第40話

 楼夫は、車を宇津僚家の堀の前に停め、サイドミラーの中の自分と目を合わせる。

 

 生まれて初めて、目鼻がはっきりと晒されるように前髪を切って梳いた。

 軽くなった猫っ毛がいつも以上に跳ねていて少し気恥ずかしい。

 しかし、世界を壊してくれた男の言葉を今は信じるのだ――私は美しい。


 楼夫は車を下りて、服を整える。

 シンプルなズボンの上に、裾がドレープになった黒いシャツワンピースと、やや丈の長いテーラードジャケット。

 今まで着たこともないような瀟洒な服だ。


 宇津僚家の長屋門に設置されたチャイムを押すと、田村が出て来た。

 いつも寡黙で表情の変わりにくい彼女も、突如垢抜けた楼夫にぎょっとしたようだった。

「荒津でございます。艶子様にお取り次ぎ願えますか」

「……少々お待ちを」

 陰気だった男が急に流暢に話すようになったことにも不審そうな目を向けつつ、田村は母屋へ引っ込んでいく。


 入れ替わりで現れた艶子も同じように狼狽えるので、つい吹き出しそうになってしまった。

 沸き上がる様々な感情を抑え込み、淡々と用件を述べる。

「昨日、父と母が相次いで息を引き取りました。

 私が荒津の新しい当主となることを正式にお認め頂きたく参上した次第です」

 今日で、鎮神と真祈の婚儀から三日が経つ。

 良夫が道子を殺し、深夜美が良夫を殺したのは婚儀の直前。


 宇津僚家と荒津家は、一方で凶事が起こるともう一方は一カ月ほど慶事を控えるべしという意識があるほどには、密接かつ名目上では対等だ。

 しかし新月の日にしか執り行えない吾宸子の婚儀ともなると、島中の期待がかかっている以上、荒津ごときの不幸ごとでいちいち邪魔されるなど許されない。

 そのため万が一吾宸子の婚儀の前に荒津で人死にがあっても、黙って葬り、暫くしてから命日すら偽って宇津僚に報告して代替わりの承認を得ることになるのだ。

 荒津の者は宇津僚のためならばその最期さえ捻じ曲げられてしまう。

 理不尽極まりないことだが、元々両親のことを好いてなどいなかった楼夫個人にとっては、従ったところで痛くも痒くもない慣習であった。


「それは、ご愁傷様。宇津僚は荒津楼夫を新しき荒津家当主としてここに認めます」

 艶子が述べる。

 夫妻が連続して亡くなるなんて、近付いたら伝染るような病に罹ったんじゃないか、とでも嫌味を言われるかと思っていたが、彼女はただ楼夫に見惚れているようだった。

 ひとまずは予定通り、と楼夫は内心ほくそ笑む。


「もう埋葬はされたでしょうが、魂鎮めは行いますでしょう?

 いつになされますか」

「艶子様が良ければ、明日にでも」

「ではそのように……」


 早々に話を纏めて、艶子は家の中に引っ込んでいった。


 地所を出て行き、楼夫が車に乗り込もうとしたとき、二人の男が通りかかった。

 同い年で、義務教育においては九年間同じ教室に詰め込まれ、苛められた仲だ。

「荒津じゃねえか、その服いけてんな」

「上田の婆さんが死んだお陰で、荒津がその上等な服を買えたってわけだ」

「人様の不幸で図体ばっかりデカくなりやがって」


 三十年以上こうした偏見を受けてきた。

 その度に、泣くこともせず、渇いた瞳を虚空に逃がしながら全てをやり過ごした。

 慣れてはいけないことに、慣れていた。

 しかし、彼が見つけてくれた本当の自分はここで逃げるような男ではない。


 楼夫は口を開く。

「島の葬儀代は全て宇津僚家に納められていることを知らないのか? 

 荒津は宇津僚家から埋葬、墓地の維持を委託され、他でもない宇津僚家から報酬を賜っている。

 よりによってお弔いの体制を門前で批判するとはな。無知とは恐ろしい」

 楼夫が淡々と言うと、二人は怒ったような顔のまま黙り込み、逃げるように去って行った。


 車に乗り込んで運転席に座った瞬間、アクセルを踏まねばならない脚が震えだした。

 あいつらにちゃんと言い返せる日が来るなんて。


 震えが止まるのを待ってから荒津家へ帰り着き、車を置いた楼夫はすぐに蔵へ向かった。

「貴方が教えてくれなかった大切なことを、私はあの美しい人……いえ、ヒトですらない青年にほんの数日間でたくさん学びましたよ。

 私、同級生に言い返せたんです……」

土の匂いの籠った暗闇に語り掛ける。

 手足を縛られ、腹の脂肪を木の杭で貫かれて床に縫い留められ、辛うじて生きている父に。

 血走った眼が二つ、楼夫を睨み返す。


 楼夫は初めて父に笑いかけた。

「恨むなら、深夜美様を恨んでください。

 それが、あの方の力になる」

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