第29話

 深夜美の手が伸べられてきて、鎮神の頤が軽く上向けられる。

 目前に深夜美の赤い上がり目が迫った。


「他人に気を遣って自分の苦しみを矮小化する必要なんてありませんよ」


 投げられたのは温かい言葉だったのに、背筋が凍りつくようだった。

 

 なぜ深夜美は、人の心を読んでいるかのようなことを言うのだろう。

 いつかの会話だって、今思えば。

 

 その顫えすら感じ取ったのか、深夜美は続けて言う。


「すみません、風向きのせいで途中から会話が結構聞こえちゃってました。

 ……鎮神様は、自分に何のとりえもないと思っているんじゃないですか。

 だからせめて誰よりも優しくあることで、やっと人並みになれるとか考えてるんでしょう」


「どう、して――」

 思わず呻き声が喉を突く。

 真祈には観えない鎮神の汚点を、深夜美はそっと抉り出す。


「優しすぎることなんて、取り柄じゃない。

 そんな心は、他人は元より自分にさえ切り刻まれて、死ぬまで擦り切れていくだけです。

 いえ、擦り切れたときに人は死を選ぶ、と言うべきか。

 お優しい鎮神様になら、全ての命が等しいことくらい分かるでしょう。

 どうしてそこからご自分だけを仲間外れにして卑下するのですか」


 自分より少し目線の低い赤い瞳からは、どんなに目を伏せても逃れられない。

 鎮神のために怒っている、というのは不思議と伝わってきた。


「少なくとも私も有沙様も、鎮神様と不幸を比べるつもりなんてありませんよ。

 ……叛逆無き生なんて、死んでいるのと同じだ。

 鎮神様の場合、その倒すべき相手がお母さまだったまでのこと」


 深夜美は言い終えると、ふっと顔を綻ばせて、説教は終わりとばかりに鎮神の手を引いて帰路につく。


 彼の厳しい言葉は、決して一般論ではないかもしれない。

 だが鎮神の為のものだった。

 そしてそれこそが、深夜美が鎮神の心の弱さを見抜いていた証左だ。


 有沙の方を振り向きかけた首を前に向けて、鎮神も歩き出した。


 叛逆無き生は死んでいるのと同じ――貴方にも何か毀してしまいたいものがあるのですか、とは、とうとう訊けなかった。


 森を抜け、宇津僚家へ真っ直ぐ帰る。

 夏の陽射しを密集した民家が照り返し、ズボンの無駄に多い金具やスタッズが熱を持つ。

 深夜美も、熱気の溜まりそうな黒髪をしきりに掻き上げている。


 ふと、深夜美が立ち止まる。

 正面からは二メートル近い長身で筋肉質の男が歩いて来ていた。

 肩まであるくせっ毛は顔に垂れ、昏い瞳が覗いている。

 彼を見つけた深夜美は、嬉しそうに声をあげた。


「荒津――楼夫様」

「赤松さん……!」


 屈託なく話しかける深夜美に対し、楼夫は恐れとも歓喜ともつかない反応をする。

 さらに鎮神の存在に気付くと、昏い目を瞠って後退ろうとした。


 この長身の男が、冥府の王なのだ。

 真祈に話を聞いて想像していた『王』よりはずいぶんと覇気のない様子をしていた。

 巨躯にいかにも小母さんが着そうなカーディガンをひっかけているのも、威容を削いでいる。


「貴方様が、鎮神様であらせられますか」

 目を泳がせながら楼夫が問うてくる。


「あ、はい、初めまして」

「二ツ河島で葬礼を司る役目を仰せつかっております、荒津楼夫と申します……。 

 よろしくお願いいたします」


 詫びる時のように深々と腰を折って頭を下げている楼夫に面食らいつつも、鎮神もそれに応える。


 深夜美は、楼夫にひときわ懐っこい笑みを向ける。

「近々、またお伺いしようと思っていたんです。

 ご都合の悪い日などはありますか」

「い、いえ。特には」

「そうですか。

 では、近日中に必ず。楼夫様」


 他の島民をあしらった時とは異なり、深夜美は本当に楼夫を慕っているらしい。

 だが楼夫の方は何故か深夜美に気後れしているようだった。



 帰るとすぐ、艶子と田村に迷惑をかけたことを詫び、さっそくミシンの前に座った。

 作りたいアイテムは山ほどある。

 パンキッシュなサロペット、ケーキのようにカラフルなミニハット、姫袖のブラウス、

 それから――一つ目の猫。



 母の居ない食卓に慣れてくる。

 首の傷が癒える。

 自分の正体が人ではなかったと分かっても時間はいつも通り過ぎていく。

 

