第15話 役宅の氷室
この日役宅に戻った兵庫のところに斉廣公の参覲で随行して来た田上彦次郎が手木足軽頭の村田喜兵衛に案内されて祝いの品を持ってやって来た。
美乃は太吉と文吾に近くの魚屋と豆腐屋に急遽買いに行かせたのである。
益三はその間に御飯を炊いたり、皿やお椀等の準備をした。
一先ず客人には居間でお茶と落雁を出して歓談して貰った。
「兵庫さん却って迷惑かけちゃったね。御新造様構わないで下さい」
田上は兵庫が独身の時のように快く接してくれるものでつい気安く訪ねてしまった。
それは喜兵衛も同じであった。
美乃はそうした友人が兵庫に居ることが嬉しかった。
それ故、今日のように行き成りの訪問であっても嫌な顔せずに対応したのである。
それがどれほど大変なことなのかは兵庫の知るところではなかった。
台所から焼き魚の臭いが漂って来た。
脂ののった秋刀魚に御飯、豆腐の味噌汁に小皿に香物をつけて木具膳が運び込まれた。
隣りの部屋には善三、太吉、文吾の分まで用意したのである。
「お嬢様勿体のう御座います」
善三を始めとする使用人たちは、美乃の優しさに触れる度胸が熱くなった。
美乃は皆が食べ終わるまで箸を付けなかった。
兵庫らが酒を飲み始めたので漸く冷めた食膳に手を付けたのである。
太吉や文吾が片付けを手伝い、善三が鍋に水を張って燗をして出した。
「兵庫さんのお屋敷に氷室を造りましょうか」
喜兵衛が突然思いつきを話し始めた。
「実は先程庭を拝見した時に思ったのですが、敷地に結構空きがありますし、回りを黒塀で囲んでありますので、設置場所と規模次第で特に問題にはならないと思いますがー」
と言うのである。
「氷室って将軍家に献上する氷の貯蔵庫のことだろう。それをここに造って何の役に立つと言うんだい」
田上彦次郎にはピンと来なかった。
「田上様、氷室は謂わば保冷庫と言っていいでしょう。詰まり冷たい状態を保つということなので、生ものなどを腐らせないということです。これを思いついたのは、あっしらが突然お邪魔した為に御新造様や奉公人の方々に忙しない思いをさせてしもうたではありませんか。そんな時の為にも食べ物を保存して置けたらどんなものでしょうか…」
「為るほど、流石喜兵衛さんだ。そりゃ特に暑い夏なんぞに有ったら良いわな」
田上も漸く喜兵衛の言わんとすることが理解できたようだった。
更に喜兵衛は具体的な話を始めた。
「本来氷室は地下に穴蔵を設けるんですが其処までは必要ないでしょう。小さな部屋にしろ戸室石で囲えば冷気を逃がすことは無いでしょう。資材は有りますのでお任せください」
喜兵衛は造園や氷室建設にも携わって居たので、いとも簡単に言ってのける。
「喜兵衛さん、戸室石は何処から調達するの」
「あっそれは心配要りませんよ。本郷のお屋敷若しくは平尾(板橋)に有りますよ」
「簡単に持ち出せるの」
田上も関心を示す。
「わしらの管理下にあるものですから自在ですよ」
どんなものを造るのか誰にも分からなかったが、喜兵衛の頭の中には設計図が出来上がっていた。
食材の調達は町屋なら朝晩に振り売りが食材を担いで売りに来たから好きなものを好きなだけ買えたが、此処中屋敷では勝手口に行って残り物を買うか、外の店に買いに行かなければならなかった。
そうしたことから言えば喜兵衛の提案は、正に主婦にとっては有難い贈り物だった。
特に暑い時の食材保管には持って来いなのである。
この話は翌年になってから実現した。
二月の寒い日であったが、喜兵衛が突然足軽二人を連れてやって来た。
荷車には材木や
「こんなに使って大丈夫なの」
美乃は些か心配になった。
「御新造様申し上げましたように心配は御無用です」
台所の勝手口のある北側が広いので、其処に氷室を造ることにしたのである。
先ずは一間四方の穴を掘ってその横に二尺幅ほどの階段を造った。
地上で柱を組み合わせたものを上から穴の中に押し込むように入れた。
底部は土を突き固めた上石を張った。
食材の保管部分は二段に分けて拵え、その下には溶けた水を溜める桶を置けるようにした。周りには戸室石を張ってその外側の石との空間に雪を詰められるようにした。
その為空間へ雪を入れるには地上から流し込めるようにしたのである。
そしてこれらの上に小屋を作り、天候に左右されること無く人に見られることなく作業できるようにして、
