第6話 参覲の随行

 翌朝六つ半(五時十分位。金澤の時刻)から、大手門と河北御門下の間の広場や三の丸二の丸広場に参覲随行の者達が集まって来ると、見送りの者達まで含めて広場は次第に埋め尽くされていった。

 五つを過ぎると使番や使番足軽らは随行者の確認に奔放して忙しく動き回っていた。

兵庫らは橋爪御門側の二の丸御殿の表玄関前で御駕籠と駿馬に蔵を付けて用意万端待機していた。

 御大小將一番組の御番頭河村大之進の話として、御馬奉行今井が言うには、直臣が二百四十名、その陪臣と従者が八百五十名程で足軽以下庸夫・人足で千七百五十名程と言うから、総勢で二千八百余名程であるが、ざっと見た感じでもその倍近い人数が居るように思えた。

無論随行しない見送りの者も居るからで、隊列を整えて見ないことには何とも言えなかった。

 天気は曇りで五つ半(七時四十分)の鐘と共に一文字笠を被った集団が動き出した。

先頭の先払い集団が浅野川大橋の手前で一旦止まって本陣からの指示を待った。

 使番足軽の出発の合図に従って治脩公が御駕籠に乗ると、陸尺といわれる駕籠舁が前後に二人ずつ付いて担ぎ上げると、河北坂をゆっくりと下って大手門の内側で止まった。

 門の外側には本陣とも言うべき御腰物筒、御小姓使番や弓立、御用長持に対挟箱、小馬印黒毛槍・白毛槍を持った足軽達が既に待機している。

門内では治脩公が駕籠から降りて馬に乗り替えた。


 周りには御小姓や御供番がいたが、その外側に変事に即対応出来るようにと特別警護役の兵庫らが配置されていたのである。

陸尺らは空の駕籠を担ぎ、御手槍に長柄笠や大傘を持つ者に供槍が続くが、其処に喜兵衛が居た。

目が合うと喜兵衛は軽く会釈をした。


 先頭の先払い足軽らは早くも浅野川大橋を渡って下街道を津幡宿の方に向かって進んで行った。

この先頭集団には町方の年寄りや町役人らが付き、医者や茶坊主などがその後に付いて居たのである。

 領民たちは御領主様を一目見ようと沿道に集まって来ていた。

 隊列が動き出すと、治脩公の御召馬の口付の一人が兵庫を見てにたりと笑ったのである。

何と剣術の師匠の山崎幸安であった。

如何やら高添兵庫の師匠と知られて口付に採用されたようだ。


 浅野川大橋を渡って行く時に兵庫は進行方向左を歩いて居たので偶然にも馬場を見ることが出来た。

〈懐かしい〉関助馬場であった。

十三の歳に厩で老馬の世話係となって以来、先輩に恵まれて成長し、その中でも剣術の指南と巡り会えたことが兵庫の運命を変えたと言っても過言ではなかった。

 無論小堀金左衛門の存在を忘れてはならない。

全ては金左衛門が烏帽子親となった所から兵庫の運命は動き出していたに違いなかった。


 行列は森下町の先、春日町から大槌町と城下の端の郡境に至りて、先頭近くに居た一団が行列から抜けて沿道の両側に外れると行列を見送って戻って行った。

その数は四、五百程ではなかったろうかー。それらは直臣やそれらの陪臣であったり、町役人や足軽小者であった。


 そこから更に柳橋から森本あたりに来ると、更に四百名程の庸夫・人足らが抜けて行った。

