第5話 結納の儀
大晦日から元日二日までの三日間、休みが貰えた。
と同時に小堀金左衛門から役宅に来るように連絡があった。
如何やら金左衛門が手を回して休暇を取って呉れたのだと分かった。
城下で鮒のつくだ煮や漬物、茶菓子等土産を沢山買って行った。
「お帰りなさい」
真っ先に出迎えてくれたのが益三爺さんであった。
「益三さんただ今」
兵庫は益三の為に買って来た土産を渡した。
「済まんです。あんやとさん」
益三は包みを掲げるように礼を言うのだった。
「お帰りなさい」
美乃であった。
「ただ今帰りました」
兵庫は嬉しかった。
こうして出迎えて呉れるところは此処しかなかったのだ。
高添家は次男の景清が家督を継いで、性格の好ましくない女を妻にしていた。
兵庫が挨拶に行くと夫婦はけんもほろろに厄介者扱いして縁切りしたのであった。
二人が楽しそうにしているところに、益三がお茶を入れて持って来たが、遠慮して引っ込もうとすると、
「そのお茶頂くわ」
美乃が呼び止めた。
「おひい様のお口には…」
益三が口籠ると、
「喉が渇いていたの、丁度良かったわ」
益三たちの飲むほうじ茶は一番安い茶葉であったのだが、美乃は美味しいと言って飲み干した。
兵庫はきょとんとしていたが、益三はその美乃の優しさに目を潤ませるのだった。
「爺やあんやと」
美乃は兵庫を部屋に案内した。
「あなたの部屋よ、寛いでね」
美乃が部屋を出て行くと荷物を広げて中身を確認した。
「入ってもいいかしら」
美乃が戻って来た。
「どうぞ」
美乃はお茶を入れて来たのである。
「さっきはご免なさい。横取りしてしまって」
「とんでもない」
と言いながら琥珀色したお茶を口に運ぶ。
「美味しい」
棒茶であった。
「お役目は如何?」
「お偉い方の警護ですから常に気は張って居りますが遣り甲斐はあります。でも正直言って栗駒の世話の方が楽しかったです」
兵庫は厩や馬場で栗駒と過ごした時のことを思い出していた。
僅か数年のことではあったが、お互いを裏切ることなく意思疎通が出来たからだった。
その栗駒がつい最近亡くなったと美乃は言った。
父金左衛門に聞いた話であった。
兵庫が栗駒の世話を始めた頃既に老馬で、碌に運動させなかった為食欲もなく、嘗て名馬として名を馳せたその面影もなかった。
頭の豊原彦六が兵庫に、誰も面倒を見ない栗駒を乗馬の訓練を兼ねて与えたのであったが、そうした運動をしているうちに食欲も戻って、飼い葉を沢山食べるようになったのであった。
ところが兵庫の転属によって担当が変わると、以前のように飼い葉を食べなくなってしまったのだという。
同じ内容の物を与えているのだが、食べようとしなかったようだ。
栗駒は如何やら兵庫の現れるのを毎日待って居たらしい。
だが主は一向に現れなかった。
そして次第に衰弱して、前足を折って躰を横に倒すと、眠るように死んで行ったという。 兵庫はその話を黙って聞いていたが、その姿を思い描いていたのであろうか、天井を見上げるようにして瞳を潤ませるのであった。
美乃は兵庫の優しさの一端を垣間見たのだが、お役目の上でその優しさが支障となりはしないかと、ふと不安が過った。
「旦那様がお帰りになりました。客間でお待ちです」
女中頭の玉井が障子越しにそう声をかけた。
「客間で?は~い直ぐに参ります」
美乃は土産物を風呂敷に包むと兵庫に手渡し、客間に案内した。
床の間を背にして金左衛門夫婦と客人が一人お茶を飲みながら歓談していた。
「お帰りなさい」
二人は並んで挨拶をした。
「おぅおぅ、こうして見ると其方たちは夫婦のようだ。実に似合いだぞー」
と揶揄うと伊都乃も客人も頷くように笑った。
「父上…」
美乃は恥ずかしそうにしながらも満更でもなさそうだった。
「兵庫に話があって呼んだのだが」
金左衛門が伊都乃に合図を送ると部屋から出て行った。
「では私も失礼致します」
美乃は客人に挨拶して下ろうとすると、
「お前も一緒に聞きなさい」
と引き留める。
「はい」
美乃は改まって兵庫の近くに座り直した。
「こちらにおられるは同輩で御馬廻役の大野吉右衛門正邦殿だ。実はな兵庫、お前が世話をして居った栗駒は大野殿の祖父の大野正道様の愛馬“隼剣”だったことが分かったのだよ。大野殿が父君から未だ厩で生存していると聞いて関助馬場の厩を訪ねてみたのだそうだ。隼剣はどの馬かと世話役に聞いてみたが知らないという者ばかりで老馬は居ないかと聞き直してみると栗駒と言う老馬が一頭いるというので見せて貰うと、年老いてはいるが毛艶の良い馬で驚いたようだ」
ここで大野は金左衛門の後を受けて話し始めた。
