四方詐謀
@wlm6223
第1話
三ツ葉銀行銀座支店のお客様相談スペースはいやに清潔だった。その清潔感は病院の診察室によく似ていた。
五つのパーテーションに区切られたうちの一つに融資担当の相田知子と株式会社ソウデンの社長、飯塚智則がいた。
「いや、貧乏暇無しでね。今回の融資は設備投資に使いたいんですよ」
飯塚はよれたスーツをよじられて笑顔で言った。
相田も笑顔だった。それは単に営業スマイルだった。
銀行さんとは笑顔で付き合うこと。これが飯塚の鉄則だった。
飯塚の経営するソウデンは印刷業だ。
この出版不況とはいえ、印刷物の需要がなくなっているわけではない。
グラビアアイドルの写真集、教科書、カレンダー……いくら世間がIT化されても印刷物の一定の需要はある。
その中で飯塚のソウデンは教科書の印刷を事業の中心としていた。印刷業界でも教科書の仕事はどこでも喉から手が出るほど欲しい案件だ。毎年一定の売上が立つからだ。つまり、ソウデンは優良企業といってよかった。
そんな優良企業が何故また融資を申し込むのか。
「今回の融資では特殊印刷ができる設備を購入しようと思いましてね。いや、印刷物はただ本の形をしているものばかりじゃないんですよ。特殊な折り込みをしたものや意匠を凝らした仕事がぼちぼち来るようになったんです。いや、ほんと折り紙みたいなもんなんですよ。例えばこんな……」
と飯塚はアタッシュケースから商品サンプルを取り出した。
「これCDのジャケット。ほら、蛇腹になってるでしょ? これ、××さんのソロアルバムに使ってもらってるんですよ。それにこっち。触ってみてください。かなり厚手の紙を使っていて、ほら、文字のところだけ出っ張ってるでしょ。これ、エンボス加工っていうんです。あ、端っこを触って見て下さい。点字も書いてあるんです。凄いでしょ? 印刷業界は業界規模こそ縮小傾向ですが、うちみたいな特殊技術を持っているところはこういう強みがあるから生き残っているんですよ」
相田は「へえ、面白いんですね」と興味を惹かれた振りをした。
実際、相田にはそんな飯塚の簡単なプレゼンには興味がなかった。相田の興味はソウデンのバランスシートが見せる経営状態の善し悪しとソウデンがいくらの現金を留保しているかのみだった。
内心では飯塚は必死だった。
今回の融資を受けられなければ会社が傾きかけないのだ。もし融資されても全額を設備投資に使うつもりはなかった。いや、できなかったのだ。
ソウデンは印刷業界でも中堅クラスの規模を誇っていた。創業七〇年。先々代から続く老舗だ。そういった歴史があるからこそドル箱の教科書印刷にも手が出せており、経営基盤を安定させることができたのだ。
ところが、その教科書案件が他社との競合で負けそうになっているのだ。
たしかにソウデンの印刷技術は一流だった。だがその分コストは高かった。
出版社も一円一銭のコストダウンを強いられているのが現状だ。その皺寄せは下請けの印刷会社に当て擦られる。
ソウデンは特殊印刷に特化した技術一本でやっていくか、それとも競合他社と同じようにコストダウンを計るか――飯塚は前者を選んでいた。
今回の融資が通れば差し当たりの運転資金に当てられる。それに設備投資のための頭金にもできる。飯塚は噓を言っていないが紛らわしい報告を三ツ葉銀行にしているのだ。
相田は笑顔を崩さないまま、飯塚の広げた商品サンプルを片付けて飯塚に返した。
「ご融資申し出の件、確かに承りました。審査に一週間ほど頂戴しますがよろしいですか」
飯塚は二つ返事で相好を崩した。
「ええ。よろしくお願いします」
飯塚は自分の娘とおなじ年頃の相田に深々と頭を下げた。
飯塚は意気揚々と三ツ葉銀行を後にした。
だが融資が決まるまでのこれからの一週間は胃の痛い思いをするのだろう、と相田は思った。
どだい、銀行に融資を求めてくる会社は、その実、火の車なのだ。
