第7話
水曜日が来た。この梅雨時には珍しく雨はなかった。その代わり、真夏を感じさせる蒸し暑さがあった。
近藤と神林は午前九時ほぼ同時にフォーカスエンジン社に現れた。定時は午前一〇時だから他に誰もいない。神林は着慣れないスーツを着込んでいやに堅苦しそうだった。
「神林さん、スーツ着てるの初めて見ましたよ」
「いやもう、何年ぶりかのスーツですよ。暑くて暑くて、やってられません」
「ほんの一二時間だけだから。辛抱して下さい」
「近藤さん、よく毎日スーツでいられますね」
「慣れだよ。慣れ。それよりこれ」
近藤が神林に差し出したのはカメラ内蔵の眼鏡とICレコーダだ。他には株式会社エイチエスワイ名義の宮﨑名義の名刺だ。
「近藤さん、要するに盗撮しろってことですか」
「盗撮なんて言わないでくれ。本間さんとの会話を記録しておくための道具だ。議事録代わりだよ」
近藤が簡単に操作方法を説明すると神林はすぐに覚えた。最近のこういったガジェットの操作は簡単にできていた。
二人がグルであることを隠すために、喫茶店には時間をおいて入店することにした。
まず神林が九時四〇分に入店し、続いて近藤が九時五〇分に近藤が入店する。本間と直接対応するのは神林だけで、近藤はその様子や本間の人相・声などを確認するのだ。
近藤は神林にどういった対応をするのか簡単に説明した。
「そんな無茶苦茶なこと、主張するんですか」
「ああ。話をご破算にしてくれ」
「もし本間さんがこちらの要求を飲んでくれたらどうします?」
「もっと無理難題をふっかけるんだ」
「そんなことできませんよ! なんなら近藤さんが替わりになってください!」
「いや私が直接本間さんに顔を見られるのはマズいんだよ。なんせ私は本間さんの敵だからね。敵の正体を明かすわけにはいかない」
「なんですかそれ。まるで三ツ葉銀行と騙し合いしてるみたいじゃないですか」
「みたいじゃなくて本当の騙し合いだよ」
そう近藤がいうと神林は表情を強ばらせた。
もう時間になった。先に神林が社を出て、渋谷駅南口の喫茶店・ルノアールへと向かった。
その一〇分後、近藤が喫茶店へ出向いた。
喫茶店内はまだ午前中ということもあり、ちらほらとしか客がいなかった。
ルノアールの客層はビジネスマンが中心だ。ここ若者の街・渋谷においてもそれは同様だ。出先で商談をするとき、よくルノアールが利用されるのは他のチェーンの喫茶店より値段がちょっと高めでシックな内装のせいだろう。即ち学生などの若者が少ない。必然、店内も落ち着いた静かなものとなる。
近藤がルノアールに着くと、案内係が近藤を席へと案内した。近藤が「あの席がいいんですけど」と指さし、その席へ案内してもらった。席は神林の席と対面する場所を選んだ。ここからなら本間と神林の会話も聞き取れるし、神林の表情を見ることもできる。
緊張と退屈で凝り固まった神林が席に座っていた。上手くいくかなあ、と近藤はちょっと不安に感じた。
神林のスマホが鳴り、電話に出た。
「エイチエスワイの宮﨑です。いま着きましたか。こっちです。今、入り口に向かって手を振っています」
入り口でキョロキョロしていた男が神林に気付いて席に着いた。
「どうもお待たせしました。三ツ葉銀行の本間です」
「改めまして。株式会社エイチエスワイの宮﨑です」
二人は名刺交換をし、しばらくは時候に関する雑談をした。神林はわざわざ渋谷までご足労願ってありがとうございます、と言った。
「いや、私も常に室内にいるのは少々苦痛でしてね。こうしてたまには外出したかったんですよ」
「それは良かった。まあ銀行さんを外に呼び出すのは正直、気後れしてまして」
「まあまあ、そう気になさらず」
ここまでの会話で近藤は本間の声を記憶した。
「では今回の融資に関する事なんですが……」
と、本間がトランクケースから書類を取り出した。
「御社の財務を調査させていただいたところ、融資の額はこのあたりが妥当だと判断したのですが、いかがでしょうか」
