第13話
片倉のアパートから近藤が立ち去った直後、片倉は一時放心状態の態で六畳間に一人ぽつねんとしていた。
ついに喋っちまった。本当のところを喋っちまった。
片倉は近藤に語ってしまったことを後悔した。
だが喋ってしまったものは仕方ない。
片倉はこれから自分がどうすべきかを考えた。が、妙案は浮かばない。
このとき片倉は自覚していた。今、自分がパニック状態であることを。
もう自分の力ではどうにもならないことをやってしまった、という思いが胸の中で犇めいた。
ならば頼るところは一つしかない。
片倉は本間のスマホへ電話した。
「もしもし。本間です」
本間はいかにもビジネス電話をとるように言った。
「片倉です。申し訳ありません……」
「どうしました? 何かありましたか?」
本間は三ツ葉銀行銀座支店の自席にいた。何かプライベートな電話でも来たかのように席を立ってオフィスを出た。
「フォーカスエンジンという会社の近藤という男がうちに来ました」
フォーカスエンジンの近藤? そいつはもう片倉の存在に気付いていたのか。しかも住所まで特定しているとは。探偵を使わずどうしてそこまで特定できたか、本間は一瞬戸惑ったがすぐに冷静を取り戻した。
「で、何と言っていた?」
「三ツ葉銀行と三ツ葉信用調査の関連を聞かれました」
「ほう。それで?」
「……すいません。私の知っていることを全て話しました」
本間は内心で舌打ちをした。やはり債務者になるような人間は小心者でお人好し、世間に通じていない愚か者。本間はそう片倉を怒鳴りつけたい気持ちを堪えて片倉の話を引きだそうとした。
「全部というと、どこまでですか?」
「……全部です」
「分かった。分かりました。質問を変えましょう。その男に誰の名前を教えましたか」
「本間さん、笹沼さん、谷屋さん、狭間さんの名前を出しました」
何てこと言ってくれてんだ。本間はそう思った。
「で、その男は最初に何を訊いてきましたか?」
「どうやって私が三ツ葉信用調査の社長になったのかを話しました」
「その次は?」
「三ツ葉信用調査の金の流れを話しました」
「その次は?」
「いえ。それで全部です。最後に私が来た件は内密にと釘を刺されました」
本間は呆れた。ここまで片倉が愚鈍な朴念仁だとは思いもしなかったのだ。
「なるほど。他にその男に言ったことは?」
「いえ。ありません。ただ、また近いうちに来るかも知れない、というようなことを言ってました」
そうなると本間も愚図愚図していられない。次の一手を近藤より先に打っておかないと、それこそ最悪の事態になりかねない。何としてもそれだけは避けねばならなかった。
この一件は、なるべく早く笹沼支店長に報告せねば、とオフィスに戻ろうとしたとき、またスマホが鳴った。オーウェンシーズの浦沢からだった。こんなときに、と忌々しく思ったが、オーウェンシーズも大事な顧客だ。しかしオフィスに電話してくるのではなく、直に自分のスマホに電話してくるのを本間は怪しんだ。いやな予感しかしなかった。
「もしもし。本間です」
「どうもお世話になります。オーウェンシーズの浦沢です。ご無沙汰しています」
「その節はどうも。相変わらずお元気そうでなによりです」
「随分長電話されてたようですが、そちらにお変わりありませんか」
話が長い。さっさと本題に入れ。
「ええ。まあぼちぼちです」
「さっそくですが、実は本間さんに買っていただきたい情報がありまして」
情報?
