第3話

 諏訪部家は、高校からは三駅離れた畔連べつれ町にある。


 昔そこが終点だった名残で急行列車が停まるという寂れた最寄り駅から、歩いて十五分の安いアパートの一室。



 部活帰りの中学生が、友達と連れ立って歩いている。

 会社員は家族の待つ家庭へ向かって古い商店街を抜けて行く。

 いつもと変わらない帰路だ。


 小さな町のことだから、周囲の人々は鎮神のことを、

よく見かける銀髪の子だとか、ちゃらちゃらした奴、片親の子、

不登校だった子とかで認識しているのだろう。


 しかし鎮神は、何度この道を通っても、知っている顔を一つも見つけることは出来ない。


 足は地面を踏んでいる感覚がしない。

 安らげる自宅に帰っているはずなのに、だんだんと牢獄へ引き立てられているような気がする。今日は特に、そんな気分が強かった。


 イヤホンから響く、会ったこともない人々が奏でる哀切なゴシックロックだけが、今にも溶けて消え去りそうな魂を留めてくれていた。

 



 大通りから一本奥まった道に逸れ、荒涼とした月極駐車場と破れたフェンスを横目に少し歩くと古いアパートがある。その一階の奥が鎮神と母の住まいだった。


 誰も居ないものと思って、音楽を聴いたまま無言で鍵を開け中に入ると、

今日はパートのシフトを夜に入れていて帰りは二十二時頃になるはずの母が居た。

 今はまだ二十時にもなっていない。


「ただいま、早かったね」

 鎮神が言うと、母――玖美は、まあね、とだるそうに返事した。


「ご飯、何にする?」

「適当に余り物温めて食べれば」

 母はなぜか、着なくなった服や溜めていた雑誌を全て纏めていた。

 その作業にかかりきりで、訊ねている鎮神の方を振り向こうともしない。



 荷物を置くと、鎮神はエプロンを付けて台所に立つ。

 すると母が振り向いて言った。

「ああ、そのエプロンも古いな。

 後で捨てておきなさい」

「そう? まだ使えそうだけど」

「汚いでしょ。

 使い終わったらごみ箱に突っ込んでおいて」

 そして母は、纏めたものを玄関タイルの上に置いた。

 捨てるつもりなのだ。



 妙だった。

 父の素性も連絡先も知らないので当然養育費が入ってくるはずはない。

 玖美がパートをかけもちしてどうにか生活出来ているわけで、自ずと物を大事にする気持ちは人一倍強いのだが――

今の母は、まだ使えそうなものを次々に捨てている。


 嫌な予感が濃くなる。


 

 そしてテーブルに夕食を並べていると、とうとうそれが現実味を帯びてきた。

「鎮神、明日は学校休みなさい」

「え、どうして?」

「用事があるの。

 一日くらい休んだところで、勉強に支障無いでしょ」

 それはそうだ。

 バイトも明日は無い。


 しかし、用事とやらの心当たりが無いのだ。


「分かった。でも、用事って……」

「明日にでも説明する。

 私は疲れてるんだから、いちいち訊かないで」

 話を切ると、玖美は夕食に手を付けた。



 小太りの体、短いこげ茶の髪、

顔を殊更にぼやけさせる、彼女には似合わない色の服。

 この小さく野暮ったい町には馴染む姿。

 母は鎮神と何一つ似ていない。

 遠い県に住んでいる、小学生のときに一度会いに行っただけの祖父母にも似てはおらず、隔世遺伝とは思えない。



 それはつまり、鎮神が父方の見目を強く引き継いでいるということだろう。


 母はおれを見ると、父のことを思い出して機嫌が悪くなる――

 鎮神は幼い頃から薄々そう察していた。


 しかし母を責める気は起きない。

 母は鎮神が不登校の時も見捨てずに女手一つで育ててくれたのだ。



 衣装作りに参加できないことを、後で星奈と翔に電話して謝っておこう、と決めた。



 玖美が風呂に入っている間に、鎮神は星奈_に電話を掛けた。

 まず星奈の父が出たので、本人に替わってもらう。

 一年生の頃、初めて彼女の家に電話した時は、

鎮神を星奈の恋人だと勘違いした父からしつこい尋問を受けたが、今はその誤解も解けている。


「もしもし、星奈。

 おれ明日学校休むから、衣装作り手伝えないわ。

 ごめんな」

『どうした? 

 病気でも発症したか?』

「いや……なんか家の用事らしくて」

『なんか怪しいな。

 授業すっぽかしてコンサートかデートか……』

「そんなんじゃないよ」


笑いながら後ろに手を突くと、床にばら撒かれていた紙の束を押し潰してしまった。

汗ばむ手からそれを剥がしながら、何気なく文面を見る。

 電話の時にメモを取れるよう側に常備してある片面刷りのチラシであった。


 その中の一枚に、母の字で

二ツ河島ふたつがわじま、鷲本、宮守、黒777、一時」

と走り書きしてある。


「……星奈、二ツ河島って知ってる?」

『何だ急に……

ちょっと待てよ、どこかで見たな…あ、思い出した。

 ルッコラの産地だ』

「ルッコラ?」

『知らない? ロケットサラダとか』

「ああ、葉っぱね」

『しかし、何で急に? 

