第16話 金澤へ戻る

 家老の前田織江に呼び出されて兵庫は上屋敷に行った。

「高添兵庫、肥前守(治脩)様がお亡くなりになられて其の方のお役目は正直此処には無い。加賀守(斉廣)様は三年前の騒動が頭に残って居るらしく此処での勤めには承諾を頂けぬ故、國許で番士として勤めて貰うことになった。住まいは手配して置いたので妻女と共に行くがいい」

 兵庫はその足で厩に師匠の幸安を訪ねた。

「そうか寂しくなるがお前や細君にとってはその方が良かろう。儂も登与を連れて帰りたいがそれは叶わぬこと。何れまた会えるだろう。達者でな」

 稽古を怠るなとも付け加えるのだった。



「美乃江戸詰めを解かれたよ。一介の番士だが辛抱してくれ」

「何をおっしゃいます。例え暮らしが厳しくなりましょうと故郷に戻れるんですもの…」

 美乃はひと際賑やかな江戸よりも生まれ育った金澤での暮らしの方が良かったのである。

 兵庫は益三を部屋に呼ぶと仔細を話した。そして一緒に戻ろうと言うと、困惑した表情で意外なことを打ち明けたのであった。

 それはお女中の一人と恋仲になって離れる訳にはいかないと言うのだ。

兵庫と美乃は吃驚しながらも喜んだ。

「お相手は何方?」

「おつ祢さんです」

 つ祢は中屋敷の三の間の頭だが下級お女中であった。

 善三が五十二歳でつ祢が三十九歳というから一回りは違うが、人を好きになると言うのは歳に関係ないようである。

「爺やはどうするつもりなの」

 兵庫は出来れば善三を連れて帰りたかったのだが、思わぬ展開となった。

「何処かのお屋敷に雇って貰おうと思ってますが…」

 元は足軽であったから、やろうと思えば何でもできるに違いないが、手当てが年三両ほどで、つ祢が頭なので切り米八石と十両の三人扶持位だから暮らせないこともないが、裏長屋を借りるとしたら棟割りで四畳半一間が三百文(六千九百円)からで割長屋の六畳に四畳半の二階が付いて八百文(一万八千三百円)からだと食費や衣服や油や調味料などと勘定してみると汲々きゅうきゅうの生活になるに違いなかった。

「ねえ爺や四人で金澤に行こうか」

 美乃の言葉に兵庫も驚いたが善三はそれ以上に魂消たまげた様だった。

「お嬢様有難い話だが其方が大変なことになりますじゃろ」

「いや大丈夫だよ爺。おつ祢さんに家事をして貰えばいいよ。美乃は織りものをして家計の足しにしたいと言うので丁度いい。

どうだろう、後はおつ祢さん次第だが…」

 話はトントンと決まった。

つ祢は御奉公を辞して益三と共に金澤に行く決心をしたのである。

 益三とつ祢の思いは本物であった。

美乃にとっては奉公人を二人雇うと言うのは大変には違いなかったが、奉公人という感じではなく益三は正に家族であったのだ。

その益三が選んだ相手なので矢張り家族と言えた。


 所帯を持った折に揃えた家具は処分して、改めて揃えることにして金澤へと旅立った。

 美乃は母伊都乃に出発前日に手紙を出して知らせた。

 


