第6話

 フォーカスエンジンの社員たちは、いつものように普段の業務に当たっていた。

 何事もない日常、メーリングリストで流れてくるエンジニア募集の数々、そしてその仕事へのアサインメント、契約満了の手続き、そしてまた新たな募集……そういった毎日が続いていった。

 本社(と言っても今はマンションの一室だが)のメンバー五人は恵比寿への本社機能移転のための準備に追われていた。

 恵比寿の物件は既に仮押さえをしている。今より七倍の床面積の真新しいオフィスだ。

 五人とも会社が順調に回っていることに満足していた。が、近藤だけはちょっと違っていた。

 三ツ葉銀行の本間が仕組んだ罠が気掛かりなのだ。

 まず敵である本間の実体を掴みたい。しかもこちらの姿をくらましてだ。

 そこで近藤は策を編んだ。

 翌日の午前中のうちに、近藤は三ツ葉銀行銀座支店の法人課へ電話を入れた。

「もしもし。私、株式会社エイチエスワイの宮﨑と申します」

 実在のベンチャー企業の名前を、近藤は無断拝借した。

「はい、お世話になります」

「お世話になります。ちょっと融資についてご相談にあがりたいのですが」

「はい。ご融資の件でしたか。それでしたら担当の者と代わりますので少々お待ちいただけますか」

「いや、ちょっとよろしいですか」

「はい?」

「いや、うちみたいなベンチャーですと、横の繋がりが多くありましてねえ。そちらの本間様のお世話になれば、いくらか話が早い、と聞きまして、できれば本間様に取り次いでいただけないでしょうか」

「え、あ、本間ですね。少々お待ち下さい」

 近藤は電話口で二分ほど待たされた。

「お電話代わりました。三ツ葉銀行の本間です」

「株式会社エイチエスワイの宮﨑と申します」

「お世話になります」

「お世話になります」

「実は私、他の起業家連中との話で何度か本間様のお名前を伺うことがありまして……」

「はい。それはどうも。光栄です」

「つきましては融資の御相談にのっていただけないかと」

「ああ、ああ。なるほど。そういうお話でしたらいつでも結構ですよ。あ、でも今週は予定が既に埋まってますので、来週の水曜日以降でしたら大丈夫ですが」

「でしたら来週の水曜日の午前中、大変失礼かと思いますが渋谷の方までご足労願えませんでしょうか」

「渋谷まで? ええ結構ですよ」

「ありがとうございます。渋谷のルノアール南口店で、お時間は本間様のご都合に合わせますが」

「それでしたら午前一〇時でいかがでしょう」

「かしこまりました。それでは来週水曜日、午前一〇時にルノアールで」

「分かりました」

「こちらで何か事前にご用意しておく書類等はありますか」

「いいえ。大丈夫です。ええと、もう一度、会社名とお名前をよろしいでしょうか」

「株式会社エイチエスワイの宮﨑と申します」

「失礼しました。ではまた当日よろしくお願いいたします」

「こちらこそよろしくお願いいたします」

 ここで近藤は電話を切った。

 神林が電話の内容を聞いており、近藤に食ってかかった。

「近藤さん、どこに電話してたんですか」

「三ツ葉銀行の本間さんのとこ」

「近藤さん、『株式会社エイチエスワイの宮﨑』って名乗ってたじゃないですか」

「そうだよ」

「うちの社長の友人の会社と名前じゃないですか。噓言っちゃいけませんよ」

「すまいないねえ」

「すまないとかどうとかじゃなくて、エイチエスワイさんに迷惑がかかるじゃないですか」

「そうでもないだろ」

「どういうことですか」

「電話の話、全部聞いてた?」

「まあ……大体のところは……」

「来週の水曜日、午前一〇時に渋谷の南口のルノアールに本間は現れる。そこで顔と声、その他諸々分かる範囲で個人情報を知りたい。で、神林さん、僕の、いや宮﨑の代理で本間と会ってくんないかなあ」

「なんですかそれ。まるっきり詐欺の片棒を担ぐようじゃないですか」

「詐欺じゃないよ。融資は受けないし、ただ本間の個人情報が知りたいだけだから」

「嫌ですよ。そんなこと、私にはできません」

「君が断ると、他の誰かに頼むだけなんだけどなあ……」

「……なんですか。それ。ちょっとした脅迫みたいなこと言わないでくださいよ」

「本間さんには種沢さんの面は割れてるから頼めないし、今の話を聞いていたのは神林さんだけみたいだし、その方が話しが一番手っ取り早いんだけどなあ……」

「分かりましたよ。行きますよ。ちょっと銀行さんと話しをするだけでいいんですよね」

「うん。でも当日はスーツ着てきてね」

「えー、この梅雨時にスーツですか」

「僕もスーツで張り込むから。それにすぐ偽の名刺の用意と盗撮グッズ買ってくるから」

「ちょっと待って下さい近藤さん。それってただの犯罪じゃないんですか」

「いや、犯罪じゃないでしょ。犯罪の準備とよく似てるけど」

「ですからそれが抵抗感あるんですってば」

「これから来週まで本間さんはスケジュールがないと言っていた。それは与信調査に必要な時間なんだろう。今頃は本間の部下が『株式会社エイチエスワイの宮﨑』の調査を始めてる頃だろう。まあ、こういうことはお互い様だよ」

