第3話
六月のある土曜日の銀座の空は真っ直ぐに高かった。所々に雲は出ているものの、初夏の日差しを遮るほどではない。陽はアスファルトを暖め、照り返しが酷かった。
暦の上ではまだ夏本番ではなかったが、もう十分に真夏を感じる気候になっていた。
その銀座の狭い貸し会議室の一室に五人の男が集まった。
定刻は午前一一時。これから株式会社 三ツ葉信用調査の株主総会が始まるのだ。
着席しているのは本間・谷屋・狭間の三人で、片倉はホワイトボードを背にした即席の演壇の前にいた。その右側に笹沼が席を占めていた。
笹沼がマイクを取り
「えー、それでは株式会社 三ツ葉信用調査の株主総会を始めます」
と宣言した。笹沼が司会進行を買って出たのだ。
本来なら部外者であるはずの笹沼と本間が臨席するのは筋違いなのだが、この会社の本性の全てを知っている二人が株主総会に参加するのは致し方なかった。
だが、これはとてもリスキーだ。
三ツ葉信用調査は裏金浄化のためのペーパーカンパニーだ。その会社との接点を持っていることを表明しているようなものだ。
部外者に知られれば、たちまち問題となる。
そのリスクを侵してでも二人がこの株主総会に臨席するのは、たかが三人とはいえ、他者を使って裏金作りをしていることを強圧的に押しとどめるためであった。
加えて三ツ葉銀行の行員が二人も参加することで、小さい会社ながらでもちゃんとした会社であることを片倉と谷屋・狭間へアピールするためでもあった。
「それでは片倉社長から昨年度の決算についてご報告があります」
笹沼はマイクを片倉に渡した。
会場の規模からすればマイクなど必要ないのだが、たまたま借りた会場に備え付けられていたので使っているにすぎない。
「それではご報告させていただいます」
片倉はA4の紙資料を手に決算報告を読み上げていった。
この資料は本間が書いたもので、そこに書かれている数字――売上、純利益、バランスシートなど――は全て棒読みである。
片倉が数字を読み上げている最中、谷屋と狭間の両老人は腕組みをして目を瞑っていた。
一人はらはらしていたのは本間だった。
このまま何もないまま過ぎ去ってくれ。
本間はそう思っていた。現に昨年は何事もなく早々に株主総会は終わった。銀座の午前一一時からにしたのも、正午前には株主総会を終えて、昼食に片倉・谷屋・狭間を「ちょっといいランチ」に誘うためだった。
片倉の朗読は進んでいった。その言葉は経営者のそれではなく、ただ原稿を読んで言葉を発するアルバイトとなんら代わりはなかった。
この一瞬一瞬が本間を苛立たせた。早く終わってくれ。余計なことを言ってくれるな。ただその一念に捕らわれていた。
笹沼は心中、片倉が何かを起こすな、と予感していた。というのも、事前に本間から聞いた話では、片倉は今の自分の経済状況に不満を感じている、と漏らしていたからだ。だが狭間から聞いた「銀行マンの意地を見せろ」との言葉にそれなりの対応策を用意していた。
相手は片倉だ。経営を失敗したことのある人生の落伍者だ。そんなやつに三ツ葉銀行銀座支店店長が負けるはずはない。そういう自負もあった。
片倉の長い朗読が終わるとマイクは笹沼の手に渡った。
「片倉社長からは以上になります。それでは質疑応答に移らせていただきます。何かご質問があれば挙手お願いします」
室内は静まりかえった。それでいい。本間はそう思った。
「それでは私から一言いいですか」
片倉が笹沼に言った。笹沼は来るなら来いと思いながらマイクを片倉に渡した。
「それでは私から一言お願いがあります。先ほどご報告しました通り、当、三ツ葉信用調査は年商一億五八〇〇万の売上があります。昨年度より一一パーセントの伸びを示しております。昨今の不況を考えると、これは非常に特筆すべき点です。でありますから、社員は私一人ではありますが、給与の増額をお願いしたいのですがいかがでしょうか」
室内は静まりかえった。笹沼はそんな程度のことかと内心安堵した。それにしても図々しいやつだ。大して働きもせず実質手取り二〇万円を持ちながらまだ金をくれと言ってきやがる。
