第7話 江戸に到着
浦和宿を発って蕨宿で中休みを取り、戸田の渡しに着いた。
幸にしてここ十日程は雨も降っていない為、流れは何時になく穏やかであった。
先発隊が川向うで待って居た。
渡し場には旅人らが多数居たが、折悪しく渡り終えるまで待たされる羽目に…
見れば舟は空で戻って行く。
ならば旅人らを乗せても良さそうなものだが、人足の他に村人も出て荷物の揚げ降ろしを手伝ったのである。
特に加賀前田家の場合は人数も荷物も多いので、舟も下戸田村の分では到底足りず、近隣の村から借りて対応していたのである。
無論それなりの謝礼を戴いたので、総てに優先するのは致し方なかった。
先を急ぐ者にとってはいい迷惑だが、大概の者は大名行列に出くわして大喜びであった。街中で有名人を見かけた以上の体験であったに違いない。
馬や駕籠、荷駄と全てが渡り終えると供揃いを整えて平尾の下屋敷目指して出発した。行列が去ると、渡し船は何時もの通り利用者を載せて対岸へと渡った。
行列は板橋平尾の下屋敷に向かっていた。渡し場から一里二十三町程で下屋敷に着いた。御駕籠は楼門を潜って玄関に着けると御小姓や御供番が周りを固めて、兵庫らはその外側を警護した。
この下屋敷で休息を取ると共に、礼服に着替えた。
多くの家臣は埃を払い体を拭いて袴をつけるだけだった。
兵庫は美乃が替えを用意して呉れていたが、同僚の田上や師匠の幸安らが着替えないのを見て着替えるのを止めたのである。
美乃が知ったら、きっと怒らないで苦笑したに違いない。
兵庫は同僚らが替えの持ち合わせがないのだろうと考えて遠慮したものだった。
一時ほど休んで一行は下屋敷を出た。
楼門の外には見知らぬ人足や足軽が片膝着いて待機していた。
その数凡そ三百人。使番の指示のもと、使番足軽らが人数を束ねながら行列に組み入れて行った。
それらは出発つ時同様、行列を華美に飾って見せる為の演出に他ならず、日雇いの連中であった。
治脩公は此処より馬に乗って行く。
口付は山崎幸安であった。
前方には田上彦次郎と滝崎弥五郎が付き、幾らか下がってその左脇備えに高添兵庫が付いて、その反対側には念流の遣い手谷岡孫三郎がいた。
喜兵衛は御手槍として更に前方に居た。
中山道を本郷の上屋敷に向う行列は二列参列と組まれて先払い、弓隊では弓立を武士が運び、矢箱を足軽が担ったのである。
槍持二人のうち一人が喜兵衛であった。
徒士、馬回り、鉄炮隊に近習、刀番らが続き、合間には、着替えや文書などを入れた挟箱を担ぐ者達がいた。
御小姓供番らは本陣にあって駕籠若しくは馬に乗る領主の警護に当たったが、特別警護の兵庫らが居たので気は楽であった。
領主の駕籠の他には家老や人持、お女中の年寄り等の物もあり、お女中以外は馬に乗って、其々の家臣を引き連れて歩いていた。
途中途中で板橋宿浦和宿を目指す旅人らが道端に畏まって行列を見送っていた。
八つ(十四時)過ぎに上屋敷に到着。
一行は表御門から一文字笠着用のまま入る。ご到着に当たっては平尾の下屋敷より連絡があったので江戸詰家臣らはお出迎えの準備に大わらわであったが、表玄関よりご到着の報に一層慌しくなった。
上屋敷に着いてから江戸詰めの家臣らの挨拶をそこそこに受け終えると老中松平伊豆守の屋敷に着府の挨拶に出かけた。
国元からの土産等を持参した。
相手は七万石の大名ながら御公儀を取り仕切る老中首座である。
丁重に挨拶をすると、
「道中は無事にて何よりで御座った。扨て参議治脩殿には『明後日の五つ(江戸時間の八時)に登城し、四つ時に白書院にて上様に拝謁して頂きます。
この際、我等老中が『加賀にございます』と披露する故、平身低頭のままで居られますよう、決して面を上げたり言葉を発しませぬようお心得の程。
拝謁までの間は大広間か何処ぞでお待ち下され」
初めてではないから
