第8話 水茶屋の娘

 或る時この師匠が浅草寺境内の伝法院付近にある水茶屋に連れて行ってくれたのである。 

東側の作事門から出て松平飛騨守(大聖寺前田家)の屋敷横の坂を下って不忍池へと出て、山下から下谷廣徳寺前から東本願寺前を通って雷門を潜ると店が立ち並ぶ後ろには寺院が建ち並んであった。

仁王門の手前に茶屋が並んであり、その内の一軒に入ると、中年のぽっちゃりした女将が愛想よく声を掛けて迎えた。

「まぁ幸さんお久しぶり。何時いらしたの」

「二日前だが忙しくて来れなかった」

「そちらの方は」

 と物珍し気に見るもので、兵庫は師匠の知人に丁寧に挨拶した。

「幸さんのお弟子さん?そんなこと教えてくれなかったじゃない」

「女将さんうら(私)から押しかけて弟子にして貰ったんです」

「まぁ面白い。お侍さんでもそんなことをしなさるの…さぁさお弟子さんも中にお入りなさいな」

 十四五歳の娘が客にお茶を出しているところをすり抜けるようにして奥に入ると、二畳ほどの板張りの上に薄縁が敷いてあって、ちょっとした休憩ができた。

「千沙、ちょっとおいで」

 女将は店先に立つ娘を手招きして呼んだ。

「こちらのお侍さんは知ってるよね」

 千沙という娘は軽く会釈した。

「で、そちらのお若い方が高添兵庫様」

「千沙です」

 兵庫はその娘にこれまでにない親近感を覚えたのでついじっと見入ってしまうと、娘は恥ずかしそうにして店先に戻って行った。

「まぁお若いのに隅に置けない方。幸様のお弟子さんに間違いなし」

 女将は意味あり気にそう言って幸安に凭れかかる。

「これ客が居ろう」

 兵庫はそれを見て察した。

山崎幸安はこれまでに何度か参覲交換で江戸に来ていた。

その時上役に連れられて初めて浅草寺に来た時に、ぽっちゃりした娘の登与(女将)と出会ったのである。

それまで女子に関心の無かった幸安が一目惚れしたのだ。

 それから機会ある毎に通い詰めた。

何時しか登与も絆されて懇ろの仲になった。だが下士とは言え武家社会に身を置く幸安と町屋の娘では簡単に添う訳にはいかなかったのだ。

 幸安は上役に江戸詰を願い出たが叶わなかった。

二人は会えない時の方が多かったが、織姫と彦星と違って幸安が江戸にいる間は何とか会うことが出来たのだ。

 生一本の性格は兵庫も同じだが、気になるのか兵庫は娘の方に目をやる。

それを登与は見逃さなかった。

 二人を席に座らせてお茶に桜餅を添えて出した。

「先生桜餅は葉っぱごと食べるんでしたか」

「食べても良いんだが…」

 登与が言い淀んだ後を受けて、

「桜餅の葉は香り付けと乾燥しないようにする為に包んで居るので、餡の塩気や香りを楽しむには葉は食べない方が良いのよ」

 居合わせた客も登与の説明に納得するように肯いていた。

「美味い、皮が薄くてもちもちしていて餡もあっさりとした甘さで結構だ」

 そこで登与は兵庫に聞かせるように千沙の素性を話すのだった。

「あの子は姉の子で五年前に亡くなって一人になってしまったのであたしが引き取って一緒に暮らすようになったんですよ。父親は早くに亡くなっているので可哀想な子なんですよ」

