第9話
フォーカスエンジン社の社内はとにかくバタついていた。
というのも新社屋への引っ越し準備のため、この一週間のあいだ休業にして部屋中の荷物を荷造りしていたのだ。
部屋のあちこちには運送屋のロゴの入った段ボール箱が積み上がり、空になった本棚が間延びして突っ立っていた。
荷物の段ボール箱は、通常業務を行っているリビングにも積み重なっていた。はっきり言って邪魔だなあ、と近藤は思ったが、それは他の四人も同じ感想を持っていた。
それにしても思いの外、書籍が多い。その殆どが技術書で、オライリー出版のものが半数を占めていた。あの臙脂色の背表紙が騒然と並んでいたのは、いかにもIT企業らしかったが、こうして荷造りしているといかにオライリーの技術に頼っていたのかが分かる。
IT分野においてはその一次情報の殆どがウェブにある。だから最先端の技術を学ぶにはウェブを当たるのが妥当だ。しかし、ウェブにあるものが全てではない。ちょっとしたテクニックやノウハウは、やはりその筆者が書き起こした紙の本に頼るところが大きい。では電子出版で充分ではないかと思われるだろうが、気軽にすぐ誰でも手に取って読めるようにしておくには、けっきょく紙の書籍が一番便利なのだ。
今日は神林と幸田が荷造りをしていた。
「近藤さんちょっと後ろ通りますよ」
幸田が段ボール箱を重そうに持ちながら近藤の座席の後ろを行ったり来たりしていた。
この忙しなさはなんとかならんのかなあ。
近藤はそう思いながらも引っ越しなのだから仕方ないと諦めていた。それどころか、自分が荷造りをやらされていないだけでもラッキーといえばラッキーだった。
いま近藤は本間の素行と個人情報を狙っている。
まずは本間のフルネームでググり、本間がSNSで何か書き込みがないかを調べた。
以外にも本間と同姓同名の人物が少なく、本間本人のSNSを突き止めるのは簡単だった。
本間伸征。四二歳。埼玉県浦和市在住。早稲田大学卒。五月二〇日生まれ。顔写真も本間のそれだった。
本間は空手を趣味としていることが分かった。
実際に本間とすれ違った印象としては、それほど格闘技をやっているようなゴツい体格ではなかったのだが、人は意外なもので誰とどう繋がっているか、思いもよらないことが露呈することも多いのだ。
実際に本間と対面した神林にしても「そんな格闘技をやっているような威圧感は感じませんでしたよ」と言っていた。スーツの内側までは見透かすことはできないのだ。
本間の書き込み頻度は月に三四件ぐらいのもので、SNSに嵌まり込んでいる様子はなかった。
近藤は本間のSNSから友人関係を洗い出していった。
どうも本間はSNS上では仕事関連の人物との繋がりは持たず、同級生たちや趣味の空手の仲間とだけ繋がっているようだった。
即ち、本間の繋がりのある人物には「勤務先」欄に金融関係の職を持つものがいなかったのだ。
仕事とプライベートはちゃんと分ける、か。
そういった姿勢はベンチャーに勤める近藤とは真逆だった。
ベンチャー企業の場合、SNSは格好の宣伝手段なのだ。
とにかく取引先や同業者と繋がりを持ち、まめにSNSを更新して「こんなに元気ですよ。頑張ってますよ」とアピールするのが常だった。
もっとも、近藤は経理なのでそんなことはしていなかったが、種沢や岡谷は自己宣伝をしまくっていた。それが正しいベンチャー企業の取締役の役目でもあるかのように、繋がりのあるアカウントは一〇〇〇を超えていた。
そんなに繋がったところで実際に顔を合わすのはせいぜい十数人なのだが、「これだけ顔が売れてますよ」というアピールには必要なことだった。
本間は手堅い職場ということもあろうが、そういった無理のあるアピールを全くしていなかった。
それもそうだ。銀行屋がSNSで頭角を現していたら、それこそ不自然だ。
近藤は本間と繋がっている人物たちの名前をメモしていった。この中の誰が本間の素性をしる人物がいるに違いない。そう思ったのだ。
近藤は不意に思い出した。
今日、三ツ葉銀行からの融資が来る予定だったのだ。
近藤は銀行の会社名義の口座をウェブで確認した。
あった。三ツ葉銀行からの融資一五〇〇万円。
