第10話 神田御用祭
扨て美乃の便りにあった十三夜がきた。
十五夜を眺めた以上は十三夜も見るものとされた。
何方かを欠いてもそれを片観月といったのである。
この頃になると神田界隈は祭りの準備が各所で見られた。
それは天王祭同様の御用祭で神田明神祭であった。
丑・卯・巳・未・酉・亥といった隔年に行われるので今年はその開催年に当たった。
田上彦次郎はとも角として、兵庫は比較的暇であった。
そこで今まで以上に自由になった山崎幸安に神田祭の話をすると、既に登与達を誘って当日見に行く話になっているというのである。
二人は前日、上役から許可を貰っていたので朝早くに出かけた。
迎えに行ったのは何時か千沙から聞いて居た田原町の登与達が住む裏店であった。
「待ってたわ、中に入って」
登与は祭り半纏の姿で顔を出す。
衿には神田佐久馬町四丁目とあった。
藍染の半纏で包まれた色白でぽっちゃりした体が妙に色っぽく見えた。
「幸さん何笑ってるのさ」
「その格好が妙に色っぽいものでつい…」
「つい何さ。いけ好かないね」
互いに知り尽くして居るので考えていることは察しがついた。
千沙も同じ格好だがこちらは細身で熟していなかった。
「さぁお二人の分も借りといたから着替えて下さいな」
奥の六畳で裸になって着替えるといなせな若い衆に早変わりしたのだが、
「そのままの髷じゃ可笑しいから」と登与はふたりを板の間に座らせると元結を緩めて少し
兵庫は若い所為か髪も多いので容易かったが、幸安は何とか形造ることが出来た。
「所でこの半纏はどうしたんだい」
「かっぱらって来たんじゃないよ。いえね、佐久馬町に叔父が住んで居て町の世話役をしているの。前から観に来いと言われてたんだけど忙しくて行かれなくて…でも行きたいと思った時には一年おきで行われない年だったりして…そしたら幸さんが見に行こうって言うもんで、どうせならついて回った方が御城の中までは入れるから面白いと思って叔父に頼んで借りたの」
「そうかい、どう似合うかな」
「とても
千沙は何方かというと兵庫に関心があったが、登与の誉め言葉に頷くのであった。
四人は不要なものは登与の家に置いて手拭いを首に巻いて出かけた。
この日は明け七つ(四時)頃より昌平坂学問所(湯島聖堂)の先に在る桜の馬場に各町の山車が集まり、一番組の大伝馬町(一丁目・二丁目・六丁目、本町二丁目・三丁目に堀留町一丁目)から三十六番組松田町(鍛冶町二丁目)が勢揃いした。
この中十一番組豊島町・金澤町と十二番岩井町の間に二基の神輿が入る。
先ずは一之宮の行列で長柄槍・社家騎馬・太鼓・獅子頭二つに田楽・社家騎馬・御鉾・社家騎馬・神馬・社家騎馬・御太刀・社家騎馬・御太刀・社家騎馬・長柄槍に伶人(雅楽を演奏する人)・御幣・素袍着・大拍子に神輿が続き、神几・社家騎馬と続いた。
その次が二之宮の行列が続く。
先頭には一本歯の下駄を履いた天狗、続いて御幣・素袍着に大拍子、そして御神輿と続いて行く。
この後十二番組の岩井町の菊人形が続いたのである。
佐久馬町三丁目四丁目は十五番目で浮世絵に見るような張り子の
四人は田原町を出ると菊川橋を渡って新堀沿いに歩き、元鳥越町から三味線堀に出て神田川の新橋に向って行くと、其処から筋違い御門が見えて山車の行列が望めたのである。
如何やらそこに差し掛かっているのは二十番目の永富町の竜神であった。
それらの横を抜けながら佐久馬町の山車に追いついたのは三河町三丁目の丁字路であった。
丁度その時休憩となったので登与は叔父清五郎に声を掛けた。
「おぅお登与来たかい。お客人は?あれはどうした?」
「あれは帰りに渡すわ」