「とっくに処分されているものとばかり思っていた隼剣が、入ったばかりの若い世話係の懸命な世話で蘇ったように元気に生きていたのには驚いたのだが、更にはその隼剣(栗駒)の世話係が御前試合で最終試合まで残った剣士と聞いて猶更驚いたと言う訳さ。小堀様には何かと目をかけて戴いて居るが、偶々城内でお会いした折に、来春の参勤に息子同然の若者が選ばれそうなので宜しくと言われ、隼剣のことも含めて是非とも会わせて頂きたいとお願いした次第」
「ですが私めが御城勤めとなって…」
「それはそなたの所為ではない。それだけ其方は隼剣の支えであったと言えるのだろう」
それは確かであった。
「扨て本題に入る前に美乃に訊くが。…」
金左衛門はちらりと兵庫を見てそう切り出した。
「お前は兵庫のことをどう思って居る?」
「どうって…」
「どうってことはないのか?」
「そんなぁ、父上」
金左衛門は困惑気味の娘を揶揄って楽しんで居るようだった。
「兵庫」
「はい、姉上様のように思って居ります」
「バカ者まだ何も訊いてはおらんがな」
これまた揶揄って見せた。
「あっ、はい失礼しました」
金左衛門も大野も若者を揶揄って楽しんで居る訳ではなかったが、実直過ぎる兵庫が滑稽な反応を見せるからであった。
「わしはお前たちを添わせたいと思って居るのだが、嫌なら仕方ないが…」
「いえ好きです。でも未だ」
「未だなんだ兵庫」
兵庫は美乃に好意を寄せているのは事実で、美乃も同じ思いであった。
だが兵庫にしてみれば未だ半人前の身で、況してや来春には江戸に御前の警護で随行するとなれば翌年戻れるかどうかは分からないのである。
「お前の家の事情は重々承知している。次兄との確執も分かっているので、馬場の高添家とは正式に縁を切って新たに家を興せばよいだろう。
今は五十石だが、四百五百石と出世もしよう。直ぐに一緒になれとは言わぬ。お前たちさえ好ければこちらの大野殿が間に入って場合によっては仲人の労を取って呉れるというのだ」
金左衛門は再度二人の意思を確めると、来年の三月に結納と決めたのである。
形ばかりとは言うがそれなりに準備が要った。挙式は帰国の後半年以内にと取り交わした。
寒い冬の間に降った雪を貯蔵して、三月か四月には江戸は板橋にある平尾邸と本郷にある上屋敷に送る為に玉泉院丸庭園のある所に貯蔵施設があったが、担当の手木足軽以外は中に入ることは出来なかった。
兵庫は門の側の番所に詰めていた。
「高添様、高添様」と呼ぶ者がいた。
表に出てみると、上覧試合で立ち合った杖遣いの喜兵衛であった。
「これは喜兵衛さん、元気で何より」
「高添様もご壮健で」
二人は御前試合以来の再会であった。
番所でお茶を飲みながら暖を取り、来春の江戸参勤の警護の話になった。
「兵庫様は御前の側を固め、あっしは槍隊に付いて居りますよ」
「ところで喜兵衛さん氷を江戸まで運ぶというけれど解けて無くならないの?」
「へえ大丈夫ですよ、雪氷は先ず桐箱に布に包んで更には笹の葉で包んで、その上で長持ちに入れてと二重の防備をして江戸まで運ぶんです」
「将軍家への献上とか聞いたけど、奇麗な雪でないと駄目だろうね」
「そりゃあそうです。この庭園に氷室と言って地下に穴蔵がありましてね、降り積もった雪の綺麗なものを貯蔵するんです。
運ぶ時は氷状に固めて布で包んでその上に笹の葉を重ね敷き、桐箱長持ちと二重に入れて溶けにくくして江戸まで運ぶのです。
私ら手木の仕事ですが今回は参勤が重なる為別の者が行くことになってます」
「良く疲れないね」
山道を駆け登り或いは下っては江戸まで駆け抜けたのだから大変であった。
参勤時の経路とは違った独自の道を辿ったものだった。
三月中旬の大安の日、高添兵庫は大野吉右衛門正邦に付き添われて小堀金左衛門の屋敷に入った。
玄関には九曜の紋が染め抜かれた紺地の幕が張ってあった。
お祝い事に際しての印として取り付けたものだった。
大野家の小者が二名荷車に積んだ引き出物を運び入れると、小堀家の足軽や小物らが床の間に並べ揃えたのである。
簡略とは言うが、熨斗、寿栄廣、御帯料、寿留女、子生婦に酒樽、松魚が白木台に載せて豪華に飾りたてられていた。
それらは大野吉右衛門正邦が全て用意したように思えたが、実は小堀金左衛門が頼んで、揃えて貰ったもので、結納を受けるという形を演出したものだった。
儀式の後会食となった。
兵庫は金左衛門に、幼少の頃より可愛がってくれた下男の益三の同席を願い出て許されると、頑なに固辞する益三を説得して参列させたのである。
金左衛門は兵庫の勤勉さと実直さに娘の将来を託したのであった。