 兵庫は《成程》と思った。

千沙の表情には影があったのだ。

顔立ちは美人と言えるほどの器量良しで登与とは少し面立ちが違っているばかりか表情は暗かったのである。

幼少時の薄幸が影響していたのである。

 だが此処の看板娘には違いなく、参詣の帰りに寄った商人や武士に与太者までが言い寄って来る程人気があった。

境内には水茶屋が二、三十軒ほどあったが、その中でも飛び切りの美人と言えた。

「おっ居た居た。旦那この娘でさぁ」

 与太に続いて旗本風の侍が覗いた。

その後ろにも四、五人居て、にやにやと笑っていた。

「上玉だ。おい女将この娘拙者が貰い受けるが文句はあるまいな」

 と小判を五枚土間に投げ捨てて、千沙の手を取って連れ出そうとすると登与が止めた。

「待ちなよお侍さん。うちの子は物じゃないんだ。況してや五両やそこらの端金で嫁に出すほど困っちゃいないよ。その手をお放しよ」

 女将の思わぬ啖呵に店の内外の野次馬がやんやと騒ぐ。

「町人風情が無礼な。捨て置かぬぞ」

 と登与に詰め寄って腕を掴んで脅しをかける。

すると兵庫が立ち上がって鞘の鐺でその腕を叩いたのである。

「う~ん無礼な」

 男は下がりながら表に出た。

「みっともない真似はお止めなさい」

 若い兵庫に窘められて男達はいきり立った。

男達は兵庫を取り囲むと、与太者が顎を突き出しながら、

「やい三一、とっとと詫びを入れた方が身の為だぜ」

 と言いながら胸倉を掴みに来たので手首を掴んで捻り、地面に叩きつけた。

御家人の一人が抜刀すると、

「兵庫代わろう」

 幸安は刃渡り二尺の脇差を腰に差した。

「小癪な下郎が…皆手出しするな」

 男が上段に振りかぶった瞬間、幸安は帯の当たりを払っていた。

羽織が寸断されて両脇にぶら下がり、袴が落ちるのと同時に帯も小刀も下に落ちた。

男は無様な格好で半べそをかいた。

他の男達は慌てて広がりながら抜刀する。

それらの間を掻い潜りながら、手の甲を鋒で叩いて刀を落下させた。

 中に少しばかり出来る者が居たが幸安は相手の太刀を軽く叩いて横向きにさせると同時に肩に鋒打ちをくれて蹲らせた。

「後ろ!」

 兵庫の鬼気迫る声に、振り向きざまに襲い掛かる相手の小刀を鍔で受け止めると、左に回り込みながら鋒で脇腹を払うと、袴を落とされて無様な格好の旗本の道楽息子の髷を掴んで元結のみを切った。

 幸安は道楽息子の怯える顔を覗き込み、

「またこのようなことをしたら容赦せぬぞ、覚えて置け」

 そう脅かされて、粋がっていた男らは不様な格好で逃げて行く。

その様子を見物人達は大喜びで見ていたのである。

 騒ぎを聞きつけた南町番所の定町廻り同心平岡吉右衛門が聴き取りに来た。

「役目柄お伺い致す。どちらの御家中かな」

「加賀前田家御馬奉行配下で御馬世話係の山崎幸安に御座る」

「事の次第は彼方に居る商人達より仔細承って御座る故特に質問は控えるが、相手は旗本や御家人の道楽息子のようですが、怪我を負わせた訳ではないし、髻を切った訳でもないので事の発端が発端だけに、特にお咎めは御座らん。ただ始末の悪い連中なのでお気を付け下され」