如何やら一緒に来た若いしがまるで町人なので分からなかったとみえる。
「この方たちがそうですよ」
登与は其処で改めて紹介した。
「どうも失礼しやした。あっしはお登与の父親の弟佐久馬町の清五郎と申します。登与や千沙の危ない所をお助け下さったそうで有難く存じます。伺いますに山崎様、高添様は加賀さまの御家中でも指折りの剣士とのこと、そのような方々に身内の者を御守り頂いて居るなんとも有難いことです」
大袈裟に聞こえるが、この男にとっては二人の存在というより山崎幸安の存在は、己の商売上大いに役立っていたのである。
その話は後にして、五人が四方山話をしているところに世話役に連絡係が招集に来た。
「そのままいらして下さいよ」
清五郎が戻って来るまで行列は動かなかった。
四人が固まっているところに、
「お登与さんじゃあないか。こんな所で会うなんて奇遇だね」
南町番所の定廻り同心平岡吉右衛門が小者と一緒に通りかかって声を掛けた。
偶然を装っているが果たして如何やら…。
「あらぁ旦那今日は何です?」
「御用祭だから些細な
《白々しい》とでも言いたげに後ろを向いて舌を出して見せた。
「お登与さんよ、さっき話してた世話人は口入れ屋の清五郎さんかい」
「そうですよ。それが何か」
如何やら探りを入れてるようなので、お登与は明け透けに嫌な顔をして見せると、
「やけに親しそうに話して居たものでちょいと気になってね」
と笑って誤魔化すが、その眼光は嫌らしく鋭く光って見えた。
「清五郎は私の叔父貴なの。幸さん達が祭りを見たいというもので入れて貰ったんです」
「あれっ、あんたらは加賀さまのご家来衆ー町人髷で分からなかった…」
平岡吉右衛門は二人が居ることを知ると、そそくさと立ち去ったのである。
清五郎が
特に大名の参勤交代時や江戸城に登城する場合には行列を整える為、日雇い、臨時雇いの人足で賄ったのである。
金澤前田家で言う奉公人取持人である。
城下に於いて奉公人取持ち人は四十人程居て大身向け奉公人取持人が数名、他乳母奉公人取持ちが八名程居て、それらは取持人組合を結成し連帯義務を負った。
組合員は営業権の証として焼印札を持っていた。
江戸での人材斡旋は番組人宿といって武家奉公人の需要が多かったので人宿は寳永年間に三十名ずつ十三の組合に分けて、その組合内で欠落を生じた場合は雇い主に対して責務を果たしたのであった。
だがそれでも需要を満たすには足りなかったので、私的斡旋業の口入れ屋が存在したのである。
これらの中には雇い主から給金を貰って履行せず姿を晦ます悪徳業者が居たり、
佐久馬町の登与の叔父清五郎は可なりの人数を抱えていたようで、専ら武家奉公人を斡旋しているようだった。
あらぬ噂の絶えない口入れ屋だが、
清五郎らが持ち場に戻ると漸く行列が動き出した。
行列は内堀沿いに右に曲がると、神田橋御門の前を通って本多伊豫守の屋敷に沿って曲がった。
この辺り一帯は武家屋敷で、山車行列の経路上には見物の為の桟敷が各所に設えられて、その家の御隠居らが孫と共に通り過ぎる山車を見て楽しんでいた。
中には桟敷から山車に向けて粒銀を包んだ御捻りを投げ込んだりする者も居て、町人も武家も御用祭に浮かれていたのである。
行列の先頭は
俎板橋を渡った正面にある九段坂を上り切った先に田安門が在るのだが、大八車などの荷車は上ることが出来ない為隣り筋の中坂から上がった位で、況してや高さ重量のある山車は上がれる筈もなく、迂回したものだった。
この中坂を上り切って廣小路に出ると表面に田安御門が見えるが、此処で昼休憩を取った。
