第16話

 近藤が恵比寿のフォーカスエンジン社に着いたのは午後三時三分だった。

 予想より時間がかかったのは道が渋滞していたせいで、その渋滞は交通事故が原因だった。

「いや、お待たせしました」

 種沢が近藤を出迎えた。

「いやあ、遅かったですね。何か事故なり調査の妨害にでもあってるかと思いましたよ」

「いやいや、相手は銀行さんですから。直接暴力に訴えるようなことはしませんよ」

「で、証拠集めのほうは?」

「電話で報告したものだけです。片倉の給料は三ツ葉信用調査の名義で振り込まれてました。片倉のスマホには本間との通話記録が残ってました。できるかどうか分かりませんが、片倉さんを高槻先生のところへ連れて行って、その証拠全てを見せれば何とかなりませんかね」

 種沢が「よし、その線で行こう」と即断した。

「できれば早ければ早いほどいいでしょうね。片倉さんのスケジュールはいつでも大丈夫ですか?」

 近藤は真剣な表情だった。

「ええ。そのはずです。片倉さんの予定は夜のアルバイトだけですから」

「じゃあ、高槻先生にアポをとってみる」

 種沢は高槻法律事務所へ電話をし、来週の木曜日の午前中にアポをとった。

 近藤はそれを受けて片倉に待ち合わせの場所と時間を電話した。最初、片倉は渋ったがそこは近藤がなんとか懐柔した。

「これからが勝負の本番だな」

 種沢は一息吐いた。近藤は真剣な表情のままだった。

「それにしても本間さんも脇が甘いですよね。いまどき銀行の通帳が手掛かりになるとは思ってなかったでしょうね」

 岡谷が顔を出した。

「で、これからどうする?」

 種沢は真っ直ぐ岡谷を見た。

「高槻先生が証拠充分と判断したら金融監督庁へ告発する」

「相変わらずまっすぐだなあ。本間につけいって金をせびる手もあるのに」

「そんなことできるか。腐っても相手は銀行だ。こっちは法律の範囲内で法律を使って対抗してやる」

「それはいいんだけど、うちが結んだ三ツ葉銀行と三ツ葉信用調査の契約、あれはどうなるんだろう」

 種沢はちょっとだけ思案した。

「三ツ葉銀行の一〇〇〇万の融資はそのままだろうけど、三ツ葉信用調査の五〇〇万は帳消しを狙っていく」

「その五〇〇万、そこがネックだな」

「というと?」

「たしかに五〇〇万は手つかずでうちに残ってるけど、果たして満額返済となるのかな。それに相手は銀行だ。うちと同じような妙な契約を結んで返済不能になっている会社もあるだろう。まあ、芋蔓式に本間のやり方が露呈して、三ツ葉銀行の信用もガタ落ちってところなのかなあ。種沢、どう判断する? 結局は三ツ葉銀行にダメージを与えるだけで、うちの会社としてのメリットは何もないように思えるんだが」

 種沢は毅然と応えた。

「うちの会社にもメリットはあるだろ。何かしらの不正を抱えた取引先、特に銀行なんて信用できるか。ビジネスならビジネス。金のことは清廉潔白じゃないとそれだけで信用はガタ落ちじゃないか。私はそんなことはしないし、許しもしない。それが社内であれ社外であれね」

 こういう種沢の信条があるからこそ、岡谷は種沢を信用できていた。種沢は不正はしない。金に汚くない。だがそれが裏目に出ることもあるんじゃないかと岡谷はちょっと心配していた。

 そもそもが三ツ葉銀行と三ツ葉信用調査とのいかがわしい契約を結んだのは種沢だ。

 その種沢の経済的知識の欠如、経営判断の浅慮が今回の事件の発端なのだ。それを岡谷は経営者としては、まだまだ種沢は未熟、誰かのサポートが必要だと考えていた。

 そのサポートを岡谷が買って出る積もりでいた。

 だが、結果はこうだ。

 いま思えば、三ツ葉銀行の融資の契約締結の際、岡谷が一緒にいれば、あるいは近藤を同行させていればこんなことにはならずに済んだであろう。それを種沢の失敗ととるか、サポートできなかった自分に責任があるのか、それとも両方なのか、岡谷の心中は複雑な思いがあった。

