じて疑わなかった。即ち、やれるものならやってみろ、と思った。

「どちらにしろ、三ツ葉信用調査に何かあるってことだけが分かれば充分だ」

「どうする? このメール」

「保管しておこう」

 怪しげなメールは実のところフォーカスエンジン社には沢山届く。それらの大半が一見して詐欺メールと分かるものばかりだったが、このメールはそういったものとは明らかに違う。詐欺業者であればタイムスタンプや送信元を隠蔽しないし、怪しげなURLへの誘導が書かれているのが普通だ。だがこのちょっと一手間を踏んだやり方にその発信者の意志が汲み取れた。

「近藤さんの動き、バレてるってことですよね」

「まあ、そういうことだろう。だからこのメールが来たんじゃないかな」

「近藤さん、動いてもらうの止めますか?」

 岡谷は心配げに種沢に訊いた。

「いや、調査は進めてもらおう。三ツ葉銀行さんの掌の上で踊らされるのはご免だ。相手が銀行さんとはいえ、こんな不審なメールが届くようじゃ、やっぱり痛い腹があるに違いない」

 種沢らしいな、と岡谷は思った。そして素朴な質問を種沢にぶつけた。

「もし三ツ葉銀行さんが何かしらの不正をしていたとして、その後、どうする?」

「内容によっては告発なり裁判なり、なんなりやってやるさ」

 岡谷はなるべく面倒は避けたかった。ただでさえベンチャー企業はやることは沢山あるのだ。その時間を裁判やらなんやらで奪われるのはできれば避けたかったのだ。

「その目的は? うちの会社にどんなメリットが?」

「おい、たとえ相手が銀行さんとはいえ悪は潰さなきゃならんだろ。ひょっとして岡谷、今の近藤さんの調査が無駄だと思ってるとか?」

「いや、ちょっと正直、こんなメールが来るようじゃ、こちらに分がないかなあと思って……相手は多少はコンピュータのことを知っているみたいだし、どんな手でうちを陥れようとしているか分かったもんじゃないからね」

