第11話

 フォーカスエンジン社の新社屋の準備は迅速に着々と進んでいた。

 まずサーバールームにサーバが設置され、各デスクに端末が配置された。

 オフィスの備品を入れるキャビネットも搬入され、外見はもう立派なオフィスそのものだった。

 岡谷がサーバの最終動作チェックを行い、他の四人は各端末のチェックをしていった。

 準備万端。明日からでもこの新社屋での業務ができる状態になった。

「計画通りにいきましたね」

 種沢が岡谷にそう言うと

「ちょっとネットワークのスピードが予定より遅いかな。種沢、ちょっとどこかの端末で高負荷な仕事をさせてくれ。バーチャルPCの負荷実験をしたい」

「よしきた!」

 種沢はオンラインゲームをインストールし、実際にプレイしてみた。種沢がキャラクターを動かすと、モニタにその様子が映った。しばらく種沢が遊んでいると、種沢のモニタに「こちらシステム運用部です。負荷が高くなっています。ウィンドウを閉じてください」という主旨のメッセージが割り込んできた。

 種沢が「警告メッセージが出たよ」と岡谷に伝えると、岡谷はそのメッセージを確認しに来た。

「よし。これでオーケー。じゃ、このゲーム、アンインストールしといて」

「了解!」

 実験は無事終了した。

「こっちも全端末、動作チェック終わりましたー」と幸田が声を張り上げた。

 オフィスの移転に際してPCとサーバの不具合対策として一日猶予をとっていたのだが、それは杞憂に終わった。

「今からでも仕事、始められるな」と種沢が言った。

「まあ、実際の稼働は来週の月曜日からだから、明日の金曜は休日みたいなもんだな」と岡谷が応えた。

「しばらくこのオフィスに慣れるまで、色々ドンチャン騒ぎが出てくるさ」

「まあ、それも想定範囲内だから心配はないね」


 翌日の金曜日、いつもの五人と今までリモートワークだった社員のうち一〇人が定時の午前一〇時に出社した。

 その一〇人が揃って「綺麗になったなー」「使いやすそう」など、肯定的な感想を述べてオフィス内に散らばった。

 岡谷がその一〇人に向かって言った。

「今日出社してもらったのは、このオフィスの試験運用みたいなもんだから、何か不便なところがあったり、改善点の提案があればどんどん言ってくれ。こっちとしてもそういうアドバイスは大歓迎だ」

 一〇人が「おお!」と感嘆した。

 できたてのオフィス、新しいPC,何もかもがまっさらだった。社員たちはこの白紙のキャンバスに自分たちの思い描く理想の会社を作ることを種沢と岡谷は標榜していた。

 さっそく端末PCの不具合が出た。原因はキーボードケーブルの差し込みが不十分なせいだった。その程度のことはみな自分たちで対応していった。

「今期入社したスタッフの稼働状況を知りたいのだが、いつもの共有フォルダがなくなっている」との苦情が幸田に上がってきた。

「ああ。今までは何の考えもなしにフォルダを配置していたけど、今回からスタッフ関連の書類はこのフォルダの中で、このファイルを開いてもらえば分かるけど、入社日順にソートしてくれれば大丈夫だから」

 問題は解決した。こうした些細な問題は頻発したが、大筋のところ、こういった改変に社員たちは納得し、その使い方を習得していった。

「まずは試運転は上々だな」

 岡谷が種沢をチラリと見ながら言った。

「ああ。問題ない。準備は整った。あとは本格的に実稼働してからの対応だな」

 定時の午後六時となった。一〇名の社員はそれぞれ帰宅していった。

 残業をさせない、という新たな方針をう打ち出したのも、この新社屋に移ってからのことだった。

 時間内に仕事に集中しろ。むしろ仕事のできないやつほど残業したがる。

 そういう方針を種沢と岡谷は発表したのだ。

 社員がはけてからすぐに来客が来た。

 株式会社オーウェンシーズの浦沢と市原だった。

「やあ、ようこそいらっしゃい。こちらへどうぞ」

 種沢が直々に出迎え、休憩スペースへと案内した。

「また随分かっこいいオフィスですね」

 お世辞半分、本音半分で浦沢が言った。

「ええ。そうでしょ? バウハウス好きのデザイナーにデザインを発注したんです。機能性も充分ですよ」

「こりゃ、相当お金がかかったんじゃないですか」

 すぐに金の話を持ち出すのがITベンチャーの悪い癖だ。

「まあ、相場程度ですよ。それほどデザインに凝る積もりもありませんでしたし」

「あ、そう言えば、うちの市原、ご存じでしたっけ」

 浦沢の隣で市原が軽く会釈した。

「初めましてです。よろしくお願いします」

 種沢と市原は名刺交換した。

「じゃ、こちらへ」

 三人は休憩スペースのソファに座り込み、ちょっとしたIT業界の世間話をした。

 浦沢が来たのはオフィスの新規移転祝いでも顔繋ぎの雑談のためでもない。一通りの雑談が済むと浦沢が本題を切り出した。

「種沢さん、この前お話した三ツ葉銀行の融資の件なんですけど、あれからどうなりました?」

 種沢は来たか、と思った。

「過剰融資分については今のところそのまま手つかずにしてますよ」

「今のところ、というと?」

「三ツ葉信用調査を調べて結果が出てこない限りは振り込まない積もりなんです」

「あれ? 契約書には振り込むよう書かれていたんじゃなかったんでしたっけ」

「ええ。書かれてましたよ。ただし、完全に合法のもの出なければ契約そのものが無効になりますよね」

 市原が口を開いた。

「確かにそうです。ですが会社の与信調査にはお金も時間もかかります。その過剰分の振り込み期限、守れそうなんですか」

 市原には融資の件は全て浦沢から聞かされていたのだ。

「守るも何も、調査次第ですよ。もし問題があるとすれば、それは三ツ葉銀行さん側の問題ですからね」

「では三ツ葉信用調査に支払わない、という選択肢も考えていらっしゃると」

「まあ、そうなりますね」

「で、その余剰の五〇〇万円はどうなるんですか」

「そのままそっくり三ツ葉銀行さんへお返しします」

「信用調査は興信所かどこかへ依頼されているんですか」

「いえ。してません」

 浦沢と市原には意外な返答だった。

「では独自で調査されていると」

「独自というか何て言うのが正確なのか……まあ、調査は進めています」

 その調査の正体を曝きに浦沢と市原はこの新オフィスへ来たのだ。その尻尾を掴むまでは三ツ葉信用調査の臨時株主総会も何もない。

「ところでオーウェンシーズさんはメインバンクを替えようかどうか悩んでるってことでしたけど、その後どうしました?」

 浦沢が笑った。

「いや、三ツ葉銀行さんにこれからもお世話になることに決めました」

「どんなわけでですか?」

「先日の懇親会で私が言った三ツ葉銀行さんの噂はウラが取れなかったんですよ。今日はそれを種沢さんにご報告する積もりで来ました。ですから安心してください。やはり噂は噂以上のものではありませんでした」

 これは浦沢の噓だ。

「そうでしたか。でもうちの方では三ツ葉信用調査の調査は続けます。やはり普通に考えたら、契約方法がおかしいじゃないですか。何かありますよ。何かあるから普通じゃない方法で契約を結ぶんですよ。そこはちゃんと銀行さんなら明瞭に説明してもらわないといけませんからね」

 浦沢は焦った。こうも真っ直ぐに種沢が動くとは思っていなかったのだ。

「そうですか……そうまでして三ツ葉銀行さんを、三ツ葉信用調査さんを疑っているとは思っていませんでした。しかし、銀行さんを敵に回すようなやり方は感心できないですね」

 種沢は怯まなかった。

「敵に回すかどうかという問題ではなくて、法的に正しいか正しくないか、脱法ではないかどうか、という点で私は考えています。ですから三ツ葉銀行さんにしてみれば痛くもない腹を探られるわけですから、面白い話ではありませんが、それで潔白が証明できるならそれでいいじゃないですか」

 コイツはものの本質を見極めようとしている風を装っているが、大人のやり方、世間の常識が通用しないな、と浦沢は思った。

「ああ、まあ、そちらの方は頑張ってください。今日はそのお話をしに来ただけじゃなくて、御社のシステム的なサーバの運用とオフィスの設計に関して伺いたくて来ましたんで……」

 これは半分は噓で半分は本当だった。

「ああ、それでしたら、ちょっと呼びますね。神林さん、ちょっといいかな」

 種沢が神林を呼んでフロアの設計図とネットワーク図をもって浦沢と市原に説明させた。 神林は浦沢と市原をフロア中歩き廻らせ逐一そこになぜそれがあるのかを説明していった。

 神林の説明が一通り終わると、岡谷が社内サーバの説明を始めた。本当は担当者以外立ち入り禁止なのだが、サーバルームへと二人を案内した。市原がサーバの話に食い付いて、三人はサーバルームに三〇分ほどいた。

 社内を一巡したところで浦沢と市原は見学させてもらった礼を言い、頭を下げてフォーカスエンジン社から立ち去った。種沢と岡谷と神林の三人でエレベータに乗るところまで見送った。

「あの二人、何しに来たんですか?」

 神林が今頃そんな愚鈍な質問をぶつけてきた。種沢が返事をした。

「新社屋のお祝いと見学だよ。単なる社交辞令」

「その割にはサーバルームにも行きましたし、何か企んでるんじゃないですか」

「まさか! もし何か企んでいたとしたら、もっと別の方法をとるだろ。正面切って入ってきたんだ。何も心配することはない」

「だといいんですけどねえ……」


 浦沢と市原はフォーカスエンジン社の入っているビルの一階で別れた。浦沢は市原に「ちょっと用があるから」と言って市原をそのまま帰宅させた。

 浦沢は市原が駅へ向かい姿が見えなくなるのを確認すると、駅とは反対方向に歩き出した。

 五分も歩いたところで人目がないのを確認するとスマホで本間へ電話した。本間はすぐに出た。

「もしもし」

「浦沢です」

「どうもお疲れ様です」

「ちょっと今、お時間いいですか」

「ああ。大丈夫」

「今、フォーカスエンジンに行って種沢さんと話してきました」

「ほう。それで?」

「今回の三ツ葉銀行さんの融資の件、調査しているとのことでした」

「調査? 何を?」

「三ツ葉信用調査との関連と融資の契約内容についてです」

「……」

「契約内容に瑕疵はないのは理解しているようでしたが、法的に不正か脱法の疑いのある契約なんじゃないか、と言ってました」

「で、どこまで知っているんだ」

「まだ何も掴んでいないようです。三ツ葉信用調査が三ツ葉銀行の子会社だと信じているようですが、その点も疑っているかも知れません」

「三ツ葉信用調査のどこまで嗅ぎつけたか、分かるか」

「いえ、そこまでは話に出てきませんでした」

「だったら問題なさそうだな。だが……」

「なんでしょうか」

「片倉に接触されるとマズいな」

「やはりその点ですか」

「片倉と接触するのは、合法的な手段で得られる情報で手に入るからな……」

「ですが興信所などへは調査依頼をしていないと言っていました。社員が動いているのかもしれません」

「なるほどね。だがその社員の調査っていうのは難点だな」

「どういうことでしょう?」

「要するに素人が調査しているんだ。探偵業法に触れるやり方を、そうとは知らずにやっているかも知れない」

「どうします? 至急、片倉をどこかへ飛ばしますか」

「いや。そうなると余計に怪しまれるし、跡をつけられるとただの時間稼ぎにしかならない」

「では、片倉に口封じの手切れ金を渡して解雇、というのはどうでしょう」

「ああ。その線が一番かもしれない。とにかく株主の安全だけは守らないとこっちが危ない。あの爺さんたち、金にがめつくてトカゲの尻尾切りは上手いからな。こっちも用心しておかなきゃならん。それと……」

「はい……」

「片倉の近辺を探偵に洗わせよう。誰か片倉を尾行していないか、片倉の消息を探している者がいないか。費用は私が持つ。今回の件は私から上へ上げておく。いずれ対応策が命じられるだろうから、そのときまで下手に動かないでくれ」

「分かりました」

「それじゃあ」

「失礼します」

 それで電話が切れた。

 下手に動くな、か。しかし浦沢はその指示には満足ではなかった。


 本間は浦沢からの電話を切るとすぐさま笹沼に電話した。

「もしもし。笹沼です」

「本間です。こんな時間に申し訳ありません」

「こんな時間だからこそ話せる内容の電話なんだろ?」

「ええ。お見通しですね」

「一体何があった?」

「たった今、オーウェンシーズの浦沢さんから電話がありました」

「何と言ってた?」

「フォーカスエンジンが三ツ葉銀行と三ツ葉信用調査の関係を洗い始めた、と言ってました」

「もっと具体的に知りたい」

「はい。調査は探偵を使ってのもではなく、フォーカスエンジンの社員が行っているようだとのことでした。ですから会社の登記を調べたかも知れません。もっとも弱いと思われる片倉への接触はまだのようです。片倉が口を割ると厄介ですから、片倉の身辺に不審者がいないか、片倉の身辺調査をしている者がいないか、明日にでも探偵をつける予定です」

「まあ、確かに片倉がネックだな」

「はい。片倉は全貌を知っていますから、もし口を割られると銀行法に抵触する事実を喋りだすかも知れません。それだけは避けるよう手配します」

「私の方で手を打つことはあるか?」

「いえ。いまのところ私だけで充分かと」

「やっぱり三ツ葉信用調査の社長の首をすげ替えて、片倉にはしばらく海外でも行ってもらって、ほとぼりが冷めるまで行方不明になってもらおうか?」

「その必要が生じたらすぐご連絡します」

「手短に頼むよ。たかが年間一億前後の金の遣り取りでこっちの首が飛ぶようじゃ割に合わない。君だってそう思うだろ?」

「はい。分かってます」

「じゃあ、よろしく頼むよ。何かあったらすぐ電話してくれ」

「かしこまりました」

「それじゃあ」

「失礼します」

 これで本間の役目は一段落ついた。あとは笹沼が株主の谷屋と狭間をどう動かすか、あるいは動かさないか、その動向について結果を待つだけになった。

 しかし、この「待つ」というのが悪事を働く者にはできない。

 笹沼は本間や片倉の心配よりも自分の保身に気が向いて、他のことが考えられなくなっていった。

 本間は何か下手を打つのではないだろうか。もしかすると笹沼自身のところへ何者かが自分の社会的立場を揺るがしに来るのではないだろうか。

 そういった心配が続いていった。

 そうなると、もう落ち着いてはいられない。

 悪事を働く人間のもう一つの特徴として、基本的に他人を信用できない、ということがある。

 笹沼にしろ、本間にしろ、いや片倉にしろ、三ツ葉信用調査に関わった全員が自分の利益、今回の場合は金銭であるが、その金欲しさに動いたに過ぎないのだ。目の前にぶら下げられた食べ物は、意地汚くても食べる。

 が、しかし、その食べ物に毒が入っていたら?

 悪人はこういう想像をし、その回避策に走るのだ。

 本間も笹沼から見れば、ただのお人好しの使い捨ての駒の一つに過ぎない。

 本間のことなどどうでもよいのだ。

 株主の老人たちなどどうでもよいのだ。

 自分にとって有利に働く者。それだけが必要なのだ。

 こう考えればよい、と笹沼は思いついた。

 裏帳簿は常に本間が手持ちしている。それがこの三ツ葉信用調査の強みでもあり弱点でもあるのだ。裏帳簿が本間個人のものと分かれば笹沼は知らぬ存ぜぬを突き通せばいい。たったそれだけのことだ。

 三ツ葉信用調査で得られた利益は八十年代に作られた口座で蓄積している。そう、当時の銀行口座開設は今とはまるで違い、容易に作れたのだ。

 これなら絶対にバレない。

 笹沼は考えられるあらゆる不測の事態をシミュレーションしていった。

 その一つ一つに詭弁という理屈を付けて自分の責任回避策を練っていった。

 こういう考えは尽きることがない。

 笹沼は自分がどうすれば三ツ葉信用調査と無関係であるかという客観的な証拠固めの策を練っていった。

 これではダメだ。それでもダメだ。

 ええい、たかが若造の新興ITベンチャーの癖に何を生意気な!

 笹沼の疑心暗鬼は怒りへと変わっていった。

 いっそのこと、三ツ葉銀行銀座支店店長の名を振りかざしてフォーカスエンジン社を叩き潰してしまおうかと真剣にその策を練った。

 笹沼の悪略は尽きることがなかった。

 その一つ一つを思い描く度に本間の悲鳴が、若造の悲鳴が、片倉の悲鳴が、老人たちの悲鳴が聞こえてくるようになった。その悲鳴の中で、笹沼一人がぽつねんと突っ立って笑っている。そんな光景を思い描いた。

 笹沼の想像は疑心暗鬼から怒り、そして悪の喜びへと変わっていった。

 自分にできることはまだある。沈み行く泥船に乗っていても、自分一人だけが助かる道がある。そう信じて疑わなかった。もうそれは社会通年や道徳などを通り越した、悪の快楽への道程だった。

 笹沼はやっと一息吐いた。

 自分が助かる道を見付けたのだ。しかも複数もの道だった。

 これで安心して眠れる。

 笹沼はスマホを見詰めた。それは先ほどの本間からの忌まわしい知らせを告げる機械だったが、これからは笹沼一人だけに福音をもたらす機械のように見えてきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る