バブルの頃には銀行から「金を借りてくれ」と営業をしたと相田は聞いていたが、リーマンショック以降は銀行と企業との立場は全く逆転していた。
銀行は融資を出し渋り、それでも企業は融資という名目で金の無心をした。
今のご時世、景気の良い業界などなかった。
金融業界でもその風当たりは強く、円安も長く続き、取引先の倒産もあり、マスコミが取り上げないだけで銀行も経営には慎重になっていたのだ。
銀行とはすなわち「お金屋」である。その「お金屋」が金で失敗するわけにはいかない。銀行が破綻したとなれば、それは多大な社会問題になってしまう。
融資一つとっても失敗すれば銀行の経営に僅かに亀裂が走ってしまう。その小さな亀裂がいつ大きな亀裂になってしまうか分かったものではないのだ。銀行の経営は正に大きな薄氷の上に建てられた楼閣なのだ。そのハンドリングは現場の銀行員たちの細々した仕事に任せられている。受付員、その係長、課長、そういった「下々の者」の入念で繊細な仕事にかかっているといってもよい。銀行内での人間関係は他のいわゆる会社とは違うのだ。というのも、一切の不正を受け付けない、もし何かあれば職員全員に波及する大問題に発展する可能性を秘めているからだ。
相田は融資担当課長の本間伸征にソウデンの社長、飯塚との面談を報告した。
「ソウデンさんへの融資は問題ないように思われます」
本間は怪訝そうだった。
「信用調査は?」
「これからになりますが、過去の融資の実績を見ても問題ないかと……」
相田がそう言いかけたとき、本間が遮った。
「過去の実績はあまり当てにしない方が良いだろう。なんせこんなご時世だからね。それより事業計画書と資産状況を教えてくれ」
「はい」
本間は相田から資料を受け取り、その一行一行を検分していった。
ソウデンの経営状態は健全と言えるものだった。前年対比では純利益は微減しているがさして経営に差し障るほどではなかった。
「じゃあ、これで信用調査を進めてくれ」
「かしこまりました」
本間は相田に資料を返すと相田はスタスタと立ち去った。
これで獲物がもう一匹懸かった。本間はそう思った。
一週間後、本間と飯塚は三ツ葉銀行銀座支店の応接室にいた。
この応接室も病院を思わせる清潔感があり、病院の診察室というより霊安室の白い明るい静寂があった。
本間と飯塚はソファに対面して座っていた。
飯塚は融資が決まるかどうか不安げなのを必死に隠し通そうとしているのがありありと分かった。所作仕草は平静なのだが目が不安を訴えていた。
「社長さん、端的にお話しましょう」
本間がそう切り出すと飯塚は一気に緊張した。
「今回のご融資の件、承りました」
飯塚は乗り出していた身をソファに凭れかけさせ肩を落とした。
「ありがとうございます」
そういうと深々と頭を下げた。
「ですが色々と条件がありまして」
本間がそういうと飯塚の顔色が急変した。
「と仰いますと?」
本間は顔色一つ変えなかった。
「今回ご希望の融資額は九〇〇万円ですよね」
飯塚の額に脂汗が吹き出た。
「はい。その通りです」
「ですが融資額を一二〇〇万円にしてください」
飯塚は困惑の色を隠さなかった。
「一二〇〇万?」
「そうです。御社の資本金の倍額と同額です」
銀行から融資額を増やす話などありえない。飯塚はそう思った。
「……しかしまたなぜ……」
本間は淡々と応えた。
「いや、与信調査の一環なんですよ」
「与信調査?」
飯塚はさらに困惑した。
「上乗せされた三〇〇万円は来月にご返済お願いします」
「はあ……」
「その三〇〇万円が満額返済されること自体が御社の与信に関わるわけです」
「……なるほど」
飯塚には本間の言わんとするところが掴めなかった。
与信調査はすでに銀行側で終わってるはずだ。それなのにまたなぜそんなことを? と疑問に思った。
「ただ振込先が当行ではなく、当行の子会社の方へとなります」
「はあ」
飯塚はますます困惑した。
本間は一枚の契約書を飯塚に渡した。
