第13話 再び護衛として
斉廣公の初の御入國は八月十三日、暁七つ(四時)に発駕した。
先払いの後に足軽らが続き、御先三品が当番非番共に建ち、当番は鉄炮二十五挺・弓二十張・長柄二十筋で非番が鉄炮二十五挺・弓二十張・長柄十筋と大変勇壮な行列で十二代領主となった斉廣は馬上にあって泰然自若、堂々の主役ぶりであった。
この斉廣御入國に際しては年寄長甲斐守、人持組前田織江に成瀬掃部に寄合組横濱善左衛門が随行していたのである。
一行は板橋平尾邸で休憩と共に道中着に着替えたが、見送りの家臣や足軽に日雇い人足の一部は本郷邸へと帰って行った。
兵庫は織田左近の護衛として入間川まで付いて行き、行列を見送ったのである。
本来なら自分も君主の側近くにいた筈だが、これも運命の悪戯というのだろうか、向こう岸に渡る舟を複雑な気持ちで見送ったものだった。
田崎彦次郎が最後尾に乗船したのを確認すると兵庫は手を振って見送った。
田崎はそれを見て取ると大きく手を振って応えるのだった。
「高添参ろう」
織田左近の為に用意された引き戸付きの権門駕籠に乗ると織田の家臣十名程が前後を固めて本郷邸へと向かった。
兵庫はこうして重役たちの護衛役として江戸に残されたようなものであった。
それは山崎幸安に於いても同じであった。
その山崎は比較的自由に外出出来たが、兵庫は暫くは許されなかった。
そんな兵庫の元に金澤の美乃から手紙が届いた。此れこそ嬉しい便りであった。
【去る八月二十五日に御前様御一行が御着城されました。父上が越後との國境の境宿までお年寄横山隆貴様に従ってお迎えに参りました。途中に於ける何か所かの難所を通過し、無事城下に戻られて安堵したものです。
兵庫様が乗物のお側に御付きでないのが残念でなりませんでした。
兵庫様からのお便りを読ませて頂いた当初、とても恨めしく思ったものですが、昨日御前に随行して来られたという御使番役の田崎彦次郎という方が訪ねて来られ、兵庫様がお役を解任された事について誤解されないようにと、態々実情をお話に訪ねて下さいました。 あなたさまの義侠心に今更ながらに心を打たれ、一時と雖も疑った自分を恥ずかしく思うております。】
何時までも待って居ると結んであった。
主が留守となった本郷上屋敷は閑散としたものであった。
その逆で金澤城下は初めてのお國入りとあって領國内各地で、特に御城下に於いては誰もが祝賀気分に沸いて居たのである。
城中に於いて斉廣は留守居役の人持、表小将に寄合衆等と対面し祝賀を受けた。
御供衆の年寄、人持に平士や御歩等諸役、身分に応じて料理が振舞われ、足軽小者に至っては御算用塲等で赤飯に酒が振舞われたのであった。
入國儀礼はその後も暫くの間続いた。
江戸本郷上屋敷の兵庫にも久しぶりに外出の許可が下りた。
これは國許から斉廣公の入國の報告として人持奥村武次郎が使者として派遣されて来たからであった。
謂わば恩赦みたいなものである。
斉廣の使者は同時に将軍家に帰國御礼に遣わされる人持組横山大作も屋敷に到着していたのである。
横山大作は将軍家並びに老中へのお礼の品々を携えて、十二代領主前田斉廣の名代として馬に乗って登城した。
この時供揃いの一人として高添兵庫が護衛に付き、山崎幸安が引綱を持った。
それは治脩公からの指示であった。
國許からの報告を受けた先代は重荷が下りた所為か、順調に回復に向かって居るようで血色も良かった。
江戸城に着いた使者横山大作は大手門前の下馬札前で降りると、供頭に供侍二名と御礼の品々を入れた長持ち二棹に挟み箱持、草履取りらを従えて徒歩で大手門内へと消えたのである。
兵庫らはその場で帰りを待った。