本間は書面を指さした。八〇〇万円とあった。それを見た神林は驚いたふりをした。
「……そうですか……弊社としては少なくとも一〇〇〇万は欲しいところなんですが……」
本間は困惑の色を出した。
「そうでしたか。ですが御社の資本金は三〇〇万円、昨年度の売上も勘案しますと、これが精一杯かと思われますが」
神林は粘った。
「いや、実はこんなことは釈迦に説法かも知れませんが、今の弊社は鶏が先か卵が先か、の状態なんですよ」
「というと?」
「弊社はSES事業で成り立っています。仕事はいくらでもあるんです。ですがそれをカバーするだけのSEを確保できていないのが実情なんです。SEなんてのは半分フリーランスで半分会社員みたいなものなんです。既にご存じかもしれませんが、SEの実力は時給に反映されます。ですから腕が良くて経験のあるSEは一円でも多く時給を支払える他社にさっさと鞍替えしてしまうんです。ですから金のある同業他社はどんどん優秀なSEを抱え、さらに大きなプロジェクトに参画できてるんです。ところが金のないところには、その程度のレベルのSEしか集まらない。金が出せれば会社は成長できるんです。そうでなければいつまでも停滞したきりなんです。最悪、会社の解散なり倒産しか道がないんです。ですから今の弊社には高時給のSEを雇うだけの金が必要なんです」
「……なるほど……そちらの業界の事情は分かりました。ですが当行で御社を査定させていただいたところ、この金額の融資が最も妥当だと判断させていただきました。実を申しますと、今回の八〇〇万という数字も、ちょっと無理をした数字なんです」
本間はごく差し障りのない口調だった。
「本来の融資額は六〇〇万なんですが、それをある方法で上乗せ金を足して八〇〇万なんです」
出たな、と近藤は思った。フォーカスエンジン社に使ったのと同じ手口で不透明な金を捻出する積もりだったのだ。
本間も銀行員である。無理な融資などできはしない。その無理を承知で神林、いや宮﨑は増資を求めているのだ。
「本間さん、資本金の額に問題があると?」
本間は僅かに困惑の色を見せた。
「資本金の問題だけではありません。御社の出納記録からも勘案して総合的な判断としてこの金額を提示させていただきました」
「なるほど。そういうことですか。弊社にはそれだけの価値がないということですか」
神林、いや宮﨑は怒気を含んだ演技をした。いい調子だ、と近藤は思った。
「実際、御社にこの額以上の返済能力はお持ちですか? 厳しいことを言うようですが、現実的にこの額を超えてしまうと、月々の金利の増え方も想像以上に大きくなりますよ。まあ、法定金利内とはいえ、元金数百万の金利は馬鹿になりません。そういった些細とも思われる支払いが徐々に経営を圧迫していくんです。私はそういった企業さんを沢山見てきました。ご無理は仰らず、一度この金額でご検討願えませんか」
本間の言っていることは全うだった。まあ、神林には無理を言え、指示しているので当然のことである。
「そうですか……私の一存では決定できませんので、一度社に戻って再検討させていただけませんか? 社長決裁も必要ですし」
本間は無駄骨を折らされた気分になった。しかし銀行員ともなれば、そいうった場面に出会うこともしばしばある。
近藤にとって、この面会で重要なのは融資の話ではない。本間にこちらの正体を見せずに本間の正体を見破ることだ。少なくとも、今回の面談で本間の顔や背格好、声の情報も入手できた。まずはこれで充分だ。
近藤はオーケーのサインを神林に出そうとしたが、本間に気取られるのを恐れてひたすら二人の遣り取りを見守った。
「そういうことでしたら、またの機会にご連絡いただけばともいますが、いかがでしょうか」
「ええ。かしこまりました。社で検討したあと、ご連絡差し上げます」
「どうぞご検討のほどよろしくお願いします」
勘定は神林がすませ、神林と本間が店を出た。近藤は一〇分ほど置いてから喫茶店を出てフォーカスエンジン社へ戻った。
