第33話

「初めまして、楼夫さんと懇意にさせていただいております、宇津僚深夜美と申します。

 今夜はちょっと、遊びに来ちゃいました。

 良夫さん、貴方で」


 深夜美の長い脚が上がり、突き立った包丁の柄を勢いよく踏みつける。

 彼の赤黒い口紅をひいた唇が、片側だけ吊り上がった。


 そして彼はしゃがみ込むと、血を流して倒れる父と殺人者を前にして呆けていた楼夫の前髪を、後ろに撫でつける。


「貴方は、綺麗だ」


 予期せぬ言葉をかけられて、楼夫は身動きできなくなる。

 楼夫を醜いと罵る母と、楼夫を綺麗だと囁く深夜美。

 どちらが正しいのか、分からない。


 楼夫は、大気に溺れた魚のように喘ぐ。

 ただ、慈しむように頬を這う手は、楼夫の心を熱く震わす。


「母は……私を、醜いと……」

「家を滅ぼす妄執のために囁き続けた言葉と、私の忌憚ない感想。

 どちらを信じるのです」


 良夫にナイフを突き立てた手。

 なぜ深夜美が良夫を刺したのか、全く分からない。

 しかし嫌な気はしなかった。


 ぼろぼろと、口から想いが溢れ出す。

「……深夜美さん……貴方を……信じたい……。

 貴方を、自分を、好きになりたい……!」


 楼夫の頬の上で、二人の手が重なる。


「本当は、家に来てくれた時から……

 いえ、初めて会ったあの時から、貴方に焦がれていました……。

 そして今は……過去のどんな瞬間よりも、深夜美さんのことが……」



 深紅の虹彩の中に、瞳孔が底無しのクレバスのように縦に走っている。


 初めて誰かと目を合わせて話した。


 機嫌を伺うために盗み見ていた親たちの濁った瞳、

 島民たちが楼夫を見下す冷めた眼、

 そして真祈が楼夫に向けるおぞましいほど無邪気な眼とは違う、

 宵闇のように穏やかで暖かな眼差し。


「……好きなんです」


 ああ、そうだ。

 深夜美は、彼の父から赤松深海子の遺体を奪取し、二ツ河島に埋葬させたという男だ。

 彼の家庭も、壊れていたのだ。

 家の中に敵が居て、自身の内に流れるその血と戦っていた。

 私と彼は、似ている。


「私は古の呪いを喚び醒ます。

 この島を蟲籠にし、母から託されたものを成就させる。

 そして、父を討つのだ」


 屈めていた体を起こし、高らかに深夜美は宣言する。

 裸電球が照らす、血が染みて饐えた匂いの板張りの廊下が、彼が謳えばスポットライトの眩しい独壇場と化す。


 深夜美はワイドパンツを捲り、太腿に巻かれたレッグシースからもう一本ナイフを取り出すと楼夫に差し出した。


「チャンスは与えた。

 ……息の根は止めないでくれよ、そいつはまだ利用できるから」


 深夜美はじっと楼夫を見守る。

 楼夫が逃げ出しても、彼はきっと怒らないだろう。

 ただ無益な目撃者となった楼夫を始末はするだろうが――。



 助けを乞うかのように父が楼夫を見上げてくる。

 しかし心は決まっていた。


 楼夫はナイフを受け取ると鞘から白刃を引き抜いて、父の肩に渾身の力で突き刺した。


「我が剣となり、戦ってくれるか」

 穏やかな声が、楼夫を誘う。


「どこまででも、ついていきます。深夜美様」

長い間じくじくと這っていた芋虫が蛹を破って飛び立つように、楼夫は狭いトイレを出て行き、深夜美の側に膝をついた。



 狂信とは所詮、安寧を得るための盲従に過ぎない。

 宇津僚家を崇める者たちは皆、空磯という概念に理想を重ねた狂信者ばかりだ。


 しかしこの胸の内に燃える想いは、そのような見返りなど求めてはいない。

 彼の為ならば槍衾に頭から突っ込んでも惜しくないとさえ思える、どこまでも愚かなこの想いを、

 孤独を埋めるための慣れ合いや火遊びじみた恋愛ごっこが蔓延るこの世で、夢物語だけが真実の愛と語り伝えたのだろう。



「ありがとう、楼夫」

 猫にするように、深夜美の指先が楼夫の頤を撫でた。

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