もうこれでフォーカスエンジン社も三ツ葉銀行の手の内に収まったようなものだ。さて、次の一手をどう打つべきか。近藤は種沢と岡谷を呼び出した。
「ついに来たか」
「さて、どう料理してやろうか」
「どうします? これ」
「ちょっと時間を置いてみよう」
「なぜです?」
「相手の出方を知りたい。取り敢えず確認はできたから仕事に戻ってくれ」
「はい」
近藤は銀行のページをログアウトし、またSNSを表示させた。
「近藤さん、SNSばっか見てるんだったら、荷造り手伝ってくださいよー」
幸田が冗談交じりでそう言うと
「遊んでるように見えるだろうけど、これも仕事の一環なんだ」
「ところで何やってるんすか?」
「三ツ葉銀行の本間さんのことを検索してる」
幸田が荷造りをしながら、顔を近藤に向けずに言った。
「私と神林とで三ツ葉銀行のこと、調べてるじゃないです」
近藤は思い出したように言った。
「ああ。そうだったね。で、何か収穫はあった?」
幸田はようやく顔を近藤に向けた。
「それが、全然。さすがに銀行は手堅いっすね。せいぜいIR情報ぐらいが関の山です。グループ会社も沢山ありますから、そっちも調べようとすると、単なる組織図の作成作業になっちゃうんですよ。さすが財閥系の銀行。もう子会社やら系列の会社やら、あちこちにありまくってこう……」
幸田は半笑いで説明した。財閥系でそれだけ会社がある、ということは、天下り先なりペーパーカンパニーや幽霊会社がいくつもある、ということだろうか?
「近藤さん、さすがにネットだけではそこまで調査できませんよ。世の中、全てがネットの中にあるわけないじゃないですか。そのことは近藤さんの方がよくご存じなんじゃないですか?」
言われてみればその通りだ。ネットには公開しても差し障りのない情報しかない。本間の住所を調べられたのも、尾行をしたからだった。
「あ、ですがね、三ツ葉信用調査の社長、ちょっときな臭い人物なんじゃないかってことは分かりましたよ」
幸田が言うには、三ツ葉信用調査の社長、片倉宗次と同姓同名の人物が「官報情報検索サービス」に自己破産者として載っていた、とのことだった。
「自己破産者が会社の社長になれるんだっけ?」
自己破産をした場合、その後に職業の制限がかかるはずだ。
「ええ。大丈夫みたいですよ。職業が制限されるのは自己破産中のみみたいです。その辺は近藤さんの方が詳しいんじゃないですか?」
白状すると、近藤はそこまでは知らなかった。
「年齢は分かる?」
「分かりませんでしたねえ。近藤さんも『官報情報検索サービス』、使ってみたらどうです?」
すぐさま近藤も「官報情報検索サービス」へアクセスしてみた。IDとパスワードは幸田が取得したものを流用した。
近藤は、こんなことは言いたくないが、さすが官制。使いづらいったらありゃしなかった。
しかし片倉のフルネームは分かっていたので、どんどん検索結果を目で追っていった。
年間の自己破産者は約七万人だ。それを逐一目で追っていくのは事実上不可能だ。それを何とかして検索キーワードを凝らして検索していくしかなかった。
「幸田さん、どうやって片倉さんの情報まで辿り着けたの?」
幸田は荷造りの手を休めて近藤のPCへ向かった。
「こうですよ。ほら」
幸田はいくつかのキーワードを入力して検索結果を表示させた。
「ここから先は目で追ってください。こういうの、近藤は嫌うでしょうけど、仕方ないんですよ」
「ありがとう。ちょっと調べてみる」
近藤は幸田の言った通り、検索結果を眺めていった。
あった。片倉宗次。平成二〇年一二月二〇日破産申請。住所の記載もあった。
長ったらしい文章を読み進めていくと、片倉は個人の運送会社をやっていたことが分かった。平成二〇年といえば西暦で二〇〇八年。丁度リーマンショックがあった年だ。片倉の会社もその煽りを受けて倒産したのだろう。
条文を読み進めていくと、負債額の記載はなかった。どこから借り入れしたのか、またどの取引先の負債を抱え込んでいたのかの記載もなかった。
これでは分からないことだらけではないか。そうなると、当時のことを直接片倉に問い合わせるしかない。問い合わせるといっても電話番号もなければメアドも記載されていない。