この廣小路の右横に全ての山車が収まる程の空き地があり、各組町内会のかみさんらが握飯に沢庵や新香等を用意して待って居たのである。
お登与は区割りされた仮小屋の一角に、姉さん被りに揃いの半纏を羽織って前掛けをつけた佐久馬町の区画を見つけると飛び込んで行き、四人分の食べ物を貰った。
「お登与さん、足りなきゃ遠慮なく取りにおいでよ」
真希という大工のかみさんで威勢のいい女であった。
四人は空地を出て直ぐの廣小路に座り込んで話し込んでいた。
側には同じ半纏を着た若いしや娘が居て、時折肯いたり笑ったりしていた。
それらのお目当てが千沙や兵庫であったに違いなかった。 そこへ真希ら賄いのかみさんらが余ったからと握り飯や漬物にお茶を持ってやって来た。
「此方さんいい男だね。お登与さんのこれ」
と指を立てて訊く。
「そんなんじゃないわよ」
登与は否定したが顔が正直に答えていた。
「まぁいいけどさ。で其方のお若い方名前は何て言うの」
今度は兵庫に関心を向ける。
「ひょうご…ろうです」
兵庫は兵五郎と言い直すと、
「ひょうちゃんかい」とまるで子ども扱いであった。
すると横にいた若いしが千沙に声を掛ける。
「娘さんの名前は?」
「千沙です」
「名前も良いが、あんたこの辺りでは見かけない
と毒づくと、
「この間までおしめしてた餓鬼が生言うんじゃないよ」
とやり返され、回りの者達に爆笑が起こった。
愈々曲輪内に入るのだが、動き出す前に各世話役から注意事項を申し渡された。
田安門内は将軍様の御住居で、必要以上に大声を挙げたり騒いだりしないことと再度注意があった。
神輿などの掛け声は特に規制されなかったが、山車の行列は静かに進んだ。
その田安門を入ると田安家と清水家の間を通って本丸御殿の見える掘沿いを通って竹橋へと向かうのである。
この田安徳川家に清水徳川家とこれから向かう一橋徳川家は徳川御三卿と言って将軍に継嗣がない時にこの御三家のうちから後嗣を出したのである。
また御用祭或いは天下祭として江戸城曲輪内に行列を入れたのも家康が天下分け目の戦いに臨むに当たり、神田明神にて戦勝祈願をして勝ったことから江戸の拡張の際に柴崎村から鬼門に当たる現在の地に江戸の総鎮守として移転させたのであった。
両屋敷地から本丸が望める堀端に回り込むと馬場に植溜りがあり、広場があった。
この時町役人や世話役たちは、堀向こうの本丸に向かって長いこと黙礼を行った。
何故ならばその先大奥の庭先に将軍家斉公が外國使節より献上された望遠鏡で行列を眺めていたのである。
山車などの行列は普通に通過して行ったが、二基の神輿が差し掛かると、一之宮と二之宮の神輿の担ぎ手らが神輿を揉んで空中に放り投げるなど派手な担ぎ方を見せるのだった。
望遠鏡越しに見ている家斉や御台所は普段目にすること無い城内での催しに大いにご満悦であったようだ。
それらは其処に至るまでの押えた担ぎ方のうっ憤を晴らすかのように何度も何度も揉んで空中に放り投げた。
世話役らの合図で肩に納めると竹橋御門へと向かった。
神輿の後には山車の列が暫くの間続いていた。
先頭は竹橋御門を出て一橋家を過ぎて酒井雅樂守の屋敷沿いに止ると、二基の神輿のみ屋敷内に入った。
ここは神田明神の旧地で、神官を始めとした関係者一同が入って供え物をし御幣を奉幣したのである。
その間山車は止まって待って居た。
「千沙疲れてないか」
登与は娘を気遣っていた。
何しろ自身も初めてだが、千沙をこのような祭りに参加させたのは初めてのことなので
気になったのである。
千沙にとっては楽しい一日と言えた。
毎日水茶屋での客相手も悪くはなかったが、普段の景色とは違った見慣れない風景を見ながら大勢で歩くというのは楽しいものであった。況してや兵庫がずっと傍に居て話も出来たのが良かった。