治脩は早々に持して次へと向かい、予定通り熟して本郷邸に戻った。
高添兵庫や田上彦次郎ら五人の番士は、漸く開放されてお貸小屋に入った。
妻帯者には国元から書状が飛脚によって届けられていた。
兵庫にも届いていた。
差出人は小堀美乃であった。
【
兵庫様が番士としてのお役目を
如何やら途中途中の國許への報告によって状況を把握しているようであった。
無論父金左衛門が知らせて居たのである。
普通なら恋しき人からの文に直ぐにでも筆を取って返事を送るに違いないが、兵庫にはそのような思考が働かなかった。
好いているから添いたいとは思ったに違いないのだが、どちらかというと不器用で志向も一方向に行ってしまう為、今現在の事しか頭にないのであった。
明日は江戸城に着府の挨拶に行く為、駕籠周りの警護として随行するので他の者達のようにはのんびりは出来なかった。
御供番らは将軍家その他への土産や献上品を送り出してホッと一息ついていた。
翌日随行者らは明け六つ(六時)から支度を始めて六つ半過ぎに本郷を発った。
本郷通りを昌平坂学問所(湯島聖堂)、神田明神社の前を通って、
そこから大手三の門に向かい、下乗橋で一部を除いて広場に待機となった。
陸尺の担ぐ乗り物は供頭・供侍・挟み箱と草履取りに兵庫らを連れて中御門から中雀門を通って玄関に着けると、治脩公は乗物から降りて太刀を刀番に渡して、脇差のみで出迎えの御表坊主について控えの間に向かった。
この乗用所まで着けられるのは本来紀州家、尾張家、水戸家の御三家だけだったが、元禄二年(一六八九年)五代将軍綱吉の時に前田家の家格を御三家と同格としたものだった。
加州公の控えの間は大広間だがその手前で、
「喉が渇いた故お茶を所望したい」
と坊主に囁くと、
「ではこちらへ」
と心得たもので、横道に逸れて自室へと案内するのだった。
大広間ではお茶も飲めず、ゆっくり出来ないので
大広間から大廊下(松の廊下)を通って行くと白書院があった。
この後の接見の模様は、一昨日老中首座の松平伊豆守邸にて注意、説明のあった通りであった。
さて下乗門外で待機の供侍らは些か退屈で仕方なかった。
中には小石を拾って堀に投げて退屈を紛らす者も居た。
上役がそれを小声で窘めた。
番士らが横目でチラ見していたからである。
君主の帰りの待ち方も行儀作法に関わるものであったから、退屈だからと言って大声で話をしたりじゃれ合う等、家風の気品を損なうような言動は慎まねばならなかった。
乗物は駕籠であったが、念の為馬も引いて来ていた。
勿論口付は山崎幸安であった。
兵庫は下乗橋の向こう側に居る田上彦次郎と目があったがその場で目礼して離れなかった。
治脩は昼四つ過ぎに戻って来た。
参府の挨拶も無事済んで、老中方にも挨拶を終えて清々した面持ちであったようだ。
乗物が下乗橋を渡り終えると、治脩が乗物から顔を出して供頭に耳打ちをして外に出た。
「馬を引け」
と橋向こうに合図を送る。
近習たちは慌てたが幸安は少しも慌てずゆっくりと馬を引いて橋の側へとやって来た。
「早くせんか」
供頭が幸安をどやし付けたが、
「馬が興奮します故」
と幸安は涼しい顔で諭す。
「構わぬ」
治脩はそう言って北叟笑むと、轡に足を掛けて跨った。
本郷の厩で飼われている飛騨産の白馬で、上手に調教されていて大人しかった。
それにしても乗馬で御帰還とはこれまでにないことで、お付きの者達は当初慌てふためいて動揺したようだった。
これは治脩が近習に話したこととして漏れ聞いたことだが、白書院での待ち時間が長引いた所為で膝の痛みが再発しそうになった為、狭い駕籠の中で薄い座布団に窮屈に座っているのが大義であったからとのことであった。この時の手代わりの四人の陸尺は空を担いで帰ったのだが、貰う手当は同じであった。