それらは行列を派手に見せる為に雇われた日雇いの連中であったのだ。

恐らく御馬奉行今井の話に近い員数が残ったに違いなかった。



 津幡宿で半時程休息をとった。

これは中休みだが、その半分の小休止は小休と言って次の宿場までの間に二三回取った。十里、十二里と荷物を担いで山河を行くのだからその間で中休み、小休を取った。

 此処で平士らは袴を脱ぐと、羽織の下は膝丈程の着物であった。

膝から下は露出する為臑に脚絆を付けて歩くのだが、兵庫はこれを付けるのは初めてで、両足に付けたものの何となくしっくりしなかった。

 其処に剣術の師匠でもある山崎幸安がやって来たので挨拶した後付着の具合を訊ねると、

「立ってみろ」と言う。

 後ろに回って脹脛の上を撫でると、カラカラと笑って脚絆の紐の結びを解いて、裏側のこはぜを外した。

「兵庫よ右左が逆だ」

 苦笑いしながら付け方を教える。

「良いか兵庫上にある紐は長いのが外側で、その下にあるこはぜも右にあるから左側の紐で止めるんだよ。それとよ、兵庫の足は太いから外側の紐にかけて止めればいいんだ」

 幸安はこはぜを下から掛けると左足は兵庫自身にやらせた。

「先生有難うございます。如何やら落ち着きました。でも何でこんなの付けるんですか、要らないように思いますが」

 幸安は脚絆を外して脹脛を揉みながら北叟笑んだ。

「街道はよ、ここん所のようないい道ばかりではないがな。何かで藪の中を通らねばならないことだってあるから、そん時素足を傷付けないよう巻くんだよ」

「成程そう言うことですか」

 更には足取りも軽くなったように思えるのだった。

一同はここで軽装となったが、士分は大方が紺藤の羽織を着けて居て、足軽は黒地の着物に黒地の羽織を着けた者と着物だけの者と居た。

士分以外は刀は何れも一本差しであった。

 喜兵衛は例外の筈と思ったら、この男は二本差しを許されていたにも拘らず、槍を操る上で邪魔になるので二本差さなかっただけのことである。

 二千人からの集団がばらけては居るものの列を組んで移動して行く様に、行き当たった人々は圧倒されるばかりであった。いまいするぎ


 倶利伽羅くりからの峠茶屋で小休して汗を拭うと、七つ半(十七時五十分頃)に今石動いまいするぎに到着した。

 本陣は牧屋である。

主人猪右衛門が挨拶に来ている間に風呂の準備をしなければならなかった。

湯殿に湯桶を設置するとお湯を入れた。

態々湯桶わざわざゆおけを持参しなくともよさそうだが、安全上そうしたのである。

 兵庫らは湯屋の周りの警護に付いていた。

湯殿の入り口に田上彦次郎が張り付き、少し離れた所に滝崎弥五郎が居た。

外側に念流の谷岡孫三郎と槍の村田喜兵衛が配置された。

高添兵庫の姿が見えなかった。

 兵庫は口付の山崎幸安と共に御供番頭と道中奉行の部屋に居た。

明日の鷹狩りの警備についての打ち合わせであった。

 予定としては此処今石動を六つ半に出て、小矢部川の手前で鷹匠が放鷹ほうようしたり、橋を渡って芦川村、石王丸村辺りの干潟を廻りながら鷹狩りをするのだが、その移動に当たっては、特に警護を厳重にして欲しいとの要請であった。

