第9話 恋 文
これ以降無粋な兵庫も豆に返事を書くようになった。
決して文章は上手ではないがそれなりに恋文であった。
城下に雪が降ったと知らせを聞くと、上屋敷地内に在る氷室の話や将軍家への氷の献上について書き加えたのである。
美乃の手紙は長文であったが、兵庫のは総じて短かった。
【十月の十九日二十日は恵比須講と言って、大伝馬町、通旅篭町の商家や職人らの祭りで大変な人出で賑わって居りました。
これは別名べったら市と申しまして、浅漬けの大根を出店で購入し縄で縛った物を振り回しながらベッタリベッタリと歩くもので、若い娘御たちはキャアキャア言いながら避けて歩いて行くのです。
師匠の山崎様や下士のお仲間と繰り出して露店を覗きながら
役者を始めとして芝居の関係者らにとってはこの朔日が元旦で一年の始まりなのだそうです。面白いでしょー
それと六日より浅草蔵前の八幡宮で勧進相撲が始まります。
美乃さまもご存じの相撲ですが、大坂や京とこの江戸にもあるのです。
数代前の御前様の頃より江戸の上屋敷にもお抱え力士が居たようですよ。
人気力士と言えば先ずは雷電爲右エ門でこの力士は滅法強いと言います。
次に谷風梶之助に小野川喜三郎という所でしょうか。芝居はとも角、この相撲見物について申し上げると、残念ながら女人の入場は出来ないので一緒に見に行くことは適いませんで、残念です。序ながら何故女人を入場させないのかと言いますと、この江戸ばかりではないのでしょうが、熱狂的な力士支持者らはその支持する力士の勝ち負けで喧嘩が始まるようで女人が巻き込まれては危険ということから入場させないということらしいです。
美乃さまが江戸に来られたら案内したい所は沢山ありますのでその機会があると良いですね】
兵庫は珍しく長文を書いた。
書きたくとも書けないことが一つあった。
そのことについて美乃が返書で訊ねて来た。
【其方のご様子が手に取るように描かれていて楽しく拝読致しております。
もし分かっているようでしたら是非お教え頂きたいのですが。
来春の御帰還の予定はお決まりになりましたでしょうか、そろそろとは思いますが…】 兵庫も気には留めていた。
同僚や上役にそれとなく聞いてみるが曖昧な答えしか返ってこなかった。
その筋に問い合わせてみても同じであった。
翌十二月も半ばになって漸く帰國お
本来ならば帰國に際して供家老・供人等の選任、行列の編成や宿割り、旅費等の予算組など勘定方から道中奉行に至るまで準備に大わらわとなるところであったが、主君の体調不良の為様子見となってしまったのである。
仮に帰國が延期になったとしても 兵庫と田上彦次郎は何れにせよ居残り組とされたのであった。
随行予定の滝崎弥五郎、谷岡孫三郎に村田喜兵衛の三人は主人の回復を待つことになったが如何やら好転の兆しは見られなかった。
この田上彦次郎と兵庫を治脩公の随行から外したのには理由があった。
それは本郷邸に於ける世子斉廣の身辺警護の為であった。
「兵庫残念だったな」
山崎幸安も居残りとなったがこちらは独り身の気安さ、というより浅草寺の茶屋の女将の登与と、更に二年逢瀬が楽しめたのである。
美乃がどれほど待ち望んでいたであろう兵庫の帰着が先送りされたのである。
予定通り帰着することが出来たなら、直ぐにでも結ばれたものを、何の因果か悪戯か知らないが、美乃にとっては切り裂かれる思いであった。
三月になって國元から雪氷が届いたが、その保管については村田喜兵衛が頭となって氷室に貯蔵したのである。
無論それらは将軍家への献上氷だが、一部は御冷やしの間という客間の冷房に供されたり御殿に於ける食物保存に使われていた。
三月半ば、家老の前田織江は一向に回復しない主君の病状を危惧して、四月二日発駕予定のお
この時の心情を美乃への書状に
【御前の御容態は
邸内に在ります育徳園の桜の花も既に大半が葉桜となって参りました。
其方はこれからが見どころでしょうが、美乃様と一緒に見られないのが残念でなりません。此処に在ります
これを飛脚便にて送った。
一通七十文(約千六百円)で金澤まで届くのだから安いものであった。
滝崎弥五郎と谷岡孫三郎は中屋敷の警護に移った。
領主不在となった上屋敷での兵庫らは特に役目も無かったが、家老からの指示で奥向き、特に
建物の東側に番士小屋があり、足軽が数名詰めていた。
中と外を田上彦次郎や他の番士と共に交代で警備したのである。
馬の世話役の山崎幸安は北側に在る厩に配属され、一介の世話役ではあるが上級家臣の乗る馬の世話係として黒毛と白馬の二匹を担当していた。
田上彦次郎はというと東御居宅の警護の他に江戸詰家臣らに板張りの貸小屋で剣術の稽古をつけていたのである。
この二人が比較的暇な時を見計らって厩に出向いた。
南側の入り口から中を覗くと、幸安は洗い場で茶色の馬を洗っているところだった。
「先生の馬ですか?」
「違うよ」
と否定するも手を休めなかった。
「無礼な奴だ。この馬の世話役は誰ですか」
兵庫は珍しく怒って見せる。