社に戻ると、汗だくの神林がティーシャツ一枚で、下はスーツ姿で「暑い暑い」と言っていた。
「神林さん、お疲れ様でした」
「お疲れ様でもなんでもないですよー。とにかくこの恰好、暑くてしょうがないんですよ」
「いやいや、お陰で本間さんのことが分かりましたから、いい仕事してもらいましたよ」
「もう勘弁してくださいよ」
「今回だけ。今回だけですよ。もう頼みませんから」
「で、本間さんへの返事、どうするんですか」
「ああ、それなら、しない」
「しない? どういうことですか」
「そのまんまですよ。返事はしない。そのままこの偽の融資の話は立ち消えですよ」
「そんないい加減なことでいいんですか。余計、本間さんに怪しまれませんか」
「大丈夫、大丈夫。向こうは海千山千のお金屋さんだから、そういったことも充分想定内だよ。そんなことより、今回の件で充分に欲しい情報は得られたから。よくやってくれました。ありがとう!」
近藤はスパイグラスやICレコーダと本間の名刺を神林から受け取り、さっそく撮影状況を確認した。
「どうです? ちゃんと映ってます?」
「うん。ばっちり」
「これが何の役に立つんですか?」
「まあ、色々と」
「もったいぶらないで教えて下さいよ」
「この情報を元に本間さんの個人情報を徹底的に洗い出す」
「こんなんで? どうやるんですか?」
「まあ、興信所に頼んでもいいんだけど、ちょっと自分で探偵のまねごとでもやってみようかと」
「おお、凄いですね」
「いや、全然凄くない。地道に足で情報を稼ぐんだ」
「足で? 張り込みとか尾行とか?」
「まあ、そんなもんだね」
「だったら本物の探偵に頼んじゃった方が手っ取り早くないですか?」
「それは経費では落ちないかもよ。だから自分でやるんだ」
「なるほど」
その日の業務は何と無しに始まった。
午後二時になった。
近藤は「今日はちょっと用があるんで早上がりします」と言って退社した。周囲は何事かと思い、その理由を訊いてきた。
「これから本間さんの尾行。本間さんの自宅まで追ってみる」
おお、と歓声が上がった。
事務畑の人間がついに行動に出るのを見て、これから何かが始まる、そういった期待感が上がった。
近藤は三ツ葉銀行銀座支店まで地下鉄で行った。
銀行窓口は三時までだが業務はもっと遅くまでかかる。間違いなく本間は残業するはずだ。そう見込んで近藤は張り込みについた。
まずは三ツ葉銀行銀座支店の通用口を探した。あった。通用口は一ヶ所しかなく、銀座という土地柄、隠れて待つ場所もない。タクシーに乗り込んでしばらく客待ちか休憩をしているかのようなふりをしようかと思ったが、それだけの持ち合わせもない。間抜けなようだが通用口が見えるちょっと離れた交差点で立ちっぱなしで本間が出てくるのを待つしかなかった。
二時間半が過ぎた。午後五時過ぎだった。ちらほら行員たちが通用口から出てきた。近藤はその一人一人をチェックしていった。本間の姿はまだ現れない。
だが近藤は焦りは感じなかった。
本間は課長だ。銀行の課長は課長なりに色々と多忙なのだろうと予測していたからだった。これも想定内。しかし、銀座の人波を見ていると、ここも以外とオフィス街なのが分かった。
近藤は夜の銀座を知らなかった。そんなところで遊べるほど偉い地位に居たこともなかったし、接待といえば新橋か新宿ぐらいしか知らなかった。
こうして都会の真ん中で佇んでいると、普段は自分もこの人の流れの中に溶け込んでいたのかと思った。
銀座の人の交通は絶えなかった。人々はそれぞれの家路に就いていた。駅に向かい、電車に乗り、それぞれの家に四散する。それが銀座に限らず東京の人々の生活なのだ。
午後七時四〇分すぎ、とうとう本間が通用口に現れた。
近藤は慣れないながらも尾行を開始した。
本間は真っ直ぐJR有楽町駅に向かった。
本間の後ろ姿は疲れ切っていた。まあ、どこにでもあるサラリーマンの姿といえばいいだろうか、悲哀と疲労を拭いきれない無様な歩き方だった。
本間は京浜東北線に乗り、車両の座席の前のつり革に掴まった。