 それとは一方、近藤はこの事件を楽しんでいる節があった。

 近藤は元々SE,のち経理畑を歩んできた人物だ。

 フォーカスエンジン社で最も社会人経験が豊富で人脈もあった。

 その近藤が今回の事件で誰とも分からぬ人物の尾行をしたり、脅迫とまではいかないが事情聴取したりと、とても経理のやる仕事ではないことを易々とやってのけた。

 岡谷は近藤を休憩スペースに誘い出し、そのことを近藤に訊いてみた。

「ああ。こういうことは滅多にあるもんじゃないですね」

 近藤は笑顔だった。会社の窮地にもなりかねない状況なのに、近藤は溌剌としていた。

「近藤さん、今回の三ツ葉信用調査の件、最終的にどうなると思います?」

 近藤は即答した。

「まあ裁判にでもなるんじゃないですか。その方が結局コストがかかりませんし。裁判って長いんですよ、結審するまで。ですがその間にうちの会社が潰れることはないと予想してます。まあ、裁判期間は二年から四年ってとこじゃないでしょうか。こうして悠々と構えてられるのも、うちは被害者の方ですし、他にも三ツ葉銀行から同じような契約を結ばれた企業さんも多分いるでしょうから、集団訴訟という手もできそうですね。契約書そのものに瑕疵はありあせんが、その契約の履行方法に問題があるんです。この金の流れは確かにおかしい。そういった調査はちゃんと公的機関にお任せして、うちは淡々と日々の業務をこなして会社の体力をつけていった方がいいんじゃないでしょうか。問題なのはどのタイミングで告発するかです。早いにこしたことはありませんが、こういったことは急がば回れです。さっきも行った通り、集団訴訟になるよう粘るか、うちの会社だけで逃げ切るか、そういった判断になるでしょう。で、岡谷さんはどっちを選びます?」

 岡谷はちょっと考えてから応えた。

「集団訴訟の案はひとまず排除しますね。というのも、被害者を集めるのにも時間がかかりますし、第一だれが被害者なのか調査するのもコストがかかりすぎるように思えるからです。もしうち一社だけで裁判をして、それなりの三ツ葉銀行に勝てたら、あるいは勝訴に近い示談になれば、他の裁判でも判例として生きてきますから。これは近藤さんの方がよくご存じでしょうが、うちの会社だってそれほど金銭的に体力があるわけじゃありません。なんせ銀行融資に頼るぐらいですから。会社は営利を追求する集団です。ですからうちだって一円でも惜しいんです。取れるところからは一円でも多くとりたい。まあ、世間相場や過去の判例がありますから、三ツ葉銀行から金を引っ張れるとは思っていませんが、融資額の返済の減額に繋がれば御の字です」

 なるほど、と近藤は頷いた。

「では種沢さんはどう判断すると予想します?」

 岡谷はこれには参った。種沢なら正義を振りかざして巨悪に立ち向かう。そういうやり方を好むのを知っていたからだ。

「……集団訴訟を選ぶかもしれませんね……」

 近藤は身を乗り出した。

「そうかも知れませんね。もしそうなったとき、岡谷さんは種沢さんをどう説得しますか?」

 岡谷はこれには即答した。

「コストで考えて欲しい、と言いますね。集団訴訟ともなれば結審するまでに何年かかるか、弁護士費用もいくらかかるか想像がつきません。それならば数年で片がつく方を選んだ方がコスト的に有利だ、と説得します」

 近藤は両腕を組んで仰け反った。

「うーん……種沢さんがそれで納得してもらえますかねえ……もっと三ツ葉銀行の裏が分かれば、それこそ社会問題に発展するような事案のように思えるんですが。それをただのベンチャーの訴訟一件で終わらせていいものかどうか、そこが思案どころなんじゃないでしょうか」

 確かに種沢ならそう言い出しかねない、と岡谷は思った。

「しかし、それは本当に他社もうちと同じような妙な契約を結んだ、という確証が前提になってますよね。それを調査するコストがばかにならないんじゃないでしょうか。実際に調べてみて、うちだけの場合だって想定できるわけです。そんな徒労を踏むほどうちには体力がありません」

 近藤はにやけた。

「では私がこの数日間、片倉に張り付いていた程度のコストしかうちは支払えないと?」

 岡谷の表情は曇った。だがゆっくり頷いた。

「そうですね。でもそりゃそうですよね。私の単金、それほど高くないですからね。あ、いや、嫌味で言ってるわけじゃないですよ」

 それは分かってます、と岡谷は応えた。

「いやあ、それにしても、こう言っちゃ何ですが、結構楽しかったなあ。あんな探偵ごっこ、久しぶりにやりましたよ」

 その言葉に岡谷が食い付いた。

「久しぶりってことは、以前も似たようなこと、やってたんですか?」

 近藤は大笑いした。

「あんまり大きな声では言えませんけどね。経理と言ってもデスクワークだけが仕事じゃないときもあるんですよ。稀に信用調査に動くこともあるんです」

 やはり三ツ葉銀行との融資の契約のとき、近藤を同行させるべきだった、と岡谷は思った。

「例えばですよ、新規の取引先が幽霊会社じゃないかどうかとか、社長が何か悪さをしていないかどうかとか、夜の街を尾行してみたり、本当にごく稀ですが、そういったことはやったことがあります」