確かに二〇万の給与は安い。だが名義を貸すだけでその金額に不満を持つのはごうつくばりだ。笹沼は呆れもしたが多少の給与の増額はしてもよいかと思った。その額はせいぜい数万か十数万だ。本間と笹沼とで作った裏金の額と比較すれば、そんな程度の金額でことを外部に漏らされるよりはよっぽどマシだ。まあ、せいぜい一〇万円の給与アップが落とし所だろうと笹沼は皮算用した。
「ちょっと質問があるんですが」
と、谷屋が訊いた。
「今の給与はいくらなんだ?」
片倉は即答した。
「五〇万です」
狭間が応えた。
「それだけ貰えても不満というのはどうかなあ」
片倉はまた即答した。
「実のところ、三ツ葉銀行さんへ……」
そこまで片倉が言うと、笹沼が割って入った。
「片倉社長の仰ることは理解できます。ですが今の給与だけで年収六〇〇万もあります。世間の平均年収よりは多く貰っているはずです。それに増益したのは片倉社長の経営手腕ではないでしょう? 普通の会社であれば賃金のアップではなくボーナスを増やすか一時金を出すかのどちらかになるでしょう。その辺で手を打ちませんか」
片倉にはその笹沼の言葉が意外だったらしく、笹沼への反論が出てこなかった。
妥協案として谷屋が提案を述べた
「……そういうことですから、一時金という形でいいんじゃないですか?」
片倉は案外ことが早く解決してしまったのが意外だったらしく、考える隙もなく首肯した。
すかさず笹沼が提案した。
「では一時金を用意するということでいかがでしょうか」
谷屋と狭間が「うん」と頷いた。それにつられて本間も同意した。片倉はといえば、もう異論の挟みようがないのを察して「よろしくお願いします」と言った。この片倉の、急場の対応の甘さに他の全員がしてやったり、と思った。こういった修羅場をくぐり抜けてこなかった片倉の弱さを他の全員が突いてきたのだ。
「では一時金は年度末にお支払いするということでよろしいですね」
片倉は頷いた。
「他に質疑がなければこれで閉会とさせていただきますが、よろしいでしょうか」
全員が沈黙で応えた。
「それでは本年度の三ツ葉信用調査の株主総会を閉幕とさせていただきます。それでは皆様、お疲れ様でした」
笹沼が少々強引に株主総会を終わらせてしまった。
これで本間の懸念だった株主総会が終わった。
谷屋は早々に帰宅し、狭間も笹沼に何か一言二言いって帰宅した。片倉だけはその席から離れずにいたが「もうこれで結構でしょ」と本間に声をかけられて退出した。
最後まで残ったのは本間と笹沼だった。
「本間、これからちょっと付き合ってくれないか」
本間にとっては意外な一言だった。
「ええ。構いませんけど」
二人は貸し会議室を片付けると手近な寿司屋へ寄った。笹沼は大将に無理を言って個室へ上がり、ランチセットを頼んだ。
本間はこれから笹沼に何か説教でもされるのかと内心で心構えた。
「……どうもいかんなあ」
笹沼が浮かない顔をした。
「やっぱり片倉さんのことですか」
「ああ。そうだよ」
本間は何を言われても落ち度はこちらにあると身構えた。
「狭間さんがねえ、『社長を替えろ』と言うんだよ」
やはり、と本間は思った。
「無職で何も取り柄のない人間なのに、今日みたいな収入アップをはかろうとするなんて、片倉さんにしてみれば冒険だったんじゃないですか」
笹沼はむっとした。
「だがなあ、片倉の件はお前が片倉を上手く使いこなせていないって証拠なんだよ。今日はあの程度で済んだが、今後はもっと要求をエスカレートしてくるだろ。一度収入アップの味を覚えたら、また次も来るぞ。それにはもう堪えられない」
「それで片倉さんを社長の席からはずせ、と」
「まあ、そういうことだ」
確かに今日のことは本間の失策だ。片倉を上手く懐柔できていない証拠が露呈したのだ。三ツ葉信用調査に欲しいのは大人しく月給だけ取る従順な社長だ。
それが欲をかくような人間は必要ない。いや、むしろ不要だ
「片倉さんは何か勘違いしてるんじゃないか」
笹沼は吸い物を口にしながら言った。
「どういうことです?」
