第19話 互いの秘め事
兵庫は縁側に腰を下ろして、もしもこの歳まで独り身であったとしたらどう暮らしていただろうかと、あらぬ空想をするのだった。己の性格からすれば恐らく着る物が汚れて居ようが
余程酷ければ下手なりに繕い位しただろう。袴や羽織、足袋にしても丸洗いすれば良い方で、手っ取り早いのは古着屋で適当な物を見つけることであった。
事実江戸在勤の折、柳原通りの古着屋を覗いて買ったことがあった。
その時のことを何故か急に思い出した。
この日のように暖かい日であった。
「お武家さん、何時着る物をお探しですか」
店の女将が声を掛ける。
「うん、少し経ったら着るつもりだが」
と答えると、女将は笑いながら束の中から少しばかり厚めの物を引き出して上に広げて見せた。
「さっき手に取った物は上物で良いのですが、袷と言って着るのは明日まで、明後日からはこの綿入れを着るんですよ。見てあげるからこちらに来て」
店の奥には細長い縁台があり、
女将の照は着ていた単衣の上から綿入れを肩から掛けたが刀が邪魔なので兵庫に断って抜き去ると、序に裁つけ袴を外して左衿先を左手に持ち替えて前で合わせる際、上面を二度三度摩って膨らむ布地を握りしめた。
年増だが何とも色っぽい女将で、兵庫の肩に掛ける時もそのふくよかな体を態とくっつけて反応を見ている感じであった。
兵庫は十八と若いからその兆発に乗った
照は二十六、七で遊び人の亭主が居るらしかったが、金をせびりに来るぐらいで戻っては来ないらしく、持て余し気味の所に偶々好みの若者が来たと言う訳であった。
これを機に兵庫は暇になると照の所に寄った。この後に幸安に連れられて浅草寺の境内にある水茶屋に行くようになると、美人の娘千沙と二人切になって出歩いたりするのだが、飲んだり食べたりで話をするぐらいに留めていたのである。
千沙は独り身でも自分は國許に許嫁のいる立場であったのでそれ以上の進展は控えたものだった。
旗本の息子らによる嫌がらせが相次いだ折は店に頻繁に顔を出したが、無事であれば直ぐに店を出て雷門から御蔵前を通って浅草御門へと抜け、神田川沿いの柳原通にある照の古着店に寄ったのである。
何時しかその近所の店主らの間で二人の仲が囁かれるようになっていた。
何方かと言うと町人が買いに来る古着屋街なので、二本差しが出入りすれば目立って当然であった。
だがこの関係も、雷門前の騒ぎによって帰國要員から外され、外出も禁止されてしまったのである。
結局照との関係はこれで断たれてしまった。 これは誰にも知られていない話で、兵庫とて途中で思い出すことがなかったのだが、愛妻が如何にして家計を支えて呉れているかを知った時、婚約中のこととは言え、町屋の年上の女子に現を抜かしたことは反省すべきこととして思い出したのかも知れなかった。
小堀家の養子となった彦佐衛門(千代丸)は或る意味幸せなのかも知れなかった。
高添家にはその後子を授かることは無かった。双子の片割れとして残った彩乃は、その後婿(吉之進)を取って跡を継いだ。
兵庫から引き継いだ定番御歩組の俸禄は二百石であった。
母美乃は相変わらず手機を操って家計の足しになるよう反物を織っていたが、つ祢から教わった友禅染は到頭修得出来なかった。
益三とつ祢は文政十一年十一月に越後三条のつ祢の実家を訪ねて行ったのだが、どうやら地震に見舞われたようで、消息不明であった。
十一月十二日、この日は三之町で朝市が開かれていたので、早朝から沢山の人が出ていた。
其処に突然地震が起こった為、煮炊きの火が倒壊した建物等に燃え移り、それらの火が瞬く間に広がって被害を大きくしたようだ。
この時金沢でも大きく揺れたが被害は然程でなかった。
益三とつ祢の死亡は確認がとれた訳ではなかったが、帰る予定の日限を過ぎても未だ戻って来ないので、三条到着後に災害にあったものと思われる。
何処かで生きて居て呉れたら良いのだが、その望みは薄かった。
特に益三は美乃や兵庫にとっては幼い時からの縁者と言って良く、自然の脅威に改めて畏怖すると共に、身内を亡くしたような悲しみであった。
そしてその翌年三月の末には、江戸の口入れ屋清五郎の住む佐久間町近辺から出火して、折からの強風に煽られて両國橋際から濱町、永代橋辺りまでと、須田町から今川橋、本町河岸から新橋、汐留辺りまでの街々を焼いたのだ。
その範囲には芝居の街堺町、葺屋町があり、小網町、大伝馬町に傳馬牢のある小伝馬町、そして馬喰町、横山町から八丁堀、鉄炮洲までも類焼したのである。
この火事は佐久間町二丁目の材木置き場辺りから出火し、折りからの強風に煽られて東西二十余町を焼き尽くした。
