第17話

 三ツ葉信用調査の臨時株主総会の当日、本間はいつもより早い時間に出勤した。

 というのも、不測の事態に備えていつでも電話対応できる状態にしておきたかったからだ。

 いっそのこと発熱だの体調不良だのと言ってズル休みでもしようかとも思ったが、それはあまりにも子供っぽすぎるので、そういうやり方は出来なかった。

 それほどまでに本間は精神的に追い詰められていた。

 今日の臨時株主総会は、いつものシャンシャン会議では終わらない。本間そう予想していた。

 何と言っても笹沼からやれ、と言われて開催する株主総会なのだ。

 加えて浦沢からの不当な要求もあった。

 本間は浦沢の「一割よこせ」という要求は吞む積もりはなかった。

 たかがチンピラ新興ITベンチャーの言いがかりで動いて堪るものか。お前の会社など潰してやる。そういう意気込みがあった。だが具体的な方策は練っていなかった。そこに本間の不安を募らせる要因があった。

 本間は課長である自分の身の上を考えた。

 自分の立場、権力で本当に中小企業を潰すことなどできるのだろうか、と。

 もしできるなら真っ先に潰したい会社は山ほどある。浦沢のような半分チンピラの小悪党ではなく、本物の金融詐欺師を、今まで本間を苦しめ、本間の立場を危うくさせた詐話師を潰してやりたい。

 本間は浦沢がどこまで上に通じている人物かも考えた。

 肩書きはCEOだの取締役だのと大仰なものがついているが、所詮はベンチャーだ。一〇年後にも大成しているのは、ほんの極僅かだ。その殆どが来週にでも吹き飛んでいてもおかしくはないのを本間は知っている。

 そう浦沢はただの小悪党にしか過ぎない。

 浦沢は今日、臨時株主総会があることを知らないはずだ。

 今日の議題にその浦沢の悪手を披瀝して株主を使って潰すことだってできるだろう。

 そうだ。そうすれば良いのだ。

 そう思うと本間の胸の裡に巣くう緊張が徐々に開放されてきた。

 そうだ。自分は三ツ葉銀行の課長なんだ。

 その自負を忘れてはならない。

 本間はそう自分に言い聞かせた。

 その日の業務は本間にはいやに早く終わったように思われた。本間の心中には今夜の臨時株主総会のことしかない。その焦燥感が時間の感覚を狂わせた。

 本間は午後五時丁度に退勤した。普段では考えられないほど早い退勤だった。行内はまだ窓口業務の事後処理でバタバタしていた。その中を課長である本間がさっさと退勤するのは、普段であれば心苦しかっただろうが、今日に限ってはそうは思わなかった。

 本間はJR有楽町駅から新宿駅まで向かい、スマホのGPSを頼りに貸し会議室へと向かった。

 当然のことだが、会議室は無人だった。

 本間は焦りと怒りの入り交じった複雑な心境の中、会議の準備をした。

 机を並べて椅子を整え、ホワイトボードを入念に消した。

 本間の次に貸し会議室に入ってきたのは笹沼だった。

「支店長、お疲れ様です」

「やあ、もう準備はできているようだね」

「ええ。まあ、いつも通りです」

 本間の心中には浦沢への怒りと焦燥が満ちていた。

「じゃあ、皆さんが揃うまで待つとするか」

 本間と笹沼が雑談をしていると谷屋が入室してきた。挨拶も早々にしていると狭間も来た。

 その三分遅れで片倉が申し訳なさそうに入室してきた。片倉の表情はいつになく硬かった。

 午後六時五分、本間が「それでは皆さんお揃いのようですから始めましょうか」と声を発した。

「いや、あと一人来るから待とう」

 笹沼の一声に本間はぎょっとした。

 あと一人とは? 本間の脳裏に嫌なしこりとなってその言葉が響いた。

 会議室になんとも言えない無言の静寂が降りた。

 午後六時九分、貸し会議室の扉が開いた。

「遅れて申し訳ありません」

 浦沢がそう言うと、手近な椅子に着席した。

 浦沢がいる! 本間は呼んでもいない浦沢が、本間をたかりに来た浦沢がいることにパニックになった。

「それでは三ツ葉信用調査臨時株主総会を始めましょう」

 笹沼の司会で総会は始まった。

 まずはいつも通りの片倉の売上や経常利益などの数字の報告。まだ半期も終わっていないので、その数字はいつもより低かった。みな片倉の報告を真剣に聞いていた。本間はこころなしかいつものシャンシャン会議とは雰囲気が違うように感じた。それは普段ならいないはずの浦沢の存在のせいだと思った。