すると奥から此方を窺っていた数人の男たちが近づいてくると、
「おい山崎怠けてるんじゃねえぞ。まだやるこたぁあるんだからな」
と偉そうな口を利くもので、
「これはお主の係か」
と兵庫は茶色の馬を差して問うと、
「見れば其方さんもまだ来たばかりのようで此処での流儀をご存じないものと見えますんでお断りしておきますが、例え國元で老練だったとしても、此処はここの流儀がありますんで平たく言えば新米ってことになるんですよ。で、先輩の物も手伝うのが当然ということなんです」
「何と無礼な。先生よろしいでしょうか」
兵庫の目つきが殺気立っていた。
田上彦次郎は何処かで拾ってきたらしい小枝を手に持ってにやにやして見ていた。
幸安は苦笑いして兵庫を止めた。
「邪魔だ、サッサと帰れ」
若い世話係が馬房の塞ぎ棒を持って威嚇するので、田上は兵庫に声を掛けると、持っていた小枝を空中に放り投げた。
瞬間兵庫は田上の意図を理解して、落下地点手前で小枝を一太刀二太刀と刻んで見せ、素早く鞘に収めた。
小枝の一本は地面に刺さっていた。
田上が大声で、
「お見事御見事」
と言って手を叩いて笑った。
呆気に取られた若い世話係の手から塞ぎ棒を取り上げると、馬房に掛けに行った。
「此方の方々は何方さんで?」
若手の兄貴分も恐れをなして幸安に訊ねる。
「御前の特別警護の方々で、一昨年の御前試合の勝者の二人だよ」
騒ぎにしゃしゃり出て来た頭たちも少し離れた所から様子を窺っていた。
「で山崎さんが先生と言われる訳は?」
兄貴分が恐る恐る訊くと、待ってましたとばかりに田上が前に出て喋る。
「こちらこそ我らが剣術の師匠なり」
田上はその場に立ち尽くしている若い世話係らを見て不気味な笑いを見せた。
「うへぇー山崎様。これまでの御無礼をどうかお許し下さい」
椿という世話係はこれまでの態度とは打って変わって、地面に跪くと頻りに詫びを入れるのだった。
地面は水で濡れて冷たかったがそんなことを気にする余裕などなかったのだ。
舎弟たちも慌てて兄弟子に倣って跪いた。
中には濡れ場を避けるように跪くちゃっかり屋も居た。
「どうかお許し下さい」
一同は声を揃えて謝った。
「許すも許さないもないでしょう。立ち上がって下され」
男達は安堵したように立ち上がると洗い場で汚れを落とすのだった。
椿という男は治脩公在府の折には、必ず口付として付いたものだったが、この一年は山崎の為に外されたとして快く思っていなかったのである。
そこで逆恨みから
それは傍から見れば単純に弱者の身の守り方としか見えなかったが、当人はそれも修練の一つとして受け止めていたのである。
この日以降椿らが山崎幸安に無理難題を押し付けることは無くなった。
寧ろ幸安の担当する二匹の馬の世話を買って出るほどに変わったのである。
八月十五日は十五夜である。
御膳奉行より勝手方料理方に各部署に月見団子を配り置くよう飾り付けられたとの事前の触れがあり、当日早朝より準備して七つ半には各部署の縁側に飾り付け月見を楽しんだのである。
この時幸安は
一方兵庫と田上は縁台に座って月を眺めながら話をしていた。
「兵庫殿、何故我らは戻れないことになったのかお解りかな」
「田上様はお解りですか」
「多分噂が間違いなければ次の帰国の為ではないかと思うのだ」
《はて何のことやら》
田上の言うことが理解できなかった。
次の帰参ならその前に参府があり、ならば今回の帰國に随行してなければならないのだが…。
「今一つ理解できませぬが、どう言うことでしょうか」
「そうかご免ご免」
田上は茶を飲みながらこれは噂だがと断って話し出した。
「周知の通りどうも御前の御体の具合が良ろしくないではないか。万が一回復されなかったならば隠居も有り得るのではないか…」
「有得ないことではありませんね。ですが我らを残す理由になるのでしょうか」
「今我らは何をしているかね」
「斉廣様の警護…えぇまさか警護の為ですか」
「そうそのまさかだが、更に掘り下げて考えると……」
田上は誰かに聞かれては居まいかと辺りに注意を向ける。
「もし斉廣様が代替わりしたら、襲封の認可によって國許に帰ることになるだろう。
帰るというより初めて行くのだから初入國と言うべきだろう。その際の警護は一層堅固でなければならないだろう。その為に手前やお主に山崎殿を残したのだと考えられまいか」
もし治脩公の病が引退するに丁度良いタイミングと言えそうだった。
そう言えば美乃からの手紙に、
【来年の十五夜の月見は其々の空にて見るやも知れませぬが、九月の十三夜にはうち揃いて眺められるよう祈りたいと思います…】とあった。
これを読んだとき美乃は帰着を一年間違えていると思ったものだが、田上の話が本当だとすると、金澤ではそれを裏付けるような騒ぎになっているのだと確信するのだった。
水面下の動きは下層の者たちには分からなかった。上層部の者達があたふたとして居ることなど知る由もない。
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