「で、私は何をすればいいんですか」

「ひたすら『それだけの融資じゃ足りないんです』と言って話しをおじゃんにしてくれればいい」

「それだけ? それなら他に適任がいるんじゃないですか」

「そうかもしれんが、さっきの電話を聞いていた神林さんが一番話が手っ取り早い」

「そんな理由で?」

「うん。こういうことはその時との場に居合わせた巡り合わせが大切なんだ。プログラマーの三大美徳って知ってるだろ?」

「ええ。怠惰・短期・傲慢、でしたよね」

「そう。今回の場合はそういうことで神林さんが一番の適任!」

「はあ……」

 神林は乗り気ではないが近藤のオファーを受諾した。

 本社の五人は来たるべく恵比寿移転への準備で忙しかった。それは神林も近藤も同様だった。その合間をぬって近藤は偽名刺とスパイグラスやICレコーダやらを購入した。もちろん、会社の経費で落とした。

 引っ越しの準備と通常業務の運用とで一日の時間が消費されていく毎日だった。

 これは経営者、特に若い経営者にありがちなのだが、とにかく人脈作りのためのパーティーや会合へのお誘いが多い。種沢と岡谷も昼間は会社勤め、夜はその会合へと足繁く通っていた。

「近藤さん、ちょっとですが三ツ葉銀行の本間さんのことが分かりましたよ」

 種沢が喜色を浮かべた。

「どんなこと?」

「いや、一社だけなんですがやはりうちと同じで三ツ葉銀行の銀座支店をメインバンクにしている会社と知り合ったんです」

「ほう、それで?」

「案の定、本間さんが出てきてこちらの提示した額よりも大きく融資の額を提案してきたそうなんです」

 やはり、と近藤は思った。

「その会社、本間さんの言う通りにしたそうなんです。三ツ葉信用調査に入金して。でも三ツ葉銀行の融資額は減らなかったそうです」

 それはそうだろ、と近藤は思った。種沢は「ここからが本番なんですけどね」と言って話しを続けた。

「本間さんが言うには『うちを相手取って民事訴訟を起こしてくれ』と言われたそうです」

 訴訟? そんな面倒をとるのか、と近藤は思った。

「民事裁判ですから長引きますが『契約時の錯誤により本件の融資には一定の瑕疵がある』ということになって、本間さんが提示した額の上増し金はチャラになったそうですよ」

 そんなことが実際にあるのか。

「で、めでたく融資を完済して終了、となったそうです」

「だがちょっと待て。ということは本間さんは三ツ葉銀行に損害を与えてることにならないか?」

 種沢ははっきり応えた。

「そういうことになります」

「そんな状態をあの三ツ葉銀行が黙認しているとは思えん。もっと裏があるはずだ」

「ええ。私もそう思います」

 種沢はメモを見ながら話を続けた。

「裁判の引き合いに出されたのが日本政策金融公庫の経営者保証免除特例制度という制度なんだそうです。色々条件はありますが、特例で融資が免除される制度があるんだそうです」

 近藤もそこまでは知らなかった。

「そうか。それは分かった。しかし、その特例制度に倣って逐一損害を被ってたら銀行側も、本間さんの上長が黙っていないだろう」

 種沢はしたり顔で言った。

「そうですよね。だからつまりそういうことなんです」

 そういうこと? つまり本間の上長もグルだということか。

「そうか……相手が誰なのかはっきりしないと闘いようもないな……」

「どうします? このまま本間さんの掌の上で転がされていれば何も問題にはなりませんが、民事裁判というちょっとした手間がかかります。それともこの本間さんが仕組んだ、いや、本間さんもトカゲの尻尾切りかも知れませんが、もうちょっとこのカラクリの奥を探ってみますか?」

 近藤は一瞬ためらった。

「そこは経理担当の判断じゃないだろ。種沢さん、経営者としてどう判断する? 予想される事態は分かったけど、うちの会社の方針として、取引先の三ツ葉銀行を相手にどう立ち回るのが正解だと判断する?」

 種沢には意外な返答だった。ここで年長者として近藤が一言アドバイスをくれるか、どうするかの判断をしてくれるものと期待していたからだ。だが種沢の判断は早かった。

「突き詰めて行きましょう。メインバンクとして信用がおけるかどうかの確認はしたいです。それに民事裁判にかかるコストを考えると、本間さんのシナリオ通りにことが進む方が高くつくかも知れません。考えようによっては、たかが五〇〇万ですよ? そのために会社のリソースを費やすのがもったいない。相手が誰であれ、三ツ葉銀行内で行われているのには違いありません。ここは正義を貫きましょう。それに……」