近藤は次にオンラインで登記登録のページへ飛んだ。
簡素なページが表示され、「かんたん証明書請求」のボタンをクリックした。
いくつかの必要事項を記入して、「申請」ボタンを押した。
これで数日後には三ツ葉信用調査の書面上の実体が分かるはずだ。しかしそこまで待つことはない。直接片倉に会えさえすればよいのだ。
「ちょっと出てきます」
近藤がそう言うと荷造りをしていた全員が近藤へ目を向けた。
種沢が「どうしたんですか」と聞いてきたので近藤は「三ツ葉信用調査の調査です」とだけ応えた。
「で、どこへ行くんですか」
「片倉の住所へ行きます」
「え?もう分かったんですか?」と岡谷が訊いてきた。
「いや、官報の自己破産の情報開示で得られた住所ですから、今もそこに住んでいるとは限りません。ですが何らかの手掛かりはあるでしょう」
近藤は引っ越し準備の手伝いもせず、官報に載っていた住所、東京都江戸川区一之江に向かった。
地下鉄半蔵門線で九段下駅に出て都営新宿線へ乗り換えた。
都心ではよく言われることだが、その路線によって乗客の人種が異なるそうなのだが、正に都営新宿線に乗り換えたとき、近藤はその違和感を覚えた。
都営新宿線は本八幡から新宿までのびた地下鉄だ。浜町駅辺り、地図で言えば隅田川を東に超えた辺りからその人間の醸し出す空気はより一層濃くなっていた。
その辺りは住宅街で、住吉駅より東側は古い団地も多い。そこに住む住人たちは生活の疲労にやつれた表情に見えた。
隅田川より東側を下町という人もいるが、都営新宿線の乗客にはそういった情緒的な風情を感じさせる人はいなかった。
近藤は一之江駅で降車すると、スマホで片倉の住所を確認しながら煤けた街並みの中を進んでいった。
駅から一七分ほど歩いたところにその住所はあった。
その住所には築四〇年は経っているであろう古い三階建てのビルがあった。
一階には広めの駐車スペースがあり、二階三階部分が覆い被さっていた。
駐車スペースの奥に扉がある。その扉の脇のインターホンを押してみた。
しばらく反応がなかったが、数秒して「はい」と女の返事が来た。
「近藤ともうします。こちら片倉さんでしょうか」
「いいえ。本庄です」
「えっと、それでは片倉さんを訪ねて来たんですが、片倉さんはどちらにいらっしゃいますか」
「ちょっとお待ち下さい」
インターホンが切れてものの数秒で扉が半開きになった。中年女が出てきた。
「はい。片倉さんをお尋ねですか」
「ええ。そうです」
「こちらに昔、住まわれてたみたいです」
「ではもうこちらにはお住まいではないと」
「はい」
「何年前から片倉さんはいらっしゃないんですか」
「……さあ、うちがここに引っ越してきてから五年ですから、それ以上前としか分かりませんが……」
「私、片倉の親戚の者でして、ちょっとした身内の話をしたいんですが、片倉と連絡がとれなくなっておりまして、それでこちらに伺ったのですが」
「そう言われましても……」
「片倉がどこへ引っ越したのかご存じありませんか?」
「……いえ、確か八王子の方に行ったとしか聞いていませんが……」
「連絡先か何か、ご存じありませんか?」
「いえ、そういったものは一切」
「そうですか。分かりました。ちなみにこちらの物件、どこで購入されましたか?」
「江崎不動産です。駅前のところです」
「そうでしたか。どうも失礼しました」
近藤はそれでその場を立ち去った。だが本当に一之江から立ち去ったわけではない。
近藤は教えてもらった一之江駅前の江崎不動産へ入っていった。
「いらっしゃいませ」
事務服姿の若い女性店員が笑顔で接客してきた。
「あ、私、アイズ興信所というところで探偵をしている若林という者ですが、ちょっとこの近辺の物件に関してお伺いしたいことがあるんですが」
店員の血相が変わった。「ちょっとお待ちいただけますか」と言い残して事務所の奥へと走った。
その奥で何やら一悶着あった後、スーツの中年男性が現れた。
「お待たせしました。私がご対応させていただきます」
「あの、私、探偵をやっている者なんですが、こちらの住所に以前住まわれていた片倉さんの転居先を知りたいんですが」