上野駅で本間の目の前の座席が空き、本間はその席に座った。
そんな些細な動作でさえ、緩慢で疲れた中年男性の悲哀を感じさせるほど、本間はよれていた。
本間は座席に座ると腕組みをして目を閉じた。尾行をしている近藤にとっては好都合だった。本間は身じろぎ一つもせず、ただ黙って、一指も動かさず黙然とした。おそらく居眠りではないのだろう。本間の脳裏に掠めるものはなんなのか、近藤には想像できなかったが、中年男がそうしている姿は、あるときの近藤自身の鏡映しのように思えた。
蕨駅に着いた頃に本間は目を覚ました。いや、目を覚ましたというよりただ姿勢はそのままで目を開けた。
電車が浦和駅に着くと本間は降車した。近藤も別の出入り口から降車した。
本間は真っ直ぐ改札を出て繁華な駅前を通ってマンションが建ち並ぶ大通りを過ぎていった。
ここまでの尾行は順調だった。
だが駅から一〇分ほど離れた辺りになると、街並みは戸建ての閑静な住宅街となった。
即ち、人通りが極端に減ったのだ。これでは尾行に気付かれるかも知れない。
近藤は本間から三〇メートルほど離れて歩いた。
本間が道を曲がると、近藤は焦ってその角まで走って行った。
よし、本間を見失っていない。
本間はある家の前まで来ると、力なく扉を開いて中へ入って行った。
ここが本間の家だ。
近藤は表札に「本間」とあるのを確認し、スマホの地図で本間の住所を確認し、家の外観をスマホで撮影した。WiFiのパケットキャプチャも本間の家の敷地内に仕込んでおいた。
本間の家からは室内灯の明かりが漏れていた。本間は当然のように家族持ちで、おそらくこの家も三〇年以上のローンを組んで買ったのだろう。
そこには一切の策略がなかった。
本間が今朝、渋谷の喫茶店で見せた銀行マン然とした冷徹な鉄面皮とは裏腹の、ごく一般的な東京郊外に住むサラリーマンの家庭があった。
近藤は室内を窺うようなことはしなかった。
なんせこういった住宅街である。近所の目がどこにあるか分かったものではない。
近藤は本間の自宅の住所を確認すると踵を返して浦和駅へと引き返した。
こんな夜更けに住宅街を歩き回っていると、それだけで不審者に思われてしまうのを避けるためだった。
本間にも生活がある。そのことが知れただけでも、この尾行は正解だったかも知れない。
本間には家庭がある。即ち守るべきものがある。
ということは、何か悪巧みをするにしてもそれなりの保険をかけているだろうと近藤は予想した。
さて、本間の正体はどこにあるのか?
昼間の東京で見せる銀行マンの姿が本間の正体なのか、埼玉の自宅で見せる家庭人としての本間がその正体なのか、その二つの切り替わり点となっているのは何なのか。
まさかとは思うが、その片方が破綻すればもう一方も破綻するのを本間は知らないのだろうか?
本間は仕事で罠を張っている。そこにたまたまフォーカスエンジン社が引っかかった。
だが、こうして近藤が本間を尾行している以上、フォーカスエンジン社はそんな脆弱な蜘蛛の巣をけり破るだけの行動力を持っているのを、本間は考えていなかったのだろう。
要するに、フォーカスエンジン社を舐めてかかってきたのだ。
近藤は今までの社会経験の中で、若すぎる起業家たちが、老練の強者どもに舐めてかかられ窮するところを何度も見てきた。ところが、その若い起業家のバックについている大資本を知ることとなり、態度を急変させるのも見たことがある。
社会人は結局、その人とその背後にある者を見て評価を決めるのだ。
残念ながらフォーカスエンジン社にはそういったバックボーンとなるものを持っていない。本当に若手起業家による新興ITベンチャーなのだ。本間に舐めてかかられても仕方のないことだ。それが実社会の現実だ。
だがしかし、窮鼠猫を噛むという通り、そう易々と本間の掌の上で転がされてたまるか。必ず罠はブチ破ってやる。そう近藤は心に決めた。
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