「本当に自分が会社の社長をやっていると錯覚してるんじゃないかなあ。実際のところ、片倉さんは三ツ葉信用調査での業務なんてないはずなのに。それが株主総会で一円でも多くふんだくってやろうとしたんだ。そんな人間には用はない」
笹沼の言う通りだった。
「じゃあ、片倉さんを『失脚』させますか」
「ああ。その方がいいだろう」
「で後釜には?」
笹沼は悪いにやけ顔をした。
「そんなやつ、いくらでもいるだろうが。お前も銀行マンなら、事業に失敗して路頭に迷っている人間の五人や六人は知ってるだろ? それとも何か、片倉さんからキックバックでも貰ってるのか」
いえいえそんな、と本間は首を横に振った。「なにも片倉さんに固執する理由はありません。一応、現状の片倉さんの報告をしますと、三ツ葉信用調査の給料五〇万から三〇万を三ツ葉銀行に弁済させています。残りは二〇万です。それで片倉さんはアルバイトで月一〇万ちょっと稼いでいます。都合、片倉は月収三〇万ちょっとです。妻子なし。男一人でやっていくには充分ではありませんが必要な金はやっています。それを何を誤解したのか片倉さんは……」
本間は言葉を濁して握りを一貫、口に入れた。
「だがなあ、株主から直々に『社長を替えろ』と言われてるんだ。しかも株主総会が終わった直後にだ。これ、どういう意味か分かるか?」
本間は分かりません、と応えた。
「つまりだ、今の片倉さんには落ち度がない。だから落ち度を作って馘首しろって意味だ」
本間はことの大きさに息を吞んだ。
ペーパーカンパニーとはいえ、登記は正式なものだ。それでも社長を代替わりさせるにはそれ相応の理由と事務手続きがいる。
「社長の交代って……具体的にはどうするんです」
笹沼は溜息交じりに言った。
「片倉さんには会社の金を横領してもらう」
そんなことができるのかと本間は本心で疑った。
「でもどうやって?」
笹沼は事もなげに応えた。
「簡単な話だ。会社の口座から一〇〇〇万円ほど片倉さんの口座に送金すればいい。それで背任として引責してもらう」
そんな簡単にいくのだろうか? 本間はその笹沼の手腕を疑った。
「でもどうやってその証拠を警察なりなんなりに知らせるんですか? 我々二人は三ツ葉信用調査とは無関係な態面を作ってるんですよ。動きようがないじゃないですか」
笹沼は溜息交じりに言った。
「おいおい、銀行マンのくせにそんなことも分からないのか? 税務署に匿名で連絡すれば一〇〇〇万円の所得隠しになるじゃないか。それで充分だ」
言われてみれば簡単なことだ。
「株主総会で一時金の金額と振り込み期限を言わなかっただろ? どんな大金が振り込まれても片倉さんは一時金だと思うだろう。しかし、もし議事録に一時金のことが書いてなければ全てがパアだ」
そんな簡単に物事が上手くいくのだろうか。
「それに、片倉さんが嵌められたと感づいても、その時はもう遅いんだ。とにかく臨時収入があったわけだからね。銀行の送金記録は全て正しい。それが世間の常識だ。そこを突くんだよ」
本間は躊躇しながら言った。
「で、片倉さんの代わりはどうするんです?」
笹沼はややむっとした。片倉は本間が用意した人物だ。その片倉を上手くコントロールできなかったのだから、今度は笹沼が用意した人物をあてがうのが筋だろう。
「本間、片倉さんの代役はいつ用意できる?」
「え、まあ……二三週間あれば……」
「よし分かった。三週間で用意してくれ。今度は人選をしくじるなよ。とにかく欲をかかない人物にしてくれ。株主の手前、片倉さんみたいなことを次もされちゃかなわん。いいか、今日の片倉さんの発言はお前の失態でもあるんだぞ。そこをよく覚えておけ。次はとにかく従順なヤツだ。変に色目を持ったやつはダメだ。自分の立場を弁えてるやつがいい。できれば片倉さんみたいに金に困ってるやつよりある程度生活費ぐらいは既にまかなえてて、副業程度に考えてるやつにしてくれ。三ツ葉信用調査は秘密の会社なんだ。もし露見したらおれたちの立場がパアだ。いいか、これはお前の汚名挽回のチャンスでもあるんだぞ」
本間は素直な疑問をぶつけた。
「どうして笹沼さんが次期社長を引っ張ってこないんですか」
笹沼は少々の怒りを込めて言った。