といってさきほど行った片倉の元住居の住所が書かれた手帳を見せた。
「……ははあ、片倉様ですね。確かに以前、こちらの住所の建物に住まわれていましたね」
「実はこちらの物件について、以前ついていた抵当権に関する調査を行っておりまして、その確認のために片倉さんと連絡をとりたいんですが……」
「そう仰られても、個人情報保護の観点から、何か身分証明になるようなものをご提示願えませんか?」
「名刺でいいですか」
近藤は予め偽造しておいた「アイズ興信所 若林信介」の名刺を渡した。
男は名刺を注意深く眺め回し、「少々お待ち下さい」と言ってまたオフィスの奥に引き返した。
どうもその名刺の真偽を確かめるべく、名刺の電話番号に電話しているようだった。
名刺にはフォーカスエンジン社の三つの外線のうちの一つが書かれている。会社の者には「不動産屋か区役所から電話があったら『アイズ興信所』と名乗ってくれ。そして私は若林と偽名を名乗る、在籍確認の電話が来たら、そのときは対応よろしく」と予め打ち合わせておいたのだ。
オフィスの奥から男の声で「ええ。はい。若林様です」とうっすら聞こえてきた。どうやらアリバイ作りは上手くいっているらしい。 受話器を置く音がした。オフィスの奥から男が戻って来た。
「若林様、失礼しました。こういったご用件は何分、個人情報保護法で強く保護されていますので……」
「いえいえ。分かっていただければ結構です」
「それでは片倉様の連絡先を調べてまいりますので、少々お待ち下さい」
男は最初の女性店員に指示を出してオフィスの奥に引き返した。
女性店員はPCに向かって何やら操作を始めた。しばらくしてプリンタから一枚印字された。それを持って女性店員はオフィスの奥に入り、男と相談していた。
男が頷くと、女性店員は近藤のところへ戻って来た。
「大変お待たせしました。こちらになります」
そう言ってA4用紙一枚を近藤へ渡した。
そこには片倉の旧住所と八王子の新住所が記載されていた。「連絡先」として090から始まる携帯電話の番号も載っていた。
「ご協力ありがとうございます」
近藤はそう言って江崎不動産を出た。
そのすぐ後に、アリバイ作り用に指定したフォーカスエンジン社の電話番号へ電話した。
「はい。アイズ興信所です」
「若林です」
電話の向こうで神林の笑い声がした。
「なんだー! 近藤さん、いい加減にしてくださいよ!」
「いや、助かったよ。お陰で片倉の住所と電話番号が引き出せたよ」
「何やってるんすか。この忙しい時に」
「すまんすまん。だがね、私のやっていることもフォーカスエンジンには大切な仕事なんだ。分かってもらえるかな」
「近藤さん、そんな探偵の真似事をするぐらいならいっそ本物の探偵を雇った方が話し早くないですか」
神林はケラケラと笑いながら言った。
「いや、その手もあったんだけど、こういうことはとにかく内密に事を運んだ方がいいんだ」
神林のニヤニヤ笑いは止まらなかった。
「そんな、探偵だって守秘義務ぐらいはあるでしょ」
「いや、フォーカスエンジンの誰かが探偵を雇った、という事実を隠したいんだ。相手がどんな連中か分からないからね。念には念を入れてのことなんだ」
神林はなおも笑っていた。
「それって身分詐称になりませんか」
近藤はにやけ声で即答した。
「そういう見方もある」
二人は電話口で大笑いした。
「近藤さん、いいから早く戻ってきて荷造り手伝ってくださいよ。こっちは四人だけしか手がないんですから。一人増えるだけで大分手間も変わるんですよ」
「分かった分かった。いま一之江だから、一時間しないぐらいで戻れると思う」
「一時間ですか。うちの定時、六時ですよ」
「ギリギリだなあ」
「分かりましたよ。直帰してください。種沢さんには今日のこと、事後報告しておきますから」
「ああ。よろしく頼むよ。明日には直接私の口からも報告しておくよ」
「それじゃあ、お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
そう言い終わると近藤はスマホを切って鞄にしまった。
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