第4話

「はじめまして。フォーカスエンジンの種沢と申します」

 種沢は本間に名刺を渡した。本間もサラリーマンの習性で自分の名刺を差し出し、名刺交換となった。

「まあどうぞ。お掛け下さい」

 種沢は見たところかなり若い。二十七八といったところか。三〇を超しているようには見えなかった。

 種沢はベージュのチノパン、白いティーシャツの上に濃紺のジャケットを羽織っていた。いかにもITベンチャーの社長がしそうな服装だった。

 実際、種沢はITベンチャーの創業者であり取締役だ。

 種沢の存在はこの三ツ葉銀行の客間には不似合いだった。

 この霊安室を思わせる客室には、ちと生気が強いのだ。

「融資ご希望額は一〇〇〇万でしたね」

「はい」

 本間は事業計画書と決算書を見ながら返事をした。

 本間より若くして、いや二〇代で起業するのはIT業界では珍しくなかった。

 創業者の種沢は元SE。派遣型のSE、いわゆるSESだった。

 もっとも、IT業界でSEと言えばSESが主流だ。

 大元の受注先から実際にコーディングする会社までは、子受け、孫請けは当たり前で五次受け、六次受けなんていうのもざらにあった。

 種沢のフォーカスエンジン社もそう言った派遣型のSEを斡旋する業態だ。

 この業界は今、急成長している。融資先としては全く問題ないが、成長のスピードが速すぎるのが問題だった。

 フォーカスエンジン社は起業から四年目。従業員数五三名。年商六二億。だいたい社員一人当たり一億ちょっとの売上となる。かなり優良な経営状態だ。

 そんな伸び盛りの会社がなぜ融資を求めるのか?

「本社の移転ですよ。今は渋谷のマンションの一室を借りてますが、恵比寿のオフィスへ引っ越します。それに従業員の数も増やす予定なので、ちょっとした資金を借りられるうちに借りておこうと」

 なるほど。本間は得心がいった。

「融資ご希望額は一〇〇〇万円でしたね」

「はい」

「御社の経営状態からして、一一五〇〇万にしませんか?」

「え?」

 本間は種沢にいつもの手口を指南した。希望額を超えた五〇〇万は翌月に三ツ葉信用調査へ入金すること。それが御社の信用になるんですよと説明した。

「随分変わったやり方をするんですね」

 種沢はまだ若い。いや、若すぎた。世間の常識がどうなのか、銀行とどう付き合うのが得策なのか。そういったことを知らないな、と本間は思った。要するにカモが来たと本間は判断したのだ。

「ええ。この上乗せ分は御社の将来性を見越しての査定額です。いや、この五〇〇万をそのまま三ツ葉信用調査へ入金していただければ御社の査定が上がるんです」

「もしその五〇〇万円を使い込んでしまったら?」

 本間は用意してある返事をした。

「御社の査定は非常に非常に悪くなりますね。うちとの取引だけでなく、他行様との遣り取りも難しくなります。この業界、横の繋がりは非常に強いんですよ。逆を言えば、まあ、この五〇〇万円というのは私の裁量で決めた額ではありませんが、御社にそれだけの期待が持てる、ということです。そのままご返金いただければそれだけで御社の信用調査も上がるんです。それに三ツ葉信用調査に振り込まれた五〇〇万は三ツ葉銀行の融資の返済へと振り替えられるんです。ご心配はいりません」

 五〇〇万の上乗せを提案したのは本間だ。種沢としては申し分のない提案だったが、何か嫌な予感が拭えなかった。

「……まあ、そういうことでしたら一五〇〇万でも結構です」

「ご理解いただきありがとうございます。それでは書類の準備をしてまいりますので、しばらくお待ちください」

 本間はそう言うと応接室を出て行った。

 一人残された種沢は色々と思案した。

 もちろん上乗せされた五〇〇万の件だった。

 種沢はバブル期には銀行が貸し付けを申し出ることは普通にあったと話には聞いて知っていた。

 が、この令和の不況の中でこんなことがあるのは不自然に思えた。

 本間が「御社の将来性を見越して」と言っていたのが妙に引っかかった。種沢は、その本間の言葉が聞き手の慢心を誘うためのものに聞こえたのだ。

 種沢自身も、まだ自分が若輩者で社会経験が足りていないという自覚があった。だからそんな甘言には乗るものかと思った。

 しかし、銀行マンからそう言われると、確かにもう一方の自分が驕り高ぶるのを感じた。

 こうやって銀行は利益を出しているのか。

 慢心していない自分が種沢自身に語りかけた。

 種沢はまだ若いとはいえ経営者である。その辺りの銭勘定、利害得失を計算できないわけではない。

 しかし、あまりにも事が簡単に進んでいるのにも違和感を感じた。なんせ一〇〇〇万の融資だ。そう易々と銀行が首肯するとは思えなかった。

 種沢は本間の名刺を見返した。確かに本間の名刺には「法人営業部融資課 課長」と記載されている。

 まあ、課長であればそれなりに決済する権限はあるのだろう、と種沢は思った。しかし、与信調査を済ませてあるとはいえ、銀行から融資額を増やす提案をする理由が思い当たらない。