 三月下旬ともなると日ごとに暖かくなっていくのが感じられた。

美乃も兵庫も益三にしても江戸に向かった道を戻って居るのだが、つ祢にしたら山道も峠も初めて通る道であった。


 高崎を過ぎて松井田の山道を登って行くと刎石はねいし辺りで人相の悪い連中が現れた。

「兄ちゃんたち篭に乗って行きなよ安くしとくから」

「一人当たり一両に負けとくぜ。爺さんくたばってるじゃねえか、乗んなよ」

 見れば駕籠が二台しかない。

「駕籠屋のおっさんその駕籠に四人乗せると言うのかい。まあいいが、物は相談だが…」

 と兄貴分らしい男に声を潜めて話しかける。

「いやね、安中でたらふく食べたもので持ち合わせがなくなってしまったのよ。来年またここを通るからその時まで篭代を貸してくれないか」

 にっこり笑って話すと、その男みるみる顔を赤くして起こり出した。

「この若造嘗めやがって只じゃ置かねぇ。やい手前ら身ぐるみ脱いで置いて行けば命だけは助けてやらぁ」

 その男が長どすを抜くと、他の連中も匕首あいくちを抜いて脅しに掛かる。

「爺や二人を頼む」

「承知しやした、存分に」

 益三は道中刀を抜いて雲助共に刃を向けた。兵庫はゆっくりと脇差の袋の紐を解くと鍔に指を掛けて鞘を少し押し出した。

ゆっくりと男らの下側に回り込んだ。

 上に位置した男はにやり笑うと長どすを振りかぶったその瞬間兵庫は体を沈めてその男の臑を払った。

「わぁー」と悲鳴を上げて斜面を転げ落ちて行く。

 驚いた仲間がめちゃくちゃに振り回すその手首を撫でるように切るとしゃがみ込んで大声で泣き叫ぶのだった。

四人程匕首やどすを捨てて逃げて行くが一人逃げ遅れた男の肩に鋒打ちを呉れると、兵庫を見ながら恐怖のあまり小水を漏らした。

「仲間を助けてやりなさい。今度会ったら命の保証は無いと思え。分かったか」

 男は怯えた顔で下の方に転がり落ちた男を助けに駆け下りて行った。

「さぁ参ろう」

 兵庫は血のりを拭うと鞘に収めて涼しい顔で歩き始めた。

兵庫は決して相手を切り殺さなかった。

二度と悪さをしないように懲らしめたのである。

 美乃も益三も兵庫の立ち回りを初めて見たので、その剣さばきに驚いた。

普段はひょうひょうとして居て、それ程活発な動きを見せないのに剣を振るった時の身の熟し方は信じられない素早さであった。

 峠の道をかなり上がった所というより頂上に熊野権現があり、階段を上がってお詣りすることにした。

「美乃様、つ祢、此処は上野國と信濃の國の境に位置してまして、この階段の半分から右が上州で左半分が信州なんです。

上がる時は右から、降りるときは左にしましょうか…」

 益三は先になって上がって行った。

拝礼して階段に向かう右手に大きな科の木が在った。樹齢五百年ぐらいの古木であった。

「ねえ益三さん降りるときは向って右側でなきゃいけないの」とつ祢が訊く。

「上る時は上州から来たので右を上がり、下りる時は信州に向かうので反対側を下りると言ったまでだわ。別に決まりはないで」

「な~んだ、そうなの」

 二人の遣り取りに兵庫も美乃も笑いながら聞いて居た。

「あの茶屋で力餅を食べましょう」

 益三は縁台に座ると、

「おろし醤油に胡桃に餡か、好きなものを食べよう」

 一尺ばかりの真竹を半分に割ってその中に力餅が十個ほど入れられて出てきた。

「美味しい。此れもお食べよ」

 つ祢は胡桃を食べている益三におろし醤油の力餅も勧めた。

「美味いね、おつ祢さん胡桃も美味いで食べてごらん」

「良かったらこれも食べて」

 と美乃は餡も勧めた。

「はい頂きます」

 つ祢は遠慮なく頬張った。

 腹に詰め終わると少し休んで峠の道を下った。

 この日は軽井沢の旅籠に泊まり、追分から下街道を小諸、海野と越えて上田の宿に泊まった。

 江戸を発って十二日目に青海に宿泊した。

愈々難所の親不知だが、翌朝海が荒れているので濱道は通れないと言われ、已む無く山道を大平峠へと抜けて下り、川沿いに歩いて境へと出た。

海岸線の約倍近い距離を歩いたことになるが、皆は意外と元気で疲れを見せなかった。

 三日市の手前の入善で旅装を解くと、翌日は滑川を過ぎた辺りから雨脚が強くなったので早めに水橋に泊って休んだ。


 翌朝川の流れを見ると穏やかであったので、岩瀬との間の常願寺川に架かる舟の橋を其々連れ合いが手を取って板の上を歩く。

美乃の手は兵庫が引き、つ祢の手を益三が引くという具合にゆっくりと渡って行くのだが如何せん水の上である。時には揺れることもあるのでつ祢は益三の腕にしがみ付くようにしてそろりそろりと渡って行った。