「馬鹿。支店長のおれが動くわけにはいかんじゃないか。それにそういった人物のリストは現場のお前の方が持ってるだろ。債務に追われてるやつ、自転車操業のやつ、そういった人間はお前のほうがよく知ってる。まあ、そういうことだ」
確かにそうかも知れないが、これは三ツ葉信用調査が何をやっているかがバレた時のトカゲの尻尾切りにされるな、と本間は思った。
なんせ一年で数千万の分け前を不正に受け取るわけだ。笹沼が保険をかけておくのも無理はない。それに本間にしたところでその金が惜しい。だったらやるしかない。本間は笹沼を出し抜けるほどの人脈も策略もない。笹沼に従順であるしかないと計算した。
「分かりました。次期社長は私が用意します。片倉さんの不正送金の方は笹沼さんにお願いできますか」
「ああ。分かった。やっておく」
「で、どんな手を使うんですか」
「そんなこと、ここで言えるか。誰が聞いてるか分かったもんじゃない」
ここは個室だ。だれも聞き耳を立てているとは思われないが、用心にこしたことはない。
こういった慎重さと大胆さに本間は笹沼を信用にたる人物と思った。
しかし厄介だ。次の社長候補を探し出すのは簡単な作業ではあるが面倒な作業だ。
その面倒を部下にやらせることもできなくはないが、ことがことなので自分でやるしかない。本間が二三週間でできるといったのは、普段の仕事の合間合間にやることを考えてのことだった。
片倉め。まったく余計なことを言いやがって。
本間は片倉の、片倉なりの攻撃に苛つきが収まらなかったが、株主総会は既に終わってる。今さらどうにもできない。「不正送金」の手筈は笹沼に一任すれば間違いないだろう。あとは自分が後継者を探せばいいだけだ。
ここで本間はちょっと懸念材料が浮かんだ。
片倉を罠に嵌めるのはいいとして、その後、片倉が反撃に出るんじゃないだろうか、ということだ。
何も持たない、失うものがない人間ほど凶暴になれるのを本間は知っていた。おそらく笹沼も知っているであろう。
それを踏まえての社長交代だ。笹沼がノープランであるとは思われなかった。だが、この場ではそのプランを笹沼は提示しなかった。
ということは、本間はそれほど笹沼の信用を得られていないということか? とも思った。
二人がやっていることがやっていることなので、信頼関係は非常に大切だ。笹沼と本間は一蓮托生の間柄だ。
人を陥れるには、その反撃能力をも奪ってしまわなければならない。これは鉄則だ。そうでなければこっちの身が危ない。
さて、笹沼はどう片倉を懐柔するのかが楽しみだ。
立場は本間より笹沼の方が上だったが、その笹沼の手腕を見るのが、今後の本間の銀行員生活の処世術を学ぶのに丁度いいとも思った。
笹沼と本間は寿司屋を出た。会計は笹沼が持った。本間は形ばかりに「ごちそうさまです」と言った。
初夏の銀座はもう真夏といっていいほどの暑さだった。いや、暑さというより湿度が高かった。そのせいで笹沼の顔は汗みどろだった。本間は涼しい顔をしていたが内心は汗だくだった。
なんせこれから人一人陥れ、その後釜を探さなければならないのだ。
これは銀行マンとして倫理に反するが、そんなことは百も承知だ。
銀行は平たく言ってしまえば「お金屋」だ
その銀行員が金で悪事を働く。
笹沼と本間は金が欲しい、もっと欲しいという一念に駆られていたのだ。
毎日目にする億単位の金の、ほんのちょっとでいいからその分け前を貰う方法を思いついたに過ぎないのだ。しかもその裏金が一〇億に達したら身を引くことを前提としている。
二人は金策で失敗する人間を山ほど見てきたし、そういった人間がどういう末路を辿るかもよく知っていた。
自分たちはそうはなるまい。いや、なってたまるか。
これが二人の共通認識だった。
二人の志は高い。だがそれは悪事についてのことだった。
銀座のビル群の合間から青い空が見える。こんな都心でもちゃんと空は明るいし爽やかな風が吹いている。
だが不思議なことに、それは二人の野望を、欲望を反映しているかのように二人には見えた。
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