 本間にとってはこの総会に浦沢がいるのが不思議であり、何を目的に乗り込んできたのか、それが本間を不安にさせた。浦沢はこの株主総会でいけしゃあしゃあと金をたかりに来たのだ。いつ、どのタイミングで浦沢が言葉を誰に発するか、その緊張の一瞬が来るのを本間は怯えて待っていた。

 そもそも、浦沢は三ツ葉信用調査の株主総会とは無関係のはずだ。それがなぜこの場にいる? 逆に言えば、この中の誰と浦沢は繋がっていることになる。一体誰が浦沢と繋がっているんだ? 本間の疑心は尽きなかった。それでも片倉は延々と数字を報告していった。本間は片倉の報告する数字が全く頭に入ってこなかった。

 一通りの片倉の報告が済むと、笹沼が言った。

「以上、数字の報告は終了します。では片倉社長から皆様へご報告がありますので、お願いします」

 片倉の挙動がおかしい。何か怯えているように本間には見えた。

「えー……私、片倉宗次は、大変急ではありますが、本日を持って三ツ葉信用調査の社長を退任いたします。理由は高齢による体力の限界です。お恥ずかしいながら、これ以上職務を遂行するほどの気力と体力が残っておりません。それに伴い三ツ葉信用調査も解散いたします。今まで皆様には大変お世話になりました。いくらお礼を言っても言い尽くせません。それでは皆さん、ありがとうございました」

 本間は愕然とし、野次も反論も出せなかった。この片倉の短い宣言に本間はこの事態を予め決まっていたことだ、事前の打ち合わせがあってその通りに片倉は喋っているだけだ、と思った。

 片倉に代わって笹沼が言葉を継いだ。

「えー、いま片倉社長からのご報告がありました通り、三ツ葉信用調査は解散いたします。それでは会社解散の特別決議をとりますので、ご異論のある方は挙手お願いします」

 本間は慌てて挙手した。笹沼は軽蔑の目線を本間へ投げた。

「すいません、三ツ葉信用調査が解散するなんて聞いてません」

 笹沼が即答した。

「聞いてない? いま言っただろ」

 本間は慌てた。

「どうして解散するんですか。笹沼さん、目標一〇億はどうしたんですか。今まで順調だったじゃないですか。それになぜ浦沢さんがここにいるんですか? 三ツ葉信用調査とは関連のない人物じゃないですか。部外者が株主総会に出るなんてありえません」

 本間の声が狭い会議室に響いた。狭間が小さな声で本間に言った。それはちょっとした秘密の告白だった。

「浦沢君とは古い付き合いでね。彼が新卒で会社に入った時、私の部下だったんだ。それに独立心が強くてね。ほんの数年で独立したんだよ。まあ、浦沢君とはお互い実業家としての付き合いがそれから始まったんだ。それ以降、何かと三ツ葉信用調査の件で相談にのってもらっててね。事実上、浦沢君は三ツ葉信用調査の相談役だったんだよ」

 本間は二の句が継げなかった。

 すかさず笹沼が声を上げた。

「それでは三分の二以上の承認が取れましたので本件は承認とさせていただきます。残務整理は来週中には終わる予定です」

 谷屋がにやけながら言った。

「で、社長は今後、どうなさるのかね」

 どうも答えを知っていながら質問してる風だった。総会の席でその答えを周知するための質問のように見えた。

 その質問には笹沼が答えた。

「片倉社長は必要な事務手続きが終了次第、引退されるとのことです。まあ、今まで多忙でしたから、ちょっとしばらくの間、長めの休養に入られるそうです」

 それを聞いていた片倉は俯きながら頷いた。片倉が多忙なんて噓を本間はすぐに見抜いた。この会議は既に既定路線で動いている。それを知らなかったのが本間一人だけだったと気付いた。

 狭間が小声で「フィリピンだっけ?」と谷屋に訊いた。谷屋は「うん。そう。ほとぼりがさめるまで五年か十年」と答えた。狭い会議室なので二人の会話は他の三人にも筒抜けだった。