 岡谷はやろうと思えば近藤の履歴書を探して近藤の過去の経歴を調査できる。しかし、そういった脛に傷をもつ人材は採用していないのだが……。

「あ、ここは釘を刺しておきたいんですけど、反社と繋がりがあるとか非合法なことはやったことはありません。今回の三ツ葉銀行さんの件で探偵の振りをしたのが初めてですよ。でも楽しかったなあ。もう二度とやる気はありませんが」

 この近藤という男、今まで修羅場をくぐり抜けてきたのは大体岡谷にも予想できていたが、どんなことをやってきたのか、その詳細までは知らなかった。

 たかがサラリーマンと言えども、年季が入ってくると、こうも狡猾で策謀に長けた人間になるのか。この近藤という男は種沢とは全く種類の違う人間なのだと岡谷は思った。

「近藤さん、そういった話はなるべく社内では言わないでくださいね。うちは全うな会社ですから。今まで近藤さんがどんな仕事をやってきたかは履歴書の範疇でしか知りませんが、これからはくれぐれも合法の範囲内でお願いしますよ」

 近藤はまた大笑いした。

「分かってますよ! 私も転職した動機の一つに、そういった仕事をするのに嫌気が差したからなんですよ。それに種沢さんの面接の時の第一印象が凄く良かったからなんです。ああ、この人は悪い部分を持っていない。言い換えれば世間の悪事に手を染めずに育ってきた純真無垢な人なんだ、これからはそういう人ももとで働きたい、グレーゾーンすれすれのしごとなんかしたくない、この会社ならそんなことは絶対にない。そう思ったから転職したんですよ」