 舟橋はその先の神通川にも架かっていて、此処でもつ祢は怖がるふりなのかはしゃいでいるのか益三に甘えるようにしがみ付いていた。

 この二人、傍から見ればじゃれ合う年齢ではないが、他人の目を憚ることなく甘えるつ祢とそれを恥ずかしがらず受け止める益三の姿は何とも微笑ましく思えてならなかった。

 次は高岡に泊まって、最後の泊りは津幡にしたのである。

金澤は目の前だが、態々その手前に宿泊するのには訳があった。

 母伊都乃が迎えに来てくれると言うのである。

津幡には夕方には着いた。

 風呂に入ってゆっくりしていると、

「お見えになりました」

 と仲居が声を掛けた。

 兵庫が先に降りて行くと、伊都乃と玉井が玄関口で待っていた。

「母上お上がり下さい。さぁ玉井さんも」

 兵庫は帳場に人数の追加を伝えた。

「実はお食事の支度は大丈夫なんですが、お部屋が一杯でして…」

 番頭が申し訳なさそうに話すと、

「では大きい方に四人が寝て、小さい方に二人としましょう」

 美乃は番頭と女中にそう告げて部屋に戻った。

「道中無事で何よりでした」

「いいえ母上、上州、信州の國境で追剥に遭いましたの」

 美乃は熊野権現手前の刎石山中での出来事を事細かく話して聞かせた。

「兵庫様は正に剣術の達人と言えますわ」

 つ祢は話好きと見えて初めて会った大身の女房に臆することなく話を繋ぐ。

「それは何よりでした」

 伊都乃はやや苦笑気味に応じた。

「美乃に婿殿今後のことで話が…」

 ならばと隣りの小部屋に移った。

「お貸しくださった役宅は西丁口御門から西外惣構(鞍月川)の方に向かって行き、桶町の先で東來寺の丁度上辺りに在る二百坪ほどの敷地の屋敷です。部屋数も十部屋ほどだから先ず先ずですよ」

 その辺りは城の北側に位置し町屋と混在になっていた。

「それならうちの傍ではありませぬか。良かったわ」

「滅多に来てはなりませぬ」

「母上の意地悪」

「頼られては困るということ」

 実のところ、伊都乃はホッとして居たのである。

肥後守(治脩)様の護衛では八十石の役料が貰えたが、単なる番士となってその分は無くなったが、俸禄が五十石になったのだ。

奉公人としての益三とつ祢に十両を与えると残りは四十両ばかりであった。

 美乃はこれまでの蓄えから機織り機を買ったりして、生地を織るつもりでいた。

それを呉服商に売って家計の足しになるように考えていたのである。



 翌日津幡の旅籠を発って、金澤の城下に入った。

寛政十二年に治脩公に随行して此の地を発ってから実に十年の歳月が流れていた。

その間に妻美乃と一緒になって江戸でのお役目も解かれて戻って来たのであった。

 浅野川大橋を渡って道筋に従って右に折れ、西丁口御門通りを越えて桶町の端を左に入って行った所左側にその役宅はあった。

 赤茶色の土塀に囲まれたその家の棟門が口を開けて新たなる主人たちを待って居た。

要は小堀家の足軽が伊都乃の言いつけ通り待っていただけの話であった。

「さぁお入りなさい。あなた達の住まいよ」

 家具などの調度品は伊都乃が揃えて呉れたものだった。

「どう気にいった?」

「はい勿体ないぐらいです」

 兵庫も美乃も家の作りを隈なく見た。

玄関の左脇に控えの間があり、右手には廊下から入る続きの間があり、其処を益三、つ祢に使わせることにした。

その先左に土間、次に台所に料理の間でそのまた先が湯屋であった。

 玄関に戻って右に二間続きの部屋が二つありその先が夫婦の寝所でその先は美乃の部屋と角に兵庫の書斎とした。

厠は二か所あり、土間を出た所に井戸があって蔵と小屋が北側に在った。

「母上有難う御座います」

「父上と前田(織江)様のお陰よ。あなた達の為に上役に頼んで手配してくれたの、感謝することね」

「はい」

 二人は声を揃えて気持ち良く返事をした。

伊都乃が蔵の中や小屋の中の燃料などが揃っているかを見て廻っている時、美乃は思いついたことを兵庫に打ち明ける。

「ねえあなた、あれ作る?」

「何を?」

 悪戯っぽく笑う美乃が何を言おうとしているのか分からなかった。

「ほらあれよ」

「あれって何だよ」

「疎いんだから」

「あぁそれなら自然に任せとけば出来るだろう」

「もう分からないんだから、造らなければできないでしょう」

 

「何怒ってるの美乃」

「あっ、母上何でもありませぬ」

 美乃は悟られても構わなかったが今は敢えて明かさなかった。

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