「フォーカスエンジンと三ツ葉信用調査に関わる情報です。まあ、初回ですから代金はいただきませんよ。ご安心ください」
本間はそのもったいぶった余裕の声に苛立った。こっちは不測の事態が起きているんだ。早急に対処せねばならぬのに情報を買え、などといかがわしい話に付き合っている余裕はない。
「できれば手短にお願いできませんか」
「いいでしょう。今朝、フォーカスエンジンの近藤という男が三ツ葉信用調査の片倉社長の自宅へ行ったそうです」
それは片倉自身からさっき聞いた。そんな情報に値打ちはない。
「で、その近藤という男が会社に帰って上役の種沢さんと岡谷さんに報告したんですよ」
まだこの情報に値打ちはない。
「で、片倉さんからの情報を元に三ツ葉銀行さんを金融監督庁に告発するかどうか迷っていて、その分野に詳しい弁護士を探しています」
最悪だ。そんなことになったら最悪だ。
「ですがその三ツ葉銀行と三ツ葉信用調査との接点は片倉さんからの証言のみなので、それだけの証拠で告発できるか不透明なので、もっと証拠固めを進めるでしょう」
フォーカスエンジンの近藤という男が疫病神か。
「で、フォーカスエンジンの岡谷さんが私のところに電話してきまして、弁護士を紹介してくれ、と言ってきました。岡谷さんは弁護士への相談内容を誤魔化して話していましたが、確実に三ツ葉信用調査についての相談でしょう。まあ、うちとは昵懇の弁護士さんですけど、弁護士さんが顧客の依頼内容なんかは漏らしませんが、近いうち、三ツ葉銀行さん周辺で何らかの証拠固めの動きがあるでしょう。その点だけ注意いただければ大丈夫かと」
「ご忠告、ありがとうございます」
「あ、ですがもし次回があれば、一〇万円用意しておいてください」
一〇万円とはけちくさい金額だが情報としては安い。本間としては年間一億円超の裏金を遣り取りしているのだから、一〇万ぐらいは自分のポケットマネーで充分まかなえる。
「ところで、その情報の信頼性の担保は?」
電話口で浦沢がにやけ笑いをするのが聞こえた。
「フォーカスエンジンさん、つい最近、事務所を引っ越したでしょ」
「ええ。その話は聞いてます」
「改装工事の際に、色々と工夫してもらったんですよ。あ、いや、私からの直接の指示じゃないですがね」
本間は浦沢が言わんとしていることが理解できなかった。
「一つ確実にいえることは、フォーカスエンジン社内の会話と電話、PCの通信情報は全てうちで監視できるってことです」
盗聴器を仕込んだということか。
「会話が筒抜けになるのは聞いたことがあるが、PCの通信が筒抜けとは、どういうことだ?」
浦沢のニヤニヤ笑いが電話越しに伝わって来た。
「世の中にはパケットキャプチャというものがありまして。まあ本来はネットワーク障害対応のためのTAPというのを用いてネットワークの監視を行うんですが、それにバックドアがあるんです」
本間はすぐに不正アクセス禁止法を思いついた。
「それは合法なのか?」
浦沢は笑った。
「まあ、今はそう言う話はいいじゃないですか。三ツ葉信用調査の方に注力した方が得策では?」
「どうしてそんなことができるんだ。それを言ってもらわなければ情報の信憑性がない」
「いやね、フォーカスエンジン社の新社屋のネットワーク設計者にデバグ用のsshのポートを開けてもらったんですよ。これはよくある話なんです。本来なら、不具合発生時にそのポートからサーバへリモートアクセスするんですが、ある方法で私たちと管理会社とそのポートを共有してもらいまして。蛇の道は蛇ですよ」
収賄か、と本間は思った。
「何でしたら、その証拠をいくつか提示できますが、どうします? それで我々の信用が勝ち取れるならやってみますが」
「いや、結構。その話だけで充分だ」
「ありがとうございます」
「またフォーカスエンジンに何かあったら情報提供お願いします」
「ええ。任せて下さい。ですが次回からは有料で」
「分かってますよ」
「それじゃあ失礼します」
「失礼します」
本間は溜息を吐いた
マズいことになった。片倉のお喋りもそうだがフォーカスエンジン社の動向も気になる。いくら浦沢を信用してフォーカスエンジン社の動きを察知できても、それは後手に回ってしまう可能性が大きい。しかも金融監督庁の名前すら出てきた。もう自分一人の範疇では対応しきれない。本間はそう判断した。
本間はデスクに戻り、笹沼へ内線をかけた。
「本間です」
「やあ、どうした。急に」
「ご報告と相談がありまして、なるべく早くお時間をとっていただきたいのですが」
「今週いっぱいは無理だなあ」
「夜、空いてませんか?」
「夜に? そんなに急ぐのか」
「はい。大至急です。できれば今すぐにでも」
「分かった。今夜、八時に支店長室へ来てくれ」
「よろしくお願いします」
その後の本間はいつも通りを装って仕事に就いた。
決済をし、承認し、あるいは差し戻し、書類を逐一見詰め直していった。
そうしている間にも頭の片隅には三ツ葉信用調査のことがこびりついていた。時間の流れがいやに遅いように感じた。
本間は仕事をこなしながら、笹沼に伝えるべきこととそうでないことを取捨選択していった。
しかし、今となっては伝えないことを見付ける方が難しかった。
もし笹沼に話さなかったことが後に露呈すれば失策に繋がる恐れもあるし、第一銀行マンといえどもサラリーマンだ。報連相を仕込まれた本間には、事実をそのまま全てを笹沼に吐き出すのが得策に思えてきた。
くそ! これでは片倉と同じじゃないか!
