第44話
アトリエの中央で椅子にゆったりと身を任せ、片手で器用に支えた本を読む深夜美の姿は、敵無しとばかりに寛ぐ獅子を思わせる。
ただ何気なく存在するだけで、彼は十分すぎるインスピレーションの源だ、と庄司は酔いしれていた。
深夜美は元々着飾るのが好きらしく、それも画になる。
今日は長髪を編み込んでシニヨンにして、裾がベルボトムになった黒いオールインワンのパンツドレスと共布のチョーカーを纏っている。
庄司はただその美を写し取るだけだ。
「若い時分に東京までピカソを見に行ったこともありましたよ。
田舎の島に籠って、自然から美を学ぶというのも否定はしないが、やはり人工的な美も学ばなくては。
自然の造形には、どうしても意味というものが伴ってしまう。
花は蝶を誘うために美しく咲く。
蝶は鳥を脅すために翅に奇怪な文様を描き、鳥は求愛のために派手な羽を持つ。
しかし人間の造り出した芸術には、テーマやらなんやらはあれど、生きるためという一種の意地汚さが介在していないのです。
それは無駄であると同時に、何よりも純粋な精神の活動と言える」
庄司は語りながらキャンバスに色を重ねていく。
深夜美は本を置いて、庄司を流し見ながら言った。
「なるほど、ご立派な芸術論だ。
ご子息も貴方様の薫陶を受けて素晴らしい芸術家になったに違いない」
背筋が凍りつく。
なぜ、二人だけの神聖な空間に、息子の話が出て来るのか。
「家の者に聞きましたよ。団くん、画家なんでしょう?
どんな絵を描かれるんですか?
このアトリエにありますか?」
深夜美は笑顔で赤い瞳をきょろきょろと動かしている。
「……全て、団の絵だ」
二人を取り囲む、白い布の掛けられた二十枚近いキャンバス。
深夜美は少し腰を浮かし、近くの布に手を伸ばす。
「やめろ!」
庄司は思わず叫んでいた。
深夜美は緩慢な動きで手を止めた。
美神を怒鳴りつけたという大罪に顫える庄司は顔を上げることが出来ないまま詫びる。
「あ……ごめんなさい、怒鳴ったりして」
「いえ、私こそ悪かったです。
素人が触っていいものではありませんよね」
深夜美は椅子に座り直す。
しかし庄司はすぐに筆を持てず、手を宙に戦慄かせていた。
「団さんが羨ましいな。
私は、父からは何も得ることができなかったから……」
深夜美は何気ない調子で呟く。
気まずそうにしている庄司を見ると、彼は笑った。
「ああ、父ならしぶとく生きてますよ。嫌な奴ほど長生きするものですね。
……私、庄司さんのようなお父さんが欲しかったな」
黒く塗られた唇が溜息を吐き出す。
その悲しげな気配さえ甘やかで、真理那と団が満たしてくれないものを埋める。
「深夜美さん、私のことを父親のようなものだと思って……パパと、お呼びください」
そう乞うと、深夜美は苦笑して、低い声で一言、パパ、と呟いた。
庄司の口許が緩む。
庄司が導いてやったお陰で絵を描きはじめたくせに、その恩を忘れ、世間から認められていい気になっている我が子――団への暗い思いが、全て美神崇拝へと塗り替わる。
庄司に解放されて深夜美がアトリエを出たのは正午だった。
玄関から庭へ足を踏み出した途端、少し体が沈んだ。
真理那がガーデニングでもしていたのだろう、庭の土がぬかるんでいた。
深夜美は迷わず、今出て来たばかりの邸宅の壁を蹴りつけ、靴についた泥を落とす。
足跡をつけたわけではないのだから、しでかしたことが露見して「素晴らしき隣人」の化けの皮が剥がれることもあるまい。
家屋の陰から出ると、すぐに潮風にあおられる。
髪を掻き上げるために首を傾げると、視界の端に人影がちらついた。
断崖の際、海を見つめながら岩に腰掛けている男がいる。
その手にはクロッキー帳とコンテが握られている。
彼が、庄司にアトリエを追い出された士師宮団だということは、すぐに察しがついた。
気配を殺して忍び寄り、団の手元を覗き込む。
荒波のように、暴風のように苛烈で気儘な線が、蛇のように身を捩った青年の媚態を描き出している。
それを見た瞬間、思わず苦笑が零れた。
恐怖を誤魔化すための笑いだ。
この少年は、深夜美の内に横たわる呪詛の奔流に、芸術家の霊感というべきもので無意識のうちに触れている。
深夜美をやたらと優美一辺倒に描こうとする庄司よりも、画題となった彼の心に刺さった。
「それ、私?」
気を取り直して声を掛けると、心底驚いた様子で団は振り向く。
顔を赤くしてクロッキー帳を伏せ、走って来た後のように肩で息を吐く。
「あ、すいません!
勝手に、こんな……」
「別にいいよ。
団くんは画家さんなんだっけ?
君の年頃なら友達と遊び回っていそうなものなのに、真面目にお仕事してるんですね」
「ええ、まあ……友達、居ないので。
芸術家は孤独でなきゃいけないって……父が……」
団がしゅんとしながら言うのを聞いて、深夜美は笑みを深くする。
「じゃあ、庄司さんは芸術家じゃないのかもね。
だって庄司さんと私はお友達だから」
団の眼が、ぎょっとしたように円くなった。
「その絵、よく描けてると思いますよ。
……君のパパよりも」
辻斬りのように囁くなり、深夜美は踵を返す。
こうやって一粒ずつ、争いの種を蒔いていき、芽吹いた悪意を刈り取り、貪るのだ。
たとえそれで腹を内側から切り裂かれても、破滅の歩みは止まらない――神の憎悪さえ糧としても。
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