 種沢は毅然と言ってのけた。

「そんな弱腰でどうする! こっちだって一五〇〇万の金がかかってるんだ。それに銀行が不正を働いているとすれば、社会問題だ。それを見逃すわけにはいかんだろ」

 種沢の正義感に岡谷は気圧された。岡谷は正義感が強いのはいいのだが、喧嘩をするには相手を選べ、と言いそうになったが、その言葉を吞んだ。


 そのころ、近藤は八王子郊外のあるアパートにいた。港楽荘二〇三号室前。片倉のアパートだ。

 近藤は片倉の携帯に電話した。呼び出し音が長く続いたが、片倉は電話に出た。

「もしもし」

「もしもし、片倉さんの携帯で合ってますか」

「ええ。片倉です」

「私、フォーカスエンジンという会社の近藤という者です」

「はあ」

「ちょっとお話をお伺いしたいのですが、お時間よろしいでしょうか」

「いや、今立て込んでまして……」

「いつ頃ならご都合よろしいでしょうか?」

「いや、最近は忙しくてなかなか時間がとれませんで……」

「噓は良くないですよ」

「噓? なんでそんなことが?」

「今いらっしゃるんでしょ? ご自宅に」

「え? あ? いや、まあ……」

「試しにドアを開けて下さい」

 片倉はスマホ片手に玄関へ行った。扉の覗き穴をみると、スマホを片手にした近藤が立っていた。

「片倉さん、もう逃げられませんよ。ドアを開けてください」

「なんなんですか。警察呼びますよ」

「警察を呼んで困るのはそちらの方じゃないですか? 片倉さんは三ツ葉信用調査の社長さんですよね。三ツ葉銀行との関係が公になりますよ」

 片倉は動揺した。この男は自分の脆い立場を知っている。そういう考えが浮かび、チェーンをかけて扉を開いた。

「どちら様でしたっけ?」

 片倉は不安げに顔を覗かせた。

「フォーカスエンジンの近藤と申します。今回、三ツ葉信用調査さんとの契約についてのご相談に上がりました」

「そういうことは三ツ葉銀行の本間さんを通してもらわないと……」

「いいですか。もしここでドアを開けていただけないのでしたら、この足で今すぐ金融監督庁へ行きますが」

 金融監督庁と聞いて片倉の目の色が変わった。

「分かりました、分かりました。いま開けますから」

 片倉はチェーンを外した。近藤は半ば強引に片倉のアパートに入り込んだ。

 小さなキッチンとそれに続く六畳間があるだけだった。とても金融屋の社長の家とは思われない。

 近藤はその六畳間にある丸テーブルにつき、その対面に片倉が座った。

「……その、お話というのはなんでしょう」

 片倉の表情からは、しらばっくれたり噓の準備をしているようには見えなかった。どちらかといえば小心者の小男。そういう印象を近藤は受けた。

「まずは片倉さんが三ツ葉信用調査の社長に就任したいきさつを教えて下さい」

 片倉はまるで尋問を受けているかのように語り出した。

 自分の運送会社が三ツ葉銀行から融資を受けながらも倒産したこと、その時、本間から三ツ葉信用調査の社長にならないかと誘われたこと、月三〇万円を今でも三ツ葉銀行に弁済していることを説明した。

「それでは具体的に三ツ葉信用調査の職務はなんなんですか」

「ただのペーパーカンパニーですよ」

「そのペーパーカンパニーが、どうして三ツ葉銀行から融資を受けるとき、同時に入金の契約も一緒にするようになったんですか」

 片倉は本間が指示した通りの金の流れを説明した。

 三ツ葉信用調査に入った金は全て大昔に作られた架空口座へ振り込まれる。その支払先は本間課長、笹沼支店長、そして三ツ葉信用調査の株主の谷屋・狭間に振り込まれていることを説明した。

「その金の分配の比率を教えて下さい」

「いや、そこまでは私は知りません」

「片倉さん、あなた社長でしょ? 知らないで済む話じゃないですよ。比率じゃなくても具体的な金額をご存じのはずでしょう?」

「私は本当に知らないんです。ただ名前を貸しているだけなんです。本間さんには頭が上がらんのですよ。なんせ融資の返済がありますから。細かいことは全部三ツ葉銀行さんにお任せしてあるんです」

「今さら知らぬ存ぜぬを突き通そうとしても無駄ですよ。調べれば過去の休眠口座があるときを境に急に動き出したことだって調べられるんです。そのことをご存じないようですが、やってみましょうか? うちはIT企業なんですよ。その程度のことはうちの技術力でもできるんです。白状するか、バラされるか、どちらかを選んで下さい」

 片倉は俯いた顔を上げた。

「本当に知らんのですよ。全ては本間さんの取り仕切りなんです。私にはそこまで深いことを教えてもらえてないんです」

「では私たち企業ではなくそれなりの公的機関に捜査をお願いすることになりますが」

「本当なんです。私は知らないんです。本間さんに訊いてください。私の知っていることは全てお話しました。もう勘弁して下さい」

 片倉の態度の子細を観察すると、片倉が噓を言っているようには見えなかった。

 近藤はそれ以上の片倉への追求をやめることにした。

「分かりました。そこまで仰るなら、今日はこのところで引き上げます。ですがまた近いうちにお邪魔すると思いますので、その時はよろしくお願いします」

「ええ。分かりました」

「あ、それとですね」

「なんでしょうか」

「今日、私がここへ来たことは内密にしておいてください。もちろん本間さんにも内緒ですよ。何かあればすぐ金融監督庁へ申し出ますから。そのことだけはよく覚えておいて下さい」

「……分かりました」

 近藤は片倉に念を押した積もりだったが、片倉ほどの愚鈍な男がその約束を守るとは思えなかった。片倉は本間の手の内だ。どこまで本間に喋るかは分からないが、近藤が来たこと、あるいは三ツ葉信用調査に危機が迫っていることは本間に伝えるだろう。