 まさか、明日そこに行くとか? 

ここから結構遠いじゃないか』

「いや……なんとなく。

 じゃあ翔にも電話するから、この辺で」



 星奈との通話を切り、続けて翔にも電話する。

 こちらは、翔が最初に出た。


「おれ明日学校休むから、衣装作り手伝えなくなった。ごめん」

『なに、病気? 

 ズル休み?』

「家の用事なんだってさ」

『ふーん、怪しいな。

 まさか学校サボって心霊スポット巡り? 

 それならおれも……』

 休む旨を伝えたときの翔のリアクションは案の定であった。


「翔じゃあるまいし、心霊スポットなんか行くか。

 それはそうと、二ツ河島って知ってる?」

『お前おれのことからかってる? 

 心霊スポットなんか行かないって言った矢先に、心霊スポットの話振ってくるか普通』

 翔の呆気にとられたような声が返ってきた。


「どういうこと? 二ツ河島って、心霊スポットなのか」

『うーん……厳密には、幽霊が出る所というよりは、

法に背く因習を守る邪教の島、みたいな噂の舞台かな』

「カルトの本拠地ってこと?」

『あー、たぶんお前が想像してるのって危ない新興宗教みたいなやつだろ? 

 そうじゃない。

 逆に、古すぎるものを未だに信じてるんだよ。

 例えばギリシャ神話ってあるじゃん』

「星座の由来になってるやつ?」

『それそれ。

 あれな、現在は信者が居ないんだ。

 ギリシャのほとんどがギリシア正教っていうキリスト教会を信仰してる。

 国教もそれ。

 その他もイスラム教とか諸々』

「へえ……なんか意外」

『でも、そんな中でエーゲ海にただ一つ、ギリシャ神話を未だに信じている孤島が浮かんでいたら? 

 夢はあるけど、一方でアンドロメダが居るかもしれない』

「アンドロメダ座の伝説って……たしか、岩に縛られて生贄に……」

 言いかけて、鎮神は息を呑む。


『そういうこと。

 二ツ河島が独自の宗教を有史以前から信仰しているのは、住人たちも隠さず認めている。

 ただ、教義とかの詳細までは教えてくれないらしい。

 その上に余所者を嫌う人たちが多いから、色々ときな臭い噂が生まれてるわけだ。

 それこそ、島の秘密を嗅ぎまわったせいで神官に殺された人々の怨念、とかな。ま、ただの都市伝説だよ』

 翔は一転して、からからと笑う。


 鎮神は素直に感心していた。

「なんか、初めて翔が格好いいと思った」

『あんまり褒めてくれるな、どうせこんなの雑誌とかインターネットで読んだだけ。

 本当にフォークロアを極めたければ、フィールドワークしなきゃ意味が無い』


 さすが既に人文系の大学に進路をまっしぐら定めている翔だけはある。

 彼は理数系科目では毎回あわや赤点だが文系科目では毎回トップクラスだ。

 家も、翔のために両親が仕事で使うのとは別のパソコンを買ってくれるほど裕福らしい。

 きっと彼は好きな私立大学に余裕で合格し、金銭のことなど気にせず学生生活を謳歌するのだろう。


 ふと、気を抜くと友人に対して卑屈になっていることに気付き、鎮神は自分の頬を軽く抓った。



『でもさ、凄いことだよな。

 いくら絶海の孤島だからって、藩とか県とかに属さなきゃならないし、

そうすれば宗門改めとか、国家神道とか、色んなものが降りかかってくる。

 それでもどうにかして自分たちの信仰を守って現代まで来たなんてさ』

「まあ、夢があるよな」


 そろそろ母が風呂から出て来そうだったので、翔との通話を終える。


 特異故に不気味がられている二ツ河島――少し親近感が湧く。

 しかし、母はなぜその名をメモしているのだろう。鷲本、宮守、黒777、一時、にも心当たりは無い。


 突如、今日の夕方、バイト中の出来事を思い出した。

 男の指を深く貫く針、滴った血。


 掌が熱くなる。

 友人たちとの会話で晴れていた心が重く淀む。


 二ツ河島が生贄を欲していないと、決まったわけではない。

 

 メモから逃げるように、居間とは襖を隔てた自室に移動した。


 新鮮な空気を入れようと、窓を開け夜空を見上げる。

 向かいの雑居ビル、その上方に輝く三日月と金星。


 二つの天体を背にして、腰辺りで切り揃えた長い髪を靡かせた何者かが屋上に立っていた。

 人影の手元には、鏡と思しきものがちらちらと光る。

 鎮神はしばし、その一つの図像じみた光景から目が離せなかった。

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