一橋家での神事は以外と時間がかかった。お天道さまが御城の西側に隠れようとしていた。直ぐ先に在る大手門やその先にある和田倉門辺りの白壁も夕日で赤く染まり出していたのである。
陽が沈んで来ると動いて居ない為、薄ら寒くなってきた。
行列が動いて常盤橋御門から出た頃には薄暗くなって神輿を覗いて解散となった。
神輿は本町通りを鉄炮町・大伝馬町から堀留町、小網町・小舟町から瀬戸物町・伊勢町、小田原町河岸、日本橋から京橋へと渡り本材木町から日本橋を通って室町から昌平橋から学問所脇の坂を上がって本社に帰還するのである。
神輿が堀留町辺りを渡御している頃には佐久馬町の山車は神酒所脇にある御仮屋に納められ、その脇に筵を敷いた簡単な宴席が用意されていた。
「何だよ登与帰るのか、それはねえだろう。でいち御客人に失礼だろうに」
と頻りに引き留めるので、
「清五郎さん申し訳ないがこれはわしらの都合でして、刻限まで屋敷に戻らねばならぬのです。どうかご勘弁願いたい」
「そうですかい、ならお登与達は良いだろう」
「ご免叔父さん、お二人の道具を家に与ってるから一緒に帰るわ」
「そうかいなら仕方ねえ。また遊びに来て下さいな」
四人は一堂に挨拶して田原町へと戻った。戸を開けると登与は千沙に昨日茶屋に置いて来たという忘れ物を取りに行って来て呉れと頼んだ。
兵庫が付いて行くことになり、二人は急いで着替えると観音様へと向かった。
門限には未だ半時程あるので戻ったら直ぐに屋敷に向かえば間に合うので慌てなくとも余裕であった。
「大事なものなの?」
「えぇそうみたい」
と曖昧な返答である。
千沙は茶屋の中から風呂敷に包まれたものを持ち出してきた。
「持とうか」と言うと、
「うぅんー」と首を横に振った。
形からすると巻物のようにも見えるが、客からでも頂いたのであろう。
何れにせよ関係ないことであった。
腰障子をあけようとすると心張棒が掛かっていたので声を掛ける。
「お義母さん帰りました」
「ちょっと待っておくれ」
心張棒の外れる音と共に戸が開いて登与が顔を出した。
「ご苦労様。兵庫さんご免なさいね。上がって下さいな」
寒くなって来たので櫓炬燵に足を入れるとその奥に半纏や晒が散らかって置いてあるのが見えた。
千沙は義母の綺麗好きなのは分かって居たので違和感を覚えたが直ぐに察したのである。その点兵庫は何も感じなかった。
鈍感というより疎いというのが正しい。
少し温まった所で幸安と兵庫は登与の家を出た。
門限まで四半時ちょっとであった。二人は菊谷橋を渡るとそのまま下谷廣徳寺に向かい山下へと出て、池之端から坂道を登って作事門から戻った。暮れ六つギリギリであった。
別れ際になって兵庫はあることに気が付いた。
幸安が風呂敷に包まれた棒状の物を手にして居てそれで肩を叩いていたのである。
それは千沙と茶屋に取りに行った忘れ物であった。
中身は分からないが肩口をポンポンと叩いてる辺り、固いものではなさそうにも見える。
実はこれ三日ほど前に叔父の清五郎が四人分の半纏など祭りの衣装と共に山崎幸安に渡すようにと持って来たものだった。
部屋で開けてみると巻物で、拡げて見ると山水画の掛け軸であったが、それと共に役者絵や美人画に大川に架かる橋を行き交う人々と共に薄っすらと雪を頂いた不二の山が描かれた風景画の三点が一緒に巻かれて出てきた。
三枚の絵は所謂浮世絵で何れも肉筆画で摺り版ではなかった。
雅号は順番に鈴木晴信、喜多川歌麿、歌川廣重とあり、其々に落款が押されてあったものの改印は無かった。