 本来こうした打ち合わせには田上彦次郎が出ていたが、今回は段取りの都合で兵庫が代わったのである。



 翌日の六つ時(四時頃)過ぎに供揃し、六つ半に予定通り旅屋を発駕。

小矢部橋を越えて不湖を廻って福岡村の庄屋伊平兵衛宅で小休となった。

 表の警護は滝崎弥五郎と谷岡孫三郎が付き、裏側を田上彦次郎と兵庫が担当した。

そこへ山崎幸安がやって来て気安く兵庫に声をかけるものだから、

「こらこらお役中だ、持ち場に戻れ」

 と注意する。

「はっ」

 幸安は何も言わずに戻ろうとしたので、

「お待ちください先生」

 と呼び止めて、

「田崎様、うらのお師匠さんです」

 すると顔を赤くして月代を掻きながら、

「これはとんだ失礼をしました」

「こちらこそ挨拶もせず失礼しました」

 田崎彦次郎は兵庫の師匠と知って山崎幸安ともっと話したかったが、小休の為出立の準備に掛からなければならなかった。

 田崎は山崎の後姿を見送りながら兵庫に訊ねる。

「何故山崎殿は口付等に甘んじられて居られるのか」

「先生は表に出ることを好みませんで、常に裏方として在りたいとおっしゃいます」

「う~ん欲の無いお方だ」

 多分剣術体術を披露すれば家中で敵う者は居ないのではないかと思った。

二言三言の発言と物腰に隙が見られなかったのである。

〈出来る〉と田崎は感じ取っていた。

誰が口付に押したかは不明だが、馬の扱いからして適任であることは確かだった。

 福岡村を後にして荒俣川を越えた辺りで放鷹して忽ちの内に数羽の攫鳥を得た。

御前は乗り物の戸と屋根を開けて眺めていたが、如何やらそれだけでは退屈だったらしく、弓矢を持って来させると、獲物を見つけては放った。

 高田島村から干潟内に在る内島村に渡って小休となった。

一行は思い思いに腰を下ろして座り込むと、面前に広がる干潟や水田を眺めながら、渡り来る風に吹かれて寛いでいた。

「この後は中休みか、もう高岡に近いではないか」

「その高岡で中休みらしいが」

「泊りが高岡ではないのか」

 足軽らは上役から聞いて居た話と違うのでこの先の小杉や岩瀬などの地名を挙げて、勝手な憶測を飛ばし合っていた。

「違う違う、最初の高岡は中休みで、鷹狩りの後高岡に泊まるんだよ」

 二度三度と経験のある足軽がそう説明するが他の者には理解できないらしく異議を唱える。

「それじゃ高岡っう所が二か所もあんのか」

「莫迦こけ、高岡は一か所だが、要は鷹狩りのあと戻るのよ」

お前の言い方が悪いんじゃ」

「何この野郎」

 下らないことで喧嘩になるところを杖術遣いの喜兵衛が割って入る。

「いーがいね、いーがいね。目くじら立てる程の事でもないがな」

「へーい」

 双方大人しく引き下がるのだった。

 引き戸駕籠の周りに護衛士らが付いて、喜兵衛も槍を持ってそれらの後ろに付いた。

如何やら出発のようだ。

「お立ち~」

 どうやら行列はこのまま高岡に向かい、そこで中休みとなった。


 昼食後人持組から陪臣の一部も駆り出され、平士と共に警備を兼ねて随行する者と、残って旅屋の周辺の警備をする者とに分かれた。兵庫らの警護班は御前の周辺に居なければならないので決して気が抜けなかった。

 山崎幸安は御前の乗る御馬の背に敷物を載せて留め、その上に鞍を付けて手綱や鐙の具合を確かめていた。

そして自分が乗る馬の支度を済ませると、他のものの分まで手伝った。

兵庫はというと、如何やら乗馬での警護を仰せつかったようで此方も準備に余念がなかった。

 中休みは狩装束の支度もあって、何時もよりか長めに取っていた。

供回りの一部は四半時程前に狩場に出かけて行った。

事前の警備の為である。

 放生津まで二里半。

殆どが野間(野原)や湿地で獲物は野鳥や兎などの小動物であった。

 御前に従う者の中には鉄炮や弓矢の名手が選ばれていたが、飛び回り動き回る相手を捉えるのは容易ではなかった。

寧ろ御拳(鷹が取った物)の方が多かったのである。

 堀岡村の茂三郎宅で獲物を地面に並べた。

 野兎が一頭、野鼠が一匹にクイナの一種のばんが二羽と、体や羽が灰色や青みがかった足の長い大型の鳥 青鷺あおさぎが転がっていた。

「数は前回の方が多かったかの」

 確かに一昨年の狩りではばんが七羽(御拳おんこぶしが仕留める)で、朱鷺ときが一羽、がんが一羽(これらは何れも鉄炮)であった。

 だが今回は御前が丸々とした野兎一頭を弓矢で射止めていたので、成果に拘ることなく上機嫌であった。

大門から一里。七つ半には高岡の旅屋天野屋に帰陣した。

天野屋三郎左衛門の祖は服部連久と言って利家に仕え、慶長十年利家に従って富山に移り住んで町人となり、天野屋三郎左衛門を名のり、代々屋号したのである。

 扨て明日は二代利長公の菩提寺瑞龍寺に参詣の予定だが、一部の者以外は旅屋にて待機となった。

八町ほどの距離だが、全員を引き連れて行くこともないので、近臣護衛の者とで向かったのである。

 それでも兵庫ら護衛士を含めて二百名程の供揃いであった。

 瑞龍寺惣門には方丈を始めとして僧侶らが出迎えた。

「早うから済まぬ」

 と乗り物の引き戸を開けて声をかける。

一行は山門をそのまま入り、右手にある庫裏の玄関前に着けた。

お茶を戴いて禅に付いて語り合い、法堂横の回廊から裏手に出て、利家公、利長公の石廟を詣った。

 其処へ道中奉行が迎えにやって来たのである。

惣門前には一行が待機して居て、御前の乗り物が組み込めるよう空けてあった。

 一行は僧侶らに見送られて出立した。

本来とは逆の方向にである。

如何やら旅屋町方向に向かっているようだった。

旅屋町の入り口付近には天野屋三郎左衛門らが見送りに出ていた。

 行列はそのまま高岡城趾に向った。

これは道中奉行が御前の指図を受けて、先頭集団に指示したものだった。

先頭が堀の端で止まると、御前の乗り物が城址の中程に来るように詰めた。

 高岡城は慶長十四年(一六〇九年)に利長が隠居後の住まいとして築城した平城だったが、慶長二十年、幕府の一国一城令によって廃城となって、城内全ての建造物を取り壊したのである。