山崎幸安と兵庫はお堀端で雑談をしていた。すると供侍の一人が壮年の中間に文句を言うのが聞こえて来た。
どうやらそれは御城に向かって堀端に座り込んで居た中間が煙管で煙草を吸い始めたのを咎めたものだったが、中間常次は無視するように二服目を火皿に詰めて吸った。
「此奴許さん」
森榮志朗は太刀の鐺で背中を突いた。
するとその横に居たにやけ顔の同僚が常次の仇を討つかのように森の足の間に脚を差し入れて転ばしたのであった。
「おのれ!下郎ども、其処へ直れ」
榮志朗は怒り狂ったように騒ぎ立て刀の柄に手を添えたのである。
傍に居た従者らは慌てて周りを取り囲んだ。
にやけ顔の中間は誤って脚を延ばしてしまったと頻りに詫びたが榮志朗は許さなかった。中間らが悪いにしろ将軍様のお住まいの前で騒ぎを起こしたなら只では済まないので、他の者達が周りを囲んで見えないようにしたのだが、その怒りを静めることは誰にもできなかった。
「兵庫持っていろ」
と幸安が馬の引き綱を渡すと、囲いの中に飛び込んだ。
その時正に榮志朗が太刀を抜こうとしているところだったので柄頭に掌を当てて止めたのである。
「口付風情が生意気な。出しゃばるでない」
と罵倒する。
「お言葉ながら此処は将軍家の御門前です。如何なる場合とて騒動を起こすはご法度に御座います。況してや本日は横山大作様が御領主斉廣様のご名代として罷り越して御座ります故決して間違いを起こしてはなりませぬ。上役の森様に失礼は重々承知の上、こうしてお止めさせて頂きます」
「下郎ども只では済まぬと思うとけ」
森榮志朗は忌々しそうに鉾を収めた。
「お主らも場所柄を考えることだ」
足軽、中間らは山崎に対しては率直な態度であった。
それを見て森榮志朗は猶更快く思わなかったのである。
この事は帰還後、直ちに割場奉行に報告され二人の中間はお払い箱となって他の奉公人に代わることになった。
又危ういところで騒動を起こしかねなかった森榮志朗は横山大作の家臣であったことと、刀の柄に手を掛けたとはいえ特に問題を起こした訳ではなかったので、何の御咎めもなかった。
翌日解雇された中間二人を引き取りに口入れ屋がやって来た。
表御殿の大御門の門前を右に回り込み、中御門から表御殿の敷地内に入ったところに番所があった。
縁側に常次と信作が畏まって座っていた。座敷の中央に奉行が座り、一段前に森榮志朗が座っていて、その横に同輩二名と反対側には仲裁に入った山崎幸安が同席して居たのである。
割場奉行が事の次第を詳細に話すと、口入れ屋は深々と頭を下げたまま、
「この度の不届きな振舞いに然したるお咎めも無く、お許し頂けましたること実に有難く存じ上げまする。今後このような心得違い、不祥事のなきようお勤めさせて頂きますのでご贔屓の程お願い申し上げます」
口入れ屋は佐久馬町の清五郎であった。
数ある口入れ屋の中でも幅広い要望に応えられる程に人数人材を用立てることが出来た。それには姪の登与が同心平岡に漏らしたような慈善事業で衣食の世話までしていたからであろうか…。
確かにそれはあった。
年季奉公の他に農閑期の出稼ぎ人が多く居た。それらは主に武蔵・下總・相模だが信濃・越後なども多かった。
清五郎ら口入れ屋はこの農閑期の出稼ぎ人を出替奉公として武家屋敷には中間、槍持、草履取り等の小者軽輩を多数送り込んでいたのである。
特に大柄で屈強な者は日傭取りで陸尺や行列傭員などに当てた。
陸尺とは大名家の
上背は六尺以上で屈強な者なら日当は二百文は貰えた。
六尺に足りなかったり、細身であったりするとそれより安かったが、少なくとも百七十文にはなった。
雇用主と斡旋業者との間にはその他に細かい取り決めが結ばれてあったようだ。
これらは二者間での取り決めで働き手には知らされないものもあったのである。
