第22話
【おことわり】
今回から登場するキャラクターの職業は、「看護師」ではなく「看護士」となっております。
ミスではなく、作中の時代で用いられていた法律に基づく呼称として使用しております。
問題が無ければこのままの表記で進めようと考えています。
長い夢を見ていた。
夢の中でもう一度、念動で母の眼に鋏を突き立てる夢。
銀色の髪の幼子を殴る夢。
これは夢であって夢ではない。
自分の最悪の現在と未来だ。
鎮神が目覚めると、宇津僚家でも畔連町のアパートでもない天井があった。
自分はベッドに寝かされているが、寝室というほど安らげる空間でもない。
独特の匂い、ランドルト環、アレルゲン表の掲示物。
それらを見て、ここが病院だと分かった。
すぐさま首に違和感を覚える。
鉈で切りつけはしたが、自力で首を落とせるはずもなく、しっかり繋がっている首には包帯が巻かれていた。
自殺未遂、というわけだ。
ぼんやりしていると、視界の端にアレキサンドライトのような複雑な光がちらついた。
「血が派手に出たのと、おそらく心労で、気を失っていただけのようです。
たいした傷ではないし、痕も残らなさそうですよ」
いつもの微笑を浮かべたまま、真祈が何事も無かったかのように話しかけてくる。
その傍らには、二十代半ばくらいの男が立っていた。
きっちり整えられた黒髪と涼やかな目元。
シンプルなフレームの眼鏡からはいかにも真面目そうな印象を受ける。
白いノーカラーのジャケットと長ズボンという服装からすると、看護士のようだ。
つい不躾に見つめていると、真祈が彼を紹介してくれた。
「こちらは看護士の
「初めまして、鎮神様」
路加は丁寧に頭を下げてくれる。
「あ、初めまして……。どうも、ご迷惑を……」
鎮神も会釈すると、傷がつっぱって痛んだ。
「いえ、私は看護士として当然のことをしたまでです。
お礼でしたら、鎮神様を見つけた
病院まで車で運んでくれた
団というのは知らないが、鷲本与半といえば鎮神を二ツ河島に連れて来た男だ。
「ルッコラ畑に写生をしに来た団さんが倒れている鎮神を見つけて、
たまたま車で通りかかった鷲本さんを呼びとめてくれたんですって。
それで病院まで送ってくれたそうですよ。
また今度、お礼をしに行きましょう」
真祈もそう言った。
「はい……。あの、真祈さん……母は……」
「玖美さんですか? 島を出て行こうとしたので、私が殺しました」
恐る恐る訊ねた鎮神に対して、真祈は堂々と言い放った。
路加がそっと席を外し、小さな病室は二人きりになる。
「そう、ですか」
枷が取れたと同時に、水の一滴も無い荒野に裸で放り出されたような気分だった。
「玖美さんは、やはり私たちの教えを信じてはくださらなかったようです。
宇津僚家を化け物と評し、島を出て行こうとしました。
なので、私が殺した」
母の罵った、「化け物」である「宇津僚家」には、鎮神も含まれているのだろう。
思っていた通り、母は鎮神の本性を化け物と一蹴した。
狂気に心を委ねることも、死に身を捧げることもできない我が身が恨めしい。
もはや、全ての秘密を話して、真祈に判断を――これでも鎮神を生かすか殺すか、任せるほかない。
人の理を超えた、この美しい生物に殺されるのなら、それは悦楽ですらある気がした。
「あの、真祈さん。
おれと結婚する理由っておれとの子どもが必要だからですよね」
一言一言吐く度に肉の裂けるような思いをしている鎮神に対して、真祈の返事は軽い。
「一応隠してはいたつもりなのですが、察しはつきますよね。
鎮神だっていい歳なんだし」
「母から聞いてもいます」
「あら、玖美さんには最初に口止めしてあったのに……まあ過ぎたことか」
鎮神が完全に島の人となるまでは、島の秘密の多くは教えられない、という話であったはずだ。