階段の途中や階段下に燭台置き場が設けられて暗い穴蔵を照らすことが出来た。
喜兵衛が平尾邸の氷室から雪氷を箱に詰めて持って来た。
喜兵衛が一番先に下に降りると箱を上段に置いて蓋を外して見せた。
兵庫と美乃は食材の置き方を教わると小屋へと上がった。
氷で冷えてる訳ではないが、穴蔵はひんやりとして涼しかったのである。
続いて益三らが下りて説明を聞いて居た。
この氷室は規模こそ小さいが、造りは確りしていて本格的なものであった。
氷室の完成後単なる保管庫として食材の置き場にしていたが、気温がぐんと下がって明け方から雪が降り始めたのである。
昼間際までは小振りであったが、九つ半(十三時)頃から積もり始めた。
翌日の昼四つ(十時)頃に喜兵衛が手木足軽二人を連れて顔を出した。
兵庫は御殿で役目に就いて居たので、益三に断って庭の新雪を汚さぬように掻き集めた。それを小屋の中で、雪取り入れ口から氷室の隙間に落とし入れたのである。
布袋に入れた雪は棚に置いてその上に食材を載せられるようにした。
美乃は三人にお茶と例の落雁を出して礼を述べた。
「御新造様、上手い具合に降りましたね。こんなことは滅多にないと思います」
他の二人も肯いていた。
「喜兵衛さん、今度降ったらどうしたらいいかね」
益三は金澤の小堀家にすら無かった氷室の扱いに戸惑っていた。
「益三さん、泥や土を含まないように気を付けて頂ければいいんです。雪は落とし口に入れるだけです。
来年になったら金澤から送られて来る雪氷を持ってめいりやすから」
氷室があるところと言えば金澤の一部の村落と金澤城内の玉泉院丸庭園と江戸の上屋敷と中下屋敷のものと江戸城吹上庭園にあった位で、役宅とは言え個人宅で秘密裏に保有しているのは高添家だけであった。
これがどれだけ凄いかというと、明暦、萬治年間に将軍家に富士山の雪を献すとあり、これを御三家に内緒で分け与えたとある。
ところがその富士山の氷については宝永の噴火以降記録には見られなくなった。
加賀前田家が元禄の頃より献上している雪氷は、多くの大名家からの氷餅の献上とは違って珍重がられたのであった。
故に個人的にそれを欲する者も居たのである。
その翌年の三月に金澤から運ばれて来た雪氷の一部が、布で包まれ木箱に詰められて兵庫の元に届けられた。
勿論送り主は喜兵衛であったが、喜兵衛は途中路上に出ていた屋台で寿司を買って来ると言うので、部下の足軽たちが先に高添家にやって来たものだった。
足軽たちは小屋の中に入って、布で包んだ氷を箱から出すと上下の段上に置いた。
氷室の中は適度な温度に冷えていた。
喜兵衛は経木に包まった寿司を二包みずつ篭に入れて氷の上に置いて冷やした。
その間に庭の狭い空間を造園したのである。彼らはその筋の専門家であったから見事に形造っていった。
美乃は喜兵衛からお吸い物ではなく汁物をを頼まれたが、他に高菜の漬物も用意した。喜兵衛は部下二人に氷室から寿司を持って来させると皿の上に弐個ずつのせた。
兵庫が帰って来たので夕飯代わりに食す。
「これが屋台で売ってる寿司という奴か。随分と大きいね」
握り飯位の量の酢飯で、こはだやあなごに赤みの魚の切り身が載っていた。
人によっては一個で十分な大きさであった。これが後に江戸っ子の間に流行る握り寿司であった。
若い連中は弐個ぐらいはぺろりと食べた。
お茶若しくは酒を飲みながら、雪氷談義となり将又造園にも及んだ。
「あなた庭をご覧になって下さいな。ほら」
松や楓等の木が平たんに植えられているだけだった庭が、岩が置かれたり土を盛ったりして起伏にとんだ空間に代わっていたのである。
「喜兵衛さんこの様に勝手に造り替えて良いのかね」
「構いませんとも。仮に端からこの様に造形されたものだったとしましょう。それを木を抜いたり、岩を退かしたりしたならば器物破損とかで罰せられましょうが、これは元のままの位置を変えることなく、それに新たなる造形を施しているのです。万が一兵庫様が此処を立ち退くことになった時、これらを破壊したなら、それこそ罰せられるかもしれません。氷室は埋め戻すことも出来ますが、後の入居者にとっても役立つものなのでそのままでよろしいかと思います。
只氷室の場合は特別な価値を有してますので、敢えて公表はしないことです」