 近藤の目が輝いた。それは今までの人生経験の中で清濁併せ呑んできた人間の目だった。

 例えば昼間の太陽の陽も輝かしいが、夜の繁華街のネオンサインも輝かしい。近藤の目はその両方の輝かしさが混じり合ったものだった。

 こういった人材がうちの会社で活躍してもらう機会が、もうそろそろでてくるのかな、とも岡谷は思った。

 しかし、そういった善にも悪にもなれる人材を採用したのが吉とでるか凶とでるか、それは予想できなかった。

 近藤は経理の人間だ。経理といえば会社の中枢の一つだ。そこに近藤のような老練の人材を配置するのはある種の賭けに近かったのだ。

 だが今のようなフォーカスエンジン社の立場になってみると、その狡猾さが会社のためになるのも事実だ。

 取扱要注意人物。そのレッテルを岡谷は近藤に貼った。


 本間は焦っていた。

 何といってもこれから臨時株主総会開催の連絡を関係者全員に連絡し、承諾を得なければならないのだ。

 銀行の窓口業務が終わると、また今日もバタバタと行員たちが仕事に追われだした。

 本間はその隙に行内を出てスマホを取り出しだ。

 ことは急だ。最も御しやすい片倉から電話していった。

「明日の夜はバイトなんですが……」

「そんなものどうでもいい! 臨時の意味が分からんのか! とにかく、明日だ!」

 本間は会場の住所と開催時間を乱暴に片倉に告げて強引に電話を切った。

 たかがペーパーカンパニーの雇われ社長のくせに、この期に及んで口答えするとは何たることか、と本間は憤慨した。

 本間は行内に戻り、支店長室をめざした。

 が、部下たちの面倒をみないわけにもいかない。融資課の社員たちが次々に本間へ決済の捺印や書類のチェックを依頼してくる。その一々にかまってやらなければならない。

 サラリーマンと言えども、人の上に立つ立場になると、こうも面倒くさいものだったのか、と本間は毎日の自分とは違って、今日はいやに苛立っていた。

 それもそうだ。早く笹沼に三ツ葉信用調査の臨時株主総会の開催を知らせなければならないのだ。

 こういう内心の焦りは顔に出る。態度に出る。当然仕事も雑になる。

 本間の部下たちは機敏にいつもの本間「課長」とは違うのを感じ取った。

 今日は何かあるんだ。

 部下たち全員がそう思った。

 しかし、その原因を探ってくる者はいなかった。

 無論、そのはずだ。苛立った人間にその原因を訊くなど、まともな社会人であればするはずがない。

 本間の仕事は順調に進んでいった。これはいつもと変わらぬのだが、その変化のなさは部下たちが作り上げたもので、本間の実力ではなかった。

 仕事が一段落ついた。本間は席を立ち支店長室へと向かった。部下たちは何事かとも思ったが、全員がそれを素知らぬふりをした。

 本間が支店長室の前で、ドアを二回ノックし、「本間です」と名乗った。

「どうぞ」と笹沼の声がかかった。

「失礼します」と本間は扉を開けて一礼してから入室した。

「本間、まあ座って」

 と笹沼が本間を応接用のソファへ促した。

 本間はまた「失礼します」と言って笹沼と同時に着席した。

「さっそくなんだが、要件は三ツ葉信用調査のことか?」

 本間は「はい、そうです」と応えた。

「で、どうなった?」

「明日の午後六時、新宿の貸し会議室で臨時株主総会を開くことにしました」

 笹沼は頷いた。

「そうか。で、参加者はいつも通りなのか?」

「はい。そうです」

 笹沼は事務的だった。

「思ったより早いな」

「恐縮です」

「で、参加者全員の了承は得られたのか」

「いえ、株主のお二方にはまだ連絡していません」

「そうか……」

 笹沼は急に思案げに首を傾げた。

「株主には私から連絡しておこう」

「よろしいんでしょうか?」

「ああ。かまわないよ。君も今、仕事中だろ? 老人たちの相手は時間がかかるから、私が代わりに伝えておくよ」

「ご配慮ありがとうございます」

「じゃあ、時間と場所を教えて」

「はい」

 本間は新宿の貸し会議室の住所と時間を報告した。

「じゃあ後は私が連絡しておくから」

 あまりの呆気なさに本間は驚いた。

「……ではよろしくお願いします」

「ああ。君は通常業務の方をよろしく。まだ忙しい時間帯だろ」

「え、ああ、はい……」

「下がっていいよ」

「……それでは失礼します」

 本間は支店長室を退室し、また仕事に戻った。

 支店長室には笹沼しかいない。

 笹沼は執務デスクに戻り、ノートPCと向き合った。旅行会社のホームページを開き、予約を取った。予約確認のメールがすぐに届いた。

 笹沼はそこで一呼吸してから谷屋に電話した。電話はすぐに出た。

「三ツ葉銀行の笹沼です。臨時株主総会の開催が決まりました。急で申し訳ありませんが、明日の午後六時、西新宿になります。あ、メモよろしいですか。住所は新宿区西新宿○丁目○の○、○○ビル二階の二〇二号室です。議題の内容は先日お伝えした通りです。ええ……片倉君の方の手配は終わりました。……いやいや、急で申し訳ありませんが、これも致し方ないことでして。片倉君はパスポートを持っていますから大丈夫です。会議が終った一週間後、すぐ飛んでもらいますので……ええ……ええ……その点も準備済みです……いやあ、本間君も驚くでしょうね……しかし、もう決定事項ですから、今さら覆しようもないでしょう。……はい……はい……ええ……その点も承知しております。はい……はい……承知いたしました。それでは明日、よろしくお願いいたします。失礼します」

 笹沼は静かに受話器を置いた。続けざまに狭間へ電話した。狭間もすぐに電話に出た。

「三ツ葉銀行の笹沼です。臨時株主総会の開催が決まりました。大変急でなんですが、明日の午後六時、西新宿になります。住所を申し上げますのでメモお願いいたします。ええと、住所は新宿区西新宿○丁目○の○、○○ビル二階の二〇二号室です。議題の内容は先日お伝えした通りです。ええ……先ほど同じ内容の電話を谷屋さんにもしました……はい……はい……浦沢さん? たしかIT関連のまだお若い方でしたっけ……ええ……ええ……問題ありません。そのことは谷屋さんもご存じでしょうか? はい、え、あ、ご存じ。なら大丈夫です。ですが本間君は知らないはずなので、ちょっとその場で揉めるかも知れませんが、その時は私が諫めますので……はい。大丈夫です……片倉さんへも連絡済みとのことです……はい……はい……さきほど予約しました……ええ、明日、残務整理をさせた後、すぐその足で飛んでもらいます。こういうことは早いにこしたことはありませんから……ええ、その予定です。まあ、いつも通りのシャンシャン会議です。ただちょっと結末が違うだけです……はい。はい……それではまた明日、よろしくお願いいたします。失礼します」

 笹沼は満足げに受話器を置いた。

 明日の三ツ葉信用調査の準備が整った。笹沼は内心、僅かに本間には申し訳ない、と思った。が、もう一方でまだまだ本間は青臭いな、と思う気持ちの方が勝っていた。

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