 平岡吉右衛門は女将にお茶を頂いた礼を言って帰って行った。

「幸様は本当に強いのね、驚いたわ。兵庫様も師匠が一緒で助かったわね」

「はい助かりました」

 兵庫は謙虚であった。

「なぁに、兵庫に任せたらあの連中に怪我人が出たろうから代わったまでよ。それにしても女将の啖呵には恐れ入ったよ」

 三人は愉快そうに笑い転げたが、千沙は黙ったままであった。


 それにしても師匠の剣さばきは見事であった。現在家中に於いて幸安に勝る者はそうは居ないように思われる。

驚いたのはどら息子の羽織袴から帯まで切り落としたことである。

 それは正しく抜刀術であった。

恐らく相手が上段に振りかぶる動作に入った瞬間に脇差の鞘を送り出しながら間合いを測って帯まで切り裂いたに違いなかった。

抜刀術の田上彦次郎より間違いなく抜き手は早く、目測通りに刃先を合わせて切り裂いたとみた。

ひとつ間違えれば刃は肌まで達していたに違いなかった。


 その点兵庫の剣術はまだまだ未熟であり、相手に怪我を負わせては面倒なことになるとみた幸安は咄嗟に代わったものだった。

それで事なきを得たのである。

それは相手との諍いも然ることながら、家中の法度にも触れ、兵庫の将来に影響するからだった。


 騒ぎも一段落したので、

「兵庫、千沙さんを連れて観音様に御参りして来るが良い。七つ半(十七時)までに戻って来ればいいから」

「はい承知しました」

 どうやら千沙も承知してるようで落ち合う場所は裏戸前として戸締りして別れた。

 この時が八つ半(十五時)だから一時程のんびり出来るのだが、特に要望もないようなので観音様をお詣りしてから大川の土手に座って買って来たくずもちを食べた。

「千沙さんは幾つなの」

「十五です。兵庫様は?」

 と初めて自ら言葉を発した。

「十八だけどまだまだ未熟者さ。ところで何処に住んでるの」

「叔母の所よ」

「お登与さんのとこだね、で近いの」

「東本願寺裏門前の田原町の裏店よ」

「来るとき通ったお寺の側か、仏壇屋が結構あったよ」

 上野のお山から東本願寺辺りまで通を挟んで仏壇仏具を売る店が並んでいて多くの職人が働いていた。またそれら表店の後ろには裏店や寺院が建ち並んで居たのである。

東本願寺の東側浅草寺或は大川までの間には表通りに商家が在り、その裏に裏長屋があった。

 登与、千沙の住む裏店は東仲町の二つ先の路地を入った二丁目にあった。

 兵庫は千沙が美乃と違って年下でもあるので、気安く話ができたのである。


 この日を機に兵庫は、暇を見つけては茶屋へと通ったが、お茶を飲んで茶菓子を食べ終えると帰って行った。

店が忙しい所為もあったが、兵庫が二言三言声を掛ける程度で済まして居たのである。

 女将のお登与は二人の様子からして相思相愛と見たがこのままではそれ以上の発展は見られないような気がした。

そこでお登与は晩御飯の後、振り売りから買って置いたお酒を出して千沙に勧めるのだった。

「おかあさん、あたしは良いよ」

「まあいいから一杯お飲みよ」

 何時もは一人で飲んでいるのに、如何云う風の吹き回しなのか何度断っても勧めるのだった。

「千沙、兵庫さんのことどう思ってるんだい」

「別に…」

 千沙は一杯飲んだだけで顔を赤くしていたが、酔ってはいなかった。

「初めて兵庫さんが来た時、観音さまにお詣りして大川端で話をしたと言ってたけど、何か特別な話でもしたのかい」

「うーぅん、四方山話ぐらいよ」

 千沙の表情を見る限り嘘ではないようだった。

「幸さんの話で気になることがあってね、でも兵庫さんはお前目当てに来てることは確かだと思うんだけど、幾ら忙しいからと言って碌に話もしないで帰るてのが分からないんだなー」

 その点は千沙も合点がいかなかった。

最初の時帰り際に、

「また来るよ」

 とは言った。

 幸安と一緒に来れば登与が早仕舞いして二人っきりになれたのだろうが、あれ以来二人揃って来ることは無かったのである。

千沙を先に上がらせても良かったのだが、その前に兵庫はさっさと帰ってしまうのであった。

 実のところ登与は、兵庫に許嫁いいなずけが居ることを幸安から聞いて居たのである。

既に結納を交わしてあるとのことだから、中身がどうであれ、兵庫には妻が居るも同然であった。

 山崎幸安が登与の水茶屋に兵庫を連れて来たのは、退屈しのぎに江戸の一部を見せてやろうとしたものだったが、旗本奴の千沙に対する不届きな振舞いから思わぬ副産物が生じてしまったのである。

 兵庫のそうした言動は幸安には伝えて置いたが、然程心配する様子もなかった。

というのも、幸安は幸安で或る日兵庫の気持ちを確かめて居たのである。

「先生ご心配は無用です。うら(私)には妻同然の美乃殿が居りますので『御定書』に触れるようなことは決して致しませぬ」

 所謂八代将軍吉宗が定めた『御定書』は、不義密通等姦通罪に関する刑罰の大筋を簡単に百箇条に綴ったもので、量刑の度合いは実際の裁きに於いてのお奉行の裁量によった。 

兵庫が美乃を妻同然としたのは其の中の一条『縁談極り候』つまり結納にて夫婦となったとの解釈であった。

 この事を大野吉右衛門正邦から結納の儀の当日に聞かされたものだった。


 この兵庫と美乃の婚約については兵庫自身が上司に届け出て許可を貰わなければならなかった。

この時兵庫は七十石の平番士で、千石取りの御馬回り役の娘とは家格身分に差があったのだが、小堀金左衛門は烏帽子親でもあり、大野吉右衛門が親代わりとなって家老の本多正成に願い出たのである。

