第32話

「いい月ですね」

 鎮神が濡れ縁で月を眺めていると、深夜美が隣にやってきた。


「あ、夕ご飯すごく美味しかったです。ごちそうさまでした」

 鎮神は、異母姉(兄?)の継父となった青年に、ぺこりと頭を下げる。

 形式上の関係性は変わっても、深夜美は偉ぶったりはしない。


「気に入っていただけて良かった。

 鎮神様の方こそ、ありがとうございます。

 貴方が後押ししてくれたから、私は呪縛から抜け出すことができた」


 呪縛――それは表面上は苗字のことであり、心の奥底では父親へのトラウマとでも言うべきものなのだろう。

 この気丈で美しい青年が、どんな悲しみを抱え、どれほど幸せな家庭に憧れていたのだろう。


「あの……これからは雇用関係じゃなくて家族ですよね?

 様付けで呼ぶのは、もう……」

「そうですね。

 じゃあ、鎮神くん、でいいかな。

 その代わり私のことはパパかお父さんって呼んでね」

「え、あ、努力します……」

「ごめん、冗談!

 パトロンのおじさんじゃあるまいし、適当に下の名前で呼んでよ」

 深夜美は朗らかに笑う。


 しかしふいに真顔に戻り、譫言のように言った。

「私は――キタハラアラシのような夫に、父にならないように生きるんだ」


北原嵐師――突き放すように紡がれたそれこそ、深夜美の実父の名だった。


「酒色に溺れ、赤松家を蔑ろにした、あの男のようには……」

 白い手を月に向かって伸ばし、誓うように告げる。

 穢れた血に抗い、必死に自己暗示をかけるかのような寂しい声色。


 いつかの森の中でのように、深夜美の瞳が赤く染まっていく。


 鎮神が声を掛けると、彼は我に返ったといったふうに機敏に振り向き、そそくさと小脇に抱えていた赤いショート丈のコートを、黒い上下の外に羽織る。

「ちょっと、夜の散歩してきますね」


 深夜美は黒い髪を靡かせ、闇に溶けるようにして玄関の方へ消えていく。

 その背中はどこか悲愴で、しかし常よりも広く大きく見えた。





 居間にいる父と、私室に籠る母にそれぞれお膳を届けてから、楼夫は台所に戻って来て自分の夕食を用意する。

 冷蔵庫の奥から、隠しておいた花柄のタッパーを取り出す。

 冷気に触れているのに頬が熱い。

 深夜美がお裾分けしてくれた炊き込みご飯がこの中には詰まっている。

 これだけは両親に供さず、一人で楽しむのだ。


 全てから見放された自分に、深夜美だけは心を配ってくれる。

 優しいだけでなく、高貴な猫のような鋭い気品が目も心も奪い去る。

 この感情を、たとえ米粒一つという形でも他人に渡したくなかった。


 ご飯を茶碗によそって、レンジに温めさせる。


 妙な物音に振り向くと、母が扉から半身を覗かせていた。


少し驚いて、楼夫はびくつきながらも笑みを作って道子を見遣る。

「どうしましたか、母さん」

 

楼夫が困惑しているうちに、道子は台所へ入って来て、楼夫の手の中にある花柄のタッパーに手をかけた。


「こんなもの、うちに無かった……女がくれたんだろう!」


 目前で喚かれながらも、反射的にタッパーを取り返そうと力を込める。


「あれほど言ったのに……お前は醜いって、お前なんかが恋する資格は無いって……!」

 道子は叫ぶ。彼女は昔から何度もそう言って、楼夫を教育してきた。


「私の代で、荒津家を絶やす……」

 楼夫は呟く。それが、道子の教育の目的。

 楼夫の醜さを自覚させ、血統を繋ぐことを諦めさせるための言葉。


「分かってるのなら、その手を放せ! そんなもの捨てないと……」

 母の言うことを聞かなくては――

 そう思うのに、体はますます母に逆らおうとする。

 理解できない、といった表情を道子は浮かべている。

 それは楼夫自身も同じだった。



 渦巻く炎のような深夜美の紅い瞳が、脳裏から離れてくれない。


 お前は醜い、と囁かれ続けた。

 愛を求める権利も、意見を持つ権利も無く、ただ腐り果てた王の血を絶やす使命だけを帯びていた。

 前髪を伸ばして『醜い』顔を隠し、死ぬために生きていた。

 何もかも受け入れて、淡々と在り続けた。


 それを物言わぬ紅い瞳は乱す。

 せっかく、何もかも受け入れていたのに。

 何もかも諦められていたのに。

 まだ誰かを愛しても許されるのではないかと、期待させられる。



 母の金切り声を、破裂音が潰した。

 母は楼夫に倒れ掛かり、早鐘を打つ胸に血を擦り付けながら崩れ落ちる。


 父が、酒瓶で道子の頭を殴りつけていた。

 嗅ぎなれてしまったはずの酒の匂いだが、今夜のそれは瘴気のように濃い。

 うるせぇ、と良夫は口の中で呟いている。


 何度も聞かされた不機嫌な声に竦む脚を叱咤して、台所を逃げ出した。

 手の中にはまだ、タッパーが握られていた。


 トイレに逃げ込んで中から鍵をかけて、父が酔い潰れ眠るのを待てばいい。

 今までだって三十年以上、そうして生き延びてきたのだから。

 便器の隣、冷たいタイルにしゃがみ込む。

 廊下で父が喚くのを、半ば冷めた面持ちで窺っていた。


 母が良夫に暴力を振るわれることは初めてではないが、今回は特に酷かった。

 今度ばかりは、島民にどれだけ嫌な顔をされてでも医者に診てもらうほかないか。

 それとも、母は、死を望むのだろうか。


 どっと疲れた頭で考えていると、何やら外の様子が変わったことに気付いた。

 

 縺れる足で、良夫が走り回っている。そして叫んでいる――「助けて」「楼夫」と。


 楼夫の目に、仄かに熱が宿った。

 幼い頃、台風が来る前日に抱いた気持ちと、少し似ている。

 雨戸を閉め切るときの不安。そして、次に雨戸を開いたとき、この酷薄な『島』がどんなふうに蹂躙されていることだろう、という後ろ暗い期待。


 目の前の扉が激しく叩かれる。

 揺れて吹き飛びそうになる鍵を、楼夫は内側からそっと抑えつけた。


 やがて物音は止む。


 暫く躊躇ってから、そっと扉を開けると、それは立っていた。

 白い肌、黒い髪と服、紅い外套と瞳。

 たったそれだけの色なのに、この家にある何よりも鮮やかなもの。


「誰……だ……お前……」

 肋骨の間に背中からナイフを捩じ込まれた良夫は、床に伏しながら途切れ途切れに呻く。


「初めまして。楼夫さんと懇意にさせていただいております、宇津僚深夜美と申します。

 今夜はちょっと、遊びに来ちゃいました。

 良夫さん、貴方で」


 深夜美の長い脚が上がり、突き立った包丁の柄を勢いよく踏みつける。


 深夜美の赤黒い口紅をひいた唇が、片側だけ吊り上がった。

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