 治脩は乗物から降りて古城を眺めていた。嘗て目の前には明丸があり、その左右に鍛冶丸、三の丸があり、奥には本丸と西側に二の丸があって、御殿や家臣の屋敷や蔵に櫓や門が立ち並んであったのだ。

 眼下には水を湛える堀が現存していた。

三代利常公が埋めずに残したお蔭で、防禦の拠点になり得るものとして貴重な建造物と言えた。

その城趾には米や塩・醤油に油などを保管する蔵があり、数か所に番所が設けてあり、無断で立ち入りできないようになっていた。

 治脩は感慨深げに城址を眺めていたが、御供番に促されて乗ると、行列は進路を東に取った。

千保川(庄川)は大門橋で渡り、小杉で小休をとり、次の下村で中休みとなった。

 此処で神通川を舟橋で渡る時の注意事項が申し渡された。

舟橋というのは六間二尺ほどの長さの舟を鎖で繋いで並べ、その上に板を載せて繋ぎ、人や馬などが通れるようにしたものである。

舟の上に敷いてる板は厚さ三寸(九センチ)で、長さが五間二尺の幅一尺二寸(三十六センチ)を三枚並べて三尺六寸の幅にして前後を繋いでいるのである。

これは参覲交代時以外は設置せず、飽くまで仮設の舟橋であった。

 同じ舟橋でも常設の物もあった。

それは富山城側の七軒町から対岸の船頭町に掛けられていた。


 この舟橋を渡る時は二列で渡ったが、舟が流れに揺れるので、中にはバランスを崩して橋から落ちる者もいた。

運が良ければ船首か船尾で助かったが、運が悪いと舟と舟の間に落ちて流されてしまう者も居たのである。

 そんな訳で、御前の乗物の横に付くことが出来ない為、所々船首や船尾に降りて側面の警護に当たった。

向こう岸に着くとホッとしたものである。

 東岩瀬の旅屋で小休し、面々は思い思いに寛いだ。

 この先に水橋川(常願寺川)があり、此処も舟橋で渡るのだが、橋を渡す部分は狭くその前後が広い為、勢いを生じて居たので間違って落ちると然程深くなくとも下流に流された。

最後の小荷駄隊が渡り始めようとしたその時に川下方向から突風が吹いた。

橋板が煽られた為船首方向に転がる者や板の端にしがみ付く者、船首側に落ちる者と大騒ぎになった。

 運悪く川に落ちた者は勢い良く流されたが、幸にしてその直ぐ先に中州が在り、必死になって這い上がって助かったのである。

この先にも幾筋化の川があったが、滑川の小休の後早月川を越えた。

 前回は出水で川の中だけ舟橋を掛けたようだが、今回は浅いので徒渡であった。

この日は暮れ時に魚津に着いた。


 十一日は五つ時(六時半ごろ)に発駕して、三日市でゆっくり中休をとった。

十村庄助宅から飛騨の山脈がはっきりと望むことが出来た。

上の方には雪が残っているのが見て取れた。


「先生あそこに見える山は相当高いんでしょうね」

 高添兵庫は山崎幸安にそう訊ねる。

「そうだなぁ七百丈(二千百二十メートル)以上はあるだろう。越後の高田から信濃にかけての山道はあれに近い高所にある。

江戸に行くにはそうした難所を幾つも越えて行かなければならないのだ」

 これまでの川越えやこれからの山越えは兵庫にとっては初めての体験であった。

幸安は天明八年(一七八八年)の治脩公の参覲に口付として随行したことがあった。

小堀金左衛門も安永四年(一七七五年)に同じく治脩公に随行していた。

 