「それに?」

「取引先の弱点を知るのも今後のメインバンクとしての三ツ葉銀行を相手にするのに役立つかも知れません」

 近藤は虚を突かれた。

「ということは、この件をネタにして三ツ葉銀行に脅しをかけると?」

 種沢は即答した。

「いえ、そんなことはしません。あくまで渉外カードとしてとっておくのがいいでしょう」

 まだ若い癖に狡猾だな、と近藤は思った。近藤は種沢の直情的な性格を知っていたから、種沢がそんな風に考えるのが意外でもあり、社会人として少しは成長したのかな、とも思った。

「まあ取締役がそう言うのならそうしましょう。ですが何が出てくるか分かりませんよ。それだけは覚悟しておいてください」

「もちろんです。どだい、銀行内での遣り取りです。人間と金の出来事でしょ? 他には何もありませんよ」

 種沢は怖い物知らずの一面を、初めて近藤に見せた。

 その人間と金の遣り取りで、人間を社会的に抹殺することもできるし、会社の一つや二つが吹っ飛ぶこともあるのを恐れていないのだ。

 ひょっとしたら、社会経験の少なさがその強気の同機になっているのか?

 近藤はそうも思った。だとしたら近藤の身の上も危ない。自分の糊口が凌げなくなる前に手を打っておいた方がいいかな、とも思った。近藤は自分の年齢とキャリアを考えて、このフォーカスエンジン社が最後の会社と決めていた。だがその取締役の種沢の判断力を疑い始めた。

 フォーカスエンジン社がこれからも近藤の定年まで存続するであろうか? 

 この疑問が湧き出した。いや、存続してもらわなければならない。だとするならメインバンクの三ツ葉銀行とも上手くやっていくのは最低条件だ。正義だ義理だと言っていては世の中は渡っていけない。会社は保たない。いま思えば種沢が近藤に今後の三ツ葉銀行への対応を相談したときが、ひょっとすると今後のフォーカスエンジン社の、近藤の人生の大きな転換点だったのかも知れないと思うと、その決断と責任を種沢に押しつけてしまったのが少々悔やまれた。後々になって「世の中そんなに甘くないんだよ。坊や」と種沢に吐き捨てる自分を近藤は想像した。

 だがしかし「敵は配下にするか復讐する気が起きないほど叩き潰す」かの近藤の原則には、「配下にする」という選択しは現実的ではなかった。

 というのも、相手は財閥系の三ツ葉銀行だ。どう考えても弱小零細ITベンチャーが敵う相手ではない。ならば叩き潰すとなるが、それができたとしても、本間とその上長程度を何かしらのスキャンダルで左遷させるのが関の山だろう。

 現実的なのは後者だ。だとしたら結果論、種沢の選択はあながち間違いではなかった。

 それにしても種沢はどこまでの深謀遠慮の末にその結論を出したのだろうか。それが近藤には気掛かりだった。

 種沢は経営者である。だがまだ社会人としての経験が不足している。それは本人も自覚があるのだが、その自覚の上で大切な経営判断を正しく行えているか、ちゃんと学べているのかが近藤の気掛かりになった。

 フォーカスエンジン社は今年で創業四年目。種沢が会社員生活をしていたのはせいぜい三年か四年程度だ。

 たったそれだけの経験ではどんな仕事であれ一人前とは言えない。

 今のフォーカスエンジン社に必要なのは融資でもなく恵比寿の広い小綺麗なオフィスでもなく、経営陣へ教育を施せる指導者だ。

 近藤は自分がその役目を担うことになるだろうと予想はしていたが、こうも責任回避してしまった自分に「失敗した」と感じさせられたのはこれが初めてである。

 そうは言っても、既に賽は投げられた。

 本物のサイコロであればイカサマの手段はいくつもある。

 しかし会社の経営にはイカサマは通用しない、というのが近藤の持論だった。

 いくら詐謀偽計を計っても、ド正論で根回しされた相手には勝ち目がない。

 今回の場合、三ツ葉銀行から不審な契約を持ちかけられたのだから、フォーカスエンジン社として正論で突き進めれば勝ち目はあるだろう。

 だが、まだ相手の、本間の仕組んだイカサマの黒幕が見えていない。

 こちらから攻撃するにはまだ時期尚早だ。

 しかし手を拱いている時間もない。

 融資は契約書に則って履行されるし、時間が経つほど金利が発生する。

 種沢が語った本間の手口にまんまと乗る選択肢は破棄された。それを近藤は止めなかった。

 つまりは近藤も種沢の選択に加担したのも同様である。

 まあいい。来週の水曜日になれば本間の面が割れる。

 そこからどれほど本間の個人情報を抜き取れるかが近藤の今後の課題だ。

 近藤はノートPCに向き合いながら、その本間との面会の準備をしていった。

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