本郷邸に戻った兵庫らは特別な用事がない限り、二十八日の月次での登城以外は邸内での警護のみであった。
警護は主に屋外で馬場や育徳園散策時の庭園警護であった。
特に用事がなかったので田上彦次郎に促されて北側にある厩に山崎幸安を訪ねたのである。
門を入ると中程に洗い場が在り、幸安は丁度白馬を洗っているところであった。
「其方は暇のようだな。こいつが済むまで待って居て呉れ」
二人は腰かけに座って待って居たが、拭き取りになると兵庫が幸安に代わって白馬の体を拭き始めた。
「上手いじゃないか」
と揶揄うと、
「揶揄わないで下さい」
そう言いながらも手早く拭き取っていった。
「大したもんだよ兵庫さん」
田上は兵庫の手際よさに感心していた。
何をやらしても器用に熟してしまう者は居るが、肝心のところが抜けているのだから面白い。
兵庫は十三、四から馬に馴染み、真心を以て世話に当たり、剣術は一つ教わって二つ三つの技を取得するなど天性の才能を現した。
だが事女子になると奥手と言えた。
他の者に比べたら何時になったらその術を会得することが出来るのだろうかとやきもきさせられそうなほど疎いのだ。
三人は自然剣術の話をした。
「山崎殿が剣を振るわれたのを見た者が居りました。瞬く間に四五人を切伏せられたと聞きました。凄いですね」
関助馬場での浪人乱入事件の事であった。
「偶々相手が弱かっただけのこと、自慢にはなりませぬ」
幸安は謙虚に答えた。
「実は逃げた浪人の落とし物を失敬した者が居りまして、その者の話ではその刀は刃渡り二尺五寸で反りは浅く重ねも薄いので切れ味も良いと見たうえで銘を見たというのです。そしたら何と長曽祢興里虎徹と刻まれていたというのですよ」
「あの長曽祢虎徹かね」
「左様あの虎徹で御座る」
兵庫には二人の会話に入れなかった。
師匠の幸安が以前乱入した六人組の浪人を相手に三人を切り倒し、残りの三人は逃げ去ったという話を聞いたことがあった。
幸安は最初に馬から降りて切りかかって来た浪人の刀を飛ばして、腹を切って倒したことを思い出していた。
あの時の刀が虎徹だったのか?
「先生虎徹とは刀鍛冶ですか?」
「そうだ、元々は越前の甲冑師であったが、戦も無くなって仕事にならなかったのだろう。壮年ながら諸国に刀鍛冶の修業に出て江戸で刀鍛冶となって十数年の間に二百振り程打ったというのだ。
作刀銘がいろいろあるようだがどれも名刀だ」
「山崎殿、拙者思うに虎徹ならば浪人風情が持てる物では御座らん。如何にして手に入れたかは不明ですが、何れにせよ山崎殿の剣技を埋もれさせておくのは勿体のう御座る。刀が良くて切れるとしてもそう易々と人を切れるものではありませぬから…」
「田上殿そうお褒め下さるな。これが分相応で御座る。そうだ兵庫、あいや兵庫殿お主に渡すものがある。待っててくれ」
そう言って貸小屋に消えると直ぐに何かを両手に持って戻って来た。
「これは何時かー」
「そうだ御前試合に誰かが振りまわしていた振棒だ。
儂が赤樫で作ったもので長さは四尺(一二〇センチ)で目方は二貫目(七・五キロ)ほどだが、肩を痛めぬよう気を付けて鍛錬することだ」
「はい先生有難うございます」
田上はこの二人の関係を羨ましく思えてならなかった。
田上にも師匠は居たがこのように師弟の絆は強くはなかった。
それが一般的と言えた。
何れも軈ては師を越して自分流儀の派を起こし、それを広めて行くものだが、恐らく兵庫にはそのような野心はないに違いなかった。 実力では既に幸安を越えているかも知れないのだが、兵庫はまだまだ幸安から多くを学ぼうとして居たのである。
だが兵庫は山崎幸安のことを殆ど知らなかった。
出身地も素性も家族、細君に子供は等々、何も知らなかった。
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