この辺りが斡旋業者の儲け口であった。
元々加賀前田家では当初から先ず農業労働者確保を第一義に武家奉公人の確保や家中配分を行っていた。
だが給金上昇が見られるようになると奉公人渡奉行を設けて全てを管理することで上昇抑止と共に、武家奉公人の実数把握もできたのである。
だがそれらが厳密になればなるほど供給の遅滞を生じ、逆に弊害となったのである。
結局は家中の反撥を買い廃止され、その後も同様な機関や半官半民の役所が作られたが、中途半端な為消滅した。
最終的に金澤城下での奉公人供給は奉公人取持ちなる斡旋業者らに委ねられることになったのである。
前田家の上屋敷を辞した口入れ屋清五郎は神田佐久馬町の店に戻ると、常次と信作をどやし付けた。
それはそれは恐ろしい形相であった。
普段の穏やかな清五郎からすると想像できないものだった。
清五郎には幾つかの顔があった。
一つは慈善事業を兼ねた口入れ屋で、もう一つは浅草蔵前の株(営業権)を持つ札差だが、裏を返せば高利貸であった。
こうしてみると表向きは健全な人材斡旋業者のようだが、やくざ者を多く抱えて居たに過ぎないのだ。
それらが稼いだ報酬は一旦は清五郎が受け取って、稼ぎに応じて分け与えていたのである。 札差は旗本や御家人らの俸禄米を替わって受け取り、札差料は百俵につき金一分(一万五千円)で米問屋に売却する手数料売り側は百俵につき金二分と定められた手数料を取っていた。
これら手数料を差し引いて、食用分の米を残して、その日の相場で現金化すると、現金と米を札旦那の元へ届けたのである。
この札差による貸付金利が寛政の改革の一環として棄損令が出され、天明四年以前の借金は帳消しとされ、寛政元年(一七八九年)までのものは年利六分とされたのであった。これで相当損失を被って店を畳むところが続出したのである。
清五郎は裏家業の高利貸を始めて三年程であったので、それら低金利で貸し渋る札差に代わって、年利一割五分で貸し付けているらしいということであった。
この率は嘗ての公定金利より低かった。
こうした話は一部推測の域を出ないとしながらも、山崎幸安が入手して来た情報であったのだ。
話の出所は水茶屋の女将登与のようだが、そのもとは恐らく南町番所の定町廻り同心平岡吉右衛門辺りとみた。
登与は口入れ屋清五郎の姪であり、ある程度は承知しているのではないかと探りを入れて反応を見ているようだった。
そうした話を聞いても、兵庫は無関心であった。
兵庫は暇があれば幸安より頂いた赤樫の振り棒で鍛錬をしていた。
左右に持った振り棒の重さは同じである。
何方も同様に自在に扱えるよう訓練した。
それが終わると抜き手の稽古である。
誰よりも早く抜けるよう鞘の送り出しから抜刀を工夫しているのだった。
それと潜って帯のみ両断する技と臑切りに磨きをかけた。
体の汗を拭って部屋に戻ると、美乃からの便りが届いて居た。
冷めたお茶を飲みながら読んだ。
【本日兵庫様からのご送金確かに受け取りました。御貸小屋住まいとは申しましても、それなりにお付き合いもございましょうし、思わぬ出費もおありかと思います。かなりご倹約されていらっしゃるようですが、お付きの方にも時にはお気遣いなされますよう…】
老婆心ながらとあった。
美乃が側に居たら奉公人を大事にするに違いない。
それは小堀家での小者や使用人に対しての接し方を見れば分かる。
兵庫は神田の小間物屋で見つけた櫛と簪を手紙を添えて送った。
すると折り返すように荷物が届いた。
開けてみると綿の入った法被であった。
手紙が添えてあった。
【趣のある塗り物の櫛に豪華な造りの簪、嬉しく頂戴致しました。大切に使わせて頂きます。