 これから時間との勝負になるかも知れない。

 近藤はそう考え、すぐさま恵比寿のフォーカスエンジン社に戻った。

 近藤が恵比寿のオフィスに戻るまで一時間半かかった。

 時刻は午前一一時五二分。そろそろ昼休みだ。

「種沢さん、岡谷さん、ちょっと込み入った話があるんですが」

 近藤に呼び止められ、二人は三ツ葉信用調査のことであると直感した。

「分かりました。今すぐ報告してください」

 三人は個室の打ち合わせスペースに入った。

 近藤はICレコーダを取り出し、先ほどの片倉との遣り取りを二人に聞かせた。

 岡谷は唸った。

「こりゃ、うちの会社で対応するより金融監督庁へ報告した方がいいんじゃないかな」

 種沢が言った。

「うん。そうかも知れない。だけど証拠としてこれだけで充分だろうか」

 近藤が続けた。

「これだけの証言があれば立件できませんかね」

 岡谷が提案した。

「弁護士に相談したらどうだろう」

 種沢が岡谷に言った。

「弁護士かあ、特に伝手はないかなあ……あ、浦沢さんに紹介してもらおうか」

 岡谷が制止した。

「ちょっと待った。その浦沢さんの弁護士、本当に役に立つの? 弁護士にも色々得意分野があるんだよ。こういう金融関係に強い弁護士じゃないと意味ないでしょ」

 近藤と種沢は納得した。が、種沢は反論した。

「でも、役所へ行って紹介してもらうか、ネットで探すのもねえ……本当に当たりの弁護士を引くなんてガチャじゃん。こういう時こそ人脈がものをいうんじゃない?」

 近藤と岡谷はその反論を肯定する気にはなれなかったが、これといった反論材料も持っていなかった。

「しまったなあ、うちの会社も、もうそろそろ顧問弁護士が必要なのかなあ」

「その話は三ツ葉信用調査の件が終わってからにしよう。種沢、おれが浦沢さんに連絡してみる。近藤さんは三ツ葉銀行の本間さんと片倉さんの接点の証拠を調べて下さい」

 岡谷がそう言うと臨時のミーティングは解散となった。

 ここで浦沢に連絡をとるのを岡谷が買って出たのは、岡谷なりに心配があったからだった。もし種沢が浦沢に連絡したら、種沢の実直すぎる性格からして、なぜ弁護士を紹介してもらおうとするのか、その理由まで浦沢に漏らしてしまうのではないか、と判断したからだった。

 世間はどこでどう誰と繋がっているか分かったもんじゃない。それが岡谷の信条の一つだった。

 岡谷はさっそく浦沢の携帯へ電話した。浦沢はすぐに出た。

「オーウェンシーズの浦沢さんでしょうか。フォーカスエンジンの岡谷です」

「ああ、先日はどうもどうも」

「いきなりのお願いで恐縮なんですが」

「どうしました? 何かありましたか?」

「弁護士さんを紹介いただけませんか?」

「弁護士? ああ。大丈夫ですよ」

「よろしくお願いします」

「取り敢えずメモ、お願いできますか」

「はい。お願いします」

 浦沢は高槻法律事務所の電話番号と高槻治夫という弁護士の名前を言った。

「高槻先生のところには私から紹介しましたと、この電話を切ったら一報を入れておきますから、ちょっとしてから電話してみてください」

「ありがとうございます」

「ところで、弁護士先生に相談するなんて、何かありましたか?」

「いえ。ちょっとした法律相談です。うちの会社、移転したばっかりでしょ?」

「ええ」

「それで会社の登記の変更関連でなんかグチャグチャしちゃいまして、その整理というか、そういったものを相談したくて」

 岡谷が咄嗟に思いついた噓だ。

「なるほど」

 会社の登記ごときで揉めるはずはない、と浦沢は判断したが口には出さなかった。

「それじゃあ、浦沢さん、先生によろしくお伝えください。昼休みが終わったらこちらから高槻法律事務所へ電話します」

「ええ。分かりました。それじゃあ失礼します」

「失礼します」

 一旦、岡谷は胸を撫で下ろした。

 相手が弁護士であれば、誰の息がかかっていようが法律の範囲内で調査に乗ってくれる。けさ近藤が録音してきた片倉の証言が法的に有効かどうか判断してくれる。それにちゃんと契約すれば守秘義務も生じるし、フォーカスエンジン社が三ツ葉銀行に対して告発を行うようなことになっても守ってくれる。そう岡谷は思った。

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