この事を兵庫が知り得たのは、嘗ての剣術の師匠であった山崎幸安からの書信であった。幸安は厩方御馬世話役を引退すると、登与と一緒に暮らし始めたのだという。
脇差を置いて、水汲みやお湯を沸かしたり冷やしたりと結構やることはあった。
髪も白髪雑じりで薄くなり、髷は正にチョンと乗っかっている許である。
登与は愛想良く接客しているが、此方も白髪が目立つようになってきた。
幼女千沙が妾となったとの風聞は如何やら間違いなかったが、その相手が清五郎であったのには愕然とした。
その千沙がこの火事で神田須田町の妾宅で亡くなったという。
それも驚きであったが更に驚いたのは、佐久間町二丁目の材木小屋の出火の原因が煙草の火の不始末らしく、然もそれが清五郎傘下の雑役夫だと書いてあった。
【兵庫も覚えているだろうが、斉廣公が将軍家に帰國御礼に遣わした人持組横山大作様が江戸城に登城した際、供揃いが下馬札の前で帰りを待っていた時、供侍の一人が壮年の中間に文句を言うのが聞こえて来た。
それは御城に向かって堀端に座り込んで居た中間が煙管で煙草を吸い始めたのを咎めたものだったが、中間常次は無視するように二服目を火皿に詰めて吸った。
「此奴許さん」
森榮志朗は太刀の鐺で背中を突くと、その横に居たにやけ顔の同僚が常次の仇を討つかのように森の足の間に脚を差し入れて転ばしたのだ。
「おのれ!下郎ども、其処へ直れ」
榮志朗は怒り狂ったように騒ぎ立て刀の柄に手を添えた。
儂が止めて大事に至らずに済んだが、この二人はそのことで解雇されたのだったな。
口入れ屋清五郎からの派遣であったが、その後常次は佐久間町の材木置き場で雑用係として働いて居たようだ。
江戸城のお堀端で煙管を銜えていたようにその後も神田川の土手沿いで煙管を銜えて刻み煙草をのんで居たのであろう。
風が強くても小屋の中なら安心して煙草が吸えたので作業の合間をみては煙をくゆらして居たに違いない。
煙管の火皿に詰めた刻みは二三服吸うと無くなるので火皿を下に向けて雁首を叩いて灰を落としたものだが、恐らく其れに火が残って居たのだろう。
作業は外でしていたから材木置き場横の小屋の中で燻ぶっていたことに気が付かず、火の手が上がった時には強風に煽られて瞬く間に燃え広がってしまったということだよ。
登与は千沙が妾になった時もそうだったが、此度も叔父清五郎が関わっていることに憤りを覚えたようだ。
金澤も火事は多いが江戸の比ではない。その内登与を連れて其方に行こうと思っている。その時は寄らせて貰う】
この年の干支がつちのとうしなので、
この手紙を美乃に見せた。
暫く黙って読んでいたがぽっりと呟いた。
「可哀想に……」
それは恐らく火事で亡くなった千沙のことを言ったに違いなかった。
千沙と兵庫の間には何もなかったと信じていた美乃であったが、千沙の境遇を思うと、そう呟かざるを得なかったに違いない。
縁の濃い薄は別にして、幾らかでも関わりのあった者が亡くなったことを知るのは切ないものであった。
天保二年(一八三一年)六月江戸で急に大雨が降って激しい雷電があった。
この落雷で十数名が死んだという。
この事を報じた瓦版を金澤の美乃が入手したのである。
江戸から戻った手木足軽で喜兵衛を親方と慕った茂吉が持ち帰ったものだが、偶々その時兵庫が出掛けて留守だったので美乃が受け取ったものだった。
それに依ると、六月廿日(七月二十八日)八半時より七ツ時に雨が降り出すと稲妻が発生し、雷が鳴り響き、数十か所に相次いで落ちた。
船宿で雨宿りしていた姉妹が雷に打たれて即死し、阿部伊豫守様の陸尺一人が即死とあるように、雷に打たれた者は即死であった。
また濱御殿(浜離宮)の庭園や紀伊家の赤坂の御屋敷内や永田町は大村上総介の屋敷が焼けたり、人足の番屋が焼失し、或いは水道橋の水茶屋等と被害は広範囲に及んだのである。
雷に打たれて死んだ者の身元は略判明したが、中には不明者もあった。
本願寺脇の新堀川を堀沿いに福富町の方に歩いて行った先に西福寺という大きな寺があった。
その境内に御宮があり、鳥居を潜った先の銀杏の木の横で老齢の男女の遺体が見つかった。
男は明らかに元下士のようで、髷がチョコンと乗って居て脇差を抜いた状態で倒れて居たという。
女は嶋田髷に縮緬の布を巻きつけていて小粋な女将といったところであった。
下士と町屋の女の取り合わせは珍しくは無かったが、問題は女が懐剣を懐に差していたことである。
お宮の前で死んだのは間違いなく雷に打たれたものだが、男が脇差を抜いて居たことと女が町人でありながら懐剣を携えていたことである。
