第34話
昼の三時頃、鎮神と真祈は一人一つ菓子折りを持ち、垂宍地区を歩いていた。
真祈曰く、漁師が仕事を終えて帰宅しているというのがこの時間らしい。
今から会いに行くのが漁師なので、この時間に合わせたのだ。
垂宍の道は家と家の間を縫うように張り巡らされた狭い路地だ。
車一台通れるかさえ怪しい間隔に、民家の地所からせり出すように花壇やら自転車やらが置いてあり、歩きづらいことこのうえなかった。
そんな中にある青い屋根の日本家屋が、鷲本家だった。
門や前庭は無く、道の際にアルミの引き戸が立っている。
呼び鈴を鳴らすと、ややあって鷲本与半が出て来た。
「真祈様、それに鎮神様まで!
拙宅に何のごよ……」
驚きの余りか、玄関のサッシに頭をぶつける。
昔ながらの家屋は、栄養状態が良い世代の海の男にはいささかミニサイズらしい。
「大丈夫ですか?」
「ああ、すみません、みっともないところを」
人のよさそうな照れ笑いを浮かべつつも、与半の視線は鎮神と交わらない。
宇津僚家の命令とはいえ、与半は鎮神を島に運んできた実行犯的な存在だ。
どうやら責任を感じているらしかった。
確かに、二ツ河島と関わらなければ、鎮神が自分の首に刃を当てるようなことはせずに済んだかもしれない。
与半に、いくら真祈の指図でも悪いことは悪いと跳ね除ける勇気があってくれれば、と思うこともあった。
しかし、鎮神が与半の立場だったとしてもきっと真祈には逆らえなかっただろう。
それに与半は、鎮神などよりももっとたくさんのものを抱えた大人なのだ。
玄関先に置かれた学生用のローファーやエナメルバッグを見れば分かる。
それを見てしまっては、責める気など起きようもなかった。
「先日はご迷惑をおかけしました。
あの、今は真祈さんときょうだいとしてどうにかやっていけてるので……。
あまり気にしすぎないでくださいね」
菓子折りを差し出しながら言うと、与半の目線がやっと鎮神に向く。
「ご無事で良かったです」
なおも罪を恐れるかのように、与半が鎮神へ投げた言葉はそれだけだった。
あとは網元に近しい仕事をもしているという真祈と漁の話を二、三言交わすと、家の中に引っ込んでしまった。
この島の住人は皆罪人だと、最初に鎮神に教えてくれたのは与半だったか。
まだ、士師宮団という人にも礼を言わなくてはならない。
二人は海沿いの舗装された道に出て、それを真っ直ぐ南下する。
「鷲本さんに、気にしないでって仰ってましたけど、何かあったんですか?」
真祈がこちらを向きもせずに話しかけてくる。
その銀髪は傾きはじめた陽を受けて、萌黄色をしたもう一つの太陽が現れたかのように自ら光を放っている。
「それは……鷲本さんが、おれを二ツ河島に運んできたことに責任感じてたっぽいから」
「ええ、花嫁を運んでくるのは責任の伴う仕事です。
けれど、どうして今更そのことを」
そこまで話して気付く。
真祈の考える「責任」には、後悔というニュアンスが無いのだ。
「気にする」も、注目する程度の語意としか思っていないのかもしれない。
「鷲本さんが、自分を責めてたから」
言い直すと、真祈はやっと理解したらしかった。
「そうですか。
私も、自らの行いが島のソトの道徳を欠いていることは知っています。
教義と一般的な道徳、どちらを奉ずるべきか揺れ動くこともあるのでしょうね」
「でも、汚い手段をきっぱり止めるってのは、宇津僚には出来ないんでしょう」
「ええ。ですがそのような葛藤のある方に任務を与えるのは、今後は控えましょう。
ただ私には感情が観測できないので、鎮神が上手く通訳してくれたら助かるんですけど」
「……おれのことを上手いこと使おうと仕向けてませんか?」
「バレましたか」
「だんだん真祈さんの文法が分かってきましたよ。
ほんと人遣い荒いんだから……」
こんな口約束は、無意味だと、おそらく互いに理解している。
自分や有沙のように島に翻弄される人をこれ以上出したくないのはもちろんだ。
しかし、与半の立場や真祈の生き方を善悪で割り振って責め立てることもしたくない。
真祈も知っているだろうが、二ツ河島の島民は皆が皆狂信者というわけではないらしく、真祈に脅されて従っている者も多い。
そもそも真祈が空磯という概念に対して非常に冷めているのだ。
二ツ河島の信仰は、危うい均衡の下に成り立っている。
忍部地区へ道は続いていく。
風に煽られる髪を何度も撫でつけているうちに、今まで言えなかったことが口を衝いて出た。
「真祈さんとおれの父親って、どんな人でしたか」
「私からは他人の短所というのが観測できませんから、聞くだけ無駄じゃないですか?」
「それでもいいです。
きっと、父の悪いところなら、おれが痛いくらい知ってるから」
手が首の傷跡に触れる。
自らの体温すら厭わしい。
育ててくれた恩が無いぶん、母よりもずっと簡単に憎むことの出来る父。
汚らわしい遺伝子の源。
「淳一は、二ツ河島に娯楽が少ないことを最も問題としていたように思います。
例えばうちの食堂にビリヤード台や、今はしまってあるゲームの類は、島内の男友達と遊ぶために淳一が購入したものです」
確かに、神官の家に、しかも食堂にビリヤード台というのは些か不思議な組み合わせだと思っていた。
そのような経緯で持ち込まれたものだったらしい。
「彼が私や艶子といる時間は長いとは言えなかった。
私が産まれ、血の濃縮という責務から解かれた淳一は放縦に島のソトへ出ていましたが……
今思えば、それがいわゆる夫婦仲が悪いってやつだったのかもしれませんね」
淡々と真祈は告げる。
紫色の瞳はただ目的地だけを見据え、何の感情も映さない。
「淳一さんとの思い出とかってありますか?」
「何も。淳一は快楽を求めて生きていた。
淳一が私に興味を示すことは無かったし、こちらから構うこともありませんでした。
強いて言えば淳一は金遣いが荒かったので、もし死ぬのがあと少し遅ければ、害として殺していたかも……。
というのは、思い出でしょうか」
物騒な物言いに苦笑しつつ、鎮神は呟く。
「なんだか、寂しい人だったんですね」
彼はきっと二ツ河島が嫌いだったのだろう。
しかし島の仕組みを打ち破るほどの力は無く、快楽に溺れることでしか自らを救えなかった。
「まあ、だからって余所で隠し子作る免罪符にはならないと思いますけど」
鎮神が自嘲気味に笑うと、それをどうとったのかは分からないが、合わせてくれるように真祈も微笑んだ。
士師宮家は、海辺の切り立った崖の上にぽつんと立つ一軒家だった。
この島では珍しくもない古い平屋の日本家屋に、とってつけたように洋風の部分が増設されている。
調和をとるために洋風建築の部分も瓦が葺いてあり、違和感は無い造りだ。
「士師宮さんは代々金物屋を営んでいて、神門地区に構えた店舗を、団さんの父である庄司さんが経営なさっています。
今からお邪魔するのはお店ではなく、住居兼団さんのアトリエの方です」
「アトリエ?」
「団さんは画家なのです」
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