 そんな話は聞いていない! 本間は心中で叫んだが言葉に出なかった。いや、あまりに動転していたので声が出せなかった。

 笹沼が説明を続けた。

「それでは三ツ葉信用調査の残余財産の分配ですが、業態が業態だけに、財産と言ってもそれほど多くありません」

 笹沼は一枚のA4用紙を取り出してその紙を読み上げた。

「最後の株主配当として谷屋さん、狭間さんにはそれぞれ一〇〇〇万円ずつ、片倉社長には退職金として五〇〇万円、浦沢さんには今までの顧問料として一〇〇〇万円、残りの一二三万五六〇〇円につきましては会社整理の費用に充塡して、その残りは片倉社長の取り分とさせていただきます。これでよろしいでしょうか。異論のある方は挙手お願いします」

 会議室が沈黙した。本間ももう質疑を出さなかった。いや、出せなかった。

 この会議はいつも通りのシャンシャン会議なのだ。その内容を事前に知らされていなかったのは本間一人だけだと気付いたとき、もう全ては終わっていたのだ。

 本間は全てを悟った。この総会で自分のできることはもう何もない。本間は無力感に苛まれた。

 笹沼が言葉を続けた。

「それでは三ツ葉信用調査が取り付けていたお客様への債権は全て三ツ葉銀行銀座支店への借り換えとなりますので、各お客様への説明と回収を融資課課長の本間君へお願いします」

 本間は呆然とした。三ツ葉信用調査というトンネル会社を経て入金されていた金を自分の責任で回収せねばならないのか!

「ちょっと待ってください。私が三ツ葉信用調査の尻拭いを私がしろってことですか?」

 本間が出せた言葉はこれが精一杯だった。

 笹沼はあくまでも事務的に言った。

「そういうことになります。総額一億一八五〇万円。それの回収を遅滞なく速やかにお願いします」

 それは無理だ。いくら契約書ですぐに三ツ葉信用調査にすぐ振り込め、となっていてもあまりに金額が多すぎる。件数が多すぎる。

「本間君、何か異論があるかね」

 笹間が本間に鋭い視線を投げつけた。本間はたじろいだ。

「……いえ」

「では臨時株主総会は終了とさせていただきます。皆様、今までお疲れ様でした」

 本間の胸の裡ではどうして今、どうして三ツ葉信用調査を解散させる理由が分からなかった。

 解散の理由として片倉の体力と気力の限界と言っていたが、それはすぐ噓だと分かった。片倉はまだ五〇代だ。働き盛りは過ぎているとはいえ、ペーパーカンパニーの社長の閑職ができないはずがない。本間は笹沼に詰め寄った。

「支店長、一体何があったんですか? 三ツ葉信用調査は順調だったじゃないですか」

 笹沼は冷たい視線を本間に投げた。

「これを見てみろ」

 笹沼はタブレットを取り出して本間に見せた。

 そこには本間が肌身離さず持ち歩いていた三ツ葉信用調査の手書きの裏帳簿が表示されていた。

「こんなものが出回っていてね。こんなことになってしまっては三ツ葉銀行の信用に関わる。本間君、君には失望したよ。こんなことになるなら、早めに三ツ葉信用調査を畳むしかないじゃないか。これから君には三ツ葉銀行の信用回復に動いてもらう。上には私から話を通しておく。君は融資の再契約をしてもらうことになる。いいか。うちは銀行なんだ。金にはクリーンでなければいけないんだ。少なくともそういう印象だけは社会に植え付けなければならない。君は自分のやったことを充分理解していないようだね。だが事実は事実だ。噓はいかん。明日からは融資先を回って弁明してもらうことになるから、よろしく頼む」

 頼む? 笹沼は何を言ってるんだ?

 僅かの間、本間は頭が真っ白になった。

 その直後にこの言葉が思い浮かんだ。

 トカゲの尻尾切り。

 嵌められた。おれは信頼していた上長の笹沼に嵌められた。

 笹沼の方では「三ツ葉信用調査」そのものを知らなかったという態で上に報告するのだろう。

 そして本間を待ち受けているのは依願退職か左遷のどちらかだ。

 本間には他の選択肢もあった。

 三ツ葉信用調査に関わる全てをマスコミにリークすること。

 それが一番の社会正義であることは分かっていたが、それはできない。

 もしリークしたところで、それは笹沼と刺し違えるだけで、今後の本間の将来にとって何一つ良いことなどない。

 それに浦沢の存在も気になる。

 狭間とは古い付き合いがある、と言っていたが、もしそうならこの三ツ葉信用調査の発足以来からのことを知っていてもおかしくない。ということは、三ツ葉信用調査が上手く機能するまでを待って、今まで懐刀を隠し持っていたということか。

