第14話

「一緒にって……何がですか」

「入浴ですが。だって鎮神、本当にお辛そうですし。

 浴槽での転倒事故は危険ですよ」

 真祈の発言に耳を疑う。

 鎮神は必死に拒否した。

「い、いや、転ばないように気を付けますから……!」

 

 もし真祈が肉欲を剥きだしていれば酷く突っぱねることもできたのだが、今はその清廉さが恨めしかった。

 どうやら真祈は本気で鎮神の安全を案じてくれているらしい。

 ただ、肌を晒すことへの嫌悪が全く欠如しているのだ。


「一時間経っても出てこなかったら様子を見に来てください。それならいいでしょ」

 それで真祈を納得させ、適当な着替えを掴むと、やっと風呂へ向かう。


 風呂場は、コの字になった家屋の縦線にあたる所で、納戸と土間の間にある。

 さすがに薪で沸かすタイプの湯船ではなく、シャワーも付いていて、使うのに手間取ることはなさそうだと安堵する。


 昨日からやむなく着続けていた服をやっと脱げる、とパーカーに手を掛けた時、いきなり木戸が開いた。

 真祈にああ言った手前施錠していなかったのだが、それでもまさか煌々と明かりの点いている脱衣所に侵入してくるなど有り得ないと信じきっていたために両足が床から離れるほど驚いた。

 脱衣所に踏み入ってきたのは、世界で一番見知った顔――母だった。


 玖美は何度か後ろを振り返りながら、そっと木戸を閉める。

「鎮神、どう? 真祈さんと出来そう?」

「出来そうって、何を……」

「真祈さんの体っていわゆる普通の女とは違うでしょう。

 それに対してあんたが役立つかってこと」

 そう言って玖美は、手の甲で鎮神の股間を叩いた。

 全身を走る嫌悪に身を竦ませながら、鎮神はどうにか母と向き合う。

「……真祈さんの……宇津僚家の目的って、おれと真祈さんの間に産まれる子どもなんだよね。

 そこまでは、何となく察した」

「そう。でも、もし鎮神が真祈さんとは出来ないんだったら、私が適当な男連れて来て真祈さんのこと孕ませてもらうから、その時は言いなさいよ」

 

 母の言ったことを噛み砕くのに、少し時間がかかった。

 そしてそれを飲み込んだとき、鎮神は今朝のように――むしろ今朝よりも絶望した眼差しを母に向けた。


「なんでいきなり、そんな暴力的な話になるの……!」

「子ども目当てで成立した縁談なのに、あんたが真祈さんを抱けないなら、私たちは島を追い出されて路頭に迷うか、下手したら殺されかねないでしょう。

 向こうはあんたが父親じゃなければ駄目な理由があるらしいけど――狂った宗教の狂った事情なんて知ったこっちゃない。

 口外したくなくなるくらい手酷く犯して、鎮神との子だって言い張らせれば、対外的には目的は達成できる」

 

 金が欲しい、時間が欲しい、この世の悦楽をもっと知りたい。

 そんな当然の願いを母から全て奪ったのは自分だ。

 自分を育てるために働く母を、鎮神は間近で見てきた。育ててもらった恩があるのだ。母を否定する権利は、自分には無い。

 

 だからって、真祈を傷つけることなど許せるはずがない。許したくない。

 たとえ、真祈が負の感情を持てなくても、鎮神のことを道具と思っているような残忍な人物でも。

 

 鼓動が、動悸と言えるほど激しくなる。

 母も真祈も救うには、自分が犠牲になるほか無い。

 自身に流れる悍ましい血と、向き合わなくてはならない。

 今朝にも同じ決意をしたが、一日を宇津僚家で過ごした今、それはより生々しい実感のあるものとなっていた。


「……母さんは心配しなくていいよ……なんとかするから、何もせずに待ってて……」

 喘ぎ喘ぎ答えて、母を追い返した。

 鎮神はしばし呆ける。

 

 眼前に垂れる銀色の髪と手首に透けた血管を眺めた。

 異様な見目、血筋、力。

 なぜ自分はこんなふうに生まれて、苦しんでいるのか、答えなど見つからない。

 ただ母のため、真祈のために沈みゆく自分を、どこか他人事のように感じている――自分が犠牲になれば何も考えずとも世界は進んでいくのだから、と。


 汗をたくさん吸ったせいか少し重い服を脱ぎ、風呂に入って頭から洗いだす。

 シャンプーもボディソープも、畔連町の薬局では見かけなかったようなシックなデザインのボトルで、どれもムスク系の香りがした。真祈の体から漂う香りの正体は、おそらくこれだ。

 いやな匂いのついていない滑らかな肌にこの香りが湯浴みのごとに染みつき、一日中纏わりついているのだろう。

 真祈の香りが、自分にも染みついてくる。それが何となく恐ろしくて、二ツ河島に来てから初めて、鎮神は少し泣いた。



 次の日。

 艶子は私室で、窓辺に置いた籐椅子に腰かけ、午前の光で手元を照らし、小説を読んでいた。

 家にはそこそこの蔵書があるが、艶子は真祈のように詩集から経済論に武術の教本まで節操なく読み漁る方ではない。

 好むのは主に小説――それも恋愛小説であった。

 蔵書があると言えども、その中で艶子のお眼鏡にかなうものは僅かだ。

 かといって、誰が何をしたか筒抜けのこの島で図書館に通い恋愛小説を借りるのは、とてもはしたないことをしているようで出来そうにない。

 なので暇が出来れば毎度同じ本を蔵から出して来て読んでいるが、全く構わなかった。

 若草色のシートの列車に飛び乗って、少女と少年は愛のために町を出て行く。

 たとえこれが人々に忘れられた無名の三文小説、夢物語だとしても、艶子の中では、少女は少年と連れだって町を出て行く。何度でも、何度でも。そして、乗ったことの無い電車というものの乗り心地に想いを馳せるのだ。

 

 真祈が生まれてから島を頻繁に出て行くようになり、女と遊び回っていた淳一はきっと、電車の乗り心地を知っていたのだろうが。

 ページを繰る手が止まっていたところに、電話が鳴る。

 椅子を下りて、文机の横に置かれた電話に出た。


『もしもし。あの、宇津僚様のお電話ですか』

 若い男の声だった。低い声だが喋り方が柔和で、すっと耳に入り込んでくる。

『私、赤松深夜美みやびといいます。六年前、赤松深海子みみこの葬儀を執り行っていただき、大変お世話になった者です』

 それを聞いて、六年前の記憶が蘇る。

 上がり目の美しい少年の、雨に消え入りそうな喪服姿――。

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