 扨て難所と言えば境の先の親不知である。波打ち際寄りの砂濱を通るのだが、波附除という防波堤が常設されていた。

無論海が荒れていたら通れなかった。

その確認の為道中奉行らが先行して様子を見たのである。

 海岸を通るか手前から山道を辿るかは飛脚を以て境の旅屋に知らせたのである。

今回は海が静かであったので、岸壁が張り出した海岸線を辿った。

只ここでは万が一を憂慮して、海岸手前で乗物を降りて砂濱を歩いて頂いたのである。

兵庫らは周辺を警戒するように歩いていた。 砂濱に寄せる白波が時折足元を掠めたが、この難所を無事通過した。


 青海で中休みをして姫川なども無事越えると、六つ時(二十時)には糸魚川に着いた。本陣は小林仲右衛門宅であった。


 六日目は小雨が降っていたが六つ時(四時)には発駕した。

 兵庫は美乃が用意して呉れた布帛の袖合羽を付けていたが、多くの下役や足軽小者等は紙に柿渋を塗り、その上に桐油を塗った合羽等其々思い思いの雨具を付けて居た。

この日は特に問題なく、暮れ時に高田に到着した。

 七日目、六つ半過ぎに発駕。

荒井宿で小休し、ここから先は上りである。二本木の安楽寺で小休して次の関山本陣霜島又左衛門宅で少し長めに休みを取った。

これまでは比較的平たんな道であったが、新井宿からは上りとなった為少し多めに休んだのである。

 二三人の足軽が街道沿いの湿地に白い花を見つけると、その内の一人がそれをとろうと手を伸ばしたところ、頭らしき者に止められた。

「権次止めとき、熊に狙われるぞ」

 湧き水の周りの湿地に水芭蕉が一尺ほどの白い花をつけて僅かながらも群生していたのである。

「こいつは熊の好物らしいから、其の匂いを嗅いで追いかけられるかもしれん」

 笑いながらだから脅かしとは思いながらも、権次は触れても居ない掌を思わず衣服で拭った。

熊の好物には間違いないのだが、頭は手が被れる恐れがあるので触らせなかったのである。 そんな遣り取りを兵庫と幸安は少し離れた所から笑いながら見ていた。

「先生江戸でも稽古を付けて下さい」

「幾ら剣技を磨いてもわしはお前に免許を与えることは出来んぞ」

「先生の心技体の教えを戴くだけで十分です。免許状など何の役に立ちましょう」

 二人の役目は違っても、師弟の関係は決して変わらなかったのである。

 この日は野尻、柏原の先の牟礼の本陣に泊まった。

 翌日十五日は榊の泊で、九日目は鼠宿、上田と小休して後海野で中休みした。

 本陣前で田上彦次郎と警護に立ったが、其処から北西方向に空を塞ぐかのように山脈が見えた。

「田上様随分と高い山がありますね」

 兵庫にとってこれまで山と言えば精々医王山(三〇九、九丈)や加賀富士と言われる大門山(一五七二メートル)五百十九丈だが、今眺めている山々は二倍から三倍程の高さが在りそうだった。

「冠雪の山で言うと、左から鹿島槍ヶ岳、真ん中が五竜岳、右端が唐松岳かな。手前の雪の無いのが冠着山だ(一二五二メートル)。唐松岳でも八百丈(二四二五メートル)以上はあるだろう」

「良くご存じで」

「あっはっは。なぁに先程女中さんに教えて貰ったのよ」

 田上はそう言ってカラカラと笑った。

「覚えるだけでも大変じゃないですか」

「なぁに剣術の技を覚えるよりは簡単よ。それと序に言うと、あの山を鳥になって飛び越えて行くとどの辺りに行くと思う?」

「海ですか…」

「其れには違いないが、魚津や滑川辺になる筈だ」

「右左と曲がり折ながら来たもので分かりにくいかも知れないが、あのように峻嶮な山を目印にしておけば方角を見失うことは無いだろう」

 田上は公用で、京や大坂の屋敷に出かけて行ったことがあるらしかった。

この日はこの後、小諸平原村で小休して追分で泊まった。


 四月十七日は六つ時をかなり過ぎての発駕であった。

軽井沢神宮寺で小休し、碓氷峠を越えるのだが、てっ辺(一一九〇メートル)にある熊野権現の近くで小休を取った。

ここからは下りで刎石はねいしで小休して坂本宿で中休みとした。

松井田宿と八本木で小休して板鼻宿の本陣に七つ半に着いた。

 明日は高崎から熊谷まで十一里行き、翌日は鴻巣で中休みを取って大宮で小休して、最後の泊まりである浦和宿に入った。

 明日入間川を渡れば終点の江戸である。

大半の者は十二日間の疲れを癒すように寛いで居たが、供回りや護衛の兵庫らは戸田の渡しでの渡河が無事済むまでは安堵できなかった。

 入間川の渡しの川幅は九十三間(一六七・四メートル)で深いところで七尺余り、流れも速く水量によっては川止めになる。

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