玖美がいかに宇津僚を寄生先としか見ていなかったかを想い、今更ながら呆れと、なおも捨てきれない憐憫を覚えた。
「でも、おれ……真祈さんには協力できません。
性嫌悪症っていうのかな……とにかく、そういう目的で触れられるのがどうしても嫌なんです。
例え好きな相手でも、きっと」
まず一つ、秘密を晒した。
これこそ、鎮神が真祈の美貌に、倒錯的な誘惑に、垣間見せる優しさに酔えないわけであった。
「母の目に鋏を刺したのは、たぶん分かってると思うけど、おれなんです。
母は真祈さんとの間に子どもを作るよう急かしてきて……。
おれがやらないなら、どこかの男をけしかけてでも真祈さんを孕ませるって言いだして……」
「あら、穏やかではありませんね」
恐ろしい告白を、真祈は笑顔で聞いている。
「母だって、悪気があったわけじゃないんです。
ただ、今までおれのせいで凄く苦労してたから、裕福な宇津僚家での生活を手放さないよう必死だったんだと思います」
ベッドの上で、薄い夏蒲団にくるまったまま頭を垂れて、神像のように美しい存在に懺悔のように語り掛ける。
「おれ、思ってたより母さんのこと好きじゃなかったのかもしれません。
こんなおれでも育ててくれた恩があるから、母さんのことは大事にしてきました。
今でもそれは間違っていなかったと思ってます。
でも、恩を負い目と感じてまで愛しているふりをするんじゃなかった。
母さんのためにこの身を差し出すつもりだった。
真祈さんが誰かに汚されるのを黙って見てることも絶対にしたくなかった。
ならおれのやるべきことは決まっていたのに、どうしても出来なくて……」
「だから、玖美さんを念動で傷つけた」
続きを紡いだのは真祈だった。
もう一つの秘密をとっくに知られている――。
自ら明かさなくてはならない荷が降りたと共に、いつどこでバレていたのか、と恐ろしくなる。
「どうして、それを……?
いえ、真祈さんはそれを知って、何も思わないんですか」
「まさか。
確かに鎮神以外の胤を孕む十月十日など時間の無駄でしかありませんから、玖美さんの企てを防いでくれたことには感謝していますけれど」
「そうじゃなくて!
どうして、念動のことを知ってもおれを怖がらないの、とか……。
なんで自分の身体のことをそんな他人事みたいに言えるの、とか……」
鎮神は丁度近くにあった体温計を、真祈の背より高い位置まで浮遊させて見せた。
真祈の紫色の瞳は、平然と鎮神を見つめている。
二人は同じ景色を見ていても、同じ世界を見ることは永遠にできないのだ。
あらゆる嘆きから自由である真祈に対し、鎮神は弱さに負けて他者に追従し、追従しただけ尽く裏切られ、裏切られたぶん密かに恨んでいた。
母も、世界も、自身のことも。
他の感情や理性で覆い隠しながら、どこかでは憎み続けていた。
すると、真祈が寄って来て、ベッドに腰かけた。
「鎮神、明日が怖い?」
くすんだ色合いの病室の中、電灯に照らされて赤紫に輝く真祈の銀髪だけが眩しい。
「明日どころか、次の瞬間にでも自ら命を絶ってしまいそうな恐ろしさは、ありませんか」
真祈の言葉は、鎮神に強く突き刺さる。
しかし真祈に自ら命を絶ちたいほどの嘆きが理解できるはずもない。
つい鎮神が胡散臭がると、真祈がすぐに答えた。
「八年くらい前に自殺する前日の知人が私に仰ったことの、受け売りです。
貴方が出生について苦しみを抱えているのなら、この島の秘密は貴方を救うことが出来るかもしれません。
ですが島の秘密を知れば、鎮神は私の妻にならなくてはいけない。
逃げたって地の果てまで追いかけます。
何も知らずに二ツ河島を脱出し逃げ果せるという未来を貴方は失う」
どうしますか、と囁かれ、鎮神は息を呑んだ。
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