 当初正成は実家からの届け出ではなかったので受領を渋ったが、絶縁状態である事と、更には御前の身辺警護の任に当たって居る者であることを認識すると漸く許可を下したのである。

 許嫁の居ることを知った登与にしてみれば間違いの怒らぬうちに何とかしたかったのだが、その後も兵庫はぶらっと来てはある程度滞在して帰って行った。

 登与は何のために来ているのだろうかと不思議でならなかった。

というのも千沙目当てで来ていることは間違いないのだが、親しく言葉を交わすでなく、また会う約束をすることもなく、冷めたお茶を飲み終えると帰って行ったのである。


 或る日何時かの与太者が中を窺うようにして入って来ると、嫌がる千沙の背中を押して外に出ようとした時、何者かに思いっきり腰のあたりを叩かれた。

「うっ」と唸って通路にしゃがみ込む。

 奥に幸安が来ていたのである。

与太者は首根っこを掴まれて路上に放り出された。

 見れば五間ほど離れた所に数人の侍が様子を窺うように立って居たが、幸安と目が合うと、五重の塔の方へと早足に去った。

振り返ると与太が腰を摩りながら雷門に向かって逃げて行くとこであった。

 危うい所であった。

偶々幸安が居たから良かったが、居なかったら五両も投げずに連れ去ったに違いなかった

「有難う。それにしてもしつこい連中だわ

「また来るかも知れないから気を付けなよ」

「そうそう時々あの南町同心の平岡さまが顔を出してくれるから安心してたけど…あっそうか分かったわ」

 何が分かったのかと思ったら、

「ねえ幸さん、やっと分かったわ」

 登与は謎が解けたように喜んでいるのだ。

「何だよ急にー」

「兵庫さんがぶらっと来てはお茶飲んで菓子を摘まんで帰って行くのが不思議でならなかったんだけど、同心と同じことをしてたんだわ」

「千沙ちゃんの警護にか?」

「そうよ、だって千沙と殆ど喋ること無く帰って行くのよ」

 確かに生真面目な兵庫ならやりかねない行動であった。

兵庫は仮に千沙が好意を寄せたとしても、國もとの許嫁の美乃を裏切ることはしないに違いなかった。

だが正義心が強い兵庫は旗本らの不逞な行いを許す訳にはいかなかったので暇があれば顔を出したものだった。

「ところで登与、その同心さんはどんな按配で回って来てるんだい」

「ここんとこは頻繁に来てるわね。え~と先月は確か下旬に来て、今月は三日前だったかな、どうしてそんなことを訊くのさ」

 それを聞いて幸安は得心の笑みを浮かべた。

「何が可笑しいのよ」

「いや~ね、お登与の推理はいいとこついてるが少しばかっり外れてるんだな」

「あらそうなの」

「兵庫は単純に千沙ちゃんが心配で来ているんだろうが、同心の旦那は千沙ちゃんそのものに興味があって来てるんじゃないかな」

「失礼な事言わないの、役目で顔を出しているんだよ。罰が当たるよ」

「下衆の勘繰りとでも言いたいのか。良いかい登与、江戸には番所(奉行所)が南と北の二つ在るだろう」

「その位知ってるよ」

「その二つの番所は月番制で、今月が北なら来月は南が府内を見廻るというようになっているんだよ」

「すると何かい月交代で休んでいるの?」

「いや番所で訴状などの処理をしているんだ。普通は出歩くことは無いし、見廻りもしない

「てことは平岡様は私的に来てるということなの?」

「まあそう言うこと」

 同心とて男である。独身なら若い娘に関心があっても可笑しくなかった。

これはこれで面倒だが、一先ず幸安は安堵したのである。

 このことを兵庫に話して聞かせると、何時か茶店で会ったことがあり、何となく感じていたようだった。

兵庫は肩の荷が下りたようで楽になった。

 明日は十五日の月次で登城の日であった。二百名ばかりの供揃いで昼四つ(十時)の登城である。

月次の登城では中門から中雀門を通って乗物を玄関近くに着けると乗物から降りて、長裃の留紐を解いて長袴を引きずるように茶坊主に付いて表御殿に消えた。


 この乗用所での待機は御三家と加賀前田家しかなく人数も少数ではあったが、其々が邪魔にならぬよう間隔をあけて待って居た。

 大変なのは下乗橋前や下馬札のある辺りでの待機であった。

正に混雑の極みであった。

格式に拘る者達の間で諍いが起こらないとは限らなかったので、主君の下城時には神経を遣ったものだ。

 