こうした肉筆画が出回るのは珍しいことで、大概は木版刷りされたものであった。
それだけに本物であれば価値のあるものと言えるのだが、如何なる理由でこのようなものを贈ったのであろうか。
清五郎は口入れ屋である。
前田家に奉公に上がっている者は多かった。元々は年季方向が多かったが次第に一年、半年で替わる出替り奉公が増えた。
特に臨時の日雇い人夫は変動があり、必要な時にだけ雇う為、こうした口入れ屋が役に立ったのである。
相場というものがあったが、誰だって働き易い所、少しでも手当の良い所に行きたがるものであったから、こうした口入れ屋に委ねたものだった。
それが良心的であれば良いが、中には阿漕な業者も居たのである。
この時代地方から農閑期に出稼ぎに来るの者も多く居たが、安永年間(一七七二年~)頃から公儀の規制が掛かり、村役人と領主の許可を得ない限り、自由勝手には出稼ぎも出来なくなったのである。
許可状を持たない者は無宿者として扱われて、最悪は佐渡金山などに送られて人足として働かされたのであった。
その法を掻い潜って暗躍したのが一部の口入れ屋であった。
それらの実情を探索したのが南町番所(奉行所)の平岡定町廻り同心らである。
この平岡吉右衛門が浅草寺境内に在る登与の茶屋に顔を出すようになったのは旗本らの千沙に対する狼藉事件に偶々遭遇したことによるのだが、神田祭で其処の女将と別件で追っている口入れ屋清五郎が叔父・姪の仲であることを知ると、茶店への出入りが一層頻繁になった。
時に平岡は、
「清五郎さんは此方にはみえるのかね」
と、明け透けに訊くこともあった。
そんな時登与は、
「あたしらと違って商いというより慈善事業が忙しいらしく、滅多に来やしませんよ」
「何だい其の慈善事業って?」
「武家奉公も年季奉公なら未だ良いですよ。行列を華やかに見せる為に雇われる日雇い人足なんかは用が済めばそれでお仕舞い。お手当頂いても飲む打つ買うで懐はすっからかん。おまんまにも有り付けない有様ですよ。
そりゃ博奕をしなけりゃいいだろうってことでしょうが、その楽しみすら取り上げられたら生きちゃいられないでしょう。
それは自業自得とおっしゃるかもしれませんが、こうした人たちが野垂れ死んだり、悪いことに走ったりしたらこの世の中最悪ですよ。そうなってはいけないからと、叔父はそうした連中にぶっ壊れ長屋ですが住ませて食事の世話までしてるんです。その上土木作業などを請け負って仕事に就かせ、楽しみがなくちゃ気の毒とそれなりにお手当を上げてるんですよ。ご都合主義のお役所とは違うんですよ。あら余計なことまでご免なさい」
登与は言いたいことを言ってすっきりしたようで、客に笑顔を振りまいていた。
平岡吉右衛門は雷門を出ると上野方面へと足を向けた。
「旦那あのお登与という女偉そうなことを言ってましたが本当ですかね」
小者は足早に歩く吉右衛門を追いながらそう言うと、
「いや多分間違いねえんだが、依頼主から貰う代金と使用人に払う手当の差額が問題なのさ。奴さんらはあの女将が言ってたように、人足らをぼろ長屋に押し込んで御屋敷の手入れ等の力仕事を請け負って、その代金の上前を撥ねているんだが、曖昧な部分が多くてよ簡単には取り締まれないのが現状なのよ。
そりゃ阿漕なものは放っちゃおけないが、清五郎のように確かに表向き人助けだと、そう簡単には取り締まることが出来ないんだ」
二人は途中から御家人や大名屋敷のある所に入ると三味線堀から向柳原を神田川沿いに佐久馬町方面に向かって行った。
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