第2話

 そもそも本間が仕組んだ「融資金の上乗せ」のシナリオはこうだ。

 まず顧客が融資の依頼が来る。もちろん無理な額の融資は来ないのだが、本間がさらにその上に一〇〇万円から八〇〇万円上乗せした額を融資する。

 ただし、その上乗せ額は翌月に「株式会社 三ツ葉信用調査」へ振り込むよう指示する。名目上は与信審査を担保するためだと顧客には説明しておく。

 そしてその上乗せ額が翌月には「株式会社 三ツ葉信用調査」へ振り込まれ、年に一度の株主総会で株主へ配当金が充てられる。

 株主は二人いて、それぞれ一〇〇〇万円の配当を受ける。その残りが笹沼と本間の手へ渡る。

 そして顧客に三ツ葉銀行銀座支店を相手取って裁判にさせる。三ツ葉銀行が負けて上乗せ分は支店長決裁でチャラとなる。

 ようするに上乗せした融資金が迂回して笹沼と本間に渡るようになっているのだ。

 「株式会社 三ツ葉信用調査」というのも名前こそ三ツ葉銀行の関連会社のように聞こえるが、全くの関連がない別会社だ。

 この会社はそもそも笹沼が休眠会社を買い取って名義変更させたものだった。

 三ツ葉信用調査の社長にはかつて本間が融資し焦げ付かせた片倉という男が社長になっている。結果的にではあるが銀行を騙した片倉は本間には頭が上がらない。銀行としてはそういった相手を自己破産させるよりも毎月少額であっても弁済させた方がまだましなので、形ばかりの給与を三ツ葉信用調査から支払い、その中から弁済させているのだ。

 片倉の給与は五〇万円で固定。そのうち三〇万円を三ツ葉銀行へ細々と弁済させている。

 それで本間も焦げ付きをなんとか対処できているという態に持って行けたのだ。

 三ツ葉信用調査の株主は二人しかいない。

 谷屋と狭間という老人だ。

 二人は笹沼が現場にいた頃から付き合いのある間柄で、もう現役を引退した元実業家だ。二人ともそこそこの資産もあり、それほど金には困った様子はない。二人はそれぞれ年一〇〇〇万円で笹沼から雇われている。まあ、老後の小遣い稼ぎには悪くない金額だ。

 この三人、片倉・谷屋・狭間はお互いに面識もなく、ただ本間と笹沼に雇われているという共通点があるだけで日頃の交流はなかった。

 この普段からの付き合いがないというのが本間の描いた構想に合致がいったのだ。

 もし互いに自分たちの金勘定の相談などされたら、誰がいくらもらっているだの、もっと金を寄こせだのと煩くなるのは必定だ。

 そういう煩わしさを避けるためにも本間と笹沼の間で人選したのだ。

 しかし、この三人は本間と笹沼に流れている金の額だけは知っている。

 年に一回の形だけの株主総会で三ツ葉信用調査の数字が報告され、その金額から考えて自分たちの取り分が少ないと感じることはあった。

 片倉は本間の手前、本間に逆らうことはできなかった。もし逆らおうものなら無職自己破産が確定してしまうからだ。片倉はもう五〇歳を過ぎている。まともに働くとしたらアルバイトぐらいしかできない。実際、片倉は居酒屋のアルバイトと間接的に本間から支払われる二〇万の雇われ社長の給料で糊口を凌いでいた。

 谷屋・狭間の両老人は晩節を汚すのを恐れて笹沼に意見するなど考えてもみなかった。よくよく考えてみれば、年に一回の株主総会に顔を出すだけで年一〇〇〇万円も貰えるのだから、二人にとっては騒ぎを起こすだけ面倒だったのだ。