月番の*北町同心藤川英次郎が寺から知らせを受けて赤鞘を差して検視にやって来た。 *『赤鞘同心捕り物控え』の主人公藤川寅次郎の息子。
二人の遺体は雷の直撃を受けた銀杏の木の横に菰を被せて置かれていた。
「旦那この二人雷様にやられたんですかね」
小者の圭太が手を握ったまま倒れていたという男女を見てそう言った。
「間違いないだろう。何か可笑しなとことでもあるかい」
英次郎は圭太の疑問に注目した。
圭太は父寅次郎に仕え、様々な事件に関わって来ていたので、小者とは言え捜査の大ベテランと言えた。
「へい、その男の脇差に僅かに血のりが付いています。それとほら其処の地面にも血があるでしょう」
「てことは何かい、此処で誰かと切り合いをしていたということか」
英次郎は圭太に言われるまで気が付かなかった。
そう言われてよくよく遺体を調べてみると、裁つ付け袴の膝頭から斜め上に向けて線上に血飛沫があった。
「圭太これをどう見るよ」
脇差や地面の血のりに小袖の見ごろに付いている斜め線上の血飛沫をどう解釈すべきか分からなかった。
第一その切られて傷ついた筈の相手の姿がないのだ。
この場所で私闘があったことは確かである。
世間ではこの日の雷雨による死者や被害が多く出たことは身近に見たり、こうした瓦版によって詳細を知りえたのだが、最後の方に書かれていた身元不明の男女のことは、特に注目されることは無かった。
江戸の各地に被害を齎したことを書き綴るだけで手一杯だったに違いない。
美乃は男女の持ち物についての記述を読んではっとした。
先ず男が手にしていた脇差の鍔が透かし
今一つは女の櫛が梅柄の
透かし鍔の脇差と言えば兵庫の剣術の師匠の山崎幸安の持ち物がそうであったし、梅柄の蒔絵の櫛は父が婚礼の手助けの御礼に登与に贈った物のように思われた。
実際に見て見ないことには分らないが、短い文面の中からと、手木足軽茂吉の見聞からそのように美乃は推理した。
晩に夫兵庫が帰宅した際、茂吉が寄ったことを話し、江戸で落雷による甚大な被害が出たようだとのみ話したに止めたのである。
幾ら鈍感な兵庫でも、透かし鍔の脇差と梅柄の蒔絵の櫛を身に付けた老齢の男女とみたら、幸安と登与を思い浮かべるに違いなかったからである。
先ずは安否確認の書信を送るだろうが、数か月経っても返事が来なかったら、江戸に出かけて行くに違いなかった。
美乃は曲がりなりにも自分たちにとっての大恩あるふたりである。
無事で暮らして居て欲しいと願う所だが、それらの文面から窺えるものは、決して兵庫には見せられなかった。
小堀家の養子となった彦佐衛門は小堀家の家督を継いで居た。
御馬廻組御用番支配千二百石を拝領していた。
先々代の金左衛門が隠居所としていた隣家が空いていた。
隠居の治良左衛門夫妻は離れに留まって居たので兵庫夫妻に移り住むよう再三に亘って勧めるのだったが、美乃は、飽くまでも本家と分家ではないが、けじめは附けておくべきと辞退していたのであった。
高添の跡取りとなった吉之進は定番頭並に出世して三百石となったが、この男も酒が好きで、二度目の江戸詰めで居残り組となった際に御貸小屋内でドンチャン騒ぎをして障子戸や襖を壊してしまったのである。
この件で物頭並みに降格して百五十石に減俸され、國許に戻されることなく逆に更に一年半の江戸勤務を申し付けられたのであった。更に気持が腐ったのであろう、又もや酒を飲んで大騒ぎしたのである。
遂には國許に戻されて百二十日の閉門を申し渡された。
逼塞や遠慮ではない為、外出は許されなかった。この時、兵庫らは小堀家の別宅に移り、吉之進の奉公人らは兵庫宅で預かった。
妻彩乃のみが役宅に残ったのである。
当然監視が付いて見張られて居たので、家の中は自由でも外出は出来なかった。
兵庫は嘗ての同僚田上彦次郎と共に経武館に居た。
彦次郎とて教授を辞めていたが、助教らの手伝いをしていたのである。
経武館で教えていた剣術は主に中条流であったが、抜刀術や小太刀の遣い手が僅かであったので時々ではあるが、田上を通して頼まれて指導に来て居たのであった。
兵庫は隠居料として十俵、剣術指南で五両なので収入は合わせて十両程であった。
美乃が手機で織りあげる反物が四反ばかりなので、全て納めても八百文であった。
それでも夫婦だけなので、慎ましく暮らして居れば十分であった。
兵庫に時々は来客があったが、若い時ほど酒も飲まなくなって居たので、子供らに面倒掛けることも無かった。
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