 そう考えるなら合点がいく。

 本間は恐る恐る笹沼に聞いてみた。

「支店長、どうしてこのタイミングで三ツ葉信用調査を解散させるんですか? 本当の理由はなんですか?」

 笹沼は神妙に応えた。

「さっき見せた裏帳簿の存在が全てだ。それにある筋の情報では、三ツ葉銀行と三ツ葉信用調査の関係に疑問を持っている融資先が複数いる、ということを耳にしたんだ」

 フォーカスエンジン社が真っ先に本間の脳裏に浮かんだ。

「ことが大事になる前に先手を打つ必要があったんだ。だからこの臨時株主総会で会社の解散が必要だったんだ」

 谷屋と狭間はニヤニヤしていた。

 谷屋が「今が潮時なんだよ」と本間に言った。

 潮時? 本間には三ツ葉信用調査にそれほどの危機が迫っているとは思えなかった。

「しかし、今まで上手くいっていた金蔓を……」

 と本間が言いかけて笹沼が遮った。

「それがいかんのだよ。本間君、君は欲をかきすぎた。もう少し客観的になれ。自分が誰にどう見られているか、どこまで探られいるかを知っておかなきゃならん。いいか、こんな裏帳簿まで出回っているんだ。これをネタに揺すられるかもしれんし、金融監督庁へ告発されるかもしれん。そうなる前に全てをご破算にしておくんだ。分かったな」

 本間は笹沼の言わんとすることは理解できた。

 それは笹沼と谷屋、狭間が描いたシナリオだった。

「じゃあ、あとのことは頼むよ」

 谷屋がそう言って会議室を後にした。

 程なくして狭間と浦沢も退出した。

 残ったのは笹沼と本間だけだった。

「支店長、これはあんまりじゃないんですか。私は支店長と共謀していたことは認めます。ですが支店長は私を裏切った。これで私の銀行マンとしての人生はパアですよ。これ、どう責任をとってもらえるんですか」

 笹沼は冷たい目で本間を見た。

「責任? 本間君、社会人になるとね、全ては自己責任なんだよ。君は確かによく働いてくれた。しかし、やり過ぎたんだ。まあ、私の方から上へはそれなりに配慮をしてもらうよう説得するから、その点は安心してくれ」

 人を裏切ってまたその口で口約束をするのか。本間は憤った。

「そうですか。昨日まで支店長は私と同じ側にいらっしゃると思ってたんですが、どうも私の勘違いだったようですね」

「勘違い?」笹沼はその一言を呟いた。

「支店長の仰ることはよく理解できました。自己責任ですね。承知しました。私は私で私なりの責任の取り方で責任をとります。今後はその積もりでいらっしゃってください」

 そう言うと本間は少々強引に笹沼を退室させた。笹沼は振り返りもせず会議室を後にした。

 会議室には本間一人になった。

 啖呵を切ったまではよかった。だが無策だった。今のところは無策だった。

 本間は会議室を片付けながら明日以降の自分の身の振りようを考えた。

 差し当たり定時通りに出社はする。

 そしてどうやって本間の裏帳簿を盗み見た者がいたかを調査する。

 本間にも信頼できる部下はいる。その部下に捜査をさせよう。

 いや、その信頼できる部下の中に犯人がいるかも知れない。本間に信頼されているからこそ、本間に近いからこそ、あの裏帳簿の存在に気付いたのかも知れない。

 本間は自分が所詮はサラリーマンであることを呪った。

 サラリーマンの信頼は人間関係上のものよりも仕事関係の上で築かれるものだ。そこに個人的な悪意がどこに潜んでいてもおかしくはない。

 疑心暗鬼。まさに疑心暗鬼が本間の心を埋め尽くしていた。

 所詮自分はサラリーマン。人に使われる側の人間だ。

 そういう人生を歩んできてしまったので、たった一人でこの世の中を闊歩する自信はなかった。

 どこかでこの笹沼を失脚させられる資料を求めているところ。それはどこか?

 本間はその会社を二社思いついた。

 一つはフォーカスエンジン社だ。

 だがあの潔癖すぎる社長の性格からいって、銀行内の不正なりグレーゾーンなりを見付けると、それを白日の下にされるだけで終わるのは容易に想像できた。

 やはりあっちの会社か、と本間は思った。

 本間は会議室を片付け終わると鍵をかけて外に出た。

 丁度エレベーターホールを出たところに一人の男が立っていた。

 浦沢だ。

 本間は「先ほどはどうも。お疲れ様でした」と会釈した。

 浦沢は本間ににこやかに言った。

「本間さん、実は折り入って二人だけでお話をしたいんですが、お時間、ありますか」

 本間もその浦沢と同じ調子で返事をした。

「いや、総会が終わってから色々と考えまして、浦沢さんにもう一度お目にかかれないかと思っていたところなんです」

 浦沢は微笑んだ。

「じゃあ、ちょっとこれから夕食か一杯飲むか、一緒に行きませんか」

「ええ。ぜひとも。ちょっとその前に会議室の鍵を返しに行きますんで」

「ああ。分かりました。私もご一緒していいですか」

「ええ。お手間でなければ」

 本間と浦沢は二人で夜の新宿の雑踏の中に消えていった。


 翌日の朝、本間は普段と変わりなく出勤してきた。

 既に業務に当たっていた行員たちに「おはようございます」と声をかけられ、返事をした。

 そこまでは普段と何も変わらなかった。

 午前九時になった。銀行の窓口のシャッターが開いた。

 本間はデスクに着いて一呼吸すると鞄から白い封筒を取り出してスーツの脇に入れ、支店長室へ行った。

「支店長、本間です」

 やや間があって「どうぞ」と室内から声がした。本間が来るのが意外だったらしい。

「失礼します」

 本間は一礼して支店長室へ入った。

「本間君、どうしたのかね。今日からは色々忙しいはずじゃないかな」

 笹沼は執務デスクの黒い肘掛け椅子にふんぞり返って言葉をかけた。

「これをお持ちしました。お納めください」

 本間はスーツの脇から白い封書をだした。「辞表」と書かれていた。

 そんなことか、と笹沼は歯牙にもかけない様子だった。

「なんだね。昨日の株主総会の時はなにやら不服そうだったが、これがその結論か」

 本間はまっすぐ言った。

「はい。そうです」

「で、三ツ葉信用調査の後始末は誰がつけるというのだね」

「それは私の判断ではありません。三ツ葉銀行銀座支店内での判断かと思われます」

 そう来たか。と笹沼は思った。

「よし、分かった。ご拝受しますよ」

「ありがとうございます」

「君も知っての通り、銀行マンは一度のミスで全てがパアだ。もし君がこの銀行に居座ったとしても、どこか田舎の窓口係に降格されるのは承知の上なんだね」

「はい。仰るとおりです」

「でもすいぶん早急じゃないか」

「私、決断は早い方ですので。それに……」

「それに?」

「私の持っている知識と経験、資料を高くかって下さる方が見付かりましたので」

 誰のことだ? 笹沼は不審に思った。

「言っておくが、業務で使った資料を社外へ持ち出すことは機密漏洩で犯罪にあたるからね。そこだけは注意してね」

「承知してます。ですが内部告発なら問題ないかと思われますが」

 刺し違える積もりか、と笹沼は考えた。飼い犬に噛まれる思いだった。

「分かった。分かった。後のことは後任者に任せるから、君の好きなようにすればいい」

 たかが課長の分際で、よくも支店長に楯突いてくれたな、と笹沼は思った。しかし、本間は裏帳簿の原本を持っている。これは本間にも笹沼に諸刃の剣になる。

 だが本当に本間がその剣を振りかざすほどの度量があるようには笹沼には思えなかった。それは今までの本間の業務態度や性格からしてあり得ないと踏んだのだ。

 本間の好きにさせるのが一番安全だ、と最終的に判断したのだ。

「本間君の退職については確かに辞表を受領しよう。ですが今日を起点に一ヶ月は引き継ぎやら内部調整やらで来てもらうけど、それはかまわないね」

「もちろんです。ですが有給休暇がたまっているので実質あと二週間の勤務になります」

「分かった。今日辞表を出したことはなるべく内密にしてくれ。職場を動揺させたくないんだ。君の後任が決まってからにしてくれないかな」

「承知しました」

「それじゃあ、短い付き合いだったが、これでお終いか。色々ありがとう」

「こちらこそお世話になりました」

「いえいえ」

 本間は一礼して支店長室を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る