 実際のところ、谷屋・狭間がその年度の株主報酬を一度は受け取るのだが、二人は横領しようともしなかった。

 二人は笹沼がかつて作った資産隠し用の架空口座を持っていたのだ。七〇過ぎて裁判沙汰や警察の厄介になるのを恐れていたのだ。

 それだけでなく、銀行の持つ力、笹沼の持つ力を恐れていた。

 二人とも資産家ではあったが、それだけに銀行の持つ力を知悉していた。

 銀行と警察と政治家を敵に回してはならない。

 二人はこういった共通認識を持っていた。

 こうして体よく本間と笹沼は共謀者を捕まえることができたのだ。

 のみならず本間と笹沼は各人の共謀者のフォローも欠かさなかった。

 本間は月に一度は片倉を新宿のバーへ連れ出しちょっといい酒を奢ることにしていた。

 そこで片倉は生活は苦しいがなんとかやっていけてる、と本間にこぼした。

「もし生活に困っても借金だけはしないでください」

 本間はそう片倉に釘を刺した。

「それはまたどうして?」

「こう言っちゃ失礼ですけど、片倉さんの立場で借金作っちゃうと、すぐ多重債務に陥っちゃいますよ」

 片倉は意外そうな顔をした。

「え? そんな簡単に?」

「ええ。なりますよ。月収の多い少ないじゃなくて、返せないほど借金が嵩むと高給取りでも多重債務者になるんです。片倉さん、月収三〇万あります?」

 片倉は一瞬躊躇した。当を得た本間の推量に虚を突かれたのだ。

「……ええ、なんとか三〇万ちょっと。バイト代が月一〇万ちょっとですから……」

 本間は片倉に向き直った。

「片倉さん、それじゃ借金はできませんよ。せめて五〇はなきゃどんな少額でも借金は無理です。返済できません。マスコミが何て言ってるか知りませんけど、ある程度の収入がないと金利だけでもばかになりませんからね。それに片倉さんの場合、保証人になってくれる人、いますか?」

 片倉は黙り込んで俯いてしまった。

「いいですか。片倉さんの場合、現状で最低限の生活費は捻出できてるんです。それ以上を望まない方がいいですよ。派手な遊びや買い物さえしなければシャバで清く正しく生きていけるんです。その辺は誤解しないでください。辺に色気を出して一攫千金、なんて考えないで下さいね。私も銀行マンです。そういった人たちを何人も見てきました。ですが本当に一攫千金を当てられた人は一人もいませんでした。これが現実ですよ。世の中、世知辛いどころじゃないんです。片倉さん、今の生活を守ることを優先した方がいいです。ペーパーカンパニーの雇われ社長とはいえ、社長は社長なんですから、不祥事だけは止めて下さい。これはお互いのためなんです」

 片倉はグラスに一口つけた。どうやら酔いが醒めたらしい。

「それもそうだね。私はいちおう一国一城の主なんですよね」

 片倉が本間の目を見た。片倉は本間の目に噓の影を見いだせなかった。

 だが当の本間は、現状がいつまで続けられるか、いや、目標の一〇億を達成したら今の状況を解体する積もりでいた。そのことは片倉には告げなかった。

「本間さん、本当にこれでいんでしょうか?」

 本間は疑問の顔をした。

「何がですか?」

 片倉は正直な疑問をぶつけた。

「いや、こんなペーパーカンパニーがそうそう長く続けられるとは思えないんですよ。私のポジションがどの位置でどう機能しているのか知りませんけど、それが凄く不安なんです。実質、会社の社長らしきこともしてませんし、社員もいません。名義だけ本間さんに預けているだけなのが怖いんです」