三月末を以て二の丸警備の任が解かれ、参覲の準備に取り掛かった。
兵庫の役目は御前の周辺の警護で、同じく抜刀術の田上彦次郎が反対側に付くことになった。
一刀流の滝崎弥五郎が前に付き、念流の谷岡孫三郎が後を警護する。
手木足軽の村田喜兵衛は槍隊に加わった。
発駕が四月八日と決まっていて、経路は高岡、親不知から高田を通る下街道と知らされた。
金澤から江戸への道筋は下街道を善光寺、追分に出て中山道を高崎、熊谷を経て江戸に入るのと、金澤から上街道で関が原から中山道を追分へと向かうのと関が原から中山道の垂井で東海道の宮に出て江戸に向かうという三通りの経路があったが、川の増水やがけ崩れなど、余程の事情がない限り下街道を使って江戸に出た。
その道程は約百二十里(四百八十キロ)であった。
十三日程度とはいえ、荷物を持ってのことなので、険しい山道も川を渡るのも難儀であった。
雪氷を運ぶのとは違って領主を始めとして二千名からの集団の移動である。
参覲交代の経路は事前に届けた上での許可であったから、自己都合で勝手に変更など出来なかった。
況してや街道に設けられている御旅屋(宿泊所)などは受け入れ準備が済んで居るので、簡単に変更など出来なかったので余程のことがない限り届け出通り実施されたのである。
扨て発籠までの間は自由にして居られたが、大半の者は準備に追われていたのである。
何しろ戻れるのは来年である。
最低でもそこそこ荷物があった。
兵庫は江戸に発つ三日前に小堀家に呼び出された。
一年も会えなくなるというのに婚約者のもとに会いに来る気配がないので、金左衛門が呼びつけたのである。
美乃にしても気が気ではなく、姉の志保が使用人に頼んで呼んで来て貰えと言うが、そのような端ない真似は出来なかった。
門前で掃き掃除をしている益三爺さんに会った。
「あっ、お帰りなさい。もう直ですね、おひいさまがお待ちですよ」
と嬉しそうに笑って迎えるのだった。
玄関近くに居たらしく美乃が直ぐに出迎えに出た。
「お帰りなさいませ」
三つ指を突いて将来の夫を迎えるのだった
「ただ今戻りました。美乃さま変わりはありませぬか」
兵庫まで仰々しく挨拶を返した。
「おぉ来たか、さぁさぁ上がりなさい」
金左衛門が促すと、美乃は兵庫の後に付いて書斎へと向かった。
「義父上様ご挨拶が遅れて申し訳御座いません」
「何の何の、支度が大変であろう。そうだ身の回りの品については上屋敷に送るから用意せんで良いからな。下穿きの替えと袴は小者に持たせたらいい」
出発の時と江戸入府の際には礼服に着替えたが、道中は平服で良かったのである。
その夜兵庫は晩酌の付き合いも程々にて解放されると、美乃と二人っきりになって過ごした。
一時以上話し込んだのは初めてであった。
「お江戸には美しい方が多いと聞いて居りますよ、美乃のこと忘れないでね」
美乃は行き成り兵庫に抱き着いて頬ずりすると、恥じらうように部屋を出て行った。
翌日は金左衛門の参覲随行時の経験話を基に、江戸上屋敷の御貸小屋での生活の留意点を教わった。
一見すると自由気ままに暮らせるように思えるのだが、外出にはその理由と上司の許可がいるし、芝居を見に行ったり、吉原などの遊興の地に行ったり、その他での無断外出も禁じられるとのことであった。
それと小屋内での飲酒による大騒ぎや備え付けの家具の破損は厳重に罰せられる等、制約がかなり設けられているようだった。
そうした注意を改めて兵庫にする必要はなさそうに思えるのだが、若さ故に思わぬ羽目を外さないとも限らないので、敢えて教えたのであった。
翌日の昼過ぎに、美乃が参覲時の装束一式を揃えて部屋に持って来た。
「試しにお召しになって、今なら直せるから と黄緑色の小紋を出して肩に掛けて着せた。
「派手じゃない?」
「あなたはまだお若いでしょ、とてもお似合いよ」
衿下は膝までしかない。
「美乃さま、これでは短くないですか」
「江戸まで百二十里も歩くのですよ、普通の長さでは歩きづらいでしょ、
母親が子供をを諭すような口ぶりであったが兵庫は初めて聞くような顔をして聞いて居た。
多分上役からのお達しがあった筈だが、うわの空で聞いて居たのか分かって居なかった。
無頓着な兵庫に呆れながらも甲斐甲斐しく立ち回る美乃は、今度はその上から青みの強い紺藤の羽織をかけた。
当日はこれに袴を付けて歩くが、城下を出て小休止の時点で袴を取った。
出発は明日早朝の出立だが、何かと準備があるので、旅装束を風呂敷に包んで担ぎ、小堀家を後にしたのだった。
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