「そちらの『株式会社 三ツ葉信用調査』へ三〇〇万円を入金してください。それが与信の担保になります」
「……分かりました」
「もし『三ツ葉信用調査』への入金がなかった場合、御社への即時融資撤回となり融資金の取り立てとなりますのでご注意ください。まずは契約書をよく読んで、ご質問があれば何なりと訊いてください」
飯塚は契約書をまじまじと見た。
契約書には融資のことは書かれておらず、今回の融資希望額九〇〇万円とは別個の契約であることが分かった。そのことを飯塚は本間に問い質した。
「ええ。契約自体は融資とは別物になります。ですが実質的には同じものです。御社にとって三〇〇万円は余剰でしょうが、その余剰がある、ということを証明していただくためのものだとお考えください」
飯塚は戸惑った。が、決断は早かった。なんせ会社の運転資金・設備投資に必要な金が欲しかったのだ。それに三〇〇万円は手つかずにしておけば何の問題もない。欲しいのは九〇〇万円だ。それさえあれば充分だ。
飯塚は目先の融資に目が眩んだ。経営者であれば目先の金に目が向くのは当然のことだ。その他付帯する条件などどうでもよかったのだ。飯塚は冷静な判断を失っていたのだ。
白い壁、白い天井。何の装飾もない応接室。その中で銀行さんと一対一で差し向かっている。銀行という医師が取引先という患者に対して病名と今後の治療方法を説明しているのに等しかった。飯塚は何の反論も疑念も持たなくなっていた。急場の金が欲しい。その一心だった。
飯塚は契約書に割り印し、本間に戻した。
本間は「してやったり」と思ったが顔には出さなかった。
「それでは本来の十二〇〇万円の契約の方に移りましょうか」
そういうと本間はまた別の契約書を取り出して飯塚に契約内容を説明した。
ここからは何の変哲もない遣り取りに終わった。
「それでは御社の事業が上手くいきますようお願いいたします」
飯塚は人心地ついたらしく、本心からの笑顔を見せた。
「お任せ下さい。これでもうちは業界内では老舗のうちです。私の代で会社を畳むようなことはしません」
本間は両肘を膝について頷いた。
一通りの事務作業が終わると二人は部屋を出て銀行の窓口まで来た。
飯塚はここへきて落ち着きを見せた。
「それではどうもありがとうございました。これから社に戻って早速もろもろの仕事がありますから」
本間は愛想よく飯塚を見送った。
飯塚が銀行の自動ドアを出るところまで本間は見送った。
それと同時にゆっくりと自分のデスクへと踵を返した。
本間は一息吐くと笹沼支店長へと内線をかけた。
「本間です」
「ああ。笹沼だ。どうだった? ソウデンの件」
本間は周囲の目を気にしながら何事もないかのように応えた。
「融資が決まりました」
「それだけか?」
本間は一瞬間を置いた。
「支店長、いまお時間よろしいですか」
「ああ。かまわんよ」
「では直接お話したいことがあるので、私から伺います」
「分かった」
そこで電話を切ると本間は平静を装って支店長室へと向かった。
支店長室の扉をノックすると中から「どうぞ」と野太い声がした。
本間は扉を開け「失礼します」と一礼した。
「おお。待ってたよ。ま、こっちに座って」
支店長はデスクから立ち上がり応接用のソファへ本間を促した。
笹沼は重い腰をゆっくりとソファに沈め、両腕を開いて仰け反った。
「君からの報告ということは、ことは上手くいったんだね」
本間は頷きながら言った。
「ええ。上手くいきました」
笹沼は嫌な笑いを浮かべた。
「で、今回はいくらなんだ?」
「三〇〇万円です」
笹沼は溜息を吐いた。
「三〇〇か……ソウデンの資本金はいくらだっけ?」
本間はそんなことも頭に入っていなかったのかと内心苛ついた。が、それは笹沼を出し抜くチャンスにもなり得るんじゃないかとも思った。
「六〇〇万円です」
「そうか。まあ、順当なところだろう。で、ソウデンは実際、どうなの?」
この「どうなの?」は経営状態を訊いているのだ。