 本間は眉根を顰めた。

「私が信用できないと?」

 片倉は慌てて首を横に振った。

「いえ、そうじゃないんです。銀行さんのやることですから間違いはないとは思うんです。ですが、名前を貸すだけで月五〇万というのが高額に思えまして……」

 なんだ、そんなことか、と本間は内心安堵した。

「私を信用して下さい。私は三ツ葉銀行の行員です。お金のプロです。私たちのやっていることに間違いはありません」

 これは詐欺師のよく使う手口だった。証拠を出さず信用しろと口先だけで何とかしようとする。これは善良な一般社会人のやることではない。

 借金をするなら保証人なり担保なりを必ず用意する。これは世間の常識だ。

 それを出さずに「信用しろ」というのは正に詐欺師だ。

 そんな甘言にほだされるほど片倉は甘かった。だから事業に失敗したんだ。本間はそう言ってやりたかったが、その言葉を飲み込んだ。


 一方、笹沼の方では谷屋・狭間と隔月で会っていた。

 笹沼は谷屋と会うときは銀座のバーで、狭間と会うときは神楽坂の料亭を使っていた。というのも谷屋は酒好きで狭間は下戸だからだ。

「こんなところで飲めるなんて、笹沼君はそうとう金持ちなんだな」

 谷屋がそう言うと、不思議と嫌みな感じではなく、感嘆の方が勝っているように笹沼には聞こえた。

「いや、正直に言うと、かなり奮発してるんですよ」

「で、商売の方は上手くいっているのかい?」

 笹沼はさらりと返事をした。

「ええ。おかげさまで上手くいってます」

「それはどっちの方? 本業? 副業?」

 それを聞いて笹沼は大笑いした。

「本業とか副業とか、滅相もない! 万事万端ですよ!」

 谷屋はへへへと笑った。

「世間じゃこれだけ不景気と言われてるのに笹沼さんはどこ吹く風だなあ」

 こんなことを言われても谷屋の口から出ると、全く嫌みに感じない。これも実業家として成功した要因の一つだろう。

「最近は融資の話も多いんですよ。どこも不景気です。政府のコロナ対応も現場には届いていないようですし」

 谷屋が右手の人差し指を唇にあてて「しっ!」と言った。谷屋は急に小声になり

「ここら辺じゃ誰が聞いてるか分かったもんじゃないから、政治の話は抜きにしましょうや」

 と、谷屋は目を爛々とさせた。

「おっと。これは失礼。たかが一銀行員のする話ではなかったですね」

 谷屋はにやけながらグラスを一口飲んだ。

「ところで融資が多いということは、みんなそれなりに遣り繰りが大変だってことですかね?」

 谷屋の素朴な疑問に笹沼は応えた。

「まあそういうことですね」

「じゃあ、谷屋さんも相当いい商売をなさってると?」

 笹沼は照れ笑いを隠しながらグラスを一口飲んで

「まあ、そっちの方はぼちぼちやってます」

 とだけ言った。

「しかし銀行さんがお金のことで副業するとは思わなかったなあ」

 これは谷屋の口癖になっていた。もうこの一言にも笹沼は慣れており「まあ、色々ありますから」とだけ言うようになっていた。

 谷屋はもう老年だ。酒量も少ないし食事もほどほどにしか摂らない。もう夜の世界で遊ぶ年ではなかった。だが酒が好きと言うより酒の席の雰囲気が好きなようで、笹沼もこうして谷屋のために酒宴を張っているのだ。

 谷屋は孫ほど年の離れたホステスたちに囲まれてご満悦の表情を浮かべているが、それは笹沼が用意してくれた酒の場を楽しんでいる演技をしているようにも見えた。

 それが証拠に笹沼が二軒目を誘っても谷屋はついてこないのが常だった。

「じゃ、お車代でも」

 笹沼がスーツの下から茶封筒を出そうとすると

「いいよ、いいよ。金はあるから」

 と言って谷屋はさっさとタクシーで帰宅するのだった。

 笹沼にしてみれば谷屋を飲みに誘うのは接待の一つに過ぎなかったのだが、この接待が成功したのかどうか、いつも谷屋の帰り際に疑問に思うのだ。

 まあいいか。とにかく顔が繋げればそれでいい。

 笹沼はそう思うようにしていた。

 古い事業家ともなれば酒の席での顔繋ぎが大切なのは経験則として心得ているのは承知なのだが、それは単なる気遣いであって本心ではない。笹沼は谷屋にとって厄介者にならないよう気を配っていたつもりなのだが、谷屋の本心までは知る由もなかった。

 もし面倒なら理由をつけて笹沼の誘いを断ればよいだけであり、こうして二ヶ月に一度、顔を会わせて杯を共にするというのは、それなりに谷屋も楽しんでいるのだろうと、笹沼は思った。

 ひょっとすると、老年期の孤独を紛らわす暇つぶしなのか?

 笹沼はそうも思ったが実のところは谷屋本人しか知る由もなかった。

 しかし笹沼にしてみれば谷屋は便利な裏金洗浄機でしかないのだ。

 笹沼はそれ以上の追求はしなかった。それは谷屋への個人としての尊重でもあった。

 その個人への尊重は狭間へも同様だった。

 狭間も老人であり小食ではあるが美食を好んだ。それが原因で笹沼は狭間との会食をバーより料亭を選んだ。

 前述したとおり狭間は下戸だ。それが料亭ともマッチした。

 実のところ、料亭にはそもそも酒類の用意があまりないのだ。あったところで銘酒ではなく極一般的な日本酒をちょっと置いてある程度で、酒飲みの中には「この程度の酒しか出せないのか」と憤る客もいるのである。