 或る日幸安が芝居見物に行くからと兵庫を誘ったのである。無論水茶屋の女将登与と千沙が一緒であった。

芝居小屋のある堺町・葺屋町の中村座か市村座だが、出し物が分からないのでとに角出かけて行くことにしたのである。


 二組は大伝馬町二丁目と通旅篭町が挟む人形町通りで落合うと、田所町、長谷川町を元吉原の在った松島町方向へと向かった。

その間僅かだが、千沙が兵庫の側について離れようとしなかった。


 新和和泉町と元大坂町の先を右に曲がった道沿いにあるのだが通りは芝居見物に来た連中でごった返していた。

堺町に上がる櫓は中村座ではなく都座で、その先の葺屋町に上がる櫓も市村座ではなく桐座という何れも控えの代興行であった。

 寛政の改革によって緊縮財政による不況で景気が悪くなり、江戸っ子らにしても芝居見物に現を抜かす余裕などなかったので、木挽町の森田座を含め、中村座、市村座は経営破綻して休座に追い込まれ、復活までの間を控えの座に委ねたものであった。

「幸さん混んでるけどどうする?」

「止めとこう。偶にゃ他で飲む茶も乙なもんだろう」

 幸安は芝居茶屋を覗きながら歩き、一軒の茶屋に入った。

幸安は茶汲み女を捉まえ、

「姐さん食い物はあるかい」

 と行き成り訊いたものだから

「お茶漬けならありますよ。お席はどうしますか」

 上客でないと見た茶汲み女は不愛想に対応する。

「おいおい姐さん立っては食えないだろう。空いてる席に座らせて食べさせてくれよ」

「幸さんそうではなく、姐さんは桟敷席か土間席かと訊いて居るんだろう。あんたもちゃんと訊かなきゃ客は分からないよ」

「済いません」

 女は登与の威勢にすっかり気圧されていた。

「桟敷ならありますよ」というが、一人三百五十文も出してみる程のものではなかった。

土間が百文であったが、登与が首を横に振ったので、

「悪いがお茶漬け四人分頼む」

 中程の空いてる席に座って食べた。

 登与と千沙にとっては久しぶりの休暇と言えた。

「幸さんたちは来春には金澤に戻るの」

「そうなるが再来年また来ることになるだろうよ」

「本当?何時かもそう言ってたけど随分ご無沙汰だったわ」

 とわき腹を抓る。

「痛い、儂が決めることではないわ。仕方ないだろう」

「ごめんなさい。でも江戸に居て欲しいの」

 兵庫も千沙も二人のやり取りを笑って見ていた。

「兵庫さんも一緒に戻るんでしょ」

「多分そうなります」

 あっさりしたものである。

 兵庫にしてみれば南町番所の同心平岡吉右衛門が千沙のことを気に留めてくれているようだと知ると、茶店には顔を出さなくなって居たのである。

別に行くところがあった。


 気がかりなことが無くなると、急に國許の美乃のことが気になり始めた。

筆不精の兵庫が義父小堀金左衛門と美乃に宛てた書状には、忙しさにかまけて江戸での暮らしぶりなどの報告を怠ったことへの謝罪を込めて細部に亘って書き綴ったのである。

それというのも三日前に美乃から届いた書状に気になることが書かれていたのである。


【重要なお役目に就かれてご苦労されていることは重々承知して居ります。要らぬ心配をしないよう御心掛け下さるのは有難く存じますが、全くお沙汰の無いのも無事な証拠と言えなくはありませぬが、半年過ぎて一通の便りも届かぬとあっては心配になるものです。せめて一行でもご様子が窺えれば安堵致しましょう。

それとも金澤と違って江戸は暑くて墨まで乾燥してしまうのでしょうか…

万が一兵庫さまの御心まで乾いてお仕舞いなら仕方のないことと言えましょうが…】とあったからである。


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