「まあ悪くはありません。いや、むしろ手堅い商売をしています。飛ぶことはないでしょう」
笹沼はまた大きく仰け反った。
「帳簿を見せてくれないか」
「はい」
本間は一冊のファイルを笹沼に渡した。
いまどき帳簿を紙にしているのには理由があった。電子化してしまえば誰かに盗み見られる可能性が高くなるし、コピーも容易だ。昔ながらの紙にしておけば、この一冊さえ厳重に管理していればこの「悪事」が露呈することはない。それにまさか紙資料を元に動くような旧態依然としたことをやっているとは誰も想像しないだろうという目算があったからだ。
「今回の三〇〇万を含めて、累計で六億五六〇〇か……」
「そうなります」
笹沼は右口角をあげた。
「目標の一〇億まで大分あるな」
本間はにやけるのを押さえた。
「こういうことは急がない方がいいと思います。どこで誰が見ているか分かったもんじゃありませんし」
笹沼は嫌な笑いを浮かべた。
「しかし、もっと早く一〇億ぐらいなら達成すると思ってたんだがなあ」
「焦ってはいけません。なるべく少額で、こつこつとやっていった方がよいかと」
笹沼は笑った。
「確かにそうだな! 本間、お前は本当に銀行員の考えが身に染みてるな」
本間は褒められたのか貶されたのか判別できなかった。
「しかし、一〇億になったら止める、というのは少々額が大きかったかもしれませんね」
笹沼は意外に思ったらしく目を丸くした。
「そうか? それに一〇億という金額を設定したのは、お前、本間じゃないか」
確かにそうだ。こんな「悪事」はそうそう続けられるものではない。その引き際として本間が提示した額が一〇億円だった。
「いや、実際にやってみると目標が高かったかも知れません」
笹沼は意外な顔をした。
「そうか……現場のお前が言うのなら、もっと早めに切り上げるか?」
笹沼からの意外な提案だった。確かにその手もある。だが本間は本心を笹沼に吐露した。
「うちの銀行の取扱額を考えて下さい。一〇億なんて大した額じゃないじゃないですか。それに融資の焦げ付きもありません。大口の融資ではこんなこと絶対やりません。ことが露見する可能性が高まりますからね。今のうちだけですよ。こんなことができるのは。景気動向によってはもっと早く目標額に達して切り上げるかも知れませんが」
笹沼は大笑いした。
「お前には参ったよ。一銀行員が悪さを働くと、こうまで狡猾になれるとはね! しかし、どうしてそこまで金に執着するんだ? お前ならまともにコツコツ働いてれば支店長クラスにはなれるのに」
本間は渋面をつくった。
「もし私が本当に悪巧みをせずコツコツと働いて順調に出世できると思いますか? 私はそうは思いませんね。銀行は一回のミスで左遷されるのは支店長の方がよくご存じじゃないですか。業務上のミスは誰にでもあります。人間は誰だってミスをするものです。支店長にだって思い当たる節があるんじゃないですか? 自分のミスを誰かに押しつけたことを。そういうのが私にはできないんです。いや、支店長を責めているわけじゃありません。道義上・道徳上できないんじゃないんです。私にはそれほどの能力がないんです。私にできることは銀行業務とちょっとしたコンピュータの操作だけです。とてもじゃないですが人を蹴落としたり罠にはめるような能力がないだけなんです。私ももう四二歳です。自分にできることとできないことの分別ぐらいはついてます」
笹沼の笑いは止まらなかった。
「そうか。そういう生き方を選んだか。だがお前だってもう一人前の大人だ。自分の道は自分で決めるがいい。だが全て自己責任だってことを忘れるなよ。後悔しても取り返しのつかない年齢だ。どんな結末になっても恨んだり嫉ったりするなよ」
笹沼はさっきから笑い通しだが本間は気を引き締めて顔をしかめた。
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