 狭間が下戸を通してきたのも、そもそもの体質のせいもあるが、本人曰く「酒を飲むと味覚が鈍感になるから旨い料理が楽しめなくなる」ためだそうだ。

 そういう客を料亭は歓迎してくれる。必然、狭間との会食は神楽坂近辺となる。

「もうこの歳になるとね、一食一食が大事になってくるんだよ」

 狭間はそう言った。

「そういうものなんですかねえ。私はやっぱり質より量を求めちゃうんですが」

 笹沼は自分がまだ狭間の言う大事を理解できていない風を装った。

 狭間の言わんとすることは、なんとなし笹沼にも理解できた。笹沼も加齢とともに食が細くなってきたのを自覚していたからだ 。

「だけどね、食には拘っても他のものには執着しなくなってくるんだよ。歳を取ると」

 ほう、と笹沼は不思議そうな顔を作った。

「それじゃあ歳を重なねると禅僧みたいになっちゃうんですか」

 狭間はにこやかに応えた。

「いや。そうでもないよ。人によるんだけど、拘るものには徹底的に拘るんだけど、それ以外のものには一切無頓着になるんだ」

「例えば狭間さんの場合はどうなんですか」

 狭間は笑顔のままだ。

「私の場合は食に執着が凝縮されたね。人によっては女だったり車だったり時計だったりするけど。まあ、そういった欲は消えるものと残るものがあるね」

 笹沼の聞きたかったのは金についてだ。狭間が金についてどう考えているかを知りたかった。

「狭間さん、そういう余裕が出てきたのは金銭的な余裕があるからじゃないですか」

 一瞬、狭間の目が鋭くなったがまたすぐに元に戻った。

「それは確かにそうかもしれないね。こうしてリタイア後も銀行さんと付き合いが持てるのも、自分にある程度の資産があるせいかもしれない」

 狭間は小鉢に箸を入れ一口つまんだ。

「いいですね。私もそういう大人になりたいです」

 狭間の眼光は笑みで隠された。

「こうして笹沼さんみたいな若い人の役に立っているのも、金に執着していないからかな」

 狭間は笹沼の裏金浄化のために使われているという認識を持っていることを隠しはしなかった。その言葉の裏には昔に作った税金逃れのための裏口座を、三ツ葉銀行に持っているのを笹沼も承知していることが前提となっていた。

「いや、お世話になります」

 笹沼は否定も肯定もしなかった。いや、できなかったのだ。

「いやいや、こんな老人でも何かの役に立てるなら、いつでも何でもどうぞ」

 狭間は年齢では老人であったが利害得失、金勘定に関してはまだ現役でいけるほどの計算力を持っていた。その計算力は何も数値の演算のことだけではない。誰に何をすればどう動くのか、何をすべきで何をすべきでないか、そういった人生訓を踏まえた計算がちゃんとできるのだ。

「そういうことでしたら……」

 笹沼が少々かしこまって言うと狭間は「なんだ?」と聞き返した。

「今度の三ツ葉信用調査の株主総会も、昨年と同様にお願いします」

 狭間は大笑いした。

「なんだ。そんなことか! シャンシャン会議にすればいいんだろ!」

 笹沼はかしこまった姿勢のままで言った。

「できればそれでお願いします」

「分かった。分かった。その方がお互いのためだものな。それに株主総会といっても数人が集まるだけの形だけの集まりじゃないか」

「よろしくお願いします。その件なんですが……」

「なんだ? まだあるのか?」

「白状すると不安材料があるんです」

「はっきり言ってみたまえ」

「社長の片倉が何を言い出すか、ちゃんとこちらでコントロールできているかどうかが不安なんです」

 狭間の目に灯が宿った。

「ほう。それで?」

「もしかすると次の株主総会は荒れるんじゃないかと心配で……」

 狭間は笹沼を凝視した。

「そんな弱気でどうする。たかがペーパーカンパニーの雇われ社長だろうが。その程度の人間を御するぐらい簡単じゃないか。要は金の話だろ。貧乏人は金でなびく。それぐらいのことは銀行マンなら常識だろうが」

 笹沼はたじろいだが言葉を返した。

「それが相手が失うものが何もない人間なんで……しかも素人です。そういう相手が一番厄介でして……」

「銀行マンの意地を見せろ。それで充分だ」

 狭間と笹沼の会話はここで一旦途切れた。

 しばらくの沈黙のあと、二人は箸を進めた。黙ったままの食事は味がしなかった。

 笹沼はふと我に返り、自分の社会的立場を思い返した。

 三ツ葉銀行銀座支店店長 笹沼一樹

 この肩書きは名刺としてちゃんと明記されている。

 それを使わない手はない。それを考えるとまだ見ぬ勝利を思い描いて箸を置いた。

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