お江戸も結構寒いと伺って居ります。
お送りしました法被は兵庫様には少し大き目かも知れませぬが普段防寒着として羽織れるようお仕立てしたものです。お気に召されましたなら嬉しゅう御座います】
兵庫は早速綿入れの法被を羽織ってみた。上に羽織るものだけに然程大きくは感じなかった。
この日兵庫は厩に幸安を訪ねると、馬の調教の為、御殿奥にある馬場に行っているとのことであった。
「これは高添様、これから其処へ参りますんでご案内致しましょう」
世話係の椿であった。
あれ以来すっかり態度が変わって何かと便宜を測って呉れるのだった。
馬を引きながら世話役の椿は、
「わしも剣術を習いたいのですが、高添様からお願いしては頂けませんでしょうか」
というのであった。
「私から言っても聞いては呉れますまい。先生には椿さんご自身でお願いするのが宜しいと思いますよ」
「聞いて頂けるでしょうか?」
「先生は本気と見ればお許し下さいますよ。断られても諦めず、何度でもお願いすることです」
「分かりました。根比べですね」
椿は意外に明るい青年であった。
「彼方にいらっしゃいます」
と言って馬を引いて小屋の方へ歩いて行った。
兵庫は馬場の状態を見ながら幸安に近づいて行った。
「先生お邪魔します」
「おう兵庫か、温かそうな法被だな。綿入れか…」
「そうです」
「何か用事か?」
「はい昨晩御家老から先代の護衛を打診されたのですが」
「治脩公の護衛の打診?ということは、中屋敷か平尾邸のどちらかに行くことになるが、お前さんはどうなんだい」
「正直な所迷っているんです。俸禄は百石取りだそうですが、御隠居為される訳ですからそのお付きとなるとうらは國に帰れなくなりますよね、さすれば美乃さんとの約束を違えることにもなりましょう」
兵庫の悩む顔など初めて見た。
「まあ座りなよ」
幸安は柵の横棒に腰かけて煙管に煙草を詰めて吸った。
煙を吸っているのだが実に旨そうであった。
「こう言っては何だが、仮にそのお役目に就いたとしてもそう長くはあるまい。
何だったら小堀の親父様にお願いして十日でもひと月でも金澤に帰って、また戻るという手もあるだろう。
其方も美乃様も今のままでは遣り切れない筈、御家老の打診は其方の忠義を
普通なら有無も言わさずの命令であった。
この幸安の助言は略当たっていた。
翌日家老に承諾の意思を伝えたのである。治脩公の使番として俸禄は五十俵だが、役料八十石を与えられたのである。
この時兵庫は家老に金澤に許嫁が居て待たす羽目になった経緯を改めて話したのであった。
そのことが主君治脩の耳に届くと、馬廻り役頭小堀金左衛門に書状を送り、江戸にて婚礼の儀を執り行うよう指示したのであった。
これは大変名誉なことではあったが、扨てそうなると江戸での式は当然婿の家となる為その為にも所帯を持つ家を探さねばならなかった。
婚礼の披露をどこでやるかについては江戸屋敷の何れかをお借りすれば良いだろうというものも居たが、一介の平家臣にそのようなことが許される訳がなかった。
兵庫は師匠の山崎に相談した。
その話が茶屋の女将登与から叔父の口入れ屋清五郎へと伝わると、翌日には登与に新規の料理屋で適当なところがあると探して来たのが、新鳥越町二丁目の八百善であった。
元は八百屋だったという当主善四郎が仕出し料理屋を始めたというものだった。
料理については承諾済みで座敷が使えるかどうかは人数次第ということであった。
美乃は父金左衛門からその話を聞き、兵庫からの便りにも来春には婚礼を執り行いたいと書き記してあったので、喜びも一入であった。
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