 鎮神が真実を知っても、世界そのものは何も変わらない。

 しかし日々は確実に明るいものになっている。


 長閑な午後、鎮神は真祈の部屋を訪ねる。

 本に囲まれた文机に向かっている白銀の後ろ姿があった。


「あの、真祈さん」

「なんですか?」


 真祈はふわりと顔を上げて振り向くなり、鎮神の腕の中にあるものを見て破顔した。


「わあ、ヤミィちゃんですね!」

「早速立体化してみたんです」

 

 一つ目の猫を真祈に手渡す。

 白い体に、紫の大きな瞳。

 ぬいぐるみに着せてあるパステル柄の貝殻がプリントされたワンピースと、共布のバブーシュカも、鎮神が作ったものだ。


「私の構想がそのまま飛び出してきたかのような素晴らしい造形です。

 手触りも良いですね、ふわふわだ」

「ヤミィちゃん初号は、真祈さんにプレゼントします」

「いいのですか?」

「元々そのつもりで作った子ですから」


 だからヤミィちゃん初号は、純白の体に紫色の瞳を持っている。

 きっとこのカラーリングのものは世界で一つ、最初で最後になる。


「それから、これも」

 鎮神は肩から掛けていた紙袋を下ろし、中身を出す。


 ヤミィちゃんの服に用いたものと同じ布で、真祈の体格に合わせて作った服だ。

 一つはパフスリーブのワンピースで、首回りはフリルで縁取られたラウンドヨークになっている。

 膝下丈の裾には、プリントに合わせてシェルモチーフのレースを縫い付けてあるのが拘りだ。

 共布のヘッドドレスにはサテンのリボンと雫型のビーズをあしらって海らしさを醸し出している。

 併せて着用してほしいパニエも作っておいた。

 ヴィクトリア朝のドレスを現代風にアレンジしたような、重厚だが暑苦しすぎないアイテム一式だ。

 

「ヤミィちゃんとお揃いですね」

「はい。真祈さんにも似合うような気がして……。

 でもちょっと派手すぎましたかね?」


 作っている時は楽しかったのだが、出来上がってから冷静に考えると、些か少女趣味が強すぎた。


 気に入らなければトルソーもあげるからそこに掛けてインテリアにしてくれ、と言おうと思った。

 しかし、姿見に向かって楽しげに、ワンピースを体に重ね合わせている真祈を見て、その必要は無いと悟った。


「ありがとう。大切にしますね」

 差し込む陽の光で銀髪は新緑のように輝き、笑顔はそれよりも強く、太陽そのもののように煌めいて見えて――

 この光景に出会うために服を作り続けていたのかもしれない、運命に翻弄されて真祈の隣に辿り着いたのかもしれないとさえ思った。


「でも吾宸子は血腥い仕事なので、服を返り血で汚さずに着れると言い切れる日はなかなか無いのですよね……申し訳ないです」

 悲しみを感じることは出来ないが、鎮神の期待に思ったように応えられないという事実から、真祈は謝ったようだった。

 鎮神は頭を振る。

「いえ、気にしないでください。やりたくてやったことですから。

 ……ちなみにさっきのワンピースなんですけど、スカートは綺麗に広がるように作ってますから、絶対にパニエを中に穿いてくださいね。

 靴下は軽い素材のクルーソックスがおすすめです。

 靴は、この前穿いてたラメ素材のパンプスが良いですね」

「分かりました。鎮神は本当にお洋服が好きなんですね」


 真祈に言われてやっと、自分が一方的に捲し立てていたことに気付いた。

「え、あ、すみません……!

 ファッションの話になるとウザいってよく言われるんです……」

「私は聴いていたいですけどね、鎮神のお話」


 ベッドに腰掛けて暫く喋っていたが、ふと真祈が鎮神の足元を指差した。


「そんな本、うちにありましたっけ。鎮神は心当たりありますか」

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