軽輩と見られがちな足軽だが、此処にいる手木足軽は特殊技能を持った技術集団であった。詰まり喜兵衛らは技術者であったのだ。
特に雪氷の保管に於いては他家では真似のできない保存技術を得ていた。
何しろ百二十里も離れた所から雪を解かすことなく運んで来て、徳川将軍家に献上したのである。
元禄時代からであるから、幕末までとしても凡そ百七十年ほどは続いたことになる。
高添兵庫も美乃と一緒になって一家の主としての自覚も出てきた。
役目は相変わらず御家老や上使の護衛であったが、以前程出掛けることも無くなったので、比較的楽な勤めであった。
休みになると美乃を連れて市中見物に出かけては、江戸で流行りの袋物や小物などを買って、金澤の母伊都乃に送らせたのである。
「母はどちらかというとそれら小物も自分で余り切れを使って作る方だから送らなくていいわよ」
伊都乃は若い頃から豆に裁縫が好きで美乃や志保の着物を衣替えの度に袷にしたり、綿入れにしたりと一つの物を上手く着回ししたのであった。
そのやり方を母から受け継いでいたので、決して無駄なことはしなかった。
町人なら古着を買って済ますことも、武家には許されなかったのである。
一緒になって五年目の正月を迎えたが、未だ子を授かることは無かった。
國許からも最初の頃は頻りと訊ねて来たが、最近では諦めたらしく、子に関しては一切触れなくなっていた。
それでも爺やが居るとは言え夫婦水入らずも同然であったので楽しい毎日であった。
ところがこの十五日に國許で大事件が起こったのである。
火の不始末による二の丸御殿の火災で、御殿は全焼し、菱櫓、五十軒長屋から橋爪御門まで類焼したとの知らせが二十一日の夜半に本郷の上屋敷に齎されたのである。
十五日は
三月十三日に帰國の許可と三年在國の認可がが下され、急遽十六日に江戸を発つた。
長甲斐守が随行し、二十八日四ツ半時に金澤に着いた。
尾坂口より河北御門に入り、石川御門を抜ける時焼け落ちた橋爪御門や二ノ丸御門を垣間見て、仮御座所となった廣坂の本多安房守政礼の屋敷に入った。
五月に入って斉廣は焼失現場を訪れて検分した。
火の不始末については留守居番がその責を問われたのだった。
斉廣は帰國時に寄ってはいたが、双方とも慌しい最中であったので、こうして改めて療養中の治脩を金谷御殿に見舞ったのである。
「相公(治脩)様ご無事で何よりでした。
近習の者の話ではあの折、土蔵近くまで火の粉が及んだそうですが、法眼の畑柳啓が
「何を言うか、その町医者とて近習頭の杉江に勧められるとおどおどしながらも二杯も食しおったわ」
とからからと笑った。
平穏な時代に生きた殿さまには違いなかったが、いざと言う時には大将らしく胆の据わった所を見せたと言って良い。
この件を一番苦にしたのが正に治脩であったが、年寄や人持ち組に豪商や町民から凡そ十万両の献納があったのである。
こうして二の丸の再建が始まった。
江戸で平穏無事な日々を過ごして居た兵庫も、文化七年一月七日、僅かな期間お仕えしたその十一代君主治脩が金澤城の金谷御殿で亡くなったという報を受けた。
享年六十六歳であった。
金澤城の金谷御殿に安置されたご遺体は手木足軽らによって御棺に納められた。
冬とは言え腐敗防止を施してあるが、ご遺体安置には雪氷が効力を発揮したのである。
弔問客が多数訪れ、葬儀は盛大に営まれたようである。
生前なら乗り物は
この時一隊の小頭として村田喜兵衛が付いて居たようだ。
治脩公が亡くなられたことで、兵庫の名目上のお役目も無くなった。
お役御免であった。
暫くの間は御家老前田織江の身辺警護が続いたが、これも直ぐに終わった。
お役御免ともなれば役料の八十石は無くなって、新たに俸禄五十石とされたが明らかに減俸であった。
それと共にこの役宅を出て行かねばならないかもしれなかった。
善三爺はとも角として、文吾と太吉の二人は解雇しなければならなかった。
そこで幸安に頼んで登与の叔父の口入れ屋清五郎に奉公先を頼んで貰ったのである。
兵庫は解約に当たって報酬の五両をそれぞれに渡したのだった。勿論美乃の了解の上だ。何しろ財布の紐を握っているのは美乃だから当然であった。
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