第48話
「私が死んだら、母の隣に葬ってくれって……荒津様に頼んでよ」
深夜美の手中に奇術のような速さでナイフが握られ、彼自身の首を目指して奔った。
「やめて、死なないで! 私、そんなつもりじゃ……」
手も足もろくに動いてはくれないが、艶子はとにかく叫ぶ。
深夜美を憎んでしまったのも、愛し追い求めた故だ。
自分だけを見てくれない、優しすぎる深夜美が恨めしかった。
決して、居なくなってほしいなんて思うはずがない。
肌を傷つける寸前で手は止まり、首筋に刃を添えたまま深夜美は言った。
「じゃあ、愛しているって証拠をください」
チャンスをくれた深夜美に、艶子は縋った。
「ええ、私に出来ることなら!」
「安荒寿を、私に教えてください」
艶子はしばし呆然とした。
吾宸子に代々伝わる門外不出の儀式の歌。
知ろうとした部外者や流出させた家人は、死ななくてはならない。
「そんなことしたら……自殺なんかしなくたって、貴方も私も、真祈に殺される」
「だからいいんじゃないですか。
私と一蓮托生の覚悟で、罪を背負ってください。
これ以上無いってくらいの、愛の証明でしょう?
貴女が私を愛してくれるなら、私はずっと側に居て、罪を共に分かち合い続けます。
証明していただけないのなら、私は独りで惨めに死ぬだけです」
深夜美は冷めた表情でナイフを弄ぶ。
レースカーテン越しの朝日を浴びてぼんやりと輝くその姿は、相変わらず美しかった。
「艶子、今でも私のこと、好きって言ってくれる?」
半歩進んで艶子の肩口に頭を撓垂れ掛からせながら、深夜美は捨て猫のように弱々しく囁く。
艶子は数度頷くと、叫んだせいでまだ少し掠れた声のまま、旋律を紡ぎだした。
深夜美はいつもの微笑を取り戻し、妻に寄り添ったまま、それに聴き入った。
「赤松くんですか?
ええ、知ってます。同じ学部でした」
女は頷く。
その間に店員が来て、女の前にいちごスムージー、鬼村錬司の前にカフェオレを置いて行く。
錬司はそれらの位置をさりげなく入れ替えながら、話を続けた。
「赤松深夜美さんの本当の姓は、赤松ではなく北原だと、ご存じでしたか」
「ああ……そういえば一年生のときに、出席とる用紙に書いてある苗字と聞いてた苗字が違って、びっくりしたことあったなあ。
姓名判断で母方の姓の方が運が良くなるっていうんで友達には赤松で呼ばせてるんだって言ってました。
赤松って姓の方が彼の眼の色に合っててしっくりくるものですから……忘れていました」
錬司は手元にある深夜美の写真に視線を落とす。
黒い長髪、赤い上がり目。
真祈が隠し撮りして送ってきた一葉のバストアップだけでは女と見紛うような中性的な顔。
「彼が何かトラブルを起こしたことは?
金銭でも女性でも、何でもいいので」
「そういうタイプの人じゃないですよ。
大人しいけど人好きのする性格でしたから。
分不相応の贅沢をしてる様子でもなかったし。
そりゃモテる方だったとは思いますけど、なんていうか彼、女を振るのが上手いんで、恨みは買わないんです」
「よくご存じでいらっしゃいますね。助かりますけど」
メモを取りながら錬司が呟くと、女は微かに顔を赤らめて錬司を睨んだ。
「あの、赤松くん何か事件にでも巻き込まれてるんですか?」
「私は人に頼まれて、副業として探偵まがいのことをしているだけなので、本当に何も知らないんですよ」
深夜美が婚姻届に書いた本名や本籍地からその過去を探るよう、謎の信仰によって二ツ河島を統べる宇津僚家の嫡子である真祈から依頼が来たのは、約二週間前のことだった。
下手にプロ意識が高すぎないぶん退き際を弁えているから、という理由で、真祈は錬司のような素人探偵を好んで使っているようだった。
深夜美の職歴や学歴などはすぐ分かった。
そして今は、彼の大学時代の知人に深夜美の人となりを訊いて回っているのだが、引き出される言葉は当り障りのないものばかりで醜聞の一つも出ず、退屈な調査だった。
「彼の家族については、何か知りませんか?
仲が良いとか悪いとか程度のことでも」
「特に何も。家族構成も知らないくらいですし。
家族について愚痴ってる様子は無かったんで、普通の家庭なんじゃないですか」
真祈がとりわけ知りたがっていたのは深夜美の家庭のことなんだがな、と思いつつスムージーを飲み干す。
既に面倒になってきていた錬司は、さっさと残りの質問を済ませて女と別れた。
車に乗ろうと鞄の中を漁りながらキーを探していると、深夜美の写真が目についた。
粗い写真からでもつい魅了されてしまう、その名に相応しい黒髪の深遠な輝きと、紅玉のような瞳。
深夜美がこんな平凡な生い立ちの人間ではなく、くだらない世界を焼き尽くす悪魔ならば良かったのに。
私の学説を酷評してばかりの愚物ばかりの、この世界を。悪魔の役柄は、彼にはきっと似合うだろう。
有沙は昼頃に起床する。
雨のために釣りへ行くことも出来ない。
なんとなく気が向いて、彼女にしては珍しく、切った野菜をインスタントラーメンに入れるという『料理』を始めた。
そんな有沙に、今日の仕事を終えて帰る仕度をした田村が近付いてきた。
「有沙様、少しお頼みしてよろしいでしょうか」
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