 ひょっとしてフォーカスエンジン社が倒産なり解散なりしても、種沢自身にその一五〇〇万円の弁済義務が発生する契約でもされるのではないか、と種沢は予想した。

 そう思う一方で、種沢は銀行の言うことなのだから間違いない。我々フォーカスエンジン社がそれなりに信用されている証だ、ともう一方の種沢が言った。

 さて、種沢は自分の裡の二人のどちらの意見を採択すべきか、折衷案を模索すべきか考えた。

 しかし、事は順調に進んでいる。本間が戻ってくればその本間の仕込んだ理由、あるいは罠の実体も知れるだろうと思った。

 その時が勝負時だ。

 種沢はすぐに捺印するのは危険だと判断した。

 さすがに一〇〇〇万円から一五〇〇万への増資だ。それなりに合理的な理由がなければ増資などあり得ない。

 本間が戻って来たとき、その時の自分の判断力が試されているのだ。種沢はそう自分に言い聞かせた。

 この霊安室のような静寂と清潔な白い構築物に取り囲まれていると、それが本来の姿を、金の遣り取りの醜悪さを包み隠しているかのように見えてきた。

 扉が二回ノックされ扉が開いた。本間が戻ってきた。

「お待たせしました。こちらとこちらになります」

 本間は二種類の契約書を持ってきた。

「先にこちらからご説明させていただきます」

 本間は三ツ葉銀行銀座支店の名前のある契約書を差し出した。

「こちらが融資の契約書になります」

 種沢はその契約書を凝視した。フォーカスエンジン社初の融資の契約書である。

 種沢はその一文一文を読んでいった。

 契約書はかなり細かい文字で書かれており、いくつか本間に質問してその字義を問い質した。

 種沢はしまった、と思った。

 こういった金の遣り取りに不慣れなのが本間に露呈してしまった。

 相手が全うな銀行だからまだ良かったものの、こういった場面で知識不足・経験不足を相手に見抜かれてしまうのは自分の弱みを見せるのと等しかった。だが、やってしまったものは取り返しがつかない。

 本間の表情は動かなかった。種沢はそれをポーカーフェイスだと察した。

「もし以上でよろしければ署名と捺印をお願いします」

 本間はあくまでも事務的だった。

「本間さん、もう一方の契約書も確認させてください。その両方を見てから捺印させてください」

 種沢にできる防衛対策はそれぐらいしか思い浮かばなかった。

「かしこまりました。ではこちらを」

 本間はもう一方の契約書を種沢に渡した。

 その契約書は「三ツ葉銀行」ではなく「株式会社 三ツ葉信用調査」とあった。

「こっちの契約書は『三ツ葉銀行』さんのものではないんですね」

 本間は全く動じなかった。

「はい。当行の子会社になります」

 種沢の頭の中に懐疑が渦巻いた。

「子会社とはいえ、別の会社と契約するんですか」

「ええ。三ツ葉銀行から一五〇〇万円の融資を受けるのと同時に三ツ葉信用調査へ五〇〇万円の入金の契約をするということです」

「どうしてそんなことを?」

「信用調査のためです。御社がちゃんと支払い能力があり、かつ今後も永続的に事業を展開できるかを見極めるためです」

 銀行からしてみれば、もし万が一にその上乗せ分の五〇〇万円を使い込まれてしまう可能性もある。その時の対応策はどうなっているのだろう。

「こちらの条項をご覧下さい」

 本間は三ツ葉信用調査の契約書のある部分を示した。そこちは「遅滞なく速やかに弁済手続きをとること」とあった。

「要するにすぐに満額返せ、ということですか」

「はい。そうです」

「金利や遅延損壊金は?」

「増資分には設けておりません」

「え? なし?」

 ここへ来て初めて、種沢には「三ツ葉銀行から三ツ葉信用調査へ金を迂回させるだけ」という図式が出来上がっているのを理解した。

「それってただお金を循環させてるだけですよね? 何か理由はあるんですか?」

 本間は当たり前のことのように返事をした。

「この五〇〇万円はあくまでも信用調査のためのものです。御社が信用できない、と言っているわけではありません。すでにフォーカスエンジン様の与信調査は済んでおります。もちろん合格です。失礼ですが、御社はいわゆるITベンチャーですよね? 当然突如資金が必要になるケースもございます。そういったときのための五〇〇万円です。金利なども設けていないのは、御社が信用に足ると、三ツ葉銀行が判断したためです。まあ、万が一のための御社の資金繰りの保険ですね。こう言っては失礼かもしれませんが、お金はあるにこしたことはありません。もしご入り用でなければ三ツ葉信用調査へご入金していただければそれで結構です」

 話だけ聞くと、それほどフォーカスエンジン社をかってくれているように聞こえるが、三ツ葉銀行の子会社とはいえ今回の融資に銀行以外の会社が絡んでくるのが種沢に不審を抱かせた。

「三ツ葉銀行さんから融資を受ける場合、皆さんこうしているんですか」

 本間は微笑した。

「ええ。今回のようなケースは主にベンチャーの方を対象にしたやり方なんです。皆さんそうしていただいてます。いままで三ツ葉信用調査への入金ができなかった会社様は一社もありません。まあ、変に欲をかかなければ当然そうなりますよね。皆さん、お金にはシビアですから。それに。いわゆるベンチャー企業には銀行もシビアになるんです。本当に融資して大丈夫なのか、信用はあるのか。その信用作りの一環としての融資額の上乗せと同額の入金をお願いしているわけなんです」

 種沢は、どうも金の巡り回り方がおかしい、と直感した。だがフォーカスエンジン社は金が欲しい。信用が欲しい。それに街の金融屋ではなく相手は銀行だ。信用しても問題ないだろう。

 いや、種沢は金の誘惑に負けた。

「分かりました。両方の契約にサインします」

「ご理解ありがとうございます」

 種沢は本間の言われたとおりに署名し捺印した。

 その作業は金額が金額でもあり、融資ということもあり、なかなか煩瑣だった。

 だがこれで事業拡張資金が調達できる。

 種沢の頭の中はその欲望に支配された。

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