第15話

 笹沼から電話がきた翌日、相田はいつもと同じように出勤してきた。

 いつもの同僚たち、いつもの業務、いつもの風景――銀行業務は金を扱うので常に緊張感があった。業態が業態なのでデスクワークと客との折衝には細心の注意が払われた。

 体の疲れは少なかったが、精神的なストレスの多い職場だった。

 相田のように融資担当ともなると、顧客の人生を台無しにする可能性もあり、逆に信用できない顧客が飛んでしまい、銀行に損害を与えてしまうこともある。

 融資の額は一件につき大体六〇〇万円から八〇〇万円が多い。これは顧客である会社の資本金の大体二倍が目安となっている。目安となっているだけで与信調査によっては減額もあるし、そもそも融資がおりない場合もある。

 その最終判断を相田は本間と共に業務として行っている。

 相田の役職の重責は想像以上に重い。

 相田は学生の頃は、銀行は安定していて将来の不安もないだろうと安直に考えていたが、その最前線の融資担当ともなると、どの会社がいつ倒産するか、夜逃げするか、はたまた経営者の自殺が起きるか、そういった社会の裏の顔に面することが多く、ストレスも相当なものだと体験して身に染みていた。

 銀行はお金屋だ。そのお金で人々の人生を棒に振らせることも、実らせることもできる。

 そう実感していた。

 相田の業務は人を狂わせることもできる。相田自身はそう思っていた。

 その狂気の渦中の中心に自分がいる。そうも思った。

 昨晩の笹沼からの電話もその一つと思っていた。

 本間が常に身から離さず持ち歩いてる資料のコピーをとるのだ。

 そこに機密情報が書かれているのは容易に想像できた。その機密とは一体なんなのか。その正体を知らぬまま、本間本人以外に手渡すのは今後の自分の保身に悪く働くのではないだろうか?

 そういった不安が頭の隅から離れなかった。

 しかし相手は笹沼支店長だ。信頼してよい、むしろ信頼して命令に従うのが本当だ。

 笹沼から業務時間以外から直接相田のスマホへ電話してきたこと自体も相田の不審を募らせた。

 笹沼は「本間君を守るため」と言っていたが、何から本間を守ろうとしているのか、何が本間を襲おうとしているのか。それについて笹沼は言葉を濁していた。

 そこが気になる。言えない理由があることそれ自身が不審に思えてならない。

 しかし相田は笹沼に「イエス」と言ってしまった。今さらながら、笹沼の支店長という肩書きを盲信してしまった自分を後悔した。

 銀行内での契約・約束事は必ず守らなければならない。噓偽りは信用商売の銀行マンとして最もやってはいけないことだ。

 相田は笹沼の言っていた通り、すり替え用のファイルを用意した。

 そして本間がトイレに行っている間にファイルをすり替えた。

 相田はそのままコピー機に向かった。

 計二六枚のA4用紙を二部ずつ両面コピーし、一部は新たなファイルに綴じ、もう一部は隠し持った。

 相田はその紙に会社名と一〇〇万円単位の数字が日付とともに手書きされているのを見た。

 何かの帳簿?

 相田の目にはそれが何かの帳簿であることはすぐに察したが、それが何であるかまでは推察できなかった。

 本間が戻ってきた。ファイルがすり替えられているのには気付いていない。

 昼休み、いつも通り本間はファイルを抱えたまま昼食に出た。

 もし本間がいつものファイルと違うと気付くとすればこのタイミングだけだった。

 相田は緊張したままだった。

 もしファイルのすり替えが発覚しても、その犯人が相田だということは誰にも気付かれないだろう。

 むしろ、本間の秘密がそのファイルにあるとすれば、本間はすり替えられた事実を隠し、隠密にファイルすり替えの犯人捜しを始めるだろう。

 本間が昼休みから帰ってきた。

 相田は本間の顔色を窺った。普段ならそんな下劣なことはしないのだが、相田は自分が何かの陰謀の手先に使われている気がしてならなかった。その慚愧の念が普段は思うことすらない罪悪感を生んだのだ。

 相田は融資希望者との打ち合わせの間にもファイルのすり替えのことが頭の裡にこびりついて離れなかった。

 打ち合わせも無事に終わり、デスクに戻ると本間はいつも通りノートPCに首ったけだった。

 相田は本間が離席するチャンスを窺ったが、なかなか離席しない。午後の会議に本間が出席するときは、本間はちゃんとそのファイルを会議室へ持っていった。

 自分からチャンスを待っていてはいけない。チャンスは自分から作るものだ。相田はそう考えた。

 本間が会議から戻ってくると、本間は椅子に深く座り込んで天井を仰いだ。

 その時、相田は後ろ手に本物のファイルを持って本間の席に近付いた。

「課長、大分お疲れのようですね」

「ああ。まだこんな時間なのに、疲れてる場合じゃないんだけどね」

 相田は本間の死角に入るように偽のファイルとの間に入った。

「今日の会議はこれでおしまいですか」

 そう言いながら後ろ手で偽のファイルと本物のファイルをすり替えた。

「いや、あと一本会議が残ってる。それが終われば今日はおしまいかな」

「いつも思ってたんですけど、会議ばかりじゃなですか」

 相田はすり替えた偽のファイルを後ろ手で握りしめた。

「会議と言っても殆どが報告ばかりだから退屈なんだけどね。まあ、頭を使うところがないから、考えようによっては楽かな」

「偉くなるとそういうものなんですかねえ」

「君もやってみれば分かるよ。あんまりお薦めしないけどね」

 相田は「それじゃ失礼します」と笑って見せ、雑談を終わらせて自席へ戻った。

 相田の作戦は成功した。

 あとはできれば誰にも感づかれずに笹沼へファイルのコピーを渡すのみだ。

 相田は隠し持ったもう一部のコピーを自分のロッカーへ入れた。

 午後二時五〇分だった。もうすぐ窓口業務が終了する。

 相田はオフィス内が俄にバタつくのを感じた。

 毎日のことであるが、窓口業務が終わってからが本当の銀行業務が始まるのだ。

 その日の出納、振り込み、ブラックリストのチェック。一円たりとも矛盾や消失がないかの確認が始まるのだ。

 午後三時一五分になった。最後の客が出て行った。

 さあ、これからだ。

 行員たちはPCを睨み付け、そうかと思うと各部署へ確認のために走り回った。

 そのちょっとした混乱の中、相田は支店長室へ向かった。ドアを二回ノックし「相田です」と名乗った。

 中から「どうぞ」と声がかかった。相田は「失礼します」と言って支店長室へ入った。

「支店長、報告書を持って参りました」

 そう言うと相田は両手でファイルを笹沼へ差し出した。

 笹沼は「ああ、ありがとう。無理を言って悪かったね」と何事もないかのようにファイルを受け取った。

 そのファイルの表面に相田の書いた付箋が貼られていた。そこにはこう書いてあった。

「後日この資料の内容を教えていただけませんか 相田」

 ふん、小娘が。

 笹沼は心中で呟いた

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