そうも思ったが最善策は今後起こるであろう事件の要約を上へあげて、その上の方で予め根回ししてもらう方が普通のやり方だと思った。
しかし、笹沼を、株主の谷屋と狭間を出し抜く手段が見付からなかった。特に谷屋と狭間は三ツ葉銀行のやり方を知悉している。
本間は自分の弱点を裏帳簿のファイルを持っている点だと考えた。これを持っている以上、本間と密に三ツ葉信用調査との関連が紐付けられてしまう。しかも手書きのため、本間の筆跡だ。
自分はどうやっても三ツ葉信用調査の裏金作りに加担していたのは、もう隠蔽のしようがない。
ならば内部告発という手で自分の罪を軽くできるのでは?
実際のところ、本間は民事も刑事も裁判の実情を知らない。本間はその内部告発の誘惑に駆られたが、あの老人たちがどんな詭弁を吐くか分かったものではない。即ち、本間の独り相撲になるのではないか、とも考えた。
定時がきた。その数分後には帰宅者も出た。居残り組はいつも通り午後七時半には家路に就いた。
笹沼との面会まであと三〇分。本間は最後の居残り組を見送ると、笹沼との対峙に恐怖した。まさか自分が片倉のように、あること全てを白状しなければならなくなるとは、あまりにも不本意だ。
しかし、ここで何かしらの隠蔽を謀る方がよっぽど自分の身に危険が差し迫る。本間は喉の渇きを覚えた。不覚にも笹沼との面会に恐怖した。
午後七時五五分、本間は支店長室へ入った。
笹沼が肘掛け椅子にふんぞり返っていた。
「本間、こんな時間にどうした? 何があった?」
本間は緊張した。ことの顛末を全て洗いざらい笹沼に伝えた。
笹沼の言葉は意外だった。
「相手はたかが若造の作った新興ITベンチャーだろ? そんなやつら、君の手だけで潰せんのかね」
「いえ、匿名で警告のメールは出したんですが、それを無視して行動しています」
「匿名でメール? はっ! 今時そんなものでいちいち動揺する者がいるかね!」
笹沼は喝破した。
「とにかく事情は分かった。私から上へ伝えよう。臨時株主総会を開くことにする。その場で対応策を講じるよう指示を出す。急ぎ会場を押さえてくれ。日時はいつでも構わん。相手が法律の範囲内で動いているうちに、こちらも法律の範囲内で抵抗するんだ。いいか、その近藤という男から目を離すな。それと浦沢とは接触を持つな。電話にも出るな。浦沢には金を一円も渡すな。一度渡したらそれ以降もずっと金を要求してくるぞ。分かったな」
「はい。承知しました」
本間は笹沼に頭を下げた。
本間はすごすごと一礼し、支店長室をあとにした。
本間は空虚だった。起こったことを全て笹沼に白状したのだ。
これでは白痴同様ではないか。
本間は自分のやったことに嫌気がさした。正直にいえば後悔していた。
あの笹沼のことだ。自分の保身のためにあることないこと株主の、あの老人たちに告げるに違いない。
決戦は臨時株主総会だ。
それまでにフォーカスエンジン社と笹沼への対応策を講じなければいけない。それに浦沢も口封じしなければなるまい。
本間はそもそも謀略に長けた男ではなかった。こういった臨時の、急場の対応に長じているのではなく、長期戦の策謀に長けたタイプだった。
本間はスマホを取り出し、レンタル会議室の空き状況を確認した。
明後日の午後六時、新宿の一〇人部屋の空きを見付けた。本間は急ぎその会議室を予約した。本間は一息吐いてからスマホを睨んだ。本間はサクサクとスマホを操作し、最後に「予約」のボタンを押した。本間はその「予約確認のメール」を受け取り、内容を確認した。メールの予約内容に間違いはなかった。その場で笹沼へ予約したことをメールした。
時間がない。とにかく時間がない。しかしこの時間では今さら何もできることはない。
この時間が本間にはもどかしかった。
電話を切った笹沼は怒っていた。
たかがITベンチャーの若造に自分の尻尾を握られそうになっている、と思ったのだ。
本間にしてもそうだ。いざ窮地に立たされて、急にその判断力・行動力をみせることがない。即ち所詮は勝負時に役に立たない愚物、と判断したのだ。
笹沼はそうではなかった。
こんな不測の事態も既に想定内だった。
笹沼はスマホで本間の部下に当たる融資担当の相田知子へ電話した。
「もしもし。相田です」
「ああ。笹沼です。こんな夜分に申し訳ない」
「笹沼支店長、何かあったんですか? こんな時間にお電話いただけるということは急なご用件でしょうか」
相田は本間と違って察しがいい、と笹沼は思った。
「相田さん、君にしかできないことをお願いしようと思ってね。しかも急ぎなんだ」
相田は電話の向こうで緊迫した。
「実を言うとちょっとしたトラブルの予兆があってね。ある必要な書類があるんだ」
「……なんでしょうか。今、自宅に居りますので銀行に関する資料は一切アクセスできないのですが……」
「いや、そういう書類の作成の依頼じゃないんだ。もう既に出来上がっている書類のコピーが欲しいんだ」
「コピーですか……」
相田は困惑を隠さなかった。そこを笹沼はつけこんだ
「いや、まだ内密な話だから、職場ではこんな話はできないんだ。本間君がいつも持ち歩いてる青いファイル、君も知ってるよね」
相田は「ええ、まあ」と曖昧に返事をした。
「そのファイルのコピーが欲しいんだ」
「支店長、どういったご用件なのかちょっと分かりにくいんですが、本間課長に何かあったんですか?」
笹沼には想定内の質問だった。
「まだ詳細は言えないんだが、ある嫌疑が本間君にかけられそうなんだ」
「嫌疑? なんでしょうか?」
「今はまだ口外しないでくれるかい?」
電話の向こうから相田の緊張が伝わってきた。
「はい。お約束します」
「まあ、どっちにしろ、この件に関して支店内の者に話をするのは相田さんが初めてだから、もしことが発覚すれば、君が喋ったとすぐ分かるんだけどね」
笹沼はそう相田に釘を刺した。
「その嫌疑の行方次第では本間君の行内での立場が危うくなるんだ。本間君の性格は君もよく知っているだろう? 直情型だから、敵が迫ってくれば真っ向から対立して闘い始めちゃうんだよ」
「……」
「そこを何とか先方を上手く丸め込むのに本間君の持ち歩いている資料が必要なんだ。あのファイルはね、ある人物にとって非常に不利益を被る資料なんだ。本間君は愚直にもその人物を庇う積もりでいるらしいんだ。だがそれをそのままにしておくと、今度は本間君が危険に晒されるんだ。私がその間に入ってお互いを仲裁するためにあのファイルのコピーが必要なんだ。分かってくれるかい?」
相田は沈黙した。笹沼の言わんとすることが正しく理解できなかったのだ。しかし、理解できないのも無理はない。すべて笹沼の作り話なのだから。
「これは会社員でよくある社内政治なんだ。双方うまく矛を収めるためには、あの資料がいるんだ」
「あの資料のコピーをお渡しすれば、本間課長の身が守られる、ということですか?」
笹沼はにやけた。
「ああ。その通りだ」
「それなら直接本間課長にファイルを預けてもらってはいけないんでしょうか?」
「それは無理だな。本間君はまだ自分の身の危険を察知していない。あのファイルを秘匿するのが自分の義務だと勘違いしているんだ。これから裏切られるを知らずにね。色々話を伏せたけど、大筋は理解できたかい?」
相田は少々ためらった。
「……はい……」
「じゃあ、明日、さっそくコピーをとってくれ。やり方はこうだ。まずすり替え用のファイルを作る。本間君のファイルは社内用のファイルだから、見た目が同じものは備品入れから持ってくるといい。そしてそのファイルにコピー用紙三〇枚をファイルするんだ。紙は白紙のコピー用紙でいい。本間君がトイレか何かで席を立ったときにファイルをすり替えるんだ。そしてコピーをとる。もう一度すり替えて元に戻す。これだけのことだ」
相田はためらった。
「支店長、本当にそんなことして良いのでしょうか……」
「何を言ってるんだ。私が自分の部下を守って何が悪い。本間君は素直過ぎるんだ。本間君は性善説で動いているのは、君も知っているだろう? だが行内でも悪いやつはいる。そいつらから守ってやるのが上長の私の仕事であり責任なんだ。お願いだ。協力してほしい」
ほんの束の間の沈黙があった
「分かりました。仰る通りやってみます」
「お願いだ。本間君を救ってやってくれ」
「それではまた明日、よろしくお願いします」
「こちらこそお願いします」
「それでは失礼します」
「失礼します。夜分に無理を言って申し訳ない」
笹沼は電話を切った。
笑いが止まらなかった。笹沼は笑いが止まらなかった。何が責任だ。何が部下を守るだ。笹沼は自分の吐いた言葉をあざけ笑った。
こうも簡単に相田が落ちるとは思ってもみなかった。笹沼にとって、これは思わぬ誤算だった。
そうだ。これでいいのだ。
笹沼は明日が来